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「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?
似たような質問の繰り返しで恐縮です。 「真の自分」という言葉は、自分自身の、内的自意識・魂・こころ・人格、それらの概念をすべて含む ものと考えてください。(どうも「真の自分」をぴたりと言い表せる言葉がないです) みなさん、自分の「真の自分」を考えたとき、それは理性だと思いますか? 感情だと思いますか? それとも両者を従える超越者だと思いますか? 「真の自分」は真実在だと思いますか? それとも物理化学現象が作り出す幻影だと思いますか?
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- littlekiss
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あぁ~時間がほしい~。 やっと少しパソうつ時間がとれました。(他のとこにだした質問にも回答はやくしてこなきゃ-・・・回答する順番がことなってごめんなさい。まずは、ここから発言していきます。) あしからず。 ------------------------------------- ただいまです。 stomachmanさんが、コメントかかれてましたがまだ読めていません。(後で楽しみに読ませてもらいます~♪) ここまで読んできての私見です。 stomachmanさんのお話に出てきた『セミオ-トマチック』<----(納得!)というのは・・・・ 『コレもあり!』ということが言いたかったのです。もちろん、mori0309さんの考え方もあり!ということで・・・・ いろんな出来事にでくあすとそこで立ち止まって考える時、1+1=2である。正解が1つしかないように考えてしまいがちです。そうすると、コレが正しいと考え主張しながらでもどこかで『ホントウにそうなのかな~?』という思いが同時に心の隅に生れます。自信があるときは、その隅っこにある思いのことなど忘れていのか前に進みます。前に進んでいく途中で壁にぶち当たると(自信がないとき)隅っこにあった思いが、『コレ間違ってるのか?』という思いがバ―――ン!と、ビックリ箱のフタを開けたときのように飛び出してきます。面食らっちゃいます―☆ 心の準備ができていないので、自分自身わけわかんなくなります。トンチンカンモ-ドです。(悩み始めます。)トンチンカンモ-ドに入るとこころの中で『コレが正しい、コレが悪い・・・・・』と、呪文のように繰返し問い掛けます。(自問自答)きりのないことです。先ほどのビックリ箱にもどりますね。 ビックリ箱のフタを開けたときはビックリして『なんだ?!』って、固まっちゃいますね。でもよくよく冷静になれば『あぁ~っ・・・』これは、ビックリ箱だったんだと・・・・理解できます。 で、なにがいいたいかというと、答えが1つだと考えるから悩むんです。答えは1つでありもするが時には『1,2,3,4,5,6,7,8,9・・・・・・』何通りもの答え(考え方)がある。正、誤、真、疑、善、悪でかたづけようとするから無理がでる。ならば、『コレもあり!』<-----(納得!)ということばになったのです。 日常の生活のなかでもこういう場面ありますね。 物事に行き詰まって、考え悩み始めること、、、、 時間がいっぱいあって、コンディションもよければおおいに悩もう~ でも、そうもしていられないときは、はやめに気持ち切り替えて『コレもありね~♪』っておもうほうが気持ちが楽になる。 なんておもいました。
- stomachman
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おとと。ディープエコロ論争のURL書き忘れました。
- stomachman
- ベストアンサー率57% (1014/1775)
> (stomachmanさんに笑われてしまうかもしれないですけど) 笑うんだったら参加しませんてば。なんだかstomachmanてスゴイ悪役になってるのかしら。葉巻...っすか? どう見ても一般人じゃないozapan先生登場で、余り中途半端な終結の恐れはなくなったと思います。だからスタンスを微妙にずらしてみよう。(でもmori0309さんから反論が出ないような話じゃ皆さんが納得しないから...悪役に徹しましょうか。) 今時の良くできた人工知能はなかなか上手に話します。そのハードウエアもソフトウエアもすっかり分かっている。でも、見たまま感じたままに言えば「旨いこと言いやがって、畜生の分際で生意気」だったりするんですよ。で、いじめていじめて、とうとう変な事を言い出したら「安心」するんですね。ヒトはこいつより上位にある、と思いたいわけです。(TV版Star Trek(カーク船長の方)にもこういうエピソードがいくつかありましたねえ。) でも、いじめてみもしないで「還元すれば結局は物理・化学反応に過ぎない。だからそいつに知能はない。意思も性格もない。」