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バタイユの眼球譚:エロス&タナトス
お世話になります。この質問を文学のカテにするか迷いましたが、結局この哲学のカテにしました。今ジョルジュ・バタイユの眼球譚を読んでいます。私はこの彼のこの本をポストモダニズム・ゴシック文学(違うかもしれません)である事を証明してみたいんでが、そこでまずエロス&タナトス=生(性)の欲動と死の衝動の観点から眼球譚を読んでいます。まず眼球譚の中からそれらを匂わせる文章を引用します。 she(Marcelle) was hanging inside the wardrobe... i cut the rope, but she was quite dead. we laid her out on the carpet. Simone saw i was getting a hard-on and she started jerking me off. i too stretched out on the carpet. it was impossible to otherwise; Simone was still a virgin, and i fucked her for the first time, next to the corpse. it was very painful for both of us, but we were glad precisely because it was painful... as for the fact that Simone dared to piss on the corpse (Bataille, 1987, p.50-51) 上記の文章はちょっとショッキングな内容なので全ては訳さず部分的に訳していきます。まずマルセールという女の子が自殺します。そして主人公の男(名前はありません)は明らかに死体を見て欲情し、シモーンが彼のマスターベーションを手伝い、そしてふたりは死体のとなりで初めての性行為を行っています。それは精神的な痛みを伴う快楽である事をふたりはここで認めています。 necrophilia(ネクロフィリア)が内側に向いた時、人はマゾスティックな側面をみせ、それが外側に向いた時、人はサディスティックな側面をみせます。シモーンと男ははここでまず(死の衝動による、性の欲動)マゾ的な快楽を最初に味わい、そしてシモーンは最後の文章の部分でサド的な行為に及んでいると思います。ここでバタイユは死を通して両極にエロスを表現してるんですけど、僕はバタイユはこのエロスとタナトスという両極の(binary opposition)間に性行為という表現を使いliminal space(リミナル・スペース)をつくり出したと思っています。さらにここにゴシックとしてのスペースを持っていると考えています。 ここで質問があります。実際、バタイユ自身は死と性(生)についてどう考えていたのでしょうか? またバタイユについて有効な文献がありました教えて下さい。 これは文学として、または哲学としての質問なので削除されないことを... お手柔らかに。
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- ghostbuster
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お礼欄、拝見しました。 ブランショ、補足するといってしなくてごめんなさいね。 該当する本が見つからなかったし、いろいろ読み返していたら、何か自分がずいぶん雑なことを書いていたような気がして、そこからあれやこれやと考えてしまうと何か回答できなくなってしまったのです。 ええと、まず、前の回答で書いたのは、わかっておいでかもしれませんが、質問者さんのことではありません。ここのカテゴリーに出される回答のなかに、読んだこともなければ知識もない、にもかかわらず……というものが少なからず散見される、そういうものを指しております。 まちがっていてもいい、おぼつかない理解であってもかまわない、わたしの回答自身からして、あるレベルから見ればそのようなものであるということは十分に理解しています。 それでもなおわたしが回答しているのは、ここでの回答が、同時に自分の理解のプロセスであると考えているからです。プロセスというのは、つねに不十分であり、整理されておらず、誤解がつきもののものであると思うのです。ですから自分のことを棚に上げて、ほかの回答をどうのこうのというつもりは毛頭ありません。 そうではなくて、わたしがなんともいえない思いがするのは、読んだことがないどころか、今後おそらく本を手に取ることすらあるまいというようなことがらを、検索によって「情報」として入手し、自分が得た「情報」を、さらにそこから提供していくというやり方です。 別にいいんです。そういうことをやりたい人がやればいい。ただ、そういうものが自分の後に書き込まれ、補足などを参照しようと思えば、否応なく目に入る。それが非常に不快であったと。 これがたとえばヘーゲルとか(笑)だったら、いいんですけどね。やっぱりバタイユとかブランショとか、あとフーコーとかメルロ=ポンティとか、レヴィナスとか、むかつく。こめかみにバッテンがふたつ、みっつ、浮かんじゃうわけです。ええ、人格者じゃないもんでね。 何よりも耐え難いのが、たとえばバタイユの思想というものが、あるキーワードによって処理される「情報」として扱われていることです。そうして、ほかの雑多な「情報」と等価に扱われていく。もはやそこでは言葉こそ同じかもしれませんが、おおもとの思想とは縁もゆかりもないものに変質してしまっている。そういうのを見ると、あたかも殺戮の跡地に行き会ったような気がする。 もしかしたら、わたしのこの態度というのは、一種の教養主義というか、権威主義的なものなのかもしれない。少なくともポストモダニズム的ではない(笑)。けれども、わたしにとってそうした思想はものすごく重要なものであるわけです。時間をかけて理解を深め、そのプロセスのなかで自分自身を作り上げていこうと思っているような。だからこそ、自分にとって大切なものが、粗雑に扱われているのを見たくない。 誤解してほしくないのは、真摯にとりくんでいこうとされている方が、たとえわたしの見るところ、それはちがうんじゃないか、ということを書かれていたとしても、それについてどうのこうの言いたいわけじゃないんです。わたしだってきっと嘘回答、いっぱいしてると思うし。 質問者さんが真剣に取り組んでおられるのは十分に伝わってきますし、わたしもつねに敬意をもって拝見してきました。ご質問に回答しながら、わたし自身ずいぶん勉強をさせていただいたので、感謝もしています。あるいはまた、スチュアート・ホールは質問者さんに教わったのでした。エンコーディング/デコーディング、非常におもしろかったです。 まあ、ときにむかついて足が遠のいたりもするかもしれませんが、放っておけば忘れてしまう領域ですので、ときどき棚卸しに回答するつもりでおりますので、なにかまたあればよろしくお願いします。 ブランショはね、手に入りにくいんですが、『踏みはずし』(粟津則雄訳 筑摩書房)と『来るべき書物』(訳・出版社とも同じ)は読んでおいた方がいい。バタイユよりもっとむずかしいんですが。あと、ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』(西谷修・安原伸一朗訳 以文社)のなかの「文学的共産主義」を読むと、バタイユが文学評論で何をやろうとしていたのか、わたしはこれで初めてわかったように思った。これを読むと、ブランショの『明かしえぬ共同体』もずいぶん見通しがよくなってきます。ちょっと高いんだけど『無為の共同体』、おすすめです。 まあ、何にしても時間のかかることです。だけど、大切なことは時間がかかるものだし、時間をかけてしか大切なものになっていかないのだろうとも思います。まあ、ぼちぼちとやっていきましょう。久しぶりに「考えずにしゃべれる」快感に浸ってください(笑)。
