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色心不二観とは?
- 主観の心相と客観の色相とは本質的に一体であり、色心不二であるという考え方です。
- 「色心不二」とは、「色即是空」と同じ意味を表す言葉です。
- 「色心不二」とは、心と色が一体であることを表す言葉です。
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「色心不二」は 現象とは、物質的なものと精神的なものとによって構成されている、という概念です。 この場合、物質的要素と精神的要素による構成、という単純な概念の確定には危険性があります。 客観的な見方においては二極的な要素を認めつつも、この言葉のもつ真意は 「一元的な実在」の顕れにおいて、二極的な要素が存在する、というものです。 物質的要素と精神的要素とは、「一元的な実在」の顕れであり不可分なものである、というものです。 「一元的な実在」の顕れ・・・という前提において「色心不二」である というように解釈された方がよいと思います。 「色即是空」は 現象全体と一元的な実在の同一性を説いた体験的表現です。 色心不二においては、前提であった「一元的な実在」が、ここでは前提ではなく直接説かれています。 ゆえに、色心不二とは内容が違っています。 色心不二においては、物質的要素と精神的要素を分かつことはできない、というものですが 色即是空においては、現象全体と一元的な実在を分かつことはできない、というものです。 「空」とは「一元的な実在」 心経の「不二」とは「異ならず」で、「即」とは「完全に同時に等しい」 「不二」の深まりの至ったものが、「即」です。 深般若において「即」である体験的証明がなされた、ということが心経の要諦だと思われます。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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ねむりねこにゃあさん いつも詳しくていねいにしかも今回は特にご自分のお考えをきちんと述べてお答えくださりまことにありがとうございます。 わたくしは ブディズムを勉強していましたがちょうど三身常住にぶつかってこれを考え続けていたころ それまでほとんど考えては来なかった聖書だったのが 本屋で『三位一体論』という本を見て衝動買いをしたところから きちんと読んで考えようとし始めました。 しばらくして ブディズムから離れました。 ですから 仏典についてきわめて中途半端な知識しかありません。それまでは親鸞でしたが そしていまもわるくないと思っていますが そのときまでに一つだけ困ったことがありました。それは 肩が凝ることでした。どうしても肩が凝って仕方がありませんでした。ハカラヒなき修行をハカラヒによっておこなっていたからでしょう。 さて ★ 『御批判はあたらない』、です。 ★ ~~~ 《ブッダの教え》は、 《神》は存在しても構わないけれど(キリスト教のような超越的な《神》の存在だけは否定します)、 それは《解脱》に関係しない、 という意味で《無神論》です。 ★ ~~~~ 《実在のブッダ》は《苦の克服》《輪廻からの解放》に役立たない《形而上学》的な質問には答えていません。 (《捨置記》《置答》といいます) わたしは、この立場はきわめて合理的だと思います。 ~~~~~~ ☆ おそらく おっしゃるとおりなのだろうと思います。そしてただしそれには ひとつだけ条件があります。 ○ 《法身》を言わないことです。あるいは 法身仏を立てていても それが《常住》だとは見ないし言わない。ただの修辞学の問題だとことわっておくことです。 ただし――ふたたび・みたびのただしですが―― それでも 《非経験の場》を想定してそれに当てる《神 ないし 無い神》の理論は 成り立つと思っています。 類型的には――アートマンないしブラフマンのようなみづからのチカラで存在する者を否定して 法身を立てるにせよ 法身をまったく立てないにせよ―― 神の信仰〔およびそこからの観想をとおしての理論形成つまり哲学思想〕に当てはまるとは思っています。 この信仰類型論をまぬかれる人間の存在形態はないと思っています。 《非思考の庭が成る》こととしての信仰は 《形而上学》でも何でもないからです。 《さとり・ブッダ・彼岸・涅槃・・・》は 形而上学をも許容する形而下の世界における経験だと確かに見ます。 それでも その基礎には信仰があると見ます。 《信仰》は 対象が《非経験の場》であり(つまり 非対象であり) それを心に受け容れるという行為は 経験世界のことです。《無根拠》を受け容れるコトです。きわめて愚かな行為です。 ハカラヒ無きとか 絶対他力とか言いますが もしその概念に沿って思惟し行動するならば ハカラヒがあるといったマチガイに落ち入ります。 このように想定された世界(非世界)についての愚か極まりない受け容れとしての人間の姿勢・態度・あり方が もっとも合理的な人間論であり存在論だと思っております。 無根拠として 経験的な自由の根拠となっていると思われます。ほかに自由を基礎づけるものは ただの合理思考までです。 ▲ 真理がきみたちを自由にする。 まづは わたしたちの第一ラウンドの終了となりましょうか。
- NemurinekoNya