と決めちゃうのは手抜きです。微妙に誤った前提に基づく演繹のヤリスギであり、スカタンではないでしょうか。 還元することが全体としての存在の価値を踏みにじってしまう。というのは素朴な還元主義、言い換えれば「ヒトだけが特別。精神は物質とは別」というナイーブな信仰(オカルトの世界)の反映に過ぎません。(その証拠に人工知能は還元すべきだけど、ヒトはだめ、と仰る方が多いですねえ。結論が先にある訳です。)stomachmanにとっては、還元可能であることと全体の凄さ素晴らしさとはまさに両立するし、それどころか、その一見矛盾したところにこそ、もう一つ深い意味での感慨を持つんですよ。(素敵な絵が布と顔料と油脂でできているからと言って、キロ幾らの値打ちとは思わないでしょう?どうやって描いたんだろ、と、うんと近づいて虫眼鏡で見る。これってイケナイ事ですか?美と美学は両立します。) > 自分だけはそういうツマラナイ存在から超越していると思ってません? いやいやとんでもないです。考えれば考えるほど、いかに「ツマラナイ存在」であるかを身にしみてひしひしと感じるんですね。いずれ地層に埋まっていく有限の生。「生きてたって意味がない」と言って首をつるのにも意味がない。ナンボ苦しんだってそれが何ほどのものか。しょせんは化学反応であります。 それら全部を一度しっくりと受け止めた上で、ガバ、と開き直る。オケラだって、カエルだって、アメンボだって、キャベツだって、ビフィズス菌だって、みんなみんな生きているんだ。それをまた殺さないと生きていけない浅ましさ。自然・宇宙の一部、ごくささやかなプロセスとしてそういう存在が黙認されている。そこにこそ許しがあり救いがあるんじゃないですか。すると「本質的にヒトだけが特別」っていうキリスト教的ヒューマニズムは全然納得いかないんですね。むしろ還元と相対化によって初めて全体の意味が捉えられる。 その相対性の中で、うっかりすればセミオートの行動を意思を持って変えていく。価値を探していく。果てしない無限小の積み重ねを、有限に到達することはないと知っていても、(シーシュポスの仕事のように)ひたすら続けていく。その無限のプロセス自体が支えている大切なものがある。それはそのプロセス自身であり、つまり「ヒトがヒトであるという事」だったりして。(うーむ。かなり少年ジャンプの影響受けてますねえ。) ヒトの存在ってそんなに危ういものなのか。危ういと思うんですヨ。だから大切なんです。アリの巣なんか眺めながら、そう思うんですネ。アリの巣を抱きしめたくなったりして。(おっと、覆面を何処へやったかな。) いや、ジンセー平和だからこういう議論をやってられるんでしょう。この意味でヘーゲル凄いです。 なおご存知でしょうが、丁度、下記URLでディープエコロジーの凄まじい哲学論争が進んでおります。 > パート2 OKWebのサーバがコケるまで重くしてみたい、という気もしますが...^^)
補足
stomachmanさん、ありがとうございます。ちょっと遅くなりました。すみません。 ●> 還元することが全体としての存在の価値を踏みにじってしまう。というのは素朴な > 還元主義 おっしゃる通りだと思います。どうも、私は「飛躍的断定」が多すぎるようです。 自分だけで勝手に信じているうちはよかったんですけど、こうして、stomachmanさんや 他のみなさんに、ボロを指摘されると、自分の思索のちっぽけさが自分でも分かります。 ●> 「本質的にヒトだけが特別」っていうキリスト教的ヒューマニズムは全然納得いか > ないんですね。むしろ還元と相対化によって初めて全体の意味が捉えられる。 う~ん、そうでしょうか。楽器のしくみに精通して、作曲理論を完全にマスターしたら 音楽芸術の真髄を征服したことになるのでしょうか。(なるのかなあ) (私の問い方、ヘンですね) ●> その無限のプロセス自体が支えている大切なものがある。それはそのプロセス自身で > あり、つまり「ヒトがヒトであるという事」だったりして。 自分で自分に自分の存在価値を与えてやっているということでしょうか。こういうことを 考えるとmori0309の頭は、壊れそうになるのです。発狂する恐怖を感じます。 (冗談でなく本当に) 以前、朝の通勤電車のなかで、精神分析の本を読んでいたら、精神分裂病患者の書いた 手紙が原文で載っていて、それを読んでいるうちに、体じゅうから冷や汗が出始め、 「自分」がおかしくなってきて、大声でわめき出したくなるような気分がしてきて、あわ てて家に帰りました。「家に着くまで発狂しないでくれ」と正気の自分が祈ったものです。 あ~、本当におそろしい。自己参照、自己追求、怖し。謎の大宮殿から早く逃げなくては、、、
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
