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自然本性としてのむさぼらない能力
- 自然本性としての《むさぼらない》という能力について分析し、意志行為の内容に応じて自然本性を考察する。
- 自然本性には《むさぼることはしない》という能力が備わっており、人々は互いに非戦論を実践することもある。
- 意志行為において欲動・欲求・欲望の三つに区分し、自然本性としての《むさぼらない》能力を持つことを提唱する。
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人は社会で自然本性をいくらか我慢してしまう。 我慢のぶん自然本性が鬱屈し狂気や破壊衝動が高まる(エロスがねじけてデストルドーにかたむく?)。 その充満した狂気を晴らすためには自らに合った祭り文化が要る。 祭りは狂気の解放。抑圧を解放し鎮める調律のしかた、破壊衝動の飼い方であり、個人や群や環境の調和において大切なもの。 欲望は他から来て、祭りは自生してくる。 よそから押し付けられた祭り文化は心に機能せず、独自のかみを讃える祭りや自身にかなう言葉やうたや踊りなどは健やかな祭りになる。 身にかなう祭り文化を持たないとき、出来合いの祭りでは憂さ晴らしとして機能せず、そんな個人は自らの狂気を過食やいじめや買い物依存や性依存や自傷行為などをして晴らそうとする、それらも個人的な祭りだが、へたな祭りで、狂気の解放としてはたしかに祭りだけれどあまり健やかなやり方ではない、いじめはとくに。抑圧や狂気の再生産なら祭りとしては失格だ。 戦は適度な祭りを見いだし損ねている人々のする集団的な憂さ晴らしだが、調和に反するへたな祭りで祭りにもならない、自らの憂さを他者に強いるだけの非人道。他の群から祭りのしかた(文化)を奪い去り破壊し、自らのように更に狂わせてしまう非人道。他者の文化を壊すと他者を狂気に閉じ込めてしまう。 人や人の群は自らの祭りを見いださねば人道も調和も損ないやすい。他者の祭りを損ねてはならない。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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あなたの今の考えならこうでしょう。 > 生から離れた欲動が悪ではない。 欲動が生から離れる事を阻むのが悪だ。 生から離れた欲動はない。 言うならば欲動も善の働きだ。 欲動が生から離れる事があるとするのは悪の余計なおせっかいだ。 そのおせっかいを一言で言えば、 > 欲動が生から離れる事を阻むのが悪だ。 この正義となる。 ところが仮面ライダーを名乗るわたくし自称悪人は、あくまでも自分の組み立てた論理を信念の一部として、正義だけは全うする。 それが悪かと言えば、言いたいやつには言わしておけと言う心境だ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ (あ) 欲動が生から離れる事を阻むのが悪だ。 この正義となる。 ~~~~~~ ☆ まづ《正義》とは 規定がしづらい概念です。定義しかねます。 仮りに ○ 正義とは 善の側である。 としますと わたしが応答した内容は 次のようです。 ○ 《欲動が生から離れること》は 生きるのではなくなるのですから 負の善であり悪です。したがって(あ)の文は こうです。 悪を阻むのが悪だ。 ☆ 《悪を阻む》のは そのチカラは結果として善の側にある。と言えるとすれば こうです。 ○ 悪が悪を制したとき その悪なるチカラも 善の側にある。 ○ ただし それは どこまでも悪である。初めから 悪だと言っているのですから。 つまり ★ それが悪かと言えば、言いたいやつには言わしておけと言う心境だ。 ☆ というより ご自分でそれは悪だと 初めに言っているというのが 実際です。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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またいらない事だよ。 悪の正義を攻撃するなら、それには私のライダーキックがさく裂するよ。 私はここしばらくそんな事をしている。 悪に肩入れをする苦しさから、これもまんざら捨てたものではないと、善い楽しみ方が判ってきた。 思い返せば5年以上前になるかね。 おせわになったね。
お礼
★ 悪の正義を攻撃するなら ☆ つまりさらに ★ 悪の正義 ☆ これが 分からない。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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表明してある事を改めて言うよ。 生から離れた欲動が悪ではない。 欲動が生から離れる事を阻むのが悪だ。 ソクラテスの伝統はともかく私が鬼神とさし示したのはこのような悪の正義です。 それはともかく良い考察をされていますね。 今回は私にとっていい意見となりました。 一人でできる範囲ではゴルゴム退治は一人で進めます。 おじゃましました。