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『わがいかだ(ブッダの教え)はすでに組まれて、 よくつくられていたが、 激流を克服して、 すでにわたりおわり、 彼岸に到達している。 もはやいかだの必要はない。』 《スッタニパータ》 これはさきの ○つまり ブッダ あやまてり。ブラフマニズムとのマの取り方をちがえたのではないか? の質問に対して、 ブッダのこの《いかだのたとえ》と《自灯明》《法灯明》を用いれば、 《実在したブッダ》の教えを宇宙の真実在である《ブラフマニズム》に格上げすることなく、 《人間ブッダ》のといた《教え》の範囲で解決が可能と言ったまでです。 その意味で『ブッダの教えは矛盾しない』ということです。 これでは質問の回答になっていませんね。 《彼岸》に至るまえでさえ、自分の頭でよく考えておかしいと思ったら、 わたしは、平気でその《考え》を捨てます。 《実在したブッダの教え》は誤りの無い教えだとは考えていません。 つまり姿勢のその根拠をブッダの説いた《いかだのたとえ》と《自灯明》《法灯明》に見出すことができ、 《自灯明》《自分の頭》で考えることができます。 《非経験・非思考の法身》に頼らなくてもよい。 それで《地獄》に落ちるのならば、 誰が悪いのでもなく、《マ》のとり方を間違ったわたしの責任です。 《仏教》は《自力》の宗教です。 そして、自分の作り出した《業》を超えるものは存在しない。 《ブッダの教説》ですらその例外ではないと考えます。 よって、 『御批判はあたらない』、です。 誤解を与えたようです。言葉が足りませんでした。 ☆☆☆ ですが、 bragolonneさんの議論の本質は変わらないようなので、 ○8.この三身常住のブッダは 《無我つまり アートマンでない》という形容において アートマンないしブラフマンにひとしい存在になっている。のではないか? ひとり満ち足りている存在だと思われる。 それでは、《無我を無我たらしめる》本質・《我》が存在してしまうことになる。《諸法無我》に反する。 つまり、この議論は成り立たない!! と、たぶん、《中観派》の人は反論すると思います。 つまり、9.以降の議論は成立しない。 そして、 11.の 《もともと宇宙の初めから終わりまでブッダは《わたしは ブッダである》と言っている存在だと考えられる。》 が成り立たないのだから、 どうして、《ブッダの教え》が常住しうるだろうか。 なんとでも、言えるんです、 そもそも《無我》や《空》は、論理的に矛盾をはらんだ概念ですから。 ☆☆☆ さきの《スッタニパータ》の文中にあるとおり、仏教のめざすところは《彼岸》《苦の克服》です。 しかも、 《実在のブッダ》が本当に生きているあいだに《彼岸》に到達できたのならば、 その《彼岸》は《実在したブッダ》がそうであったように、この世で到達可能だと思います。 したがって、《彼岸》は《非経験・非思考の場》ではありません。 その《彼岸》を《非経験・非思考の場》に設定したならば、 《実在したブッダ》の存在を否定することになります。 《仏教》を否定したことになります。 《実在のブッダ》は《超越者》を立てませんでした 《ブッダ(の教え)》を信じれば、《輪廻》から解脱できるなど、 最初期の経典とされる 《スッタニパータ》や《ダンマパダ》に書いてありません。 《超越者》の存在は不要です。 《苦》を克服する手段は、みずからの《(修)行》であり《実践》だからです。 《ブッダの教え》は、 《神》は存在しても構わないけれど(キリスト教のような超越的な《神》の存在だけは否定します)、 それは《解脱》に関係しない、 という意味で《無神論》です。 それは《実在したブッダ(の教え)》にもあてはまることです。 《実在したブッダ》はあくまで《人間》です。 それで十分だと思います。 それが僕の立場です。 さらに、 《実在のブッダ》は《輪廻》からの解放後の世界がどのようなものであるか、 を説いていません。(少なくとも最初期の《スッタニパータ》や《ダンマパダ》には書いてありません) 《輪廻》からの解放を《涅槃》と言葉で表現しただけで、 その後、どうなるのかは説いていません。 《灰身滅智》ですべてきれいさっぱりなくなろうが、それはどうでもいいことです。 そして、そうした《形而上学》的な議論は、もっとも、《実在のブッダ》の嫌うところです。 (でも、わたしは好きです) 《実在のブッダ》は《苦の克服》《輪廻からの解放》に役立たない《形而上学》的な質問には答えていません。 (《捨置記》《置答》といいます) わたしは、この立場はきわめて合理的だと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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質問者さんに成り代わりまして みなさんの研鑽のためにも わたしの疑問をぶつけさせていただきます。 今回は ひとつに絞ることができます。 ○ ブッダとはいかなる存在なりや? ご説明の要約を交えつつ すでにこちらの推理による理解とそして疑問を述べてまいります。 1. ブッダのおしえは さとりに到る道としては 常住である。と言わねばならない。 2. ところが さとりに到ったあとでは――向こう岸に渡ったのだから 乗って来た筏は もう要らなくなるという場合と同じように―― 捨ててしまってもよい。つまり 常住ではない。 3. ところがさらに そのさとりに到ったブッダは 自灯明としての《わたし》であり しかも無我というごとくまた涅槃というごとく この《わたし》すら 空である。 4. さらになおこの涅槃となり空であるブッダは それが法身であるかのごとくすでにあたかも常住であり なおかつ応身として仮りのすがたを現わすこともある。 5. このとき 法身は 法身であることおよび応身に成り得ることを 自己同一性としてのごとく享受する。これは 報身である。 6. ブッダは 三身常住というわけである。 7. しかもこの場合 法・報・応の三身というのは さとりに入ったブッダのことを言うからには――無常ではないとしても―― 無我である。アートマンではない。つまり 涅槃として消滅したのだ。 8. のだけれども この三身常住のブッダは 《無我つまり アートマンでない》という形容において アートマンないしブラフマンにひとしい存在になっている。のではないか? ひとり満ち足りている存在だと思われる。 9. つまり《ニルワーナに到った状態において 無い神》であり この《無い神》として じつは 人間にとって実質的に《神》である。