おはようございます。 先に申し伝えておきますね。 パソを立ち上げてここをのぞくのが日課になりつつあります。 mori0309さんがコメントされてるの今読みました。 ちゃんと考えて、何か言葉をかえしたいのですが昨日今日と時間に追われています。 問い掛けているのにレスをよこさない!・・・・>失礼なヤツ!! とは、おもわないでくださいね。 よく読んで、考えて言葉を発したいんです。 これから出かけなければなりません。 ネットということもあって、相手の事情もわかりませんよね。 返答がないと、いい加減だなと・・・・・・ 不愉快なご気分にさせたくないので取り急ぎこのレスをうっています。 ということで、まだ締めないで下さい。 追伸:オカルトの世界・・・云々は、深い意味はありません。 言葉が足りず、不愉快にさせていたらごめんなさい。
お礼
littlekissさん、ありがとうございます。 > 問い掛けているのにレスをよこさない!・・・・>失礼なヤツ!! > とは、おもわないでくださいね。 そんなこと、ぜんぜん思っていませんよ~。私のほうこそ、すぐにはレスしないことが 多くてゴメンナサイ。 > オカルトの世界・・・深い意味はありません。不愉快にさせていたらごめんなさい。 不愉快だなんて、とんでもないです。私のほうこそ、公の場でオカルトっぽい話をして いるので「皆さん不愉快かなあ」と気にしていたんです。 > ということで、まだ締めないで下さい。 ずうっと閉じないでいたいのですが、それは、やっぱりダメですよね。 ひととおり「真の自分」論が出尽くしたなあと、(勝手に)思った時点で、閉じさせて いただくことにします。
めんどい方からいきましょう。理性と感性について。 「このQ/Aの中盤以降で話題になっている」とのことですが、なんかもうずっと下の方、ジュラ紀あたりの地層に埋もれておりますね。洪水でもあったのかなあ…。 まずは「理性」「感性」それぞれについての一般的なイメージは脇に置いて、西洋思想史での意味合いを概観します。HPの趣旨に照らせば、ちょっとはそういう「情報性」もなきゃいかんですから。 大雑把に言うと、「理性」は哲学に関わり、「感性」は美学に関わるものです。言い換えれば、「理性」は「真とは何か」との問いを巡って機能し、「感性」は「何が美であるか」を評価するために機能します。後者について「美とは何か」としなかった点にご注意下さい。「美とは何か」と問いを立てれば、それはもう哲学の課題になります。アリストテレスやカントやヘーゲルは自らの哲学体系の一部に「美学」を吸収していますが、そういう美学は「美とは何か」を巡るもので、むしろ「美を理性によって解明する」ことが目指されています。哲学とは独立した美学もちゃんとあって、それは文字通り「何が美であるか」から「いかにして美をなすか」までを追究するものになります。 ここから、「理性」と「感性」、それぞれが対象とするものの違いが示されます。理性の対象は概念や理念であって、具体的・個別的な事物であるとは限りません。が、これに対して感性の対象には必ず「形態」があります。空間芸術たる絵画・彫刻は物質的な実在ですし、時間芸術たる音楽には音があります。ここから次のことが導かれます。すなわち、「感性は感覚に依拠せざるをえないが(注)、理性は必ずしもそうではない」ということです。(注:実は感性も感覚も、語源はギリシア語のアイステーシス aesthesis で同じものです。女性が「美しく」なるために行く「エステ」は「エステティック・サロン」の略ですね。また英語で「美学」は esthetics と言います。感性も感覚も元々は同義。ただ一般的には少々語感が違うようです。「感覚」は文字通りの「五感」、「感性」と言うと「美を感じ取る能力」のような意味合いでしょうか。) ではその「感覚(感性)」と「理性」との関係について。まず大事な点として、「感覚は《経験》の唯一の入り口である」=「感覚がなければ《経験》は成り立たない」ということを押さえておきましょう。感覚がなければ、意識は外界からの情報を受け取ることができない、ということです。 このことから、古来の哲学者たちが「経験」をどう扱うかに大きな分かれ道が生まれました。というのは、経験をどう扱うかの問題は、感覚をどう考えるかという問題から直接跳ね返ってくるからです。 プラトンのような人は、「感覚の誤り易さ」(錯覚、あいまいさ、個人差)を理由として「経験」を学の土台からさっさと切り捨ててしまいました。デカルトも、どちらかというとこの部類に属します。この立場は当然、経験を排除した思考法(思弁的思考)に傾きがちになります。ですから、ともすれば現実から遊離した空理空論に陥る危険性を宿しています。 反面、経験を重視する人もいます。古くはアリストテレスがそうでした。彼は、感覚与件(五感に与えられる情報)が「主語-述語」のうち、「述語」の位置を占める(「このリンゴは赤い」などのように)ことに注目し、述語(カテゴリメノン)を整理することで感覚を通じた(つまり、経験を通じた)認識の確実性を確保しようとしました。述語を整理し、グループ分けしたものが範疇(カテゴリー)です。こうして出来たのが、じゃじゃーん、「論理学」。…「論理学」って、実は「経験の整理の学」だったわけです。元々。 それから、何も経験していない人間の意識は「白紙」であるとして、感覚論を精緻に練り上げた人たちに、イギリス経験論のロックやヒュームがいたことは周知のとおりです。 