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
(愚痴です。正直、このページを開くのが憂鬱でした。少なくともわたしにとってはバタイユにせよブランショにせよ、非常にたいせつな思想家ですので。まあ、ここはこういうところだからと割り切っていくしかないのかもしれませんね。以上オワリ) さて、気を取り直して。 サルトルはあまり関係がありません。大丈夫です(コメント欄の引用はあんまり気にしないでね。回答に関連するというより、どっちかというと、「心に浮かぶよしなしごと」(笑)ですから)。 「内的体験」について、簡単に説明します(晩ご飯作らなきゃいけないから今日はここで終わると思う) まず、前の回答で 「死に近づいてゆく出来事の経験は、現在として生きられる可能性、つまり現前性という可能性をいつも除外しつつ経験されるほかない。きわめて特異な経験である。〈真に経験され、完了する〉ということがありえず、〈経験〉とはならないまま、その経験のうちにとどまる以外ない」(『ヘーゲル』メチエ)を引用しました。 こういう〈経験〉とはならない経験を、少なくとも察知するにはどうしたらいいか。それが「内的体験」です。 これは湯浅博雄の『バタイユ 消尽』のキーワード解説がとってもわかりやすいので、それを引用しましょう。 ----p.379 ----- どういうときに、ひとは捉えがたいもの、私の対象とはならず逃げ去るものに、かろうじてにせよ接近するだろうか。それは、私は〈私〉として存在しているという通常の信念が最も強烈に問い直されるとき、もう私が現在にいるのかどうか、現在として私自身に現前しているのかどうか、わからなくなってしまうときに、である。それほどまでに私(の手にする力やエネルギー)を激しく使い尽くす瞬間に、である。こういう独特の時間、日常的に生きている時間が途切れ、ちょうつがいから外れてしまい、ただ強烈な〈質〉的律動としてのみ内的に生きられる時間には、『失われた時を求めて』の語り手が言うように「私は時間の秩序から解き放たれた」ようになり、いわば「現在から逸れて」しまう。たしかに私の心身は昂揚し、ある出来事を経験しているのだが、しかし〈主体としての私〉の能力はのり超えられており、もう判明に対象化して区切る限界は破られているので、ほんとうに私がその出来事を、現在として生きているのかどうか決定できない。その出来事は、ふつうひとが出来事とはそういうものだと思い、そう名づけている出来事とは言いきれない。なぜなら私が真に現在において、私へと現前するものとしては生きることのできない余白の次元を含んでいるから。 ----- こういう経験は、通常の意味での経験ではない、とあります。 だから、絶対にやっちゃいけないのは、これを簡単に「~みたい」という形で理解することです。あるいは、なんというか、一種のニューエイジっぽい言葉に当てはめてしまうこと。 内的体験は、「一切のものを問い直す、それも休みなく疑問符のなかに投入する」経験です(『内的体験』)。「ひとりの人間が〈存在する〉ということについて知っていると思っていることを、灼熱と不安のなかで、試練にかけ、問い直す」。 理解ではなく、バタイユはこのような領界を設定したのだとまず認め、そうして、その言葉を愚直に受けとるなかで、時間をかけながら自分のものとし、その言葉を生きること、それが理解に通じていくのではないか、とわたしは思っています。 ブランショは、ちょっと本、読まなきゃいけません。わたしもすぐ出てこない(笑)。だからちょっと待って。 つぎ、バタイユの引用ですが、この第一章では、バタイユはエロティシズムというのは、宗教的なものから起こっている→エロティシズムは、禁止と侵犯が対立し合うなかから生まれる、という流れで話を進めているところです。 まず、エロティシズムについて考察するとき、どうしてもこの体験は個人的なものになってしまう。それは、この体験をほかの人と交流させることが困難だからだ。 それを困難にしているのには、体験の基礎をなす「禁止」と、二重性ゆえである。 その二重性というのは ・禁止が働いていて、そのために体験が生起しない。あるいは起こったとしても、意識の領域の外に留まり続ける。 ・もうひとつは、禁止が働いていない=精神の内面で作用していない 後者の禁止というのは、外から当てはめられてしまった禁止、つまり、病的なものとして。 そのとき、体験は、体験としてではなく、事物のように描かれてしまう。 そういうことを言っています。 ここでは、エロティシズムを考察するときのむずかしさを言っているんです。 宗教体験と同じく、「内的体験」として位置づけなければ、とうていとらえることができない、実際のありようとはほどとおい、単なる事物になってしまう、と言っています。 これでだいたい流れはつかめたかな。 ブランショのことはまた後日。
お礼
どうも、お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。 後期も終わり燃え尽きてしまってこういった難しい事には触れずにいました(笑)今回、提出した論文ははっきり言って自信がありません。かなり冒険をしてしまいました(苦笑)ゴシックを調べるというよりも、バタイユを勉強したという感じになり、ゴシックが論点のはずだったのに...その論点がぼやけてしまいました。良い評価はきっともらえないと思います。ひょっとしたらfailかも(涙) ghostbusterさんの愚痴も僕は理解できます。ただ僕はまだバタイユを勉強し始めたばかりで、何もわかりません。それに僕なりの今までの知識で彼を読もうとしてしまうので、ghostbusterさんの蓄積してこられた彼の作品またブランショのための知識、また彼らへの思い入れなどとは相違してしまうことはお許ください。でも僕はこのようなネットのコミュの中でも真剣に勉強していますし、いつもghostbusterさんから分けてもらった知識を自分のものにするために本と照らし合わせています。ghostbusterさんも知っておられるようにネットの情報は全てではないですし、その情報自体疑っていかなければならないのも事実です。それでも僕が信用しえる情報を提供して下さるghostbusterさんのような方や、またこのような難しい質問の答えて下さる回答者さんの意見は大事にしたいと思うんですよ。これは何も知らなくて情報を鵜呑みにしていくのとは違うと思っています。なのでghostbusterさんには”ここはこういうところだからと割り切っていくしかないのかもしれませんね”と言ってほしくないんです。つまり僕は真剣にghostbusterさんの情報を受けていますし、僕のトンチンカンな質問も、実は真剣にしているものなんです(苦笑)。僕はこのカテで質問するときは、またghostbusterさんが回答されるときはこういうところだからと割り切っていません。申し訳ありません、意見できる立場ではないのですけど僕の姿勢というか、何と言うかそういものをここに書いておきたくて。
