※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フロイトのタナトス)
フロイトのタナトスについての解説
このQ&Aのポイント
フロイトの「タナトス」とは死の欲動を指し、超自我の破壊性を説明するものとされています。
現代では「死の欲動」は用いられにくく、「攻撃性」が本質的なものと考えられています。
フロイトの思考は悲観的な世界情勢と関連づけられ、後世の精神分析家によって人間の暗黒面を解明するために活用されています。
( a ) 生まれつきの自然本性には 《死の欲動》などはない
と見るものですが 現在の時点でどういうふうに捉えられているのか できましたら 解説をお願いしたいと思うのですが。
▲(ヰキぺ:デストルドー) ~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC
§ フロイトの説
精神分析の臨床では死の欲動を確認する術は少ないとフロイト自身言っている。
事実この概念を想定するのはマゾヒズムやサディズムの発生機序や、陰性治癒反応、それに外傷神経症という夢の願望充足の例外を捉えるためである。
しかしこの概念は超自我の破壊性を説明するものとして考えられており(エディプスコンプレックスを通して父親からの去勢不安や父親自身への子供の怒りが超自我という分裂した自我に引き継がれて、死の欲動は子供の中心的な自我から分裂して存在するという理論)、それ故にフロイトにおいては重要なものとして後年まで考えられた。
~~~~~~
☆ というふうに
( b ) フロイトの説じたいも あやふやなのでしょうか?
▲(同上) ~~~~
§ 後継者の発展
Federnは最重度のメランコリーに「死の欲動」が観察されるとし、同様の指摘はしばしばなされる。
フロイトの弟子にも受け入れた者はいたが、しかし大勢ではフロイトの「死の欲動」概念は批判が多く、フロイト死後になってから、死の欲動の考えを取り入れた学者達により新たな展開がなされてゆく。
継承発展させた人物はメラニー・クライン、ジャック・ラカンが代表的である。
現代では「死の欲動」という概念は精神分析の臨床では用いられにくく、むしろ「攻撃性(アグレッション)」それ自体が本質的なものとして考えられている。
それは臨床において現れるのは「死の欲動」という概念ではなく、むしろ医師への攻撃的な反応や怒りだからである。
また自傷行為や自罰行為も見られ、このことから「攻撃的なもの」としての死の欲動の概念が深く考えられるようになった。
~~~~~~~~~
☆ 質問者の理解では
( c ) たとえば広義のエロスなる生の欲動は おそらく生物としての生まれつきのチカラとそのハタラキだと考えますが タナトスなる《死の欲動》は もしそれがあったとしても飽くまで後天的なクセとして形成されたものである。すなわち 派生的・第二次的な性癖であると捉えましたが その点 どうなのでしょう?
( d ) ただし 次のような・元に戻るような見方も提出されていました。すなわちやはり 生来の欲動ではないかという。その点 どうなのでしょう?
▲ (同上) ~~~~
§ 現代への影響
フロイトに先立ちフリードリヒ・ニーチェが「神の死」を言明し、当時楽観主義は知識人の間では既に力を失っていた。
フロイトの思考の変遷も悲観的な世界情勢と無縁ではなかったであろう。
彼は第二次世界大戦の戦禍を見ずに亡くなったが、はからずもその後ヒロシマ・ナガサキへの核爆弾の投下、ホロコーストなどが起こって破壊衝動を「予言」したような形になり、水爆開発などで現在では計算上は人類を複数回滅ぼせるほどの大量破壊兵器を所持していることが明らかになっている。
後世多くの精神分析家が「死の欲動」論を援用してこのような人間の暗黒面の解明に切り込んだ。
~~~~~~~~
( e ) この《死の欲動》を 人間なる存在そのものの中に組み込む見方は まわり回って例のユングの《四位一体》説と軌を一にしていると思われるのですが その点 どうなのでしょう?
すなわち 神の三位一体に それと同等の位格を持つ悪なる神を加える見方です。この第四の位格のアクマが けっきょくタナトスなる死の欲動と類型的に同じ内容となっている。のではないか?
よろしくどうぞ。
( f ) ヨーロッパの知性は 気がくるっている。のではないでしょうか? 四位一体説に立つなら 善は悪 悪は善というふうに 何でもかんでも うまく言いくるめることが出来ます。不法行為も犯罪もすべて 悪であるが同時に善であるとなります。善〔なる神〕と悪〔なる神〕とが互いに同等であるならです。
しかも わるいことに 神などは存在しないとする向きがあっても その説は――存在するという説についてと同じように――ついぞ証明しえないことなのですから。
組織宗教としてのキリスト教は 観念の神をいだきこれを何だかんだといじくるのは くるっていませんか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 死を望む情動はない。 死を望む欲動はある。 ~~~~~ ☆ まづ用語の問題になりますが これは ぎゃくではないかと考えます。 ○ ~~~ 死を望む欲動はない。 死を望む情念や衝動がある。 ~~~~ ☆ と言いますのも――単なる表現の問題には終わらないというそのわけは―― エロスという・もともとは性愛を意味する言葉を 広く生きることのチカラとして意味させ これを《生の欲動》と言うわけだからです。 これは 生まれつきの・どこから見ても押しも押されぬチカラだと思われ その意味で《欲動》と言っているからには これと同じ用語として《死の欲動》を言うわけには行かないのです。こちらの立ち場としてはです。 欲動とは チカラと言いましたが 原動力あるいは推進力といった意味であるようです。 ですから 第二次の派生的な意味合いの《情念やら衝動》ないし情動なら まだ使ってもよいであろうというところです。 従いまして 次の場合も 用語を変えたいと考えます。 ★ ~~~~ そのうちわけは生きようとしない事である。 生きる事をやめようとする欲動である。 ~~~~~~ ☆ たとえば ○ ~~~~ 生きようとしない心の片向きである。 生きることを止めたいと思う心の曲がりである。 ~~~~~~ ☆ などです。 次は 必ずしも聞いたことのない考え方ではありませんが それをタナトスの問題として《たたき台》とすることは あたらしいことかも分かりません。 ★ ~~~~ 何か悪い癖があるとしてその癖を改めて改心し、死んだ気になって頑張ると言う言い回しそのままに死を潜り抜ける。 すなわち生きようとしないまま惰性で屍をさらすことを改心する。 想像上の死、観念上の死、現在が生きていると言えない状態から、死んだ気になって頑張ると言うのはこうではないか。 ~~~~~ ☆ ただし どうでしょうね。もっとも単純に捉えるならば この《死んだ気になって頑張る》ということも 考えてみれば《エロスとしての生の欲動》の一環であると見ることが出来るかも分かりません。 ★ どうやら信仰が育んだ人間知性の伝統には、このようないっぺん死んでみる儀式がもてはやされているのではないか。 ☆ この見方を みなさんは どう捉えるであろうか。と問うてみたい思いです。どう発展しましょうか。