• 締切済み

客観的芸術ってなんでしょうか?

グルジェフは芸術には主観的、客観的と芸術を分けていますが、その決め手はなんなのでしょうか?少し考えてみても、単なる幻想にしか思えないので質問します。 例えば音楽などをCDで聞くと聞くたびに違う印象になります。これは主観的です。空を見てもそう思います。では、強烈に悲しい音楽ならどうでしょうか?誰が聞いても泣いている、悲しいと感じるでしょうか?実際悲しい人は同情して悲しくないでしょう。 そう考えると客観的芸術は自然そのものなのかと思いますが、風情を感じる当たり偽者でしょう。雨の日に桜は美しいですか? いついかなるどんなときも同じ印象を与えるものは無いと思うのですが、客観的芸術はどう解釈すればいいのでしょうか?

みんなの回答

  • codotjtp
  • ベストアンサー率26% (40/149)
回答No.14

たとえ最初の作者の技術に拠りませんでしても、 もし他の方々もが同じ作品の生産を繰り返しで再現し得るのでしたら、 比較的に客観性に富んでいるのではないでしょうか。

回答No.13

急ぎ okuweveからもしばらく撤退しますので、 つまってますが、「夢」について回答させていただきかす。  まずわたしは、意味の存在の意義を信じてます。 それは それが超自然だろうとなんだろうと神の存在も 信じてるという事です。  自分にとっての意味の前に、その意味という本質にとって の意味がどうなのかという考えです。 かならずしも、客観的なわかりやすい、多くの人に通じやすい 文がそのために価値があるとは限らない、という時も、 結局は その本質から考えます。 なげやりというのではないですが、うまい文章それ自体に 興味はあまりないです。 つぎに「私」は、その本質的意味を謙虚に求めてる時や、そ の本質的意味を理解出来る時、それに従うことのできる「私」 のみ、意味ある「私」なのだとも思っています。  そうでない時の“私”は、そこに結果としての善があろうとな かろうと 動かされている“私”がいるというふうに考えます。  凡夫なる身 両方の『私』がいるのは、これをなるようにしか ならない部分、ととらえます。  で  睡眠中の「夢」なのですが、 その閉じられた意識空間の中には、友の実在、あるいは他の人間 の実在が存在しない(ほんとはあたりまえのことですが)ので、 それ自体の只中には、意味の本質はないという事になります。 そして、また通常は ままに動かされている『私』しかそこにはい ないわけです。 そこをコントロール出来る人というのは すごい能力だとは思う。 でもそれだからと言って「私」あるいは真の私にとって意味がある かどうかはわからない。  あるいは本質的に意味のある能力かど うかは、わからない。  ただ「夢」を真に生かす方法もあると 思うし、ならその能力があればその時は価値の大きいものだろうし といったふうに考えてる。 要するに、睡眠中の映像なりのふつうは自動的な感覚世界は、その ままなら幻想。 でもそれをもふくめまた幻想さへふくめ、それを 意識の中で、より人間的な意味に向かって生かせるならば、その時 私は「私」であり、「私」としてうまいかへたかはともかく何か意味 ある表現をしているし、 それが現実のこの大地を活きてる とい うふうに考える。  これは たぶんとしか私には言えませんが、グルジェフについて だって『私』の大地に生かせなかったら「単なる幻想」、むしろ「少 し考えて」みただけでは、そのような雲の上のような偉大な存在に ついてはたしかに、そのまま雲の上の存在となってしまい、実際に は単なる幻想になってしまう。 でも グルジェフのような存在に対しては 謙虚でありつづけるの が道だし、その姿勢は、「夢」ではなく幻想ではない 意味ある姿勢と考える。  以上、抽象的で大雑把かもしれませんが、そちらのような人に は書く意味あがあるかもしれないと思いまとめてみました。    こちらも いろいろ書くことで考えがまとまってきました が、 一生懸命書くこと自体に、たぶん謙虚であれば、意味があ ると思う。       グルジェフから見たら どうかは私には解りませんが。            以上です。              また機会が あれば………。

sann9
質問者

お礼

さしあたり、補足は中断していましたが、またいづれ書きたいと思いますので、お書きになりたいことがあればどうぞよろしくお願いします。 謙虚さですが、私が思うのは何に対しての謙虚さか?どうあればいいのか?と考えます。自分の行動を省みて謙虚かどうか、素直さとしてはどうか、人間機械(外的な影響で意図的ではなく機械的に働く・・・・グルジェフ)としてはどうか・・・・・礼儀や道徳などと比較するといまいち自信が持てないでいます。道徳はいわゆる真実ではないものの、人としての道であるということ。またそれは変化するものです。真実は変わりません。それを自然に行なうのか、意図していかなければいけないのか・・・・。経験が無ければわかりませんので、これから考えようと思っている次第です。他に対して何を働きかければいいのか・・・・・・。じっとはしていられないのか・・・・・。やってることがわからなければ何も意図的には出来ません。きつい所だと思います。