のではないか? 《非経験の場》としては まったく同じである。 10. もしこういう論理的にして類型的な理解が ブッダなる道にとってはなじまないと言うとすれば そのときにはおそらくブッダというものは――ブッダが言いたかったことを推測するに―― すでに初めからブッダであるのだということだと考えられる。 11. すなわち 即身成仏といったさとりの瞬間をすら超えていて(必要とせず) 時間過程の一般からすら自由でありを もともと宇宙の初めから終わりまでブッダは《わたしは ブッダである》と言っている存在だと考えられる。 12. これは とどのつまり 無神論だと考えられる。 13. 無神論も 無い神を非経験の場として想定し これを人間がその心に受け容れるというかたち つまりそこに《非思考の庭》が成るというかたちにおいて 持たれる。ゆえにつまり 信仰である。 14. しかもブッダの無神論は この信仰の部分を出来るだけ問わないというかたちにして 哲学の行き方を基本としている。 15. 《われはブッダなり。永遠にブッダなり》と言えない人は 幾世にわたってかを知らず 輪廻の海をただよっている存在である。
- NemurinekoNya
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◆ 輪廻についてです。 ★(回答No.13) 輪廻の主体(阿頼耶識みたいなもん。でもアートマンじゃない) ★(同上) 〔DNAは物質性の話なので、〕 阿頼耶識による輪廻 〔と矛盾しません。〕 ★(同上) 〔双子は、たまたま、もう一人、〕 霊みたいな存在 〔が、その時、いっしょにお母さんの胎内に飛び込んだ。〕 ☆ 考えられることは こうなりましょうか。 唯識では、まぁ、そうなるんでしょうね。 唯識思想の阿頼耶識は、「輪廻の主体とは何か?」という追求から生まれた一つの《仮説》ですから。 しかし、これは唯識・瑜伽行派の独自の考え方で、全仏教共通の考え方ではないです。 いわゆる小乗仏教においては、 輪廻の主体は、 《非即非離蘊の我(アートマン)》 《窮(ぐう)生死蘊》 《有分識》 《一味蘊》 などなど、諸説あるらしいんで。 ☆☆☆ まず、答えやすい方から。 (い) 輪廻を永遠に繰り返すならば 無常なるものが 常住の状態にひとしいことになるのではないか? いちおう、仏教では、《輪廻のくびきから離脱できる》が建前になっているんで、 《常住の状態》にはならない となります。 なのですが、この質問は唯識の《五姓(しょう)格別》説を踏まえての質問ですよね。 絶対に、成仏できない人間がいる《無性(しょう)有情》!! これが真実ならば、 《常住に等しい存在になる》 唯識は、 《一切衆生 悉有仏性(しつうぶっしょう)》 [涅槃経] 《三乗一乗・会三帰一》 [法華経] の立場をとりませんから… でも、《無性有情》は、永遠に、死にかわり、生まれ変わるので、有為転変するので、 《諸行無常》《諸法無我》の原則には反しないということです。 たえず有為転変する輪廻の主体は、それが何であれ、 《常住不変の我・アートマン》じゃない!! (う) 《輪廻主体》は 《わたし》か? 《霊のごときアーラヤ識のごとき》わたしか? 同じひとりの人間存在か? つまり 《わたし》にその自覚があるのか? 唯識では、《私の自覚》を二つ立てるんですよ。 一つは、あれこれと概念的な考えをめぐらす《意識》 もう一つ、 《阿頼耶識》を《常住不変の我・アートマン》と勘違いする 根源的・潜在自我意識《末那(まな)識》 意識は表層的なものなので、 滅尽定(物質の生滅もなく、五感・意識すら働かないヨーガみたいなもの)では、 ここでは、もはや、《意識の生滅》はない。な~んもない。 じゃぁ、《滅尽定》から離れた時、《意識》があるのはなぜなのか? いちおう、仏教(とくに経量部)では、《意識は刹那刹那に生滅する》が建前なので、 《滅尽定》後に、意識があったらまずいってことになる。 (相続する前の《意識》が存在しない。その前の意識は、とうの昔に消え去っている!!) で、ヨーガ体験を踏まえて(唯識学派の思想はヨーガを抜きに語れません!!)、 この矛盾点を解決するために誕生したのが《阿頼耶識》。そして、《末那識》。 最初は《阿頼耶識》だけだったらしいんですけれど、のちに《末那識》が付け足されたらしいです。 《滅尽定》の時も、心の潜在部分で《末那識》、《阿頼耶識》が絶えず働いている。 これで解決できそうだ。 《輪廻》の説明もつきそうだ。 まぁ、そういうわけです。 概念的思考を司る《意識》、心の潜在部分で絶えずうごめく《末那識》が、《わたし》らしきもの。 輪廻の主体らしいものは、死にかわり生まれかわる原因(種子)を蓄えている《阿頼耶識》 ってことです。 (え) 特定のひとりの人間である《わたし》は 輪廻をして前世から今世に生まれて来ているとは分からない。分からないけれども 輪廻というコトは――まだこの限りでは 無我説に立っており無常を絶対的にくつがえすものではない そういうかたちで―― 起こっていると見なされるのか? ですね。 仏教では、《輪廻》をアプリオリの原則として認めていますから。 でも、《さとり》をえると、前世や過去のすべてが分かるらしいですよ。 つまり、《仏になれば》、輪廻の様子がわかる。 で、ブッダが「《輪廻》がある」と言う以上、《輪廻》はある。 ブディストは無条件に《輪廻》を信じなといけない!! 仏教は非常に哲学的ですけれど、哲学ではない。宗教ですから。 僕は懐疑派ですけれど… (あ) 人間という存在にかんして 無我として無常なる何ものかが つまり霊みたいなアーラヤ識みたいなものなのであるが これが 自己運動のごとく輪廻するとは どういうことか? 無我だから、無常だから、無住だから、空だから、汚れているから!! 敬虔なブディスト(すくなくとも唯識思想の信者)なら、これで理解できる。 少なくともその気分になれる!! でも、 すでに、論理や言葉を超えた世界の話なので、わたしには分からない。 