補足
書き込みが1000文字を超えたのでここに続きを乗せます 今週、日本に帰ります。かなり今時間があるので、日本語でブロンショとバタイユを読んでみたいと思っています。英語だから理解が難しとは考えたくないですが、さすがに今回のこのふたりは難しくて理解するのが大変です。はっきり言って歯が立ちません。それでもこのふたりには興味があるし、deleuzeをこの先読んでいく上で、この勉強は役に立っていくとも勝手に思っています。そして今回現状を打破したく、日本語でも読んでいこうと思いました。なので質問がまたきっとあると思います。その時、またghostbusterさんの知識を分けていただければ嬉しいです。※この質問は暫く開けておきます。 この書き込みで気分を害されたのなら、本当に申し訳ありませんでした。それでも僕はまたghostbusterさんの回答を待っています。 回答ありがとうございました
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.2,4です。 気になったのでもうちょっともぐってみました。 http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/reportdb.nsf/08b5ae3651e3f31649256cda00432165/053a1ffcf9fee97349256cda0047d5a2?OpenDocument <バタイユ自身が語る所によると、修道院で瞑想を続けていた際(バタイユはこの頃、神秘主義に傾倒していた)、神よりも偉大なるものの体験をしたからであるらしい。かれはこの後は強烈な「反キリスト者」となる。> <バタイユはその雑誌に寄せる論文の中で「聖なるもの」を探求する。 バタイユは客体事物が「聖なるもの」だとはしていない。むしろそれに面して人間の内奥から沸き起こってくるものを「聖なるもの」としている。 フロイトやニーチェに大きく影響を受けているバタイユはそれを、無意識の熱き大海、非理性的で非道徳的な快楽原則の領域、マグマのような人間の恐ろしげな闇、生の力(フォルス)、などと表している。それは不定形でつかみ所の無いパワーなのである。 バタイユはこの「聖なるもの」に無上の価値を与え、終生、これを追い求めつづける事となる。> <バタイユは、人間の真の目的は「企図」ではないとし、むしろそのような理性的行動を破壊する、純粋な贈与、戦争、遊戯、生殖目的の無いセックスこそが人間にとって価値のあるものとする。なぜならそのような「消尽」を通してこそ「企図」的な理性では捕らえきれない非合理的な領域、すなわち「聖なるもの」が人間に現れるからである。> ↑ これは、子供、退職者、ホームレス、精神障害者こそ聖なる者に近くなる という神秘学と同じですね。 タロットでいけば、崖に足を踏み出しているのに全く気にせず進もうとする愚者のカードでしょうか。 <「無頭人」という言葉には二つの意味がある。一つはいわゆる組織の頭(かしら)を置かないということであり、もう一つは頭(あたま)に象徴される知性、理性、合理性を排除するということである。つまり、「企図」を切り離した「聖なるもの」による共同体なのである。> そういえば、新世紀エヴァンゲリオンの別フルバージンの最初の方で、石像の頭が取れて、赤い水に落ちる描写がありました。 <バタイユは共同体を構成する根本的権威として「悲劇的なもの」と「死」を置いた。 「悲劇的なもの」はニーチェの言う「ディオニソス的なもの」であり、それは苦痛と恐怖と共に恍惚と陶酔をもたらすものである。そして、それはまさしく「聖なるもの」なのである。一方、「死」は供儀、すなわち儀式的な死を指す。> そして ここですね。 ↓ <死は誰が体験するのであろうか。それは死にゆく私ではない。死にゆく者にもはや体験などありえないからだ。体験するのはむしろそれを見る者、すなわち供儀する者とそれを見物する者である。> そして <痙攣し、衰弱する者を見て、いわば死をシュミレートするのである。「死のシュミレーション」。この矛盾に満ちた行為はどのような結果をもたらすのか。まず、それは自己の純粋な贈与にたどり着く。自己の死、つまり存在の消滅においては「企図」の概念など成り立つはずが無い。そして「死を生きる」ことによる矛盾からの理性のズレによる「聖なるもの」のおとずれ、すなわち「至高性」の惹起である。そして理性(ロゴス)は消滅する。そしてロゴスによって立つ主体(私)が消滅するのである。> エヴァンゲリオンのシンジもそうでした。 自分が消滅した というか全てと一つになった。 日本神話のイザナミも、形が崩れましたよね。 エヴァンゲリオンのレイも形が崩壊してグロテスクなものになり、目がまだ融合していないシンジをギロリと睨んだ。 シンジは死にながら死を体験する。 <そこにおいて私は他者と繋がろうとしているのではない。主体の消滅により私が霧散し、他者との連続性が成り立ってしまっているのだ。> ↑ シンジもどこからが自分でどこからが他人かわからなくなった。 ATフィールドが消えたので、自分と他人が連続している状態になったから。 <内的体験のうちで体験する自己の極限状態、恍惚と不安、希望と恐怖にさらされた時、バタイユは自らのその有りようを、災禍、愚行、犯罪において下劣であり、心優しくもあり、何よりもさまよっている人類そのものの象としてみたのである。> ↑ おお まさしくエヴァゲリの世界! <「聖なるもの」の体験はロゴスを打ち破り、主体性を消失するものである。そして他者と一つになり連続性を打ち立てる。しかしそのためには他者がいないといけないのである。その点において「聖なるもの」の体験は本質的に他者に向けてのものであるのだ。しかし「聖なるもの」の体験は現れてはすぐに消え去り、私と他者は再び連続性に引き戻される。しかし、この連続性を欠いた者どうしが再び連続性を欲し、互いに共感を覚える事で友愛が生まれるのである。バタイユはこれを行う媒介として書物を重要視し、書物の中で幾度となく友愛への呼びかけを行っている。> ↑ やっぱりエヴァゲリです。 で、バタイユの思想をエヴァゲリの世界と同一だとしたら、エロスとタナトスは同一。 対極するものではなく同一のもの。 同じところから出ている。 