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完全民営と完全に民営の違い(格助詞「に」)
竹中元金融大臣がその著書のなかで、完全民営と完全に民営、とでは法解釈が異なると説明されているそうです。 ここでは法律論ではなく、国語解釈をお願いしたいのです。格助詞「に」を使うことによって、「完全」ではなく抜け道もあるということをはっきり示せるのでしょうか?
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No.1です。 >国民の言葉と官僚の言葉の文法が違うというのは大問題ではありませんか。いわば国語学者と国民への侮辱とも言えるのではないでしょうか。 ・ちょっと言葉足らずだったかもしれませんが、国民も官僚ももちろん文法は同じです。 ただ、「完全民営化」の「完全」は「100%」という意味ではなく、「完全民営化」で一つの固有の意味を持った「用語」であり、「完全に民営化」とは「完全」と「民営化」が切り離れた、普通の日本語なのです。 例えば、数学の「完全数」というのも「自然数でその数以外の約数(1を含む)の和が、もとの数になるような自然数。例えば 6」という厳密な意味を持っていますよね。これを「完全な数」というと意味が異なります。 それと同じで「完全民営化」も一つの厳密な定義付けがされた行政用語なのです。それを「完全に民営化」と言ってしまうと、普通の日本語になってしまい、結果的に当初の理念から離れたザル政策になってしまい、官僚の権限が維持できる、ということだと思います。ですので、 >国語学者と国民への侮辱 ・というよりも、単純に「似たような言葉を使って、ごまかすな!」ということです。本当はマスコミの専門記者がこのあたりの専門用語をきちんと噛み砕いて記事にしなければなりませんが、実際にはマスコミの記者は批判ばかりで不勉強なのです。
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- kanpyou
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Infoseek マルチ辞典 格助「に」 http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?ii=14&sm=1&sc=1&gr=ml&qt=%A4%CB&sv=KO&lp=0 4)帰着点や動作の及ぶ方向を表す。 「家―たどりつく」「車―乗る」「危篤(きとく)―おちいる」 『高速道路の無料化』と同じ論理ではないでしょうか。
- garamond
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「完全に」の「に」は現在一般に行われている文法では格助詞ではありません。 「完全だ」という形容動詞の連用形の語尾です。 「完全民営化」の「完全」は形容動詞「完全だ」の語幹に由来する造語成分です。 例えば「近道(ちかみち)」の「近」と同類です。
- gootaroh
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「法律」のカテゴリーでも同様のご質問がありましたが、法律上の解釈における「完全民営化」とは、 (1)政府が保有する株式の完全売却 (2)政府出資の廃止 (3)特別な根拠法を撤廃し民間企業と同様に会社法などの適用を受ける の3点すべてを満たした状態です。 「完全『に』民営化」というのは、「完全民営化」とは違う単語ですので、「完全民営化」とはみなされません。 つまり、上記の3点のすべてを満たす必要がない→どれか1つくらい欠けてもよい→抜け道の設定が可能・・・という解釈になるのです。 一方、法律論ではなく、純粋に国語としては全く同じ意味です。なので、格助詞「に」を使うことによって、「完全」ではなく抜け道もあるということをはっきり示せる、ということはありません。これはいわゆる「霞が関文学」です。霞が関においてはよくある話です。 でも、あながち馬鹿にしてはいけません。行政は法律などの文書にある文言にしたがって行われます。誰が読んでも(といっても一般国民という意味ではなく、役人であれば誰が読んでも、という意味)同じ意味に解釈できるよう、一字一句にこだわります。現在だけではなく、将来にわたって引用されることもありますから。 蛇足ですが、以前、「少子化社会対策基本法」の立法過程では、「産み育てるもの」という表現が「産み『、』育てるもの」へと変えられたことがあります。句点が1つ入っただけで、意味が正反対になるからです。 「産み育てるもの」と言えば、母親が産んで育てるという意味になりますが、「産み、育てるもの」と言えば、産む人と育てる人は別だから、母親が育てなくてもいいのだという意味になります。保守派とフェミニストとの論争に発展しました。行政文書や法律は本当に厳密ですね。
お礼
[でも、あながち馬鹿にしてはいけません。行政は法律などの文書にある文言にしたがって行われます。誰が読んでも(といっても一般国民という意味ではなく、役人であれば誰が読んでも、という意味)同じ意味に解釈できるよう、一字一句にこだわります。現在だけではなく、将来にわたって引用されることもありますから。] 国民の言葉と官僚の言葉の文法が違うというのは大問題ではありませんか。いわば国語学者と国民への侮辱とも言えるのではないでしょうか。