そして、そう感じられない!! ちなみに、《阿頼耶識》の運動は純粋な《自己運動》じゃないですよ。 自分の《阿頼耶識》に蓄えられた《種子》《自己原因》だけが《運動》の原因じゃないんで。 《阿頼耶識》は一人一人、別なもの。ここに個々人の努力の根拠がある。 そして、他人の《阿頼耶識》も自分の《阿頼耶識》の原因・条件になる。 自分の《阿頼耶識》と、あらゆる生き物の《阿頼耶識》は、相互に干渉しあいますから。 ☆☆☆ ○ブッダの教えは無常なのか常住か? 痛いところをついてくるなぁ~。 信仰の観点からは、《常住》と考えないと駄目でしょうね。 じゃないと、自己否定になってしまう。 仏教は、《哲学》じゃなくて、《宗教》、《悟りにいたる道》ですから。 大乗経典も、《般若経》でやめとけば、この矛盾を解消できたかもしれないのに、 そのあと、ぞろぞろと、いろんな経典を作るんだもんな~。 そうじゃなきゃ、 般若心経の言葉を借りて 「仏教即空・空即仏教」!! ブッダの教えも空。そして、空なるによって仏教!!! みたいにできたのに… 《法身・ダルマ=カーヤ》。 《ダルマ》には《真理》の他に《(ブッダの)教え》の意味もある。 で、華厳経みたいな経典が出てしまった。 さらに、《神さま》のような阿弥陀さまの登場するお経まで出てしまった。 で、私見では、 何とか論理的整合性を持たせようとしたのが、大乗の《仏身論》。 しょせん、大乗の《仏の三身観》は後追いの議論ですから、 無矛盾な論理体系を作るってのは、土台、無理な話なんですよ。 《神さま》チックな《報身仏》をある一定以上のレベルの菩薩と仏さまじゃないと見えないたっ て《報身の他受用身・自受用身》、それは無茶な話なんですよ。 それじゃぁ~もう、どっちが《法身》か《報身》か分からなくなってしまう… 阿弥陀仏こそ《法身》仏だ!! 南無久遠の釈迦牟尼仏こそ《法身》仏だ!! そんな話が出ますよ。 《法身仏》であるビルシャナ仏(大日如来)まで、(人間の?)言葉でしゃべり出すし。 どうとでも解釈できるんですもん、《報身(の自受用身)》。 《法身》《報身》は常住するって言われても仕方ないんですよ~。 「こっちの世界じゃない、あっちの世界の話だ」といくら頑張っても、 「じゃぁ、あっちの世界は実在するのか」って話になりますもん。 正直、ぼくも、そう思いますもん。 「《法界》は《虚空》のようなもの」と言っても、 その喩えの《虚空》の存在を、すでに否定しちゃってるんだもん。 が、僕の回答です。 (け) つまり ブッダ あやまてり。ブラフマニズムとのマの取り方をちがえたのではないか? ブッダ自身の説いた《いかだの喩え》と《自灯明・法灯明》を使えば、 これはクリアーできます。 川(苦、苦の世界)を渡るときに使った《いかだ》《ブッダの教え》を、 川をわたったあとにも、後生大事に持っている必要はないですよ。 その《いかだ》捨てちゃっていいんです。 実在したブッダ、そう言ってますもん。 (そして、《方便だった》と《にこやかな笑顔》!! これは大切だと思うな) 川を渡れればいいんですもん。 頼りにできるのは、《(実在の)ブッダの教え》だけじゃなく、《自分》でもある。 これが、《法灯明》《自灯明》。 ブッダの教えに矛盾しない!!
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こちらのスレで 尻切れトンボのままにしておくべきではないとも考えなおしました。 もしよろしかったら ねむりねこにゃあさんにご解説をお願いしたいと思います。 二点にしぼりました。 ◆ 輪廻についてです。 ★(回答No.13) 輪廻の主体(阿頼耶識みたいなもん。でもアートマンじゃない) ★(同上) 〔DNAは物質性の話なので、〕 阿頼耶識による輪廻 〔と矛盾しません。〕 ★(同上) 〔双子は、たまたま、もう一人、〕 霊みたいな存在 〔が、その時、いっしょにお母さんの胎内に飛び込んだ。〕 ☆ 考えられることは こうなりましょうか。 (あ) 人間という存在にかんして 無我として無常なる何ものかが つまり霊みたいなアーラヤ識みたいなものなのであるが これが 自己運動のごとく輪廻するとは どういうことか? (い) 輪廻を永遠に繰り返すならば 無常なるものが 常住の状態にひとしいことになるのではないか? (う) 《輪廻主体》は 《わたし》か? 《霊のごときアーラヤ識のごとき》わたしか? 同じひとりの人間存在か? つまり 《わたし》にその自覚があるのか? (え) 特定のひとりの人間である《わたし》は 輪廻をして前世から今世に生まれて来ているとは分からない。分からないけれども 輪廻というコトは――まだこの限りでは 無我説に立っており無常を絶対的にくつがえすものではない そういうかたちで―― 起こっていると見なされるのか? ◆ ブッダのおしえは 無常なのか常住なのか? ★(回答No.11) ~~~ bragelonneさんのように「既成の教学なんて…」と達観していない、僕は、 あ~、駄目だ、 恐くて、もうこれ以上は書けない。 ~~~~~~~~~~~ (お) ブッダのおしえは 無常なのか常住なのか? (か) 常住なのではない。だから あくまでテクストにのっとる読みとそれからあとの解釈とのふたつの作業を明確にしておくためだけの段階区分を言ったまでだ。でしょうか? (き) いや そうではない。そうではなく 法身仏という《真理(つまり おそらく非経験の場)》を大前提とし そこからみちびかれる理論であるかぎりでは 常住である。だから 歴史に沿って歴史を追って 人間は少しづつ一歩一歩テクストを読んで行くしかないのだ。でしょうか? (く) そしてもし(き)のごとく《真理(要するに 無い神としてでも 神)》を想定するのならば それは ブラフマニズムにおける自性・常住のアートマンの想定と類型的にはまったく同じである。のではないか? (け) つまり ブッダ あやまてり。ブラフマニズムとのマの取り方をちがえたのではないか?