で、人間は、その究極のとろこにおらず、その間に常に座している。 生=死ーーー人間ーーー死=生 人の形が崩壊すると、究極に到達するが、それが終わりではなく人間の始まり。 じゃないかなー と思うんですけど。 本を読んでいないので、詳しい描写がわからず、違うかもしれないけど、自殺した人を見て欲情して性交するのは、バタイユは儀式としての性交を描いているんじゃないかと思います。 例えばダ・ビンチ・コードではイエスの血筋を受け継ぐ女性が登場し、祖父の儀式を見て(性交)、驚いてそれっきり祖父と疎遠になりましたよね。 それが儀式だと知らなかったから。 乱交だと思ったので、祖父を軽蔑して疎遠になってしまったが、祖父の死後 それは儀式だったと知ったわけです。 ということで、死の恐怖からリピドーが起こったという描写ではなく、生贄として殺される人を見守ることで、死を疑似体験し、至福に至るという古代の考えと同じじゃないかと。 自分を失う痛みと同時に自分は失ったが、他人と融合することで、今まで孤独だったものとおさらばして安心感を得られる みたいな。 で、それで終わりじゃなく、再び分裂が引き起こる。 その繰り返し。 シンジの母親はさびしいけど一人でも生きていく という道を選び、シンジは 一人じゃイヤだ と融合したのに、また分裂を引き起こした。 分裂を起こしたことで、自分の形を取り戻した。
- kigurumi
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No.2です。 眼球の例えは父親じゃなく、本人自身のことだったと思えてきました。 >この背教者になることのレッテル(罪?)みたいなものはあるのでしょうか。 まず浮んだのが、原罪です。 キリスト教の売りは、アダムとイヴが神のいいつけを守らなかった、つまり背信したため、原罪がひき起こったとしています。 その人間全部の原罪をイエスが肩代わりして死んだので、もう人間には原罪が無いとしています。 つまり第一の罪とは背信 つまり 神のいいつけを守らないことです。 キリスト教の宣教の始まりは背信者ペトロです。 彼は命が惜しくてイエスを知らないと裏切った。 その後、後悔してイエスの教えを布教しはじめました。 イエスは知ったものと知らないものでは、知っていたのにそれを守らなかった方が何倍も罪深い としていたと思います。 カトリックの場合、自分達こそがイエスの教えを知るもので、他は正確じゃないとして、自分達以外のキリスト教を迫害しました。 沢山のキリスト教派閥がありますが、それぞれが違っており、それぞれが他の宗派を正しくないとしており、自分達の教えに疑問を持って去っていったものは背信者 棄教者 としています。 で、どの派閥がイエスの新の教えを継承しているのか、実は誰も知らない。 ということにバタイユは気づいて、全部偽物でそれじゃあ救われないと思ったんじゃないでしょうか。 最後の審判の時、生けるものも死にたるものも裁き給わん なので、信者である人もある一定の派閥を否定し棄教したものも、最終的にはイエスが裁く ってお祈りの言葉があったと思います。 ちなみのキリスト教に影響を及ぼしたエッセネ派の一部の派閥は、死者とは死んだ人のことではなく、背信者のこと。 エヴァンゲリオンのゲンドウもバタイユと同じで、イエスが原罪を消したのに、人は殺し合いをやめない、結局キリスト教じゃこの世は救えない と思って人類補完計画を実行したんです。 そして自分が神となり、息子シンジは最終的に神を裏切った。 レイも神を裏切りました。 面白いですよ。 劇場版の最後のエンディングが「THANATOS-IF I CAN'T BE YOURS」でした。 バタイユの人生もやはりこれを辿るものだったと思えます。 グルグルと回る上昇する蛇と下降する蛇。 <上に上がるためには上のものが下に下りてこなければならない。> 人の心のようなもので、DNAと同じ形で永遠に繰り返す。
お礼
kigurumiさん、お礼が遅れて大変申し訳ありませんでした。 今、時間があまりないので、お礼となどを兼ねた書き込みを明日にしたいと思います。 丁寧な回答、本当にありがとうございました。
- ghostbuster
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> バタイユ自身は死と性(生)についてどう考えていたのでしょうか? これはバタイユの思想の根本に関わることなので、今回はきっと入り口で終わります(笑)。ここから必要な部分、もっと詳しく知りたい部分があれば、段階的に詳しくしていきますので、補足要求をお願いします。 バタイユの〈死〉に関する問題意識には、コジェーヴによるヘーゲルの『精神現象学』の講義が大きな影響を与えています。この〈死〉の概念から、バタイユ/ブランショが言葉への考察に移っていくここの部分はものすごく刺激的で、わたしがフランス現代思想のなかでももっともひかれる部分でもあります。 まず、ヘーゲルは「人間は死ぬ」という意識を持つことが、「精神の生」の始まりであるとします。かならず自分に訪れるにもかかわらず、それがどういうものなのか、だれにもわかっていない死。 「そのような非現実性を死と呼ぶとするならば、死とは最も怖るべきものであり、死〔という作用〕に耐えることは最も大きな力を必要とする。……だが精神の生は死にたじろぎ、死という荒廃に穢されないよう自らを純粋に守るような生ではない。むしろ死に耐え、死を担い、死のうちに自らを維持する生である。精神は、このように絶対的な引き裂きのうちに自らを見出すときにのみ、その真理=真実を得ている。精神がこんな力であるのは、〈否定的なもの〉から目をそらす〈肯定的なもの〉であるからではない。ちょうどわれわれがなにかについて、それはなにものでもないとか、それは虚偽だとか言って、それに片を付け、そこから離れて別のものに移って行く場合にそうであるような、あの〈肯定的なもの〉であるからではないのだ。そうではなく、精神は、否定的なものを正面から見すえ、そのすぐ間近に滞在するからこそ、そういう力になるのである。こうした滞在をずっと続けることが、まさに〈否定的なもの〉を存在へと転換する驚くべき力になる。そして〔精神の〕この力が、以前に主体(主観)と呼んだものと同じなのだ。」(『精神現象学』長谷川宏訳 作品社) ヘーゲルがここで言っているのは、「最も怖るべきもの」である死から眼をそらさず、正面から向き合うことによって、〈精神の生〉が目覚める、ということです。「絶対的」に「引き裂」かれつつも、死の作用に耐える。ここで重要なのが〈否定〉ということです。この否定はどういうことか。それは、与えられたままの自然のありようを〈否定〉するということ。 動物は、お腹がすいたら、飢えを満たそうと、やみくもに行動する。欲求が充足されればそれで消える。欲求というものがその瞬間に生まれて消えるのです。 ところが人間は〈否定〉の能力を持つ。たとえば獲物をすべて食べてしまわず、保存する。植物の種をまき、収穫を待つ。一定の時間、自分の欲求を抑え、保留し、作業することができる。つまり、現在の状態を〈否定〉する能力を持つ。この〈否定〉こそが動物と人間を分かつものである、といいます。 