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日本史の中世での衆の意味について。
豊臣氏は大坂衆と呼ばれ、徳川氏は関東衆、四国の諸大名は四国衆、中国の毛利氏は中国衆と呼ばれてましたが、九州の諸侯は『九州衆』と呼ばれていたのでしょうか? 又、奥羽の諸大名も『奥羽衆』と呼ばれていたのでしょうか? この2つの場合は現代人の立場で呼ぶとネーミングがよくないように見えますが、当時の日本人では違和感がないのでしょうか? 回答お願いします。
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歴史小説や時代小説をよく読みますが、「○○衆」というよりは、「○○勢」という表現が多いように思いますが、豊臣時代から「衆」が一般的でしたか?。 「衆」が使われているのは、私が覚えているのは、越後の「揚北衆」「坂戸衆」・・・ くらいかな。 「揚北衆」は、先祖が頼朝から阿賀野川あたり~北方に派遣された大族の子孫で、たしか血筋的には2氏。それが本家と分家、分分家に。本家と分家で争ったりの内紛もありましたが、それなりに「まとまりのある」一団で、外に対してはほぼ一致団結。 上杉謙信支配下の越後で半独立した一団(家臣ではなく協力者)を形成していて、しばしば謙信の命令に逆らって悩ませた一団です。 「坂戸衆」は、謙信の養子「景勝」や直江兼続の出身地を中心とした一団です。 そのせいか、「○○衆」とか「皆の衆」とか言うと、「同族」「仲間」というニュアンスを感じ、戦国期のような、相争う時代に「衆」を使っていたかどうかについては、個人的には首をひねっています。 もちろん、「戦国期に○○衆という言い方は無かった」などと書いた本を持っているわけでも、そういう記事を読んだ記憶があるわけでもありませんので、「オマエが知らないだけ」と言われれば返す言葉がありませんが、「○○衆」などと呼ばれるようになったのは、ある程度のまとまりがついた江戸時代からでは、と思うのですが。 なので、個人的には、伊達政宗などは「奥州勢」、細かく書けば「奥羽勢」だと思います。あとは、中国勢、四国勢、九州勢、大和勢、北陸勢ではないでしょうか。 余談ですが、越後の国(新潟県)の勢力は何勢(何衆)なのでしょう?。 先日のネットニュースが発表したアンケート結果によると、福井、石川、富山三県では、「新潟を北陸の仲間だ」と思っている人は「少ない」そうです。上杉景勝は北陸衆に入れてもらえなかったわけです。 新潟県民自身は、というと、「北信越」勢が37.6%。次に多いのが「独立/越後」勢が24.8%だそうです。 謙信時代程度にまとまった後は、「越後衆」でもいいと思いますが、実際は、越後も含めて「北国勢」と言っていたような気がします。小説で読んだ、かすかな記憶ですが。
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- あずき なな(@azuki-7)
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九州は当時西国(西国)←西国の中心は中国地方ではなく九州 奥州は東国(とうごく)←東国は関東以北で奥州が中心 広義の意味で九州は「西国衆」奥州は「東国衆」だと思います
- jkpawapuro
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親族衆、外様衆、他国衆など良い意味でもあまり良くない意味でも平然と使っていますので、おそらく他意も違和感も無いものと思われます。