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この解釈は間違っていますか?
- 観念態とは、物象と心象の相互関係を指す概念である。
- 華厳法界観の會色帰空観に基づいて、物象即一観を解説している。
- 解釈においては、世界の相は主観の心によって捉えられるものであり、夢や幻ではなく実在していると述べている。
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質問者が選んだベストアンサー
お礼ありがとうございます。 言い方が不正確でした。すみません。 正確に言えば、物の存在自体が幻であるかは、質問文の文章からは判断できないということです。まあ、「象」という表現を使っていますから、物の自体は存在しているが物の見え方は主観を反映しているということかと思います。 つまりは質問者様のいうとおりかと私は思います。 あと、このお坊さんは私より遥かに先達であるように思われますので、これ以上の私見は控えたいと思います。
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- MOG777
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私の意見は挟まず、あくまでの筆者の意見を正確に読解することに徹すると・・・ ・主観の心と客観の物象とは同一本質(一大根元) ・此の根元(同一本質(一大根元))を法身の一大観念と云う。 ・法身(=真理(法)を身体としているもの?)の一大観念 ・法身自体は主観客観の相対的でなく、之を統一する処の絶対的観念態である。 ・本質は同一観念態の相対的現象と云わざるべからず。 法身という大きな絶対的基盤があり、また法身自体が絶対的観念態である。 その働きの結果として、客観の物象と主観の心が独立して存在しているように現れる。 しかし、どちらとも絶対的基盤を介しているわけであるから、客観の物象も主観の心と相対的関係といえる。 この世の事は総て夢か幻については、法身は絶対的観念態であると述べているわけだから 少なくとも法身は夢や幻ではない。 また、「客観の物象」も物の現象に関して述べているだけで、物自体が夢や幻とは述べていない。 >なぜって、実際にモノが在るからこそ、見たり触ったりする事が出来るわけですから。 ☆ この世の事は総て夢、幻、なんかではないのだ! 前半は著者の意見ではない。後半は「総て」が「総てが」なら著者の意見に沿っている。
補足
回答ありがとうございます。 後半の「総て」を「総てが」にすれば筆者の意見に沿うのなら「が」を入れます。 前半とは「実際にモノが在るからこそ、見たり触ったりする事が出来るわけだから」の事ですね。 この部分を著者の意見ではない、と云う事を少し詳しく説明していただけませんでしょうか。 MOGさんの考えも伺いたいです。 よろしくお願いいたします。
お礼
回答ありがとうございます。 「象」という表現を使っているので、物自体は存在しているが見え方は主観を通して反映している、との説明が分かりやすく、納得できたので自己流解釈の不安感が消えたように思います。 安心しました。 ありがとうございました。