そうして死の恐怖に引き裂かれつつも、死の作用に耐えながら、そこから〈否定の力〉によって死の現実的な荒々しさをこそぎ落としていきます。抽象化(つまり言葉化)することで、破壊し、無力化することができるようになる。そうして死を内包した生となることが可能になった。 まず根底にこのヘーゲルの考え方があります(言葉のあたりはかなり雑です。ここではわからなくてもいいから、そんなもんだ、ぐらいでとりあえず先にいきます)。 ここからヘーゲルの考察は主体の問題へと移っていきます。ここはこのまとめを使いましょう。 「人間は死の意識を内的に刻み込まれ、そしてその死の意識を自分の可能性として捉えるかぎりにおいて〈自己〉意識として存在する者であり、否定によって媒介され、かつ媒介する者なのだ。つまりは〈歴史〉的な存在だ。自然(その一部である自分)も世界も弁証法的に転換していくことが可能な存在である。けっして所与のままとどまらず、つねに対極へと動態化する。自分を(そして自分に関わり、対立してくる他なるものを)否定する仕方で対象化し、働きかける。いったんは廃棄する様式で作り変えながら、しかし維持してもっと高い水準まで引き揚げる。そして自己へと結びつけ、回収し、我が物とする。そうやって文化を向上させ、社会を展開させていく」(今村仁司・座小田豊『ヘーゲル』講談社選書メチエ) とにかく〈死〉から〈歴史〉への筋道を追ってください。ものすごくポジティヴで力強い流れを感じたら、とりあえずはいいことにしましょう。 それに対して、ほんとうにそれだけなんだろうか、と疑問を投げかけたのがバタイユであり、ブランショであり、レヴィナスであったわけです。バタイユは、それを別の角度から見ていきます。 もう少しメチエから引きましょう。 「ヘーゲルにとって死ぬことの経験は、〈人間〉がそれへと到達する死の経験である。死ぬことの経験のなかで、主体はその〈死ぬという出来事〉を経験し終わるのであり、完了するのである。……つまり私がそれへと到達し、ついに否定の力へと転換する死との関係である。真理の運動として、弁証法のダイナミズムとしてみごとに再生する死との関係である」(同上) けれどもヘーゲルの思想を批判的に摂取したフランス思想家たちはそう考えない。 「死に近づいてゆく出来事の経験は、現在として生きられる可能性、つまり現前性という可能性をいつも除外しつつ経験されるほかない。きわめて特異な経験である。〈真に経験され、完了する〉ということがありえず、〈経験〉とはならないまま、その経験のうちにとどまる以外ない」(同上) この経験されることのない経験をバタイユは「内的経験」と呼びます。 まずそういうものであることを頭に入れておいて、そこから『眼球譚』を少しだけ見ていきます。 上でみたとおり、人間は所与のものを〈否定〉することで人間となっていった。バタイユは、ここから、人間が動物的な側面を嫌い始めていくことを指摘します。死、性行為、生誕、食物摂取、排泄、月経、そうした人間が動物としてあることの必然を、隠し、闇の中で行うようになっていった。とりわけ荒々しい力を感じさせる〈死〉と〈性〉に関わる部分は強いタブーとみなされ、遠ざけられます。 バタイユは『エロティシズム』のなかで、このタブーがどのようにして成立していったかを見ていきます。 第二章の「死に関係した禁止」のなかで、死体がなぜ忌避されるものとなったかが考察されます。まず禁止とは「日常の現実の流れから暴力を排除する必要に応え」(『エロティシズム』酒井健訳 ちくま学芸文庫)るものであった、とします。 古代の人々は、死者とはある魔術的な力、呪術によって「殺害された」と信じられた。その怖ろしい力はあたりに充満しており、伝染しかねない。そのために触れることも近づくことも禁じられてきた。 〈性〉の禁忌はどのように生まれたか。 これはもうちょっと複雑です。 生は死と最も遠い事象のように思われる。それでも人間は動物と同じように、性行為の結果として生まれ、生殖器は排泄器官と隣接し、あるいは重なっており、汚物を出す。その意味で、否定した人間は、自らの動物的な部分から距離を保ち、自分を引き離そうとした。 ここで引き離そうとすることによって、逆にそのことは抗いがたい力を持つ。一方で嫌悪を抱くがゆえに、あるいは即座に欲求を満たすのではなく先送りにするがゆえに、激しさを一層増し、禁じられたことを破り、犯すことによって(この章のタイトルは「禁止と侵犯」です)いっそう強い欲望となっていく。 つまり単なる欲求を越えて、禁止されつつそれを破ることによって、〈欲望〉となっていくのです。引き離し、遠ざけることで、いっそう人をひきつけるものとなっていく。 さらに自然的所与を拒否するということは、拒否の拒否を生むことにもなっていきます。 動物的であるという嫌悪として遠ざけることで、人はいっそう〈性〉にひきつけられる。そうして、ひきつけられることは同時に、ここでもまた〈拒否〉働きがあるのです。 エロティシズムとは、遠ざけ、禁止し、制約することで初めて成立したものである、ということです。 『エロティシズム』にはそこから屍体の誘惑についての考察もあります。 ここまで書いたらえらい疲れたんで、どうかここらに関しては、どうかご自身で読んでみてください。詳しく知りたい点があればどうぞ。 前回書いたときにはまったく頭になかったんですが、確かにゴシックはフランスへ行ってサドに受け継がれるという系譜がありますね。 わたしはサドは読んだことがないんですが(一度読まなきゃいけないなー、とは思ってるんですが)確かに > ゴシックとしてのスペース はここにある。思ってもみなかった着眼点でした。勉強になりました。ありがとうございます。 Michel Surya の" Georges Bataille: an intellectual biography ", trans. by Krzysztof Fijalkowski and Michael Richardson (London: Verso, 2002). はわたしは読んでないんですが「読みごたえがある」と『バタイユ 消尽』(湯浅博雄 講談社学芸文庫)の巻末参考文献にありました。 あと、バルトが『眼の隠喩』で『眼球譚』の分析をしています。日本ではこれは『バタイユの世界』という日本で編集された本のなかに所収されていて、いま手元にないからちょっとバルトの何に所収されてるかわからないんですが、探してみてください。わたしもまた探してみます。
お礼
お礼分遅れたこと、申し訳ありませんでした。 いつもと変わらない丁寧な回答に感嘆です。ありがとうございました。 ヘーゲルですか。彼の文献、または第二文献を読もう読もうと思っていたのですが、未だに実現していません。これを機に彼の文献に触れてみたいと思います。今回のghostbusterさんの引用はdialectic (弁証論?)に基づくものなのでしょうか。 バタイユに関しては僕も文献を読まずに補足をすることができません。なので少しお時間を頂いてから(かならず壁にぶつかると思います(笑))補足します。 それから、フランス文学史を少し噛み砕いて(流れというか)説明して頂くとうれしいです。※イギリス文学との比較みたいなものはあるのでしょうか。これは少しバタイユの質問から逸れてしまうかもしれません。 参考文献はさっそく大学の図書館で探してみます。バルトの眼の隠喩は興味深いですね。 それから昨日、僕の先生からバタイユとゴシックに関しての分析の"GO"をもらいました。なのでこのままバタイユを読んでいきます。 ありがとうございました