さて、おつかれさまでした。いったんまとめます。 1 感性は感覚与件をもつ具体的な形象を対象とし、理性は抽象化された概念を主な対象とする。 2 感性は時に理性を「だまそうと」するが、現実を見ようとする理性は感性の協力を仰がざるをえず、「だまされまいと」してきた。 この「2」の方の課題、理性が感性を支配下に置こうとする作業は、カントの『純粋理性批判』によって、一応の解決を見ています。 以上が思想史的に見た「理性」と「感性」の意味です。が、しかし、これって mori0309さんの問題提起に始まるこのQ&Aの流れとは、ぜーんぜん関係ないですね。もう笑うしかないです。ぎゃはははは。…あ、失礼。 ということは、ここでの議論の流れで言うと、モンダイはつまり「理性と感情」であるということになります。理性と感情…しかし、これが、難しい…。 いちおう、あるんですよ、哲学の方で「ロゴスとパトス」というのが。が、これは前に書いた「自分自身の主人であるような主体観」の文脈で出てくるものです。「ロゴス=理性」が能動的で、「パトス=感情」は受動的なもの。だから「主体」たるもの受動的になったらあかん、感情は排除せなあかん…という議論。ストア派禁欲主義の標語「アパティア(パトスの頭に打ち消しのアがついたもの)」とか、エピクロス派快楽主義の「アタラクシア(感情に乱されることのない平安)」というのは、いずれも感情を克服した境地を指します。 ですが、ここでの議論では、あるいは「真の自分」であるかもしれない「感情」ですから、もっと積極的な意義を持つものでしょう。一つの心的機能として、人格の中で一定の役割を果たしているもの。…となると、上記「パトス」のイメージとはちがう。 他にもあるんですが、ここでは心理学的な説明をとった方がわかりやすそうです。 これでいきますと、まず、古生代前期の地層にあります「化石No.77915」におけるstomachmanさんの「理性と感性(感情)を併置(あるいは対置?)できるものか」どうかという疑問が秘孔を突いています。あべし。ひでぶ。くわらぺ。 理性と感情が対立している、つまりあたかも別個の実体を持つ二つの心的働きであるかのように見えるケースから見てみましょう。 「ピヨ子さん。わかってくれ。キミを幸せにしたいんだ!」 「ええ…わかっているの。彼とは別れなきゃいけないって…。アタマではわかっているの。でも…できないの…どうしても…できないのよ!」 ここでは、なんか知らんけど問題ありそうな彼氏と「別れなきゃ」という「理性」と、「でも、どうしても離れられない!」という「感情」が対立しまくりやがっております。でもって、どうやら「感情」が優位に立っているようです。 また、「死んだ我が子の部屋を片付けることができない両親」というケースも思い浮かびます。子が死んだことはちゃんと認識している。お悔やみを言われれば、きちんと悔やみ返しができるんです。が、部屋はそのままにしておきたい。そのままでは、いつまでも苦しむことがわかっていながら、片付けられない。…これも「感情」が優位のようです。 それから「泣いて馬謖を斬る」なんてのがありますね。諸葛孔明がその軍略の才を愛した馬謖ですが、軍律違反を犯した以上は処罰せざるをえない…で、バッサリ。この場合は理性の勝利のようです。理性、一勝二敗です。(意味ねーぞ>電波) …と、三例挙げましたが、三つとも共通した図式で説明可能です。三つの事例において、「感情」とされている部分は、いずれも「水路づけ」の結果、心の中に形成された「自動回路」「パターン」のようなものです。 「水路づけ」はユングも用いていますし、行動主義心理学でも重要視されているものです(直接ユングからパクった形跡はない)。一種の比喩的説明です。地面に水を流す。すると、水の流れは少しずつ地面を削る。溝ができる。そこを水が流れる。さらに削られる。ますます水が流れる…という形成過程。つまり、日常的に反復される、決まった判断パターンや行動パターンは、ほとんど無意識的に(自動的に)作動する「回路」のような形で、人格の中に深く根を下ろすということです。ソフトウェア的反復が、いつしかハード・ワイヤード・ロジックの形成を促すという、有機体脳味噌を持つ人間ならではの現象です。 川の流れを変えるには大規模な工事が必要なのと同様に、この「回路」から逸脱した判断をするのには多大の精神的労力が要求されます。自動化・無意識化された「回路」は安定的かつ、心理的に安全なものですから、ここから逸脱することは、多大な不安をともなうことにもなります。だから、容易なことでは脱することができない。すなわち…先に「感情」と呼んだものは、実は「意識の方向を自動回路の中に押し留めようとする作用・働き」に他ならないわけです。「感情」という、「理性」とは独立した精神的機能が、実体として存在しているわけでは、ない。(とはいえ、ある事柄を説明する便宜上、あたかもそれが実体であるかのように「感情が…」というふうに説明するのは、実際的な場面ではそれほど不都合はないように思います。別にいいんじゃないかと。) はい、それでは「理性」いきます。 