回答No.12

okuweveに来て日は浅いですが、それなりに質問も回答も活用させていただいてる中、 でも こんなにたくさん書いたのはここが始めてです。  他の人の質疑応答も まだあまり読んではいませんが、もしかしたらこの同じテーマ内の文の分量はすでにギネスものかもしれません。  テーマがテーマという事もあるのでしょうし、グルジェフという仏様みたいな人を最初の例示に質問が始まったからという事もあるでしょうが、ここには、あなたの文が読み取りにくく、必死で何がいいたいのかを考えてよまないわけにはいかなくなり、それでいて、それなりに解ってきたら、まるで昔の仏旅の 精神的求道者みたいに誠実な人柄が見えて来たた めに、 ともかく それで話がどんどん進んでいったという形になってい ると思います。  こんなのありかな と思いつつも、またまた追伸の筆をとってしまいま した。  (文章について) 文章は書きたい情熱や 突き動かされるマグマがあれば、 それが読みやすいか読みにくいかは別とすれば、 起承転結の面はちゃんとしていう文面に自然となってし まうそうです。 本気で書きたいテーマがあれば、 起承転結の起は、起こり、テーマと逆か、テーマそのもの かどちらかと関連したすばりそのものが、「起」の文とし て無意識的にも生まれたりするらしいです。 その次には その起こりを承ってのその説明文とかがつづ きこうして「承」は 自然にも承、つまりテーマを承った 文となってくわけです。  自動的にもそのテーマは「転」がりじめる文がやがて生 まれます。これが表現上クライマックスの「転(てん)」で す。 そして それが、すとんと落ちて、「結」論で最後にもう 一度 だからこのテーマを書いたんですという意味合いを強調し て文を「結」ぶわけです。  書きたい という強い想いがあれば、そのへん自動的な面がつよいわ けです。  かならずしも起承転結は 順番どおりが一番いいわけで はないと思いますが、 ともかくその全ての要素は文には 他の人がいいたいテーマを読み解くには客観的に必要で、 それが、あなたの文の場合は ちゃんとあり、そしてテー マとそれを語りたいマグマのようなものが伝わるので、 解釈の仕方によっては、というより、その点ではという限 定つきにては レベルが高くさえある文章とも言えるわけ です。  たぶんあなたは 、想いのかぎりストレートに書ける人なのだと思います。  頭でいちいち起承転結を考えながら書く人は、なかなか 大変のようですが、そういう人達よりもはるかに楽に書け ているのではないですか。 特な面だと思います。  でも 急いで書けるからネットではとくに誤字脱字もお おくなりがち(自分も急いでル時はその傾向が大きい方で す。) かつ 私の性格で人の欠点もスレートに書いてしまいます が、いつも言うように貴方の文は読みにくいところも 大 いにあります。(わかりやすく噛み砕いて語ろうとしてく ださってるにも関わらすです。 いや その気持がわかる から、ストレートにこんなこと書いてるんです。)  私の場合は 一応いつでも、中学生でも解るようにと思 いながら書いてますが、どうゆうのがわかりやすい文なの かを学んだり研究したりしたわけではないです。 気持は 同じようにいっしょうけんめい素直に書いてるだ けです。  でも、 最近 文章の客観的表現力を高めるためには、ブ レイン・ダンプというのと、マインドマップというのとの ふたつの訓練が出来ていれば、文才とかに関わらず誰でも 書きさへしていれば、自動的に表現力がついてくる方法を 知りました。  そして、実は似たようなことを私の場合 思索段階で 自己流ながら両方ともやっていたのです。 自分の文がわかりやすいかどうかはともかく、丁寧に書ける のは そうか そのせいなのかと 思えましたので、  それで、そうだ、貴方の場合も、文章自体は書くことが苦 しくなさそうだし、この方法が合ってるし、何かの役に立つ かもしれないと、  やっぱし、また筆をとってしまったと いう事です。 ブレインダンプというのは、 テーマにそう意味合いの単語 (別な言い方をすれば、言いたい事に関連する言葉《単語》) を 徹底的にまず何も考えずに思い当たるかたはしから書き 出すのだそうです。  思い当たるかぎり何百でも^^/。ふつうは30語程度で 一度疲れ果ててしまうそうです。 そこを疲れはてて もう思い浮かばなくなったら、一度書くの を止めて、眠るなりして休んでおいて、さらにもう一度だけ 次には10語程度になるそうですが、さらにひとひねり書ける だけ書くのだそうです。  これをやっておくと、なにも考えずにも書きたいように書 いてゆけば、自然と鳥瞰力が働くようで、他の人にも解りや すい文章になってくようです。  もうひとつがマインドマップというのですが、これはよく はまだ解りません。 大事なテーマを木の幹のような図にし て、それと関連の強い言葉を(つまり上記のブレインダンプ で集めたような単語を)木の枝のような位置に並べて整理す る 精神(マインド)の図(マップ)ということのようなの ですが、ともかくブレインダンプで出て来た言葉とかを、こ れは、ともかくも自分に解りやすいように図でも並べておく ということらしいのです。  そうすると自動的にさらに 鳥瞰力が働き、人と人との間 が無意識的の見えてくるような感じになるのだと思うのです が、 ともかくこの二つで、自然に 他の人にとっても丁寧 な文にはなってゆくようです。  もし 合ってると感じたら、試してみてください。 長文を書く時には役立ちそうですね。  そうそう、「夢」について 書くのを忘れてました。 もちろん、客観的芸術ってなんでしょうか?というテーマ からはずれた回答ではありません。 なんなのでしょうね。ほんとにギネスものになってしまい ますよね。なかなか終われませんが、  また書かせてください^^//////。  そちらが 決めることですので、こちらは、かってに 締めないかぎり楽しませてもらってるだけですが、(そ れで もしそちらの役にたてばそれにこしたことないし) そちらも楽しければ、もうすこしだけ ついでに楽しんで みませんか。  ふつうの人間には夢の中じゃ、こうはいきませんからね。  