補足
遅くなりましたが、ghostbusterさんがこの補足を読んでくれる事を願って書き込みます。 まずバタイユの”内的経験”とエロティシズム、それとTransgress (おそらく日本語で侵犯になるかと思います)がバタイユを読む上でのキーワードのようですね。 僕はよくこのバタイユの内的経験が掴みきれないんでいるんですが、大学から借りてきた本Bataille: A Critical Readerの中の二人のtheorists に焦点を当てて考察してるんです。一人はBlanchot、もう一人はFoucaultです。 このBlanchot、かなり難しいですね。脳みそが悲鳴を上げました。彼はサルトルの哲学に関わっていた人物なのでしょうか。彼のAffirmation and Negative Thoughtの中でNothingnessという単語が使われています。僕はサルトルを読んだ事がないので、もしBlanchot の言うNothingnessがサルトルの専門用語と一致しているのなら、ちょっとお手上げです。それとBlanchotは内的経験をthe limit-experience(限界経験?)としています。彼の引用から The limit-experience is the experience of what is outside the whole when the whole excludes every outside; the experience of what is still to be attained when all is attained and of what is still to be known when all is known: the inaccessible, the unknown itself (Blanchot, 1998, p.44) ※限界経験は全てがあらゆる限界(外部)を超えた(除外した)時、全ての限界にある何かの経験をいう;全てが獲得されている時、今もなお獲得し得るものの経験、そして全てが知られている時、依然として知られている経験:得難いもの、未確認のもの自体をさす。 すみません、かなりおかしな日本語訳になっています。まず僕はこの”全て”と”限界”が何を指しているのかが分らないんですが、一方でこれがghostbusterさんの言われた”経験されることのない経験”に関することに近いような気がするんですが... Blanchot(ブランショ)の内的経験の解釈について御教授いただければ幸いです。 そしてタブー(禁忌)と侵犯について。 まず、バタイユの著書eroticismの最初のチャプター、eroticism in inner experience。バタイユはタブー(禁忌)は侵犯されるものとしていますが、一方で侵犯を除外するものでもあると言っています。さらに、禁忌は暴力 (violence)と反発すものであるとバタイユは述べているのですが、僕が分らないのは死と暴力、そして死とエロティシズムの関係です。そしてブランショは否定する事の感情(情熱?)と述べていますが、禁忌により否定される死と暴力、この否定の行為が侵犯をさししめしているのでしょうか? そしてもう一つ、禁忌は神聖なものである。バタイユを引用します。 if we observe the taboo, if we submit to it, we are no longer conscious of it. but in the act of violating it we feel the anguish of mind without which the taboo could not exist: that is the experience of sin. that experience leads to the completed transgression... the inner experience of eroticism demands from the subject a sensitiveness to the anguish at the heart of the taboo no less great than the desire which leads him to infringe it. this is religious sensibility, and it always links desire closely with terror, intense pleasure and anguish (Bataille,1986, p.38-39) ※もし禁忌を保ち、服従しているなる、禁忌は私たちに意識されるもではもはやない。私たちは禁忌を汚す行為の中で苦悩を味わう。それが罪の経験でもある。そしてこの経験が完成した侵犯へと導く。内的経験のエロティシズムは禁忌を中心に置き主体から苦悩への感性を要求する。それはしかし人を禁忌の侵害へと導く欲望より卓越したもではない。これが宗教感?、そしてその感性は恐怖、非常な快楽と苦悩と隣り合わせの欲望と繋がるものでもある。 訳していても、自分で何を言っているんだと思ってしまう引用なんですけど。※ここでフーコーのreference to transgressを引用したいんですけど、文字数が限定されているので次回します。ここでバタイユは禁忌への宗教感こそが否定、侵犯を生み出していると解釈したんですが、矢張りこの解釈への自信がありません。でもこうすると否定が侵犯であり、そして否定が欲望を生み出していると解釈ができ、ghostbusterさんの回答の”禁止されつつそれを破ることによって、〈欲望〉となっていくのです”に繋がっていくのかなぁと思っています。 それとバルトの眼の隠喩が収容されている本は貸し出し中です。オンラインで2ページだけ読む事ができますが(涙)... 待つしかないみたいです。それともう一つのghostbusterさんが紹介し下さった文献は僕の大学にはありませんでした。
- kigurumi