もうオチは読めているでしょうけど、ここでの「理性」についてもまた、非実体的なものとしての説明が可能です。もお、ひとことで言っちゃうと、「外界の状況から生まれた当為(すべきこと)が内面化されたもの」ってことです。 その当為、最初の例では「モンダイありカレと別れるべき」で、次のでは「忌まわしい過去は忘れるべき」で、最後のでは「蜀の全軍を預かる身としてなすべき」こと、です。それぞれの人の「理性」なるものが内発的に判断したことではなくて、置かれた状況や、置かれた立場という「外的な条件」に媒介されて導かれた判断です。つまりこの場合も、「理性」というものを、「感情」とは独立した実体として想定するのは、一種の「擬人法」ということになります。(ただしこれも、説明の便宜上「理性が…」という説明の仕方をしても、特に不都合はないと思います。) おつかれさまです。まとめます。 「理性」も「感性(感情)」も、意識の作用が示す「側面」であるということになります。多少でも現実(外界)の状況を踏まえた、客観的な要素を含めた判断という「ころも」をまとった意識作用が「理性」、そうではなくて、半ば無意識の中に自動化された「回路」に、おまかせモードになっている意識作用が「感情」ということです。 そういうわけですから、「真の自分」とは、「理性」「感性」のどちらか一方であるということにはならないと、僕は考えることになります。「両方?」…なら、うなづいちゃうかな。でも、「もともと、どっちも無いじゃん」とも言えるわけです。
お礼
ozapanさん、ありがとうございます。ozapanさんの文章はとても分かりやすいです。 勉強になります。市販の哲学や心理学の本って、どうしてあんなに分かりずらいんでしょう。 それにしても、このページ、重すぎますね。「パート2」を新たにたてようかなあ。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
<読者の声> ちょこっとまえは、心配しました・・・・オカルトの世界に突入するの????と・・・ ☆stomachmanさんのいうところの >『セミオ-トマチックな自己全体・・・・・』<―――――(納得!) さらなる展開を期待しています。mori0309さんが、どう返答するんだろうね? 手ごわいね、stomachmanさんは・・・・腕組みして怪しい笑みを浮かべて mori0309さんの返答を待ってるような姿を想像してしまいました。 もしかしたら?葉巻でもくわえてたりしてね・・・・(洒落です!おこらないで!!) このやりとりを生で見られたら、TVの「朝まで・・・」なんとかの 討論番組よりももっともっと、面白いだろうね―☆ がんばれ~~~~!!
補足
littlekissさん、ありがとうございます。 > 心配しました・・・・オカルトの世界に突入するの????と・・・ オカルトは嫌いですか。私の文章はオカルトっぽいですか。(きっとそうなんでしょうね) 私は文学が好きです。文学作品の半数以上はオカルト的です。神、天使、精霊、鬼、 悪魔、天国、地獄、、、、こういうものは真実在なのか、現実世界の何かの象徴なのか。 (もちろん後者だと思いますが) 文学趣味の人間は、そういう作品が嘘の大建築のようでありながら、ある種の真実が秘め られていることを感じとってしまいます。そして、それを無理に分析して正体を見極めよう とせず、その余韻をいつまでも胸のなかで反芻して、過去の自分を想ったり、未来の 自分の生に備えたりします。(まあ、これも私の勝手な空想的性癖にすぎないのですが) > 『セミオ-トマチックな自己全体・・・・・』<―――――(納得!) やっぱり人間ってセミオ-トマチックなものだと思いますか? たしかに、そうで ないと日々生活していけないですものね。でも、自動運転モードを解除して真の 自分が運転に乗り出してこなければならない局面というものは、ありますよね。 そういうときにだけ「人間は自由だ」と言えるような気がするんです。 > このやりとりを生で見られたら、TVの「朝まで・・・」なんとかの > 討論番組よりももっともっと、面白いだろうね―☆ stomachmanさんやozapanさんの博識と頭脳の回転の速さには本当にタジタジです。 私なんか足元にも及びません。でもみなさんのおかげで、哲学にしても数学にしても 長年の疑問や不明が次々とすごい勢いで晴れていっています。(しかも無料の会話 形式で!)このOKWebって本当にいいですね。この時代に生きていてよかったと 思います。littlekissさんにも何か発言をいただければうれしいです。
- stomachman
- ベストアンサー率57% (1014/1775)