回答No.11

2007年、あけましておめでとうございます。 このテーマ(客観的芸術)、年を渡ってしまいましたね。 締めるかどうかは、okweveから2ヶ月と4ヶ月目に忘れて いないか連絡が来るそうですが、基本的に質問者側の意思 にゆだねられる問題として、回答が全く無い場合を除いて は一律に強制的な締め切りは無いようです。 でも、私としては、ほんとは毎回「これっきり、これっき り♪」と思って書いてるのですが、なんというかかなりグ ルジェフの神秘の力に引っ張られてるというのか…。 ◎まず、グルジェフについて、  私の場合、踊りごごろの追及の方から神秘主義の人が体の動きを 通して何か伝えようとしてるようなのだという事で、シュタイナー のオイミュトリーという踊りだか体操だかの動きとか、グルジェフ のやはり同じような動きのものを(名前とかは忘れてしまいました。 )実際そのとおりに動いてみたり、それを何回も繰り返してみたり した事があるだけなのですが、   それでグルジェフという名前 を覚えていたわけです。 たぶん、その動きも客観的芸術と関わる精巧な深みから捻出された 何かなのでしょうが、ただ、その頃の私には その動きは、まった く私自身の感情に働きかけるものを感じる事が出来ず、その客観的 な動き(作品なのか芸術なのかそれ以上のものなのかわかりません が)は私の主観の中にいっさい入りこんでこなかったのです。  それで、“これでは すくなくとも私にとっては意味がない”と いうふうに、そこで神秘主義の追及を諦めてしまっている形となっ ているのです。つまり、神秘主義が真実だというのなら、すくなく ともその頃の私には、まったく「理解できなかった」わけです。 今は、東洋医学の気脈と動きの関係をすこしでしょうが「理解」出来 ます。心や感情との関わりも含めてです。 もう一度動いてみたら 何かがわかるのかもしれません。{奇跡をもとめて}という本が どのような本か知りませんが、ともかくこれを機にもう一度グルジ ェフの本を探してみようと思っています。 オイミュトリー(シュタイナーのそれ)の方は、今でも解らないの ですが、グルジェフのその動きは、なぜか動き自体は忘れてるので すが、なにか引っかかるものはあったという記憶はあります。 わたしは楽器はやったことがないし、音符は読めないので、音程に ついての理論はたぶん、それこそ解らないと思いますが、音符で 現される音楽自体に感情との関わりがあることはもちろん理解で きます。たぶん、確かな崇高な感性を現す客観的芸術は、グルジ ェフによって理論的にも 幻想や方便としてではなく実際に発見 されているのでしょう。 わたしの方からは 「たぶん」という ふうにしか言えませんが…。  あなたは楽器を何か弾いていらっしゃるのですか? ◎ 歌と楽器の違いについて 人の体の中の声を出す仕組みは、楽器の音をだす仕組みと似てる ところが確かにあります。  いつものようにわかりやすい例で書くと、じつは、 実は私自身が、お腹(腸)のポリープの手術をしたことがあるの ですが、 その後一ヶ月は声がまともに出ませんでした。 フイゴの空気を押し出す部分が壊れれば(実際には、腹筋には それほどのダメージは無かったのですから、この場合、フイゴ のあたりの神経が何かの関係で壊れたということです。)喉が どうあろうと歌は歌えなくなります。  歌ごごろがどんなに パワフルでも同じでしょう。 一方、私は、首の骨も最近、喉を圧迫するほどまでに、ずれて しまう出来事と遭遇すています。最初は水も飲めなかったのに それが声にまで影響してるとは思っていませんでした。  でも、声帯をそれで痛めたわけではないのに、喉がせまくな ったというだけで、いざ歌ってみると、いろいろな点がメチャ クチャと言ってもいいほど壊れてました。 さすが、フイゴの 空気の最終通り道であるわけです。(詳しく書けば説明は出来 ますが、私には長い間には克服できる事でもあるので心配はし ないでください。) ともかく このように体と声との関係は 機械的な楽器状態の 部分もある(というよりも、楽器でもある)とは言えてしまう ところがあります。 「音程」については歌の場合、 想いにパワーがあり、それを 声を出すという全体的な体の機能に働かせることができさへす れば 耳が聞き取れる力さへあるならその耳の神経に自動的に 声も連動して「音程」は整ってゆきます。 練習が必要な部分 でもありますし、時により曲によりそのへんはいろいろである と言っても、 それは歌においては、神経(心)で捕まえる部 分が大きい世界とも言えます。 だからピアノとかで絶対音感 とかの訓練をした事のない、音符も読めないすぐれた歌手がけ っこう大勢いたりするわけなのです(美空ひばりとか アン ドレア・ボチェッリとか)( そうそう、喉の問題を克服した 場合の私も そうかも^^)。 楽器は、多分、神様の贈り物(人間が作ったものですが、その 可能性がこの存在の中に存在したから作ることが出来たわけで す)の機械的物質としては 最高のものです。  コンピュウ ーターは将来にはもっと豊かな可能性を持っていると思ってい る人間なのですが、すくなくとも今現在は、まだまだアナログ のこの楽器という宝物ほどすぐれた人間の魂にとっての宝物は 他に無いと思ってます。 でも、このことは歌の世界で言われていることなのか ひとり で追求してきてしまったためよく解らないのですが、歌声の世 界にはまだまだ豊かの表現の世界が広がっています。 強弱、 節回し、の変化の可能性は音符で書き留められうる世界ではな ってゆくのではないでしょうか。 歌が音楽を引っ張ってゆくという時代がやがてくるかもしれま せん。 声はまた 人間の弱さも崇高さも同時に重ねあわせる ことで想いの深みを声とその心との相互作用で高めていくこと が可能です。人類が存続するかぎり声の持っている可能性は、 まだまだこれからだ とも言えます。 でも 今 考えたのですが、その豊かで人間的な声において、 崇高さの部分が無いと、節回しも、強弱も、今のプロのそれ よりも豊かになってゆくとは思えません。  崇高さというは私の場合 例えば生命へのいとしさとか そ の存在への驚きとか 感じる新鮮さの深みのこととして使って います。 つまり 歌のその部分も、数学的にではないですが、音楽が より精巧で、表現力ゆたかなものに発展してゆく役割をになっ ているのでは という新たな気付きのようなものを今 考えた のですが、…  これって、いつか歌のほうからもグルジェフに真意を紐解く 可能性があることを示しているのかもしれませんね。 ◎最後の「絵」について、  絵については わたしはその感性は、踊りや歌と同じ出所の はずではと思っているにもかかわらず、 自信が持てないでい ます。 というのは端的な例があるのですが、 ゴッホの例です。  私は、以前はゴッホの絵を見ても、いくら見ても、どこがす ごいのか解りませんでした。 まあ 大勢の人が認めてるのだ から歌で言えばパワーはその分の強烈さを持ってるのだろう、 私の感性が絵に関して貧しいだけだ とぐらいに思っていまし た。  ところが、全部ではないのですが、そのほとんどの絵 について、いつからだったかはともかく あ と気が付いてみ たらわかるように成ってた時がきたのです。   するとです。 なんと言ったらいいのか、そこに見えるようになった美の世界 は、すくなくとも現在の歌のパワーも さらには細やかさも、 表現のたくみさも、 はるかに超えていました。 このことにはまいりました。  ということは、 他の絵も 私は ほんとうには解ってない「かもしれない」という事を そのことは、私の主観の世界に示していることになるからで す。  わかってみれば すばらしい世界ってまだまだ、たぶん、 まだまだ、まだまだあるのでしょうね。 客観的芸術って、もしかしたら、あるいは私のような人間に は、 解釈するよりも、 さらにさらに、謙虚に求めつづけ るべきことなのかもしれません。 質問の中には そのものの中に、  大きな答えがあると言いますが、 そちらのこの質問は、それそのものなのかもしれませんね。 あなたの 本物の俳優ふうの誠実さそのものが、その姿勢 こそが、この相対的ななるようにしかならない世界での 客観的芸術への姿勢であり、そうやって追いかけつづけて ゆくものなのでしょう。 さらに上の「わたし」(?)を求めて、あるいはもっと確か な「自己」を求めて、  書き方、言葉は違っても、 このことは、 今年も 来年も、わたしもそちらも 追いつ づけてゆくのでしょう。 大きな目標を掲げることだけが、元旦の目標の掲げかたでは ないでしょう。  偶然か、それともグルジェフの巧妙な神秘の技^^?でか ともかく そちらの質問のおかげで、元旦に なんかこころ につきささる神妙な気持になれました。 ずいぶん長い回答となってしまいましたね。 回答者のほう からのお礼なんておかしいかもしれませんが、  気持としては こうなってしまいます。         ありがとうごさいます。  おからだを大切に、元気に、  (見も知らない人なのに文通 みたいになってしまいましたね。)    

