バタイユの眼球譚:エロス&タナトス
お世話になります。この質問を文学のカテにするか迷いましたが、結局この哲学のカテにしました。今ジョルジュ・バタイユの眼球譚を読んでいます。私はこの彼のこの本をポストモダニズム・ゴシック文学(違うかもしれません)である事を証明してみたいんでが、そこでまずエロス&タナトス=生(性)の欲動と死の衝動の観点から眼球譚を読んでいます。まず眼球譚の中からそれらを匂わせる文章を引用します。
she(Marcelle) was hanging inside the wardrobe... i cut the rope, but she was quite dead. we laid her out on the carpet. Simone saw i was getting a hard-on and she started jerking me off. i too stretched out on the carpet. it was impossible to otherwise; Simone was still a virgin, and i fucked her for the first time, next to the corpse. it was very painful for both of us, but we were glad precisely because it was painful... as for the fact that Simone dared to piss on the corpse (Bataille, 1987, p.50-51)
上記の文章はちょっとショッキングな内容なので全ては訳さず部分的に訳していきます。まずマルセールという女の子が自殺します。そして主人公の男(名前はありません)は明らかに死体を見て欲情し、シモーンが彼のマスターベーションを手伝い、そしてふたりは死体のとなりで初めての性行為を行っています。それは精神的な痛みを伴う快楽である事をふたりはここで認めています。
necrophilia(ネクロフィリア)が内側に向いた時、人はマゾスティックな側面をみせ、それが外側に向いた時、人はサディスティックな側面をみせます。シモーンと男ははここでまず(死の衝動による、性の欲動)マゾ的な快楽を最初に味わい、そしてシモーンは最後の文章の部分でサド的な行為に及んでいると思います。ここでバタイユは死を通して両極にエロスを表現してるんですけど、僕はバタイユはこのエロスとタナトスという両極の(binary opposition)間に性行為という表現を使いliminal space(リミナル・スペース)をつくり出したと思っています。さらにここにゴシックとしてのスペースを持っていると考えています。
ここで質問があります。実際、バタイユ自身は死と性(生)についてどう考えていたのでしょうか? またバタイユについて有効な文献がありました教えて下さい。
これは文学として、または哲学としての質問なので削除されないことを... お手柔らかに。
お礼
再びの回答ありがとうございました! なるほど!わからなくはない気がします^^。