うーむ。コメントを拝見しました。stomachmanです。ご期待に応えてmathematicalの雰囲気で。 > 自分を「いい方向」に導いてくれる、包容力の強い「よき自分」です。 > みじめな自分、みにくい自分をゆるしてくれます。 >「ありのままのお前でよいのだ。だから自分を助けるように周りの人も助けてやれ」 > 言葉が天から降ってくるわけではないです。 「それ」が言葉を発するものである、というところがヒントかな。内的言語。語りかけることは、全く非論理的なものにはできません。自分自身に語りかけている「それ」は、自分を対象化する。でも「それ」自身を対象に含めてはいない。「他人のふり」をしているのか、「それ」自身を棚に上げているのか。stomachmanの場合、どうも「それ」=意識であって、論理的思考もここがやってるように思います。現実にバカやってるのはこの意識も含めたセミオートマチックな自己全体なんですが....これってego対Selbstなんでしょうか? > 理論化した正義は必ずと言っていいほど狂暴な支配抑圧装置となり自他を滅ぼしてしまう いわゆる西欧的な、徹底した演繹、というものの怖さ。正義を理論化して、いわば自動運転しようなんていう横着は、やっぱり破綻するんですね。 数学ですら、公理系と推論規則を立ててさんざ演繹を続けた結果、矛盾が現れすべて瓦解することだってあるんです。つまり、演繹の前提が失敗しているかどうかは、前提だけいくらなめ回しても分かりません。演繹してみるしかない。いわば実践ですね。でも幾らやってもその体系自身の中では(ゲーデルの定理により)無矛盾性が示せない。 純粋な演繹なんて、数学以外には存在していません。演繹だけ、ってのは「最初の公理系に全ての情報が入っている」ということですよ。あとで付け足したり、拡大解釈したら、全部の推論をやり直す。如何に立派に見える論述も、この基準から言ったらご都合主義以外の何物でもないデス。 また、物理なら、理論の適用限界というものがあります。今の物理はとてつもなく広い適用範囲を持っている。その意味で非常に成功した哲学ですが、それでも、対象によって理論を切り替えなくてはならない。 このへんのバランス感覚を欠いて、「前提を認めた以上はどんな結論が出ても同意せよ」ってのはスカタンの考え方です。へんてこな結論を、数学では矛盾あるいはパラドックスとして扱い、物理では発見という。どちらも「基礎の再検討」を促すものであって、「これでいいのだ!」と突き進むのはアホです。証明能力が異常に高いシステムは疑うべし、ということも(不完全性定理に関連して)既に申し上げました。数学や物理ではヘンなものはその異常さが比較的はっきり見える(バナッハ・タルスキーの定理をやりましたねえ。)のに比べ、「正義」システムでは曖昧である。だからこそ、バランス感覚が必要になります。 さらに、「理解」と「信念」は違う。理解はすれども、首肯せず。(イスラム教の話。)極端な話、「Pである」ということと「自分はPであるとは信じない」ということを共に主張する無矛盾なシステムはアリなんです。(様相論理と言う分野の話です。以前レイモンド・スマリヤンの本をご紹介しましたが、その中には詳しい解説があります。) > 過去の事象を自己参照して、それを自分の体系に取込むというようなことは > 数学的に記述できるのでしょうか? 非常に重要な方法に数学的帰納法があります。P[1]である。P[1]->P[2]である。P[2]->P[3]である。.....無限に繰り返す代わりに、P[1]である。P[n]->P[n+1]である。これでおしまい。無限の拡大を有限の中で捉えています。1!=1, n!=(n-1)!×n というのも同じ手です。超数学に於いては、Pが数学の体系の命題に関する性質である。対象を扱う系を対象として扱う系を....と無限に拡大していくかのように見えて、自分自身とぴたり重ね合わせる。実は拡大していない。これがゲーデル数のアイデアでしたね。 では、自分というものの分析にこれが使えるの?そりゃできますが、ごく詰まらないことにしか使えません。けさ飯を喰ったのは腹が減ったからで、それは前に喰っためしがこなれたのだが、その飯を食ったのは腹が減ったからで....。パターンが繰り返されるからこそ、有限に詰め込める訳ですね。 ところで、過去が現在と断絶しているなら、それは別の体系に過ぎません。しかし過去は記憶であり、記憶こそが自己同一性の根拠であってみれば、過去は現在の一部である。結局、一体として扱うしかない。つまり、過去の自分を対象化する、というのは、過去に自分が何を考え(行っ)て、「何を考え(行わ)なかったか」まで完全な情報を要求する訳です。それができないので、シミュレーションでごまかしますね。「過去の自分ならどう考えただろうか。」このシミュレータは現在の自分ですから、シミュレーションの結果は、実は現在の自分が考えたことに他ならない。また、こうして考えるというプロセス自体が、次の瞬間の「「現在の自分」にとっての過去」を作り出しています。(あーややこし) そういう訳でして、 (1)厳密な意味では旨く行かない。過去を分析する積もりで、現在を見ている。また次の瞬間の過去を変えている。 (2)ここまで数学を比喩的に使うのはバランス感覚から言ってアブナイ。 と言えましょう。 なお様相論理の一種としての時間論理(たとえば「もう知ってる」「まだ知らない」「絶対分からない」などを扱う)は、余り成功していないと思います。 > どこの誰だか永久に分かりませんように。 ではoff会は覆面持参ということで....