お礼
つづいてです。 ★ 欲動が生から離れる事を阻むのが悪だ。 ☆ ここのところが 微妙なのです。 《欲動》は 質問者の持つ仮説では 《生の欲動》しかありません。 《欲動が生から離れる》というのは 欲望が何かのときに何らかのきっかけで破壊をめざすその死の欲望となって《生の欲動》を妨げることを言います。という仮説です。 したがって 上の命題は こうなります。 ○ 死の欲望を阻むのが悪だ。 つまりは ○ 死の欲望は 悪としての意志の発動であるので 悪を阻むのが悪だ。 たぶん その意味では ○ 悪をもって悪を制す。 といったことなのでしょう。 ということは さらに微妙が問題をはらみます。 ○ (悪から善への回転) ~~~~ 1. 悪によって悪を制したはいいが 制された悪は それだけではまだ善に還らない。還れない。 2. 死の欲望がいったん止められたのであるが 死の欲望をうながす悪の意志が 《むさぼらない能力》として確立されたわけではないからである。 3. 自然本性としての《むさぼらない》という能力が活きてはたらくとき 死の欲望を無効のままに受け留めていることができる。 ~~~~~~~~~~~
- 畑 茂夫(@Flareon)
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無駄な事を書くよ 今回のテーマの先駆者は仮面ライダーオーズでね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%BA/OOO 私の弟子だ。 もちろんほら話でギャグだよ。 要するにあまりお邪魔するとゴルゴムの陰謀説をぶちあげる事になるので退散するよ
お礼
分かりました。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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前置きもなく続けます。 そうですね。 神を持ち出さなくても衝動のもつれやつまずきととらえるだけで済む事柄です。 しかしそれを悪しき働きとするならややこしくなります。 信仰を振りかざすと説明が簡単そうだと思ったのですが必要も無いところまで進んでいると言う事ですね。 あなたを諭そうとか教えようとは考えていませんでした。 仮面ライダー癖です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ そうですね。 / 神を持ち出さなくても衝動のもつれやつまずきととらえるだけで済む事柄です。 ☆ ええ。そのようにお伝えしました。但し書きを添えるなら むろん 神ないし信仰とは関係しています。 というのも 欲動は 意志に先行しており 意識せずともそのハタラキがあると想定されており それなら 非思考の庭として信仰と関係を持つ可能性が高いと思われるからです。 《生きる》こと これにかんしてわざと具体的な事例を内蔵や神経組織に取ってみるなら それらは明らかに意図せずともそして意識しないところで動いています。 というようにして〔主観における〕神とかかわっているかも分かりません。と同時に たぶんいまは信仰のことを持ち出さずとも議論は出来るかと思われます。 ★ しかしそれを悪しき働きとするならややこしくなります。 ☆ 微妙なところですので 精確に言い直すことをこころみます。 ○ (欲動および欲望について) ~~~~ 1. 《生きる》原動力が ひとの存在にはあると想定される。これを生の欲動とよぶ。 2. それが意識されハタラキが意志においても発揮されるかたちを取る場合がある。精神的にせよ肉体的にせよあるいは社会的な生命としてにせよ しいたげられ追い詰められたときに ふと身と心の内側から突き上げるように湧き出るチカラ これを 生の欲動とよぶハタラキと見る。 3. これが《悪しきハタラキ》として現われるというのは むろんまづ意味としては 生きることから離れようとする志向性であり 生きることを断とうとする動きになります。 4. そのとき それではこの《負における生の欲動》と呼びたくもなるような動きは ほんとうに生きる推進力としての《欲動》と同じ次元でのハタラキであるのか? 5. 言いかえると 《悪は存在するのか?》という問いにもかかわっているようです。 6. つまりは 質問者の提出している命題は 《悪は 〈欲動〉の次元には存在していない》です。 つまりは 《アンチ・生の欲動》は 人の存在の次元には成り立っておらず あくまで《欲望》の次元で人の自由意志が起こすかのような悪の志向性であると考えられる。 7. 欲望とは 《欲動および欲求としての意志》ならびに《それら欲動と欲求に忠実に従う欲望としての意志》を超えて それらのほかに志向性として持たれるその意志のハタラキのほうを言うと捉えられます。 