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質問を読み終わって考えていると、あるメロディーが頭の中に流れ出しました。 そのタイトルは、 <Komm, susser Tod (甘き死を来たれ)> その曲は、新世紀エヴァンゲリオンの中で、確か、、、他者と生きることをシンジが決心したとき、リリス(レイ)が羽を広げ、球体が赤と緑の光線に覆われるって描写の時に流れていた曲だったと思うんですね。 シンジの場合、精神が衰弱して植物人間のような状態になったアスカの胸がはだけたのをみて、マスタベーションをしました。 一方的で独りよがりの快楽を味わったわけで、「俺は最低だ」ってシンジは思ったわけです。 あなたが書いた本は読んでいないのに言うのもなんなんですが、、、、 (「読んでもいないのによく言える」と前も別の質問の時に他の人から言われたんですけどね・・・苦笑) それでも読んでる人限定と書かれていないので、書かせていただきますと、、、、 あなたが言うには、その本の中で「それは精神的な痛みを伴う快楽である事をふたりはここで認めています。」となっているんですよね。 目の前にあるものと同質の必然的に避けようもない死を実感したので、死の拒絶からリピドーが二人に起こったんじゃないかと。 (違うかなぁ) お互いが、死する運命の生きものであるという共通の痛みを抱いたわけですよね。 ATフィールド(他者を隔てる心の壁のこと)が不要。だから交わることができる。 一方的が壁を作って拒否しているのに強引にやるのはレイプで融合とは違う。 >ここでバタイユは死を通して両極にエロスを表現してるんですけど エヴァンゲリオンのカオル君(終わり)に言わせると、生と死は同一なのだそうです。 ミサト(やはりエヴァゲリの登場人物)に言わせると、人は生と死の間にいる と。 調べてみたんですけど、この物語の眼球とはバタイユの父親のことだそうです。 淋病にかかり、バタイユが生まれたときは半身不随で盲目になっていたそうです。 >僕はバタイユはこのエロスとタナトスという両極の(binary opposition)間に性行為という表現を使いliminal space(リミナル・スペース)をつくり出したと思っています。 リミナリティーって人間の不確実さ とかいう意味でいいんでしょうか。 宗教では神は絶対ですよね。 人間のような不確実なものではなく絶対者と<人間>は定義している。 <息子>にとっても、<父親>は絶対者であって欲しいわけです。 その絶対者の父親が半身不随で盲目。 バタイユは生まれながらに指導者を持っていなかった。 人は、目からの情報に主に頼って現実を認識している。 直じゃなく、数多くのフィルターを通してしか、この世は触れることはできない。 父親を目で見ると、望まぬ姿。 でも、本当の父親は視覚からの情報ではなく、直に父親というコアに触れることで、父親がなんたるかがわかる、、、とかそいういう事を考えたのかなぁ・・・って思いました。 彼がはまった宗教では「父(神)は全能で、いつでも<見て>います」と言っていますから。 しかし同時に父(神)は不可知とも定義している。 神は不可智(不可視)、ならば目で見るのではなく触れてそれを知ろうとする みたいな。 実は彼の素性は↓から得ました。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0145.html <バタイユのエロスはロマン・ノワールではない。禁制を破り、おのれをその只中に拡張するところの、まさにアナキズムなのである。このことは、ほんとうにそうかなとおもうほど逆説めくのだが、バタイユはエロスから自由なんかは生まれないと考えている有罪者なのである。> エロスをリピドー(生きることを選択する とか 生の欲望)と置き換えてみたらどうでしょう。 <生きている限り自由は無い> ならば 甘き死よ来たれ? 死においてこそ 初めて人は自由になれる? なんでシンジは植物人間まがいになったアスカにやっと欲情できたんでしょうね。 生きているアスカは怖かった? 死んだアスカなら怖くない? しかし、勝者ではなく敗者だと思い知らされ、「俺って最低だ」と言う。 一字的な勝利感は偽物だと気づいたんでしょうか。 バタイユが欲しかったもの 自由=死 だったのかも。 それも憤死じゃなく 甘い死。 本人は最後まで気づかなかったかもしれませんが。 でも、先のリンクにありますように、死んでも自由は得られない みたいなことをことは「マダム・エドワルダ」で述べているようなんですね。 眼球譚は彼の処女作なので、処女作の時は、死こそ自分に自由を与えてくれると思っていたが、後に死んでも自由人になれないと考えを変えたみたいです。 といいますのも、リンク先の内容で娼婦だけが快楽を味わったって書いてありますよね。 私その箇所を見たとき、古代の神話の内容を思い出したんです。 古代 パレスチナとかそこいらあたりにあった風習。 地上に不作が起こると、王が生贄というか贖罪として殺されていたんですね。 民族の代表者である王は儀式で、紫の衣を着せられ、女神の地上の体現者の女たちと数日交わったあと、紫に衣を剥ぎ取られ、鞭で叩かれ、天と地に間に吊るされ、槍で刺される。 そして王の血が大地に流れ、女神の力の復活となる。 複数パターンはありますが、まあ こんな感じ。 女神が復活すると、大地が緑に覆われる。(豊穣) だから、生命の源=赤、豊穣=緑 なので、エヴァゲリで球体の表面を赤と緑のプラズマが走ったのかな~ って思いました。 で、王がもし女神を喜ばせなかったら、不作というか食べ物が取れないと思われ、王は精力を失ったとして新しい精力のある王に殺されていたんです。 これが息子が先王を殺すって話として残っています。(父親を殺す息子 って感じですね。) ただし、血のつながりはなくても、父とその息子って呼ばれていたんですね。 女神を喜ばすために王はせっせとがんばっているのに、精力が衰えた途端 殺されていた。 女神の体現者に擁護されている間は、民族の最高指導者という地位で、快楽で身を喜ばすことができるが、精力(勢力)が衰えると死でしたから。 ちなみに女神の体現者とされた巫女たちは神殿に住んでいたんですね。 で、神殿<娼婦>と呼ばれていた。 聖書にも神殿娼婦が誰でしたっけ? ラハブだったと思いますが、ヨシア(イエス)を助けて、彼らを勝利に導いたって書いてありますから。 ラハブは神殿の側に住む娼婦だったと聖書に書いてある。 いえいえ 神殿に住まう巫女だったのでしょう。 日本だと遊女の原型がそう。 人々は土地に縛られていたのに、彼らだけは自由人でどこでも行けたし、帝すら物言いができなかったし、帝と結婚もしていたし、帝が住む園に彼らは住んでもいた。 非人とは人以下の動物という意味じゃなく、神と人の間に座する仲介者みたいな意味、だった、が後にある制度が中国からやってきて、彼らの地位を落としてしまったんですね。 で、それ以降は娼婦として疎むように制度で決めてしまった。 イエスを生んだとされるマリアの概念も、神殿娼婦 つまり巫女というのを適用したから、イエスの死の淵にマリアがいて、イエスの復活の時もマリアがいたって話が作られたんじゃないかと。 (運命をつむぐ3人の女神 ってのが神話にあったとはず。) 話それてすいません。 で、 >実際、バタイユ自身は死と性(生)についてどう考えていたのでしょうか? http://club.pep.ne.jp/~faucon/bungaku/chronolo.htm 受容というか死を超越するため、神秘主義者となり研究していたが、<死の床の中でバタイユは「こんなもんさ」と語っていたという>。 せっせと昇華しようと努力していて、やっと死を得るときが来て、、、死ぬとはこんな感じなんだぁ とわかったのでしょうか。 <『内的体験』の中でバタイユは「結局、死への転落は汚らしいものだ」と書いていた。>とあるので、昇華に失敗したら死で、彼にとって死は是非避けたい転落として拒否する対象と考えていたんじゃないかと。 彼は正常かといえば、正常でもあるが狂気も内在しており、ハンニバルのレクター博士のように知能がとても高く(ハイデガーは彼のフランス一の知能を持つものと評価したそうです)、それゆえ悩む必要が無いと思える範囲まで悩まざるを得ず、父(神)を一生涯探していたんじゃないかと。 父の元にいけたら永遠の命を与えられ永遠の至福に至れる が、失敗すれば死 みたいな。 悪魔学をやる人も、悪の限りを尽くしたらもうその先は善しかない とか考えていたみたいですし。 サイコ系の分析家だとまた違う捕らえ方になるのかもしれませんが。 彼が現代に生きていたら、「新世紀エヴァンゲリオンを見てみたら?」って教えてあげたかも。 昇華し生まれ変わったシンジはみんなに「おめでとう」って言われるんですね。父を乗り越えたので。で、監督はそれで終わりではなく、魂は繰り返すってメッセージを出しています。 何度も魂は生まれ変わる。コアと合体したらそれで終わりじゃなく、その先はまた苦悩が始まる世界。 それが生きているということだと監督は言いたいんじゃないかと。 バタイユの場合、生は死を免れるまでの猶予期間で、どんなに努力しても、失敗者したら死を受け入れるしかないと考えていたんじゃないかと。 で、死は刑だと考えていたんじゃないかと。
お礼
kigurumiさんはじめまして。そしてお礼文が遅れてしまったこと、申し訳ありませんでした。 興味深い視点での回答、本当にありがとうございました。 以前からこのカテでkigurumiさんを見かけていました。kigurumiさんは神学にお詳しいんでしょうか。そこで少し質問があります。kigurumiさんの紹介して下さったURLでの引用です。 17歳のバタイユは入信して敬虔なカトリック教徒になったが、27歳のときはすっかり信仰を捨てた。バタイユは棄教者であり、背教者なのである。 バタイユはおそらくニーチェの影響で信仰を捨てたのかもしれません。この背教者になることのレッテル(罪?)みたいなものはあるのでしょうか。これは僕のまったくの興味からの質問ですので、全く勘違いな事を言っているのかもしれません。 エヴァンゲリオンは懐かしいですね。子供のころ見た記憶があります。当時の僕には意味がさっぱり(笑)でも今回のkigurumiさんの解説はとても興味深い物でした。これ以外にもkigurumiさんはエヴァンゲリオンの回答をなさっていますよね。拝見させていただきました。そこからのバタイユへの視点がとても面白いです。”生は死を免れるまでの猶予期間で、どんなに努力しても、失敗者したら死を受け入れるしかないと考えていたんじゃないかと”は説得力があり、参考になりました。 最近、僕は大学でちょっと前まで人気だった日本のアニメ『鋼の錬金術師』を分析してエッセイを提出したばかりです。※海外では人気がすごいんですよ。僕はファンタジーの勉強を今回していたんですけど、その時に選んだテクストがこのアニメだったんです。 バタイユに関して、僕ももっと文献を読まなければならないのでkigurumiさんの紹介されたURLは役に立ちます。 ありがとうございました
- ringouri
- ベストアンサー率37% (76/201)
バタイユの作品って、フランス語で書いたものではないのですか? ここで、引用されている英語の文章はバタイユ本人が書いたものですか?バタイユを英語で読んでその文学性や哲学性を論じようとするなど今までに聞いたことがありませんが....?? それに、『眼球譚』あるいはその他の作品の一部は、もともと、本名ではなく匿名(筆名)で発表されたものですから、これらの作品のオリジナルな執筆意図と、有名になった後のバタイユの哲学的言説とを比較するのも方法論としては、かなり微妙な(危険な)ものを含むような気がします。 御質問の趣旨は、(『眼球譚』とは直接関係無く)一般的な意味での、バタイユ自身は死と性(生)についてどう考えていたのか?ということでしょうか?
お礼
どうもです まず、大学の図書館にフランス語で書かれたバタイユの書物はありませんし、私自身が英語圏に住んでいるので、読んでいる文献が英語になってしまうんです。 確かにバタイユは本名ではなく匿名で作品を発表しています。それに翻訳された作品を読まなければいけないので、回答者様のおしゃるとはごもっともだと思います。筆名はLoad Auchです。そして翻訳がJoachim Neugroschelとなっています。 そうです。バタイユはこの『眼球譚』意外にも死と生(性)について書いている文献があると思います。そこでバタイユ自身は死と性(生)をどう捉えていたのか、または他の分析家がどう解釈しているのか知りたかったんです。 まだ僕はバタイユの多くを知りません。そこで今回の質問となったんです。有効な文献も英語でのということになります。大学から幾つか借りてはきているんですけど。 ありごとうございました
お礼
ありがとうございました。 ghostbusterさん意見はよく分ります。”理解していても納得できないもの”というのは誰にでもあると思いますし... この話しはこの辺でやめておきますね。 はい、久しぶりの日本なのでかなりテンション(これ日本語英語です)上がっています。英語は暫く忘れて日本にどっぷり浸かりたいと思います。 東京の神田あたりでブランショとバタイユを手に入れることができますかね。オンラインなら確実に見つけられるかも。それと実は恥ずかしい話し僕は東京の大きな図書館とかまったく知らないんですよ。 それと前回のブランショの引用 The limit-experience is the experience of what is outside the whole when the whole excludes every outside; the experience of what is still to be attained when all is attained and of what is still to be known when all is known: the inaccessible, the unknown itself (Blanchot, 1998, p.44) なんですけど、このThe limit-experienceというのは経験し得ないものと解釈したんです。僕らが経験し得ない、経験したらしたら禁忌にあたるものというような感じで上記の引用から解釈してみました。 今回、前回の書き込みでもしましたが、ゴシックとしてのバタイユの作品を上手く説明できませんでした。ゴシックの一つの要素liminal spaceについてバタイユに迫っていくつもりだったんですけどね...失敗でした。解説書(実はこの解説書というのが僕はよくわからなくて、あちこちの大学に行って調べたんですけど、これだというのにめぐり合えなかったんですよ)や参考文献など読むには今回時間が足りなかったです。 それでは近いうちに補足すると思います。 ありがとうございました