- NemurinekoNya
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実在の釈尊が説いたとされる『雑支部経典』に 「比丘よ、この心は光り輝くものである。 しかし、それは偶発的な煩悩によって汚されている。 …… 比丘よ、この心は光り輝くものである。 そしてそれは偶発的な煩悩から離脱している。 貴い仏子はこのことを聞き、真実を理解する。 それゆえに教えを聞く仏弟子には心の修習があるとわたしは言うのである。」 とあるのですが、 これが《自性清浄心》です。 「こころは、本来、偶発的な煩悩から離脱している」 「本来、こころには偶発的な煩悩がない」 ということを、《自性清浄心》と言っているわけで、 なにか、《心をきれいにする》があって、《それが心をきれいにする》ってわけじゃないんですよ。 《こころはそのままきれい》 そのことが《自性清浄心》の意味です。 かりに《自性》という言葉を使って、そう表現しているだけです。 ここの《自性》は《何か、そうたらしめている本質》という意味ではありません。 なので、インドの、仏教以外の他学派(バラモン教系統の諸学派)のいう《自性》にあたりません。 アートマン・我じゃありません。 それでは(大乗)仏教でなくなってしまう。 原文が長いんで、 漢訳される際に《自性清浄心》とされたか、中国の学僧の誰かが簡潔にそう表現したんでしょう。 漢訳仏典では簡潔な表現が好まれたらしいですから。 (なんとも投げやりな意見!! わたし、仏教の研究者でもお坊さんでもないんで… ブッディストであるかどうかも微妙ですから…) 話をもとに戻して、《光り輝く心》《自性清浄心》。 この考え方は、上座部仏教の正統派・説一切有部から徹底的な批判を受けます。 そして、その批判が、のちの大乗仏教誕生の一つの理由になります。 ☆☆☆ ★ ~~~~ 阿頼耶識は、 誤解されるのを承知で、あえて空間的な表現を使うと、 輪廻を司るエネルギーのような種子(しゅうじ)や習気が つまっている容器のようなもの。 ~~~~~ ☆ (あ) 《容器のようなもの》としては 常住なのでしょうか? 唯識本来の観点(《解深密経》の考え)からすると、 対象(阿頼耶識・種子が作り出したもの)がすべて消滅すると、 その本体である阿頼耶識も消滅します《境識倶泯(きょうしきくみん)》 なので、その《容器のようなもの》も消滅します。 したがって、《容器のような》阿頼耶識は常住しません。消滅することもあるからです。 これまた、比喩的な表現になるのですけれど、 阿頼耶識を集合、種子をその要素・元と考えると分かりやすいかもしれません。 阿頼耶識集合 A = {a, b, c, d}(a, b, c, dは種子) 修行をすると、a, b, c, dはなくなってしまうで、 A=φ (φは数学の《空集合》、要素・元を持たない集合。 仏教の《空》の集合の意味じゃありません!!) 要素《種子》がないから、こちら側(迷いの世界の論理)では その集合A《阿頼耶識》はないとも言えるし、 (数学的)な《空集合》としてあるとも言える。 でも、 そこでは、認識の見るもの、見られるもの(物質・精神的現象)は存在しない!! なぜならば、どちらの発生原因である種子がもはや存在しないからです。 なので、般若・中観とも矛盾しない。 そして、それが”悟りの世界”(厳密には違うかもしれませんが)というわけです。 (初期の)唯識・瑜伽行派は、まぁ~、このようなロジックを使うんですよ。 余談ですが、日本の法相宗は、これとは違う唯識哲学学派の思想なんで、 これとは違った考え方をしますけれど… 実は、このあと、 八識が智慧になる《転識得智(てんじきとくち)》という ”ならば仏智(四智)は常住するのか?”という、 これまた厄介な問題が出てくるんですけれど… (い) 《輪廻》は ひとの一生を超えて前世・来世をも予定しているという意味でしょうか? でもそれだと 同じ DNA を持つひとは 《わたし》よりほかに(双子を除いてでしょうか) 一人もいないはずですが どうなのでしょう? ○《輪廻》は ひとの一生を超えて前世・来世をも予定しているという意味でしょうか? 質問中の《超えて》が「なにを意味しているのか」がよく分からないのですけれども、 《輪廻》と言ったら、前世・現世・来世をアプリオリに想定しています。 実在のブッダも、その教説を見るかぎりでは、その立場です。 しかし、修行によって《輪廻》から抜け出せる、つまり、その後は《来世》はない。 存在・時間を超越する。 (《超越》という言葉、使いたくないんですけれど、他に適当な言葉を思いつかないので) それが《成仏》の意味で、《永遠なる仏陀・法身》への思想につながるわけです。 なので、 その意味でなら、「《輪廻》は《ひとの一生》を超えてはいません」 ○でもそれだと 同じ DNA を持つひとは 《わたし》よりほかに(双子を除いてでしょうか) 一人もいないはずですが どうなのでしょう? 瑜伽(師地)論に、何か、そんなことを書いてあったような記憶が…。 死後、輪廻の主体(阿頼耶識みたいなもん。でもアートマンじゃない)が、 中陰(死んでから、つぎの肉体を得るまでの宙ぶらりん)の状態で お父さんとお母さん(再生の肉体的両親の意味)が(性的に)仲良くしているのを見て、 「楽しそうだな。僕もいっしょに楽しみたい」みたいなことを考えて、 お母さんの胎内に宿って、肉体性・物質性を得る。 双子は、たまたま、もう一人、霊みたいな存在が、 その時、いっしょにお母さんの胎内に飛び込んだ。 というわけです。 DNAは物質性の話なので、阿頼耶識による輪廻と矛盾しません。 ([その人の]阿頼耶識が自身の物質的存在も作るのではないか。矛盾しているんじゃ? 他人の阿頼耶識も原因(たぶん増上縁)になるんで、矛盾はしません。) DNAが同じでも、双子の阿頼耶識は別々な存在ですから。 まあ、おとぎ話みたいな話ですけど、 矛盾しない説明がつく。 でも、まぁ~、あんまり、この話を信じないでください。 言い忘れましたけれど、 唯識では、(体の外の世界)外界の事物の存在を認めません。 外界の事物もすべて心の中にあるとします。 唯識とは、《あるのはただ表象(びじゅにゃ~ぷてぃ)のみ》という意味です。 《びじゅにゃ~ぷてぃ》がなくなると、識・心(びじゅにゃ~な)もなくなるから、 《心が常住する》とかという議論は成立しない!! 《唯識》を《唯心》としなかったところがミソなんです。 (う) 《報身》は イエス・キリストとどう違いますか? 《イエスはキリストである》は 《真理の生きた姿》であると言えるように思いますが。 つまりイエスは 《応身》でありましょうし 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》は 《法身》であるように受け取れますが どうでしょう? 仏教の仏身(三身論)に当てはめれば、そう言っても間違いがないのかもしれません。 bragelonneさんの考える 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》 は、 仏教でいう《法身仏》、 少なくとも僕の考える《法身仏》のイメージにきわめて近い考えだ、 とかねがね思っていましたから。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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ねむりねこにゃあさん ご解説をありがとうございます。 あまりくどく成らないように かんたんに応答させていただきます。 要するに 諸行無常・諸法無我に対する例外があるのではないか? という疑問ですが やはり敢えていちばんの問題点と思われるところについて お尋ねせざるを得ないと思います。 突っ込むなと言われると 好奇心のつよい生徒としましては 反抗したい気持ちがつのります。たとえば《三身常住》というわけですから 疑問は残るように思うのですが? ▲ (三身常住) ~~~ 《法身》は 絶対的真理そのものをさし 永遠不滅ではあるが人格性を持たない。 《応身》は 歴史的世界に現われたブッダの身体であって 人格性を持つものではあるが無常な存在である。 《報身》は その両者を統合した仏身である。それは 衆生済度の願いと実践を重ねることによって報われた功徳を持つ身体であり 真理の生きた姿であるとされる。 (『岩波 仏教辞典』1989年版) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あと かんたんにお尋ねします。 ★ 《仏性》は”客塵煩悩、自性清浄心”の延長線上に生まれた考えだ ☆ この《自性》は 常住なるアートマン(我)としての自性ではないということでしょうか? ★ ~~~~ 阿頼耶識は、 誤解されるのを承知で、あえて空間的な表現を使うと、 輪廻を司るエネルギーのような種子(しゅうじ)や習気が つまっている容器のようなもの。 ~~~~~ ☆ (あ) 《容器のようなもの》としては 常住なのでしょうか? (い) 《輪廻》は ひとの一生を超えて前世・来世をも予定しているという意味でしょうか? でもそれだと 同じ DNA を持つひとは 《わたし》よりほかに(双子を除いてでしょうか) 一人もいないはずですが どうなのでしょう? (う) 《報身》は イエス・キリストとどう違いますか? 《イエスはキリストである》は 《真理の生きた姿》であると言えるように思いますが。 つまりイエスは 《応身》でありましょうし 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》は 《法身》であるように受け取れますが どうでしょう? 以上よろしくお願いします。 yy8yy8az さん あとからですが お邪魔しています。
- NemurinekoNya
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仏性ですかぁ? bragelonneさん、痛いところをついてきますねぇ~!! この問題、厄介なんですよねぇ~。 この問題、突き詰めると、 僕には、さっぱり分からない仏身論・法界論とかにまで波及しちゃうんで… でも、僕の知る範囲でお答えします。 ☆☆☆ ○ ではその霊魂ないし生命と 仏性とは どういう関係にあるのか? 僕は、 《仏性》は”客塵煩悩、自性清浄心” の延長線上に生まれた考えだ、と理解しています。 その考えに立って、説明します。 ”客塵煩悩、自性清浄心”は、 「煩悩は、お客さんのように、よそからきた塵のようなもの。 心は、本来、無色透明で綺麗なもの。 でも、煩悩という塵で、心が汚れているから、輪廻を繰り返す。 その塵をすべて取り払っちゃえば、心は無色透明の綺麗な状態に戻る。 それが”悟る”ということ」 というような意味です。 (釈迦に説法、bragelonneさんは、すでにご存知だと思いますけれど、他の人のためにあえて書きました) 本当は綺麗なんだけれども、いまは煩悩で汚れまくっている。 その心が修行によって、無垢・清浄な元の心の状態に戻れるんだよ、 仏(心)になれるんだよ。 そのことを「仏性がある」と表現するわけであって、 何か、心や霊魂、生命に《仏性》という特別な存在・機能があって、 それで「成仏できる」というわけではないんですよ。 その意味では、《仏性》は《空》や《空性》に近い種類の概念なんですよ。 すなわち、 物に《空性》があって、それで「物が空」になるわけではない。 それと同じように、 人間の心、霊魂に《仏性》があって、それで「成仏する」わけではないんですよ。 なので、般若心経の表現を借りれば、 《心即仏・仏即心》と言えなくもないんですけれど、 これは《悟り》の世界、無差別・一味平等の真理の世界の話なので、 《心即仏・仏即心》をそのまま、額面どおりの意味では受けとらないでください。 そんな単純な話ではないので。 要するに、《仏性》は、心や、霊魂・生命とは違うレベル、次元、種類の違う概念です。 関係はあるけれど、同じとか違うとか、同一次元では語れない。 ということです。 なので~ ○つまり 空観とも当然のごとくかかわっているでしょうし 理路としては色心を不二一体と見なす根拠であろうかと思いますが 果たしてどうなのでしょう? 《色心不二(観)》と、《仏性》は直接的な関係はありません。 なのですが~、 (大乗の)《自性清浄心》の考え方は、般若経の思想と密接な関係があるので、まったく無関係かと言えば、ないとも言えませんけれど、 でも、やっぱり別なものだと思います。 ☆☆☆ ○ブッダ自身は 仏性を説いていないという問題は かんたんに言って すでにブッダの世界観ないし境地には 仏性が潜在しているといった見方に落ち着くのではないかと思っています。 