回答No.10

確かに 簡単に締めてしまうのがもったいないいろんな観点からの 議論や回答がすでに生まれてもいますよね。  もし、私に時間があれば、名も無く貧しい歌い手として長い風雪 思索してきた老人(まだ今年で60歳ですが)として、 それらの回 答にまで、論議の筆を伸ばしたくなってしまいます。  残業の無い日の無い設備業に勤務している者ですので、残念なが ら、このokweveを最大限に活用する広場とする理想を追いかける時 間を持たぬもの。 そちらへの回答の追加に集中させていただきま すね。  いつしか 私と貴方との議論は そうとうのエネルギーで、だだ「客観的な芸術とは」という定義の 世界を離れて、 すぐれた感性の世界も、数学のような客観的な芸 術たりえるのか、 そいううものは何なのか?という議論になってい ますよね。  (グルジェフが神秘の力で我々に誘いをかけている のでしょうか^^。)  私は 子供の頃、海辺の田舎にいた事もあり、都会にも住んだこ とがあるのですが、その行き来のなかで、始めて見る海への「どん な芸術家にも負けないと思える」ほどの感動をした記憶とかと、い っぽう、車を止める遊び!をしていためちゃくちゃなガキだった記 億との2人の別人のような自己がいて、  むずかしい言葉は、もしかしたら幸いにも、解らないのですが、 生まれながらの哲学者になっていたのかもしれない人間でもあるよ うなのです。 またまた 追加の筆となりましたが、 またまた読み取りにくい(すみません、あんまり書くと自信がなく なってしまうかもしれませんね。 でもほんとに、すくなくとも 私のような肉体労働者でもある哲学者!^^?には読みにくいです 。)けど、内容の意味深げ^な、 いや、ともかくもどうとらえよ うとしても人間として生きてる誠実さを感じさせはする文に触れ、 そのエネルギーに心が打たれるというか、 またまた追加の筆の気 持になってしまったという事です。   哲学って「おたく」なのではという疑いがあり、普段哲学という 言葉も私はあまり使いたくないし、ここのカテゴリーを開いのも、 たまたまだったのですが、 学んでみもしないで、それこそ私のかってな思い込みだったのかも しれません。 あなたのような誠実な思索がそこには展開されてい るのでしょうか?  でも あなたの文なら、まだまだ私の個人的解釈にすぎなくても それなりに中学生にも解る文に、ついてゆける文に、書き直すこと はできます。 時間もかかるし面倒かもしれませんが、あなたが書 いてることは 大勢の人に役に立つ人間的な姿勢に貫かれていると 思います。 (哲学って、でももしかしたらみんなそうなのかもし れません。) たとえば「同時性リアリティー」っていう言葉も私は始めて聞きま すが、哲学おたく?の間では知られている共通用語のようになって いる言葉の1つなのでしょうか?  私には、単語の意味からしか読み取れないわけですが、それでも 「仮定」についてとても大事な観察点が短い文にともかくも表現さ れてると私はそちらの文を読み取る事が出来ます。  「仮定」の想像力をいくら働かせても、瞬時に、「赤いハンカチ をとって。そこの、ほらそこの、赤いハンカチ」とねんまでおされ て瞬時に白いハンカチをとって渡したり、 ましてリンゴをわたし たりする人がアルツハイマーのけのある人以外はいないように、そ の辺はだれでも同時性リアリティーを持っているにもかかわらず、 たとえば、「東北の海は暗い」という文にたいしては瞬時には「だ から憂鬱になる」という人と、「だから 深く落ち着く」という人 に分かれたりして、 感性や感情の世界には 深い{大切なもの?} ほど、同時性リアリティーは薄まってしまうという事もあります。  でもその{大切なもの?}がほんとうに大切なものなのか、また ほんとうに人間にとってかけがえのない切実に大切なものだったら という論議に、 それは解りやすく書いて行けば発展してゆく論議 だと思う者なのです。 ここに書く私の{そのへん}の考えは、実は 芸術にかんする本と かでも触れたことがないので、客観的?ではないのでしょうが、真 実のリアリティーはあなたのような人が読めばすぐ理解されるので はないでしょうか。  私は、小学生の頃、いじめによる恐怖と病気のくるしみとで気が おかしくなってしまってもいる人間です。( 気が狂うこと自体は 苦しくもなんともないというのがリアルな事実です。でもそのあっ ちに意識がいってしまってる状態の時の一部始終はちゃんと記憶の 中にあり、はっと気がついた時の子供の心がどれだけみじめかは、 体験した人でなければ解らないリアリティーでしょう)  さて 人はよく、苦しんだぶんだけやさしくなるといいますが、ほんとに そうでしょうか? わたしは それだけだと むしろ冷たい心の人 になる可能性の方が大きいと思います。  虚弱児施設にて、おおらかで明るい先生がたや、友達仲間に出会え たこととか、始めて新鮮な心で、いくつかのすぐれた音楽に触れた事 とかが、私の心を最初に救ってくれたのですが、  それから さらに年月のたった青年時代に、わたしは、十年ぶりに 海辺の生まれ故郷の地にて、どかっと砂に寝転びながら、流れる雲が 赤くなり一番星が心に染み、背骨が、生きてる   生きてる!と 歌いだす、そういう体験もしたりしてます。 それと同じ ときめきを恋の中に見つけて、驚くことも青年時代にあ ったりしました。  苦しい体験だけでなく うれしい体験や、心の交流や、安らぐ体験 とかの両方があって、それなりに真心が育つわけですが、  さて、わたしが歌の心の世界を追求してきておもいあたった客観 的に{たいせつ}な事というのは、 その『まごころ』を育ててく れるもの、これこそが、人からは個人的なマスターベーション芸術 にすぎないとか言われるものであろうとなかろうと、 ほんものか ほんものに見えるものにすぎないものかの  唯一の客観的基準な のではないかという見解なのですが、 どうでしょうか?  芸術も行動も その基準をもとにして私は考えたいと常に思って います。 同時性リアリティーを人の心の深みにたいして求めるの は難しいですし、 行動の基準となるとさらにほんとうはなにが正 しいのか客観的なことはわかりにくいのでしょうが、精一杯、まご ころに従って行動すべく それを捕まえていけばいいように思いま す。  だから私は、 演劇だけじゃものなりないんです。 歌や踊りの 本ものがある演劇というミューカルのほんものをこそ、商売での基 準をこえて、求め続けてるんです。  できるかどうかは解りませんが、いきてるかぎりその努力をして いこうと思ってます。  宗教からとは別な答えですが、 哲学者からは、この答えがどう 理解されるか知りたいところです。 逆に質問となってしまいましたが、精一杯okweveを活用させていた だきました。 たのしめますようでしたら、また補足お答えください。    