お礼
ありがとうございます。「それ」が言葉を発する訳ではないです。また、お返事します。 最後の1行、ヤバイです。atsuotaさんからいただいたコメント(問題ありとも思えない のに)も消されてしまいましたから。
補足
stomachmanさん、ありがとうございます。 littlekissさんにオカルトの世界に突入するのか、と指摘されました。やっぱり私の文章は オカルトに見えてしまいますね。でも他に書きようがないんです。「真の私」を無理やり 他の言葉で表すとしたら、やっぱり「良心」か「愛」(自他を区別なく愛する愛)しかない です。(stomachmanさんに笑われてしまうかもしれないですけど) 「良心」も「愛」も言葉を持っていません。理屈を説いてきません。ただ心に満ちてくる だけです。そうすると、私が悟り、言葉を得るんです。 littlekissさんの期待に応えて、少しだけ論争ふうのもの言いをさせていただきますネ。 「真の自分」「良心」「超自我(super-ego)」「自己(Selbst)」「祖霊の愛」。 何と呼ぼうと、私を動物状態から助け出し、私の心を硬直化や砂漠化から救い、世の人々と 共に生きることを支えてくれて、生を高めてくれる、確かな実在が感じられるかぎり、 それを疎んじたり相対化したり征服したりしなければならない理由は何もないわけです。 私の理性もそれを否定したりはしない。 【快楽を求めて好き勝手に生きようとする自我(ego)が自分の実体で、良心や倫理心は 親からの叱られ経験によって内面化された獄吏のようなもの(super-ego)にすぎない】 なんと浅はかでつまらない人間観でしょう。論者は自分を棚上げしてません? 自分だけは そういうツマラナイ存在から超越していると思ってません? 思っていないのだとしたら こういう高尚(?)な議論や精緻な論証も、ツマラナイ存在が自己顕示や自己満足のために クダラナイ遊びにふけっているだけのものとしか言いようがないのですよ。論者諸氏はそれで 納得されるのでありましょうか。 え? 「そうだよ。君は違うの?」ですって? ハ、ハイ、僕もそうでした。 (相当恥ずかしいことを書いてます。私には理性的な議論は無理なのかも。そろそろ このQ/Aも閉じどきですね)
ふたたび、おじゃまします。 >私が「真の」という言葉で表現したかったのは、「より影響力の強い」とか「より >上位にある」とか「より素直な」とか「より自分らしい」とか「より高次の」とか >「より道徳的な」とか「より良心的な」とか、、、、、、、 >とまあ、こんなふうに、一言では言えないのです。 >> 御自分で言っているそこに答えがある、僕はそう思います。「の中に」ではなく「の全て」 >> が「真」ではないかと。 >そうだと思います。で、その「真」なるものの正体が知りたいのですが。 と、まぁ、こういったことですので、「僕にとっての『都合のいい「真」』」について可能な限り解説してみましょう。 ここに書くのは哲学とか心理学とかでなく、僕の知覚で得た知識から得た、 僕なりにねじ曲げられた世界観であることを御承知頂いたうえで。 僕は「真」とは全てであると書きました。 それはなぜかというと、 例えば、「たばこ」を知らない人に「たばこ」を説明するとします。 そのとき、 「吸うと気分が落ち着くものだよ」 と言ったとします。で、吸わせてみたとします。 まず、反応は「ケムい」か「まずい」の可能性が高いでしょう。 で、ここで、 「吸えば吸う程に、うまくなるものだよ」 とかいってもなかなか納得はいかないでしょう。 とまぁ、こんなやりとりがあったとします。 で、これは「たばこ」を説明しきれているでしょうか? 否、「たばこ」の味の説明に過ぎません。 これは、たばことは何か?という説明にはなり得ません。 では、「たばこ」を説明するにはどうすればいいか? これは、厳密にいえば説明しきることは不可能です。 たとえば「たばこ」の形状を追加で説明したとします。 そこで、 「その巻いてる紙はどうやって作るの?」「フィルターってなに?」「フィルターはどうやって作るの?」「パッケージのデザインはどうやってできるの?」「葉っぱはどこでどうやって生産されるの?」「ブレンドってどうやってやるの?」等々。 質問しようと思えば際限なく続きます。 となったときに、何をもって説明できたとするかは非常にむづかしい。 まぁ、「たばこ」ひとつとってもこの有り様です。 で、さらに、複雑に要素が絡まりあう『全てである「真」』の正体なぞ説明などできるわけがありません。 前回の発言をあそこで止めたのは、「全てである」といった時点でおわかりいただけるかと思ったからなんですが、説明不足だったようですね。 とまぁ、「真」とは「全て」であるとする僕にとっては、そのうちどれかに優位性があるなどとはちょっと思えません。 なにせ、「真」を「全て」といいながら、「全て」など知りうるわけもないというのが僕ですし(笑) 僕としては、「全て」の影響下でゆらゆらし続けるのが「自己」のありようであると思いますんで、確固たる「真」などあるわけもないとおもっているわけです。 それでは、このへんで。