もちろん、 「《仏性》があるから”さとる”ことができる」 みたいに考える考え方もあることはあるのですけれども、 これは《仏性》と《如来蔵》を同一視した、 ある意味で《混同》した結果、生まれた考え方です。 『仏性が潜在している』 ではなくて、正確には 『《如来蔵》が潜在している』 と表現すべきかな。 《如来蔵》は法身の遍満性から出てくる考え方で、わたしたちの体にも如来(法身)が潜んでいるから、悟ることができる、と考えるわけなんですよ。その意味では「悟りの本体」と表現してもいいんですよ。 でも、厳密に言うと、《仏性》と《如来蔵》は別系統の教えなので、あえて、このことに触れてみました。 bragelonneさんのように「既成の教学なんて…」と達観していない、僕は、 あ~、駄目だ、 恐くて、もうこれ以上は書けない。 ○ブッダ自身は 仏性を説いていないという問題は… bragelonneさん、ご指摘の通り、《仏性》を直接には説いていませんね。 しかし、阿含経のどっかで《自性清浄心》は説いていますし、 ブッダの立場は 《修行すれば誰でも仏陀になることができる》 ですから、 《仏性》を説いているとも言えます。 ☆☆☆ ○ それと まだあいまいなことは 仏性は もしうつろいゆかざる何ものかであるとすれば それは 無我や無自性に反するのではないか? という疑問が提起されることです。 無我や無自性だから、悟り、成仏できるわけなので、《仏になる可能性がある》、つまり《仏性》とは矛盾しません。 《諸法無我》《諸行無常》だから悟れるので、《仏性》はそれとも矛盾しません。 また、《如来蔵》も矛盾しません。 仏に成るということは、空間的な表現を使うと、この輪廻の世界から抜け出し、法界に入ることなので、法界には輪廻の世界の法則は成立しませんから。 法界は輪廻の世界の背後にあるというか、メタ《輪廻の世界》みたいなもので、しかも、輪廻の世界を包み込んでいます。遍満しているんですよ。でも、それは《非思考・非経験の場》!! ちょっと、bragelonneさんの言葉を使わせていただきました。 bragelonneさん、法界・法身論は突っ込まないでください。 これはもう、論理・言葉を越えているので、僕には理解不能の世界ですから。 もっとも苦手な世界ですから。 ☆☆☆ ○アーラヤ識についても この疑問は出されていたと思います。 阿頼耶識も諸行無常・諸法無我の例外的存在だ!! という意味ですよね。 阿頼耶識も刹那刹那で変化するので、諸行無常、諸法無我に反しません。 似ているけれど、阿頼耶識は《我》・《アートマン》じゃないんですよ。 《アートマン》は常住、不変なもの。 阿頼耶識は、人間の身業・口業・意業によって、刹那刹那に変化しているんで。 阿頼耶識も、所詮は因と縁で作られたものですから。 阿頼耶識は、 誤解されるのを承知で、あえて空間的な表現を使うと、 輪廻を司るエネルギーのような種子(しゅうじ)や習気が つまっている容器のようなもの。 その種子が物質的・精神的現象を作り出すのですけれども、 作り出した物質的・精神的な現象の影響を受けて、種子も変質してしまうわけです。 なので、阿頼耶識も刹那刹那に変化するというわけです。 だから、常住不変のアートマンでない、《無我》 ということになります。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.4です。 ●(回答No.9) 《色即是空》から《色心不二》は出てこない。 ☆ もっともなことでした。 色も心も空観の対象になるという点は 当然ですし たぶんその前提があって 不二観に到るのであろうかとは思います。 わたしは 霊ないし魂あるいはつまり生命を その色心不二説をまとめる観点として持ち出しましたが ここで触れ忘れたことがあります。 ○ ではその霊魂ないし生命と 仏性とは どういう関係にあるのか? つまり 空観とも当然のごとくかかわっているでしょうし 理路としては色心を不二一体と見なす根拠であろうかと思いますが 果たしてどうなのでしょう? ブッダ自身は 仏性を説いていないという問題は かんたんに言って すでにブッダの世界観ないし境地には 仏性が潜在しているといった見方に落ち着くのではないかと思っています。 それと まだあいまいなことは 仏性は もしうつろいゆかざる何ものかであるとすれば それは 無我や無自性に反するのではないか? という疑問が提起されることです。 仏性は 諸法無我や諸行無常なる説に対して 例外であるのか? です。 アーラヤ識についても この疑問は出されていたと思います。 わたしの窮余の一策は 《想定するのだ》という捉え方をすることですが 果たしてブディストらのあいだでは どうなのでしょう? このスレで問うてみておくのもよいと思いました。
- NemurinekoNya
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>>色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。 空=心 即是=不二 と受け止めて間違いないでしょうか。 ☆☆☆ はい、 間違っています。 勘違いをしています。 般若心経には「空即是色」のあと、 《色即是空 受想行識もこのようなものだ》 と続きます。 なので、 『色(物質・肉体)は実体がない。 実体がないものこそ色(物質・肉体)である。』 これはセットで考えないといけません。 色は実体がないけれど、煩悩や無知などの条件があると、(物質的・精神的)現象界に現れるんです。仮の姿で現れるんです。 それが《色即是空。空即是色》の主張なんです。 だから、《空》や《空性》は、存在の一方的な否定ではないんです。 迷いの世界では、存在性をもちうるんです。 なので、 《色即是空・空即是色》はセットで考えないと、般若・大乗の空観にはなりません。 《色即是空》だけでは現象の一面性しか見ていないことになりますから。 般若心経は、さらに、こう説きます。 『受想行識(こころ)もこのようなものだ。 つまり、 心も空であり、空であるものこそ心だ』 つまり、”私”を構成する《色》と《心》が空である以上、 《私・我、アートマン》も空で実体のない存在だ、となるわけです。 なので、 空はすなわち《色》と《心》だから、迷いのある世界で”私”は存在しうる!! となるわけです。 《色》と《心》を別だてにしているから、 この段階では、とりあえず、まだ《色心不二》じゃないんですね。 まして、 《色即是空》から《色心不二》は出てこない。