sann9
質問者

補足

再びありがとうございます。氏の引用によれば客観的芸術は感情的でかつ計算的で精巧な真実に満ちている。とのことです。 ・・・客観的基準な のではないかという見解なのですが、どうでしょうか? >主観によるものが大きい場合があるようです。というのも、当人の感じ方次第であるからで、まさに客観的であるにはそれを証明するものが必要だと思うのです。人の心は芸術になるのかは言い切れませんが、その歌に言い切れない何かがあるとすればそれに近いのだろうと思います。真心とは偽りの無い心、それを受け入れられる人はそうは多くないと思いますが、そこに崇高なものがあるのならば芸術といえるでしょうね。そこに数学が見出せるかどうかはきになるところです。 ・・・真 実のリアリティーはあなたのような人が読めばすぐ理解されるので はないでしょうか。 についてですが、そんことはありません。現にこの回答もリアリティの違いでまったく違ったものになっています。(一見した時の時間により関心や反応は違ってきています。)言葉は難しく捉え方も人により違いますし、正しい解釈には及びません。 同時性リアリティーはまったくの知らずに使った言葉(造語?哲学おたくというわけではありません。)です。ライブもしくは過去の真実に対峙していると考えてもらえればいいと思います。過去の真実は現在も真実であるべきですが、必ずしも言葉の上ではそうとは限りません。このような言語でコミュニケーションする場合、感情の動きは中々現れにくい、真実が見えてこないということです。 そうですね。大切なものとは真心にもつながってくるような気がします。魂といってもいいのでしょうか、夢の中では今でも過去のデフォルメ?が生きていたりしますね。経験おありでしょうか?意識がある人は夢をコントロールできるようで、これはとてもショッキングです。自分の都合のいいように夢が成立するわけです。程度はわかりませんが。 過去にあまりいい思い出が作れなかった人や仲のいい友達と夢で再会して共に行動したり、なんて経験があります。こういうものこそ再生可能な芸術よりも個人にとっては大事なのかもしれません。(夢も希望により再生可能かもしれません。)どんな芸術も訓練し表現力を高め様になるようにしますが、足りないと何か違う気もしてくるのです。例えば、バッハの練習をして上手く弾けるようになって、その結果(音そのもの)が大事なのは浅はかなような。今の時代コンピューターが演奏しますが、人は手軽に聞きます。それについては生産の働きかけが無いのです。作ってストップしている。そういう意味の同時性リアリティが大事かなあとは思います。そう意味では絵画も同じですね。生産者のリアリティはその時間です。製作者にとってはそのときの感情がどう自分の深層に響いているか?そういうところだとおもいます。生の延長というのでしょうか、生そのものかもしれません。芸術の形態により働きかけは違いますが、音楽の場合であれば旋律の持つ感情は密接に生活にも出てくると思いますし、生もけっていづけるものになりうると考えます。 そういうところを知りたいと思うわけで、これはグルジェフのいう自己知にもつながると思います。興味があれば{奇跡を求めて}という題名の本が参考になるかもしれません。音程のこととか書いてあり、すこし理屈っぽい本です。 よくよく考えると芸術はつまらない物のような気がしてきます。作った人間でさえも説明できない何か、何がどう働いているのか?どういう結果を生むのか?そういうことも人間はやがては知ることになるんだろうなという気がします。人間は自分で意思決定しているように見えてもどれだけ自発的なのか・・・・これはグルジェフを理解する上では重要なことですが、そういうことが芸術に接する上でも大事になってくるか気づいてくるか・・・・気づきたいですけど、考えると怖いですね。 そう意味では過去の芸術は理論の勉強ということのように思います。マネをすれば、同じ表現性で身体的にもつながるものもあると思います。感情に働きかけていればそれはその人自身の感情であるべきで、相互作用的なものです。そういみで客観芸術は主観的にも多大な影響を与えるということなのかもしれません。端的にいえば理解できるかというところに帰結すると思います。どうでしょうか?言葉は違えど同じことを表現しているのかもしれません。お時間がかまわなければ、またのご意見お待ちしております。 哲学的な回答かどうかは自信がありませんが(哲学には詳しくないです、すみません。)、こんなことを考えました。

  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.9

客観的な芸術。 それ(作品と仮定)を統計的に不特定多数の人間が同じ感情を抱くであろうと効果を期待されたもの。 言い換えれば、 これは「みんな」に受けるだろう! と計算された(かのような)表現結果。 大衆芸術との差異は微妙ですが、 ほぼ同義ではないかと。 いずれにしても、作為的で人為的。しかも その制作には、多くの思惑と策略や、おおくの人間の意見が介入しているものであることは間違いない