8. 《欲動および欲求ならびにこれら二つのハタラキに従う意志としての欲望》 ここまでは 生まれつきの自然本性だと思われます。このそなわったままの自然本性を土台としてその上に さまざまなあらゆる意志の発動があり つまりそれが広く欲望として表現されるものである。 9. 《欲動および欲求ならびにそれらに従う欲望》 これらは 善悪という観点から言えば 中立である。言いかえると それ以外の欲望に いわゆる善とその善の損傷行為としての悪とがある。 10. 主観において善と見るものごとに背く志向性 これをマイナスの善として特に悪とよぶ。 この悪なる欲望ないし意志に 破壊・破滅ないし死の片向きがある。自己をも他者をもあるいは何であれものごとを破壊しようとするチカラであり 死をつくるハタラキだと捉えられる。したがって 死の欲望とよべばよい。 ~~~~~~~~~~
- 畑 茂夫(@Flareon)
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お礼ありがとうございます。 私なりに輪郭を整えてみました。 欲動に身に覚えがない。 すなわちどこからか舞い込んだ他者の衝動と言うならば、そんな芸当ができるのは神様を置いていないのではないか。 生かされて生きる限りでは欲深いだろう。
お礼
つづいてです。 ★ 欲動に身に覚えがない。 ☆ ええ それでいいのだと思います。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~ (α) 欲動( pulsion ): 存在するもしくは生きるということに関して ひとを否応なく突き動かすような感覚や思いや動きを言う。 ・(α‐1) これは 意志の発動する以前に起きるハタラキであるように思われる。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなふうに書きましたが おそらく《意志の発動する以前に起きる》だけではなく その起きるハタラキについて意識もしていない状態さえふつうであろうと思われますから。 つまり 生きているなら この生の欲動ははたらいている。と見ればそれだけで済むことですから。 もうひとりの人も 神や信仰に持って行こうとしておられるようですが 必ずしもそうではありません。 問いは ひとえに次のことに焦点を当てています。 ○ 根源的なハタラキとしての生の欲動について それと同じ次元において 破壊や死へと突き動かすハタラキも じつはあるのだという説――タナトス説―― これに異をとなえること。 ここに焦点があります。どうでしょう。 すなわち 生きる欲動は 第一次のハタラキであり それに対して破壊や破滅や死への傾向は もしそれがあるとするなら あるとしても あくまで後天的に生じた第二次のハタラキであろうということ。こう見ています。
- heart_mind
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では、おききしますが、信仰とは何が何を補っているのでしょうか。
お礼
この質問では 信仰という言葉は出していませんよ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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多分この質問には有意義な回答は集まらないだろう。 ご存知のように欲望に関する事柄を哲学することは極めて困難で不可能とすら思えた事だ。 その点質問趣旨は上出来だよ。 十分哲学になっている。 多分こういう事だろう。 不明のまま突き動かされる衝動を一方では信仰と解釈し、もう一方では欲動と解釈した。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 多分この質問には有意義な回答は集まらないだろう。 ☆☆(趣旨説明欄) 3-4. 言いかえると 言ってみれば ひとはこの自然本性論としての問いにかんする公理を どのように設定するか。こういう問いになっています。 ☆ こういう性質の問いですので そういうことかも分かりません。 そうですね。切り口があるにはあると思ったことは 次の主題です。 ☆☆(趣旨説明欄) 1-3. 《人は人に対して狼である》ではなく 《万人の万人に対するたたかい》でもなく そうではなく人びとは《非戦論において くにゆづりをおこなうことがある》。 ☆ すなわち 西欧と日本との対比です。 あちらでは 自然状態にあって誰かが この土地を縄張りで囲い この土地はおれのものだと言ったら そのまま決まるか 腕づくで決めるか あるいは法に訴えて結着をつけるか いづれにしても 《あらそい》ないし《互いの対立関係》において決まるというように想定されています。 