そうはならない。 なのですが、 般若の智慧とは無分別の智慧。 つまり、主観と客観の対立が消滅したところ、 仏教的に言えば、あらゆる差別・差別相が消滅したところで成立する認識。 この境地では、もはや、色も心の区別、差別も存在しないので、その時、はじめて 《色心不二》 が成立します。 しかし、迷いの世界の認識では、これは成立しません。 般若心経の冒頭に 「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、ホニャララ、ホニャララ」 と、書いてあるでしょう。この部分を見落としてはいけません。 般若心経で書いている内容は、すべて、 観音様が 般若の空観、観法・毘鉢舎那(びなしゃな)を行なって、感得した世界、悟りの内容です。 つまり、この悟りの境地を感得するには、般若の空観、観法が必要なのです。 頭で、概念を駆使してあれこれ詮索しても、絶対に到達できない世界なんです。 そこに仏教の観法の重要性があるんです。 もっとも、 龍樹はその著書『中論』で、否定的な思弁を使って、 いろんなこと(煩悩即菩提、死即生みたいなこと)を言っていますが、 龍樹が言わんとするところは、 「どんな言葉、概念を使おうが、結局は、 それらを用いた思弁は論理的な矛盾に突き当たる」 という、言葉に対する不信と、分別(主観と客観をたてるような差別的な見方)の否定につきます。 自身が立てた”煩悩即菩提”みたいなことですら否定する、それが龍樹の立場です。 《有》のアビダルマ哲学の否定であり、 般若経典でとく《空》を単なる《無》と考えることの否定、 それが龍樹の立場です。 一方的な《有》でも《空・無》でもない、その中を観る、これが《中観》です。 このことについては、No.4のbragelonneさんの分かりやすい説明を読んで、考えてください。 ☆☆☆ 色即是空:《色》⇒《空》 (”⇒”は”ならば”の意味です) 空即是色:《空》⇒《色》 ゆえに、《色》=《空》 同様に、《心》=《空》 (∵《心》⇒《空》、《空》⇒《心》) よって、《色》=《心》=《空》 よって、《色心不二》が証明された。Q.E.D なんて、論理を使って証明できる、と考えないでくださいね。 《色即是空。空即是色》は言葉・論理を超えたところで成立する真理で、 本来、言葉では表現できないことを、かりに、人に分かるように言葉で使って表現しているだけですから。 金剛般若経では、空という言葉を一切使わず、 「心は心でないから、心なのだ」 と、通常の論理学ではありえない”論理”を使って、空に迫ろうとしていますしね。 余談ですが、鈴木大拙は「A is not A」の論理とか、「非即の論理」とか言っていましたね。 話を戻して、 般若波羅蜜行が完成した時、 最終的には、 《色即是空・空即是色》、《色心不二》、この真理すら否定されてしまいます。 (まだ、言葉に頼っている、分別、主格の対立構造が完全に解消されていませんから。) そして、それが、般若の智慧、無分別智の完成であり、真の悟りです。 (華厳教学では、十波羅蜜、無分別智のあとに後得智がある、とされているようですけれどもね) ☆☆☆ 「故に物色と心象とは本来一體の両面より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」 これは、あなたへの質問なのですが、 この記述を読み、 あなたは《色心不二》と頭で納得できたのですか? だとしたら、あなたは、本当に素直な人ですね。でも、批判的精神がすこし欠けているかもしれませんね。 ここで帰結できる結論(あくまで論理の上で)は、 《色心不二》 ではなく、 《色心象不二》!! このことに、疑問を抱きませんでしたか? わたしは、日本・中国の仏教と仏教の観法に疎いので(じゃぁ、インド仏教をどれくらい知っているのかといわれると、困ってしまうのですけれども、ほんの少しだけよけいに知っているということにしておいてください)、 華厳四観でしたっけ、この前の観法であるらしい 《會色(物)帰心観》 がどのようなものか、よく分からないのですけれども、たぶん、これの思想的・教義的なバックボーンは 華厳経の十地品とかにある 「またこの念を作す。三界は虚妄にしてただこれ心の作なり。十二縁分はこれ皆、心に依る。云々、云々」 《物質的・精神的な現象は幻のようなものだ》 みたいなやつですよね。 海印三昧でしたっけ。 「その禅定中の心に現れる対象・表象、心象は心が作り出したもので、虚妄である。そこに空性があって、その場で縁起の理法が成立という」というようなことをいっているわけで、 心象とそれを見る心との明確な識別は必要だ、と思うんですけれど…。 僕は、華厳教学に疎いもので、ちょっと唯識的な観点から、僕の疑問を表明してみました。 會色(物)帰心観で、すべての物質的な現象が本当に心に還元されてしまうのなら、余計なお世話ですね。 でも、だったら、《色心不二観》は《會色(物)帰心観》に吸収されてしまうのではないだろうか、 と疑問に思ったりもしています。 わたしは、事事無碍、一即一切・一切即一、主伴無尽などの華厳の深遠な教義がさっぱり分からないもので、 こういう意見もあるのだということを、頭の片隅にすこし置いていただけたら、嬉しいです。
お礼
「色心象不二」の“心象”は心に表れる象、というように思いますが、「色心不二」の“心”は精神、と捉えています。 だから“心象”ではなく“精神”が“色”とは“不二”であると。 また、「観」については修行法としての“観”ではなく、物の見方、考え方、と云う意味で使われているのだと思います。 と、疑問を持ちましたが、よく学ばれている皆さんの回答に接するたびに、無知であることを知ることとなり、学ぶ意欲が湧いてきます。 回答ありがとうございました。(2012/5/25 12:00)
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お礼
「色心不二」と「色即是空」の違いについての説明に、なるほどと思いました。 新たな興味は「即」に時間的概念・変転なるものが含まれているのだろうか、と云う事です。 時間的概念・変転=同一性、なんだろうか? 回答ありがとうございました。(2012/5/25 11:00)
補足
我が腑に落とすためにはも少し時間が必要なようです。 後半のお二方の意見交換の“第一ラウンド”は終了したらしく、切の良いところなので締め切ることとしました。 皆様、ありがとうございました。