回答No.8

(補足)  arayata333です。 Ano・7の補足です。 あなたは、数学が好きなのですね。 私の知ってる人に 天才的な数学の能力の持ち主がいました。 (今は亡き人ですが) その人から私は直接にこんなことを聞いています。「数字の 世界は、私にとって雪や雪の結晶の世界のように美しい。 追いかけてゆくと、同じようにこころが洗われる。」  私自身は ちょうど分数を習う頃に体を壊し、何度も死に かけてますので、数学は基礎から解らないのですが、 それなりに想像してみての事でしょうが、彼の大自然に対す る感性までもしのばせる言葉のように感じます。  感性に関しても、数学自体の中に“客観的なその真実”と 言えるものが見つかるのかどうか、私には解るはずもないと ころですが、  数学志向の人が、芸術家より芸術的感性が 低いとかいう事は言えないし、 むしろそうした感性の鋭い 人はたくさんいると思っています。(今の商業的な芸術の世 界にては、少なくとも芸術家気取りの人よりは、隠れた才能 をもってる人が多いのかもしれません。)  すみません、グルジェフに関して「危険」と書いてしまっ たので、その後あなたのことをよく考えてみて、あなたの場 合いは別なのではないかと思え、訂正の補足文を書かせてい ただいてます。  実はつい最近も、宗教組織の中のひどい間違いに対して、 またその中の人達のメクラ性にたいして、そして何よりも それを解っていて得々と人を騙してる人達に対して、 憤り を憶えることがあったばかりだったので、、 それで、 とばっちりが神秘主義にも向けられてしまったと お考え下さい。  あなたの文は ほんとに あなたという人物を読み取りに くい文ですが、要はやっぱり役者なんだと思います。 文でもピエロを演じてるようなものなのかもしれません。  別に演劇を勧めてるわけではないですが、演技の世界につ いても思わず書いてしまったので、ちょっとついでの触れて おきますね。  演劇って 「表象」という「役の表面的な印象」のような のを捕まえるとブキッチョな人でも楽に演じられるコツのよ うなものとなるのですが、 ふつうは それよりも「仮定」 という概念がそのコツとしても有名です。  “もし”自分自身が その役と同じような状況に生きてい たなら…、 というその“もし”が「仮定」に当たるわけで す。  この「仮定」の力で、役者はその役を舞台上に生き示す事 ができ、紋きり型のものまねを脱した演技が可能となると 言われているのです。  でも やはり、器用な人や、もともと自然に「表象」を捕 まえてる人でないと 実際の演技は難しいです。 その上で もっと生き生きした演技を求める時に「仮定」という概念を 使うというのが、より客観的に正しい考えだと私は思ってい ます。 だから 数学志向の人に直接の演劇の世界を勧める気持にも ならないわけなのです。   でも、この「仮定」の概念自 体は そちらのような物事を深く考える人にはおもしろいか もしれないと思いついでに書いてみたわけです。  人の心の中のことは どうせそう簡単に深いところまで想像 することは不可能という前提がそこにはあります。 『正直にそ の謙虚さを持ち、舞台には自分自身を生き示すのだ、「仮定」 という想像力の力で』というのが、演劇舞台芸術でのひとつの 結論のような形で言われています。 ただ そこなのですが、 ここに謙虚さの一文字を忘れてとら えてる人がいて、それが どこまで本物の演技かの分かれ目と なっていってる気がするのは私だけではないでしょう。  あなたという 本質的には地が役者のような自他を観察する 人も同じです。  あなたの場合、謙虚さがあります。 宗教 組織の中の疑わない自分で考えない信仰を謙虚さと勘違いして るのと違って 本気でいつも先の向かって歩こうとしてる精神 がそれです。  それさへある人は、 神秘主義だろうと宗教だろうとそれに たいしてそのまま謙虚であればいいんです。 よく解らないうちに えらそうな取り越し苦労をして えらい すみませんでした。 神秘主義はたしかに私の理解力の範囲を越えています。 でも だからといってそれが間違ってるとは言えないことはもちろん ですし、 ほんとうは たぶんですが、こう思ってもいるのです。  あまりにも深く確かな感性の世界にたどりついてしまった超 人的な賢者は、その世界を凡人のわれわれにどう伝えたらいい のかかえって解らなくなるのではということがまず思うところ そこで、数学にもくわしいグルジェフのような人は、不正確な 言葉世界よりもそれで現せるものを通じてより確かな世界への 安内としようとしたのだとも考えられます。 そしてそれを 客観芸術と読んだのではないかとも推測ですが思う者でもある のです。  ちなみに、私の知っているその今は亡き数学の天才は、神に ついてこう言ってました。 「神が存在するかどうか解らない? そりゃあたりまえだ。 物理や自然現象は解るけど、どうして存在してるのかとかの 問題は、人間にとってはけして裏を見ることの出来ない壁の 向こう側の問題なんだから」 と言って謙虚に神は信じてまし た。  ともかく、同じ種の謙虚さを持ってる方のグルジェフへの信 頼を 凡人の私が言えた義理ではないわけです。  すみませんでした。   また、  何かの参考になればと思い 一応 いろいろ付け加えてみ ました。  

sann9
質問者

補足

いえ、気にするほどでもないです。同時性リアリティの難しい仮定の空間です。回答なるほど、追記をありがたくおもいます。 私は算数は得意でしたが、数学は苦手でした。 仮定の話がわからない人間であったのかもしれません。ゼロなどはいい例だとおもいます。機械的なシステマティっクさが計算には有りますが、当時は種種の概念に魅力がなくなったもしくはついていけなかったのかもしれないと感じます。最終的にはとりあえずは適応せざるをえませんでしたが、先生にも質問攻めをしたりして大変な思いもありました。 謙虚さですが生きていくうえで自然に身に付く術のような気がします。時にはそれが習慣になっていてそれでいいのだろうか?とも思うのかもしれません。仮定の話です。 より自分を役立てていくには眠っていては駄目です。では何をすればいいのでしょうか? 人の行いには不可思議な何かがありますが、それを知ることでより思い通りに出来るでしょうか? 人の行動はいつも比喩的に監視されているといえなくもありませんが、その中でもしこれがこうならばとあとで考えることは難しいです。そして仮定の話をでっち上げ、自分や他人を気づかないように騙す。ここからの脱却、つまり目覚めです。自らの行動をチェックすることからはじまるだろうとは思いますが、まず自信が無いでしょう。 こんな補足ですが、出た物です。(無責任)批判があればよろしくどうぞ。(とりあえず締めることが出来ません。誰かの目に留まりついかがあるかもしれません。楽しもうというかもったいないというか) 関連をいただいた上で投稿している次第です。それではまた。