一方が他方に優位に立つか 同等であっても権利関係において互いの均衡が保たれるかというかたちで 共生が成ります。 日本において《ゆづる》というのは 縄張りをしていなくても 先に住んでいたことにウヤマヒを持って 相手の生活をとうとび優先させるのだと見ます。《話し合い》で決まります。決めます。 言わば互いの間に――マ(間合い)を取りつつも――先に共生が 成っています。 そのようなチガイに応じて 日本人として質問者が考えたところによると 信仰にせよ生きることの根源的なチカラにせよのそのハタラキは 生の欲動一本である。そのあとに後天的に付随的に 破壊・破滅あるいは死の傾向が現われたとしてもです。 互いの対立ないし争いが 生活日常である場合には 生の欲動に対して その生の欲動と同じ次元において 破壊や死の欲動のハタラキがある。と想定しがちになるのではないか? こういう推測をおよぼしているというひとつの切り口です。
- heart_mind
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・行為が決して目的に達しないという種類のものと ・行為が目的で完結するものに 分けて見てください、後者はかなり人間より動物に 近いものになりませんか。 どちらも自然本性だと思います。 特に前者は思考するとは何かに関係しています。
お礼
そういう分け方であれば まったく恣意的に《目的に達した・達しない》の議論ができるというものです。
お礼
あじとふぬめくすぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ (質問者が受け取ったかたちにて要約しますが) ~~~ 1. ひとは 世の中から なさけをかけられもすれば しいたげられもする。 2. 抑圧を受けたら 我慢する部分を持つ。自然本性のこころの広さである。ただし つよいわけではない。たゆたえども沈まずというしなやかさとしての弱さであり強さである。 3. 抑圧が常態化し我慢が重なると これをはねのけるようにうごく。ムラの祭りに限らず 個人としても何らかの偶像(アイドル)をこしらえてのお祭り騒ぎをおこなうようになる。 4. 個人的なお祭り騒ぎの中には 一般に《その憂さ晴らしとしてのおのれの意識の排泄》がある。これは ガミガミ電波となってほかの人間を巻き込む祭りである。そこに居合わせる人をアース役としてしまう。ほかの人間に危害をくわえることになる。いじめから いくさにまで及ぶ。 5. かくて われわれのそれぞれの自然本性は 泣きを見る場面が出て来る。敵をほろぼせと叫んでマツリを執り行なった母は 戦死した息子の遺体に泣く。 ★ 抑圧や狂気の再生産なら祭りとしては失格だ。 6. ★ 人や人の群は自らの祭りを見いださねば人道も調和も損ないやすい。他者の祭りを損ねてはならない。 ~~~~~~~~~~~~ 質問者は むさぼりを平気でおこなう人間なのでしょうか。次のように ご見解にあらたな見方をかぶせます。 7. 《まつり》は 《食べ物などをそなえる》という意味だそうな。これは 自分にとっても人びとにとっても《かしこき(可畏)もの》つまり《かみ》にささげるということらしい。 8. 縄文人は 狩猟の獲物をめぐって畏(かしこ)きものにウヤマヒの心をささげたと思われるが 弥生人は 秋の穫り入れにあたって初穂をささげた。言いかえると 人びともその《まつり》に参加すると見るなら 《かみがみとの共食》である。どんちゃん騒ぎをもともなう。 9. これらムラムラのマツリを われらが自然本性にしたがって執り行なっていたところ 飛び抜けて学力優秀・品行方正なるアマテラス族が出て来て マツリはぜんぶわれらが面倒を見ると言い出した。拝み倒して頼むものだから とうとう人びとは根負けして《くにゆづり》をした。 10. ぢゃあ おまえさんたちには 社会にも一段と高い《やしろ》をつくってやるからその第二階に住むがよいと譲歩したら そのあとが いけなかった。租庸調だの年貢だのと租税として自分たちにこそ《かみにささげるマツリの品物》を差し出せと来た。神も何もあったものではない。やっこさんたち自身が 神であると言い出した。 11. やがて 全国のマツリというマツリを束ねて管理してやると来た。これを《マツリゴト》と言うのだそうな。これに反抗する者は 《まつろはぬ者》と呼ばれた。 12. 現代にまでこの社会形態としての《二階建て構造》はつづいている。ただし戦争に負けてからは わづかに――と言っても コペルニクス的転回なのであるが――主権は ムラムラのスサノヲ市民たちにあるとうたわれるようになった。 13. マツリは われわれ市民に還ったか? 14. われらが自然本性に対する抑圧やら狂気なる意識の排泄やらは 静まったか? 15. われわれは 一人ひとり そのおのがマツリを取り戻したか? ★ 抑圧や狂気の再生産なら祭りとしては失格だ。 ★ 人や人の群は自らの祭りを見いださねば人道も調和も損ないやすい。他者の祭りを損ねてはならない。