回答No.7

わたしは歌を中心に踊りや絵などの心の世界を追及してきた者ですので、哲学はしりませんが、回答してみます。 まず、主観的、客観的に芸術を別けるというのは、普通、これが客観的芸術だという強い信念からその作品なりの客観性を主張したい人が、そうでないものと区別する必要を(その主張のために)感じた時に別けるということになるかとおもいます。 ここでよく疑問となると思われることがあるのですが、「その主張も主観なのでは」という設問からの頭の混乱や疑問です。 あたりまえのことですが、認識し,考える事のすべてがその人が捕らえた世界の範囲なのですから全部主観です。 その主観が、客観性もった見方でもある時、客観的な考えだとも言えるものとなるわけです。 つけくわえれば、これもあたりまえのことですが、客観的な考えとは、より大勢の人が認める感じ方、考え方や、“その可能性のある感じ方、考え方(ここがすこし難しいかもしれませんが)”です。 でも、このあたりまえなことを頭ではっきりとさせないでこの辺を議論してる例をかなり見ます。とうぜん、水掛け論のどうどうめぐり、議論のための議論の様相を呈してしまいます。 ですから通常、歌の先生とかは、主観的な歌とかこれは客観的な歌とかいう形での区別はしません。水掛け論がしたいのではなくて、ともかも生徒の歌が大勢の人にとっても楽しく,豊かな内容のものへと早く成長して欲しいだけですからね。 グルジェフという名前の神秘家の話は聞いたことがありますが、同名の哲学者とか芸術家の名前は知りません。 そちらの書いているグルジェフという人がその有名な神秘家なのかどうかは知りませんが、 彼のような神秘家なら、これがほんとの芸術だというまるで絶対とも思えるような強い主張を持ってるでしょうから、とうぜんそのような区別の仕方で芸術を区分するでしょうね。 ただ、私の考えでは,神秘家たちは、「ほんとうに客観的なのかどうかは、凡人のわれわれには解りかねる」世界の人たち ということになります。 というより、 客観的であったとしても、あまりに深すぎて、われわれがその客観性に到達することはどうせ出来ない世界でもあるに関わらずそれを主張するのですから、むしろ懐疑的になってしまいますし、あるいはそう見られてもしかたないところも言えます。  それに対して芸術の場合、もっと簡単なところから誰でもより多くの人に通じる世界を広げてゆくことが大事なんです。  たとえば、河原を通り過ぎて行く人の河原の美しさを感じる度合いは、まさに人それぞれ、同じ人間でもと時によりけり、…。 それが、天気の良い日などに、その河原の土手にドテッとねころがり、なにも考えずにいられたら、のーーんびり出来たら、  これってだれでもそうだとおもうのですが、やがて川の水の音が聞こえてきて 雲の流れも見え方まで ゆったりと感じられてきたりして、心もなんとも言えずに落ち着いてきたりするでしょう。  客観的芸術というのも、むずかしく考えるのでなくて、むしろできるだけ簡単単純に 素直な心ですこしでも、感性の自己容量を広げてゆけばいい世界と考えて欲しいところです。 〉〉では、強烈に悲しい音楽なら~ ?実際に悲しい人は同情しないでしょう。〈〈 のところは、〉〉風情を感じる当たり偽善でしょう〈〈 の文と重なり、 かなり強烈なあなたの主張が表現されてると感じるところです。  でも、自分でもよく見返してみれば解ると思いますが、客観的には文章もかなりおかしくて、大勢の人に通じにくい非客観的な主義主張となっています。文章はそんな感じです。   ところが、  内容は、理解できる人からみると、するどい観察眼から生まれただからこそ論理的な人間なのにすこしおかしくなってもしまった文章というふうにも捕らえられるのです。 芸術で言えば、演劇的な観察眼としては、あなたは客観的な演劇芸術の素質を持っているとも言えるということです。 言いたいこと解りますでしょうか、 神秘主義はたぶんあなたのような理論的な知性と感性の人には危険です。グルジェフがまったく別な人なら別ですが(ただのとりこし苦労でしょうが)。  もう一度、さらにあなたの文章に突っ込みますが、(恐くなってきましたか^^。) あなたなら次の例もわかるはずです。  私は子供のころ差別で苦しみました。大人からのいじめで虚弱体質にもなったことのある人間です。 差別と聞くと悲しくなります。 でもだからといって、西洋の音楽家たちがあつまってアパルトヘイト反対の音楽をみんなで創作したというあるCD(すみませんそのCDの名前を忘れてしまいました。)を聞いて、大勢の人達の中でいきなり自分が泣き出すとは思っていませんでした。  泣こうとおもわないのに涙が流れ、声までどんどん大きくなって止められなくなってしまったのです。 「悲しい人」といってもいろいろあります。「同情」という定義もいろいろです。そして、その「強烈に悲しい音楽」は、その時私の涙をさそったわけです。  ね、文章としては、あなたの文にはいろいろなケースが考えられたりする言葉の使い方が多くて客観的とは言えないですよね。 でも、実際には あなたの文はいろいろな例を考える姿勢はこれだけの文のなかにもたくさん詰まっていて、その意味では、解る人から見れば、芸術としては、かなりな客観的な芸術となってもいるわけです。 ほんとですよ、自信を持ってください。 グルジェフのことは結局わかりませんが、 通常はそんなふうに、すこしでも自分を豊かにする道筋のようなものとして、単純に、素直に考えるのが、ただしい解釈の仕方ではないかな~~~~という主観なのですが^、  どうですか多少は客観的に すっきりしましたでしょか^^///。

sann9
質問者

補足

客観的な考えとは、より大勢の人が認める感じ方、考え方や、“その可能性のある感じ方、考え方(ここがすこし難しいかもしれませんが)”です これの場合、安物の音楽でもうれれば芸術となってしまいます。時代を憂う事になってしまいます。 もう少しグルジェフ(多分今は亡きその神秘家です。)について付け加えますと、数学的な美しさを挙げているようです。これはなるほどです。音程は振動数が整数比になると調和するという真理があるらしいです。そう考えるとかなりのものが客観的に完成されてきていると思います。芸術はいろんな人間にちかづいていると思います。ただ主観は何故こうも不安定なのか・・・・・という疑問が芽生えてきます。客観的芸術作品は決まって素晴らしいですが、実の人間はそうともいえません。人により主観が違います。人は自分の都合のいいように解釈します。自分(私)という立場を守るために真実を捻じ曲げます。いえ、自ら捻じ曲がっていくのかもしれません。そしてそれに気づいていないことが多いです。勝手にルールを作り、それで弄んで、自分は正しいと納得しようとします。理を重んじて実を逃すことは誰しもが経験していると思います。(悲) 神秘主義はたぶんあなたのような理論的な知性と感性の人には危険です。 これはどうしてそういえるのか理由が知りたかったです。グルジェフという人間の立場を考えると、私のような疑問は言葉の定義の問題で一蹴されそうです。もし生きていればといかけてみたいです。グルジェフの言う私は常に私とは限らないという考えから、一人の肉体としての器に多種の自己が存在し異なる感覚を持っていると考えれば、感じ方が違うということで説明が付きますが、それは他人では中々知りえない場合もあり、コントロールも難しいでしょう。そのような自己に対する肉体の自分としての態度は、どこまで自分として語りうるのか?そう考えると責任という所在もまったくの出鱈目になってしまうし、歩みたいと望む道も少しは見えてくるような気もしますが、中々わかりません。この先、私は表現の上でのあらゆる基本真理をないがしろにして生きていくのだと思うと、損なっていると思うし、生まれた甲斐が無いようにも思えます。 独りこぼしてしまいましたが、とても丁寧に回答いただき感謝しています。これが単純な気持ちです。私の文章が客観的であればいいのですが、そうではないでしょうから読みにくいかもしれません。どうもありがとうございました。(悲)

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.6

グルジェフとは、ロシアの思想家・ゲオルギィ・イワノヴィッチ・グルジェフのことでしょうか? 彼についてはそんなに詳しくはないので、彼が芸術を主観的と客観的に分けたかはしりませんが。 以下は彼の思想に当てはめて、私なりに解釈をしてみます。(人物違いであれば、すみません。) グルジェフは、人間は機会であるとして、自分自身が動いているつもりでも、実は外部の影響により動かされていると考えます。 つまり、「雨の日の桜」を見て、美しいと感じるも悲しいと感じるも、「そう感じた私」を錯覚しているのであり、この感情は人間が「起こす」のではなくて、「起こる」のであるとします。 この論理をくだんの主観的・客観的に置き換えると、「美しい」という感動を起こした「私」は主観的であるが、「美しい」という感動が起こった「私」は客観的であるとなるのではないでしょうか。 つまり、「美しい」という感動は人間内部から「起こった」ものではなく、外部から「起こされたもの」と考えるわけです。 では、この「起こした」外部はいったいなんなのか。 グルジェフはこれを「月」に例えていますが、正直私にはよくわからないですね。 それでも、無理に解釈すると、その人の人生経験とか、「雨の日の桜」がある場所とか、その日に起こった出来事とか、外部的要因ということでしょうか。 彼の根本思想は「人間は自分に目覚めなくてはならない」です。 これを、芸術に当てはめれば、主観的に「感動」しなくてはならないとなるかと思います。 まぁ、彼は面白い人間ですが、素人の私には言ってることはちんぷんかんぷんです。もっとも、カントとかニーチェとか他の哲学家も同じですけど(笑)

sann9
質問者

補足

人間は内部を外部に見るのでしょうか?芸術そのものは外部とし、感動は内部で、それは外部によるものとする。ともすれば内部芸術はどういうものでしょうかね?外部に対し盲目ということなのでしょうか? 外的影響が俗である場合、反俗である場合、各々の作品はその状況によってもっとも判断されうるはずであり、過去の作品は過去のものです。難しいのは主観の内的な部分であり、外的な影響によって形作られた主観はその判断を嫌がおうにも迫られる。それは無関心かもしれないし、歓喜かもしれませんが、最終的なものはそれとして、主観的にも客観的にも変わりがないです。芸術そのものを客観的にするのはまさに客であり、芸術は最終的なものですから変化しません。此処にに客観的真理を見出せるかどうか?数学的に考えるしかないのでしょうか?

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

No.4から追伸の参考まで [そもそもこの客観というものは何者何者なのか?それは外部からの圧力なのでしょうか?] 外部からの圧力ではないですね。内部に本来あるもの(視点や感覚)なんです。これは自我ではなく真我と呼ばれるものですね。誰しもこの真我(仏教では仏性ともいいます)が宿っているので人種や環境に関係なく共通の客観性を持っているのですね。逆にこれを共通の主観性と表現してもいいですね。つまり自我による主観性ではないといいたいだけです。老荘思想では「人間は皆努力しなくとも本来すばらしいものをもっているのだ」ということですね。その本来のすばらしいものを解き放つのが芸術なんでしょうね。本来のすばらしいものからみたとき世界はどう見えるのか、春の桜はどう見えるのか、人々はどう見えるのかですよね。間違ってもモンクの絵のようにはならないはずです。ダビンチの絵のようになるか、あるいは多次元的なピカソの絵のようになるはずですね。これは余計な参考でしたね。

sann9
質問者

補足

間違ってもモンクの絵のようにはならないはずです。ダビンチの絵のようになるか、あるいは多次元的なピカソの絵のようになるはずですね。これは余計な参考でしたね。 これはあなたの偏見ではないと言い切れるでしょうか?真に完全な芸術にはあった事はありませんゆえ、こうかんがえるのです。芸術作品は作品自体は完結しており、そこにすべてがあるはずも無く、目指すところはまさに真理へのアプローチそのものであり、その現れである。こう定義します。そこから感じる感情は真我によるものであれば、その真性はこれは真だと感じるでしょう。果たしてこれが誰にわかってもらえるのでしょう?当たり前すぎて無視されます。