お礼
oni_ocさん、ありがとうございます。後日お返事します。
補足
oni_ocさん、ありがとうございます。 > 複雑に要素が絡まりあう『全てである「真」』の正体なぞ説明などできるわけがありません。 > 「真」とは「全て」であるとする僕にとっては、そのうちどれかに優位性があるなどとは > ちょっと思えません。 > 「全て」の影響下でゆらゆらし続けるのが「自己」のありようであると思いますんで、 > 確固たる「真」などあるわけもないとおもっているわけです。 自他の境界はないということでしょうか。自分の主観としての位置を、いったん無視する、 すなわち、自分ではない、ものすごく巨大な外部観察者が、大きな目で地球上で起こっている ことを、観察していると仮定するならば、「すべてが影響しあってゆらゆらしている」「確固 たる存在などない」という表現も正しいと思います。ですが内的自我意識から見た世界は、 また別だと思います。「自分」が何かに影響を与えたり、与えられたりして、ゆらゆらしている のは事実ですけど、「自分など無い」とは思わない。この「自分」という意識だか何だか分から ないものの、正体は何か? なぜ私は私か? 宇宙の森羅万象に対峙するかのように、見開い たこの目、何かを感じるとるこの心、それを外界物と同次元で考えることはできない。自分が この世に存在する。何が不思議と言って、これくらい不思議なことはないです。しかも自分の なかには、幾重もの自分がある。それが、感じられる。私は、どの自分と仲良くすればよい のか。言いかえれば、どの自分を、より深めていくべきなのか、、、、、 なぁ~んて、くどくど書きましたけど、つまり、そういうことなのです。このQ/A欄で答えが 出るとは思っていません。が、みなさんのいろいろなお話やお考えを聞いて、私の思索の 10年の停滞は、一挙に埋められようとしています。oni_ocさん、みなさん、本当にありがとう ございます。
Mori0309さん、日曜日は休めるみたいですね。ゆっくりやりましょう。 えー、では、お尋ねのことを少しずつ。 まず「文学的主題」の件。これについては「個別的な問題」つまり、一人一人の問題になってくるから、ここでは扱えないかな…というつもりで言ったのでした。決して、文学的だからと言って軽んずるつもりはなかったんです。でも、軽んじているように取られる書き方をしてる部分がありますね。これは自己批判しなきゃいけない。すみませんでした。文学を排除したら哲学も死にますよね。今後、そういう態度は控えます。 ユングに関しても、文学的価値は認めてるんです。文学的価値「は」。(…とかさあ、ユング研究者を怒らせるようなこと書かすなよ>電波)…ただ、その、いやしくも科学の一部門たる「心理学」としては…ということです。たしかに、ユングも経験的事実から自らの研究を構築したんです。それはもう、ユング関連の(彼に好意的な)書物では、これでもかこれでもかというくらいに強調されてる。ただ、その経験的事実の説明・解釈が、えてして「オッカムの剃刀」でバッサリいけそうなものに傾きがちなんです。だから、僕としては、「科学の一部門たる心理学としては」受け入れがたい。 しかし、ユングのある部分が心理学に一定の貢献をしているのもたしかです。例えば、彼が考案した「箱庭療法」は、診断にも治療にも使える方法として、今でもちゃんと現場で役立てられています。フロイトが発見し、娘さんのアンナ・フロイトが集大成した「防衛機制」の数々(「合理化」とか「代償」とか「置き換え」とか)が、直接彼の影響下にない心理学諸派でも広く受け入れられているように、心理学の世界全体では、学派・学閥にとらわれず、いいところはパクりあっているようです。 それに、何と言っても文学的価値はある。おもしろい。だから、それを読んで、何かを感じ、何かを学び、なにがしか「自分」の糧となるものを見出す、そういうことならば、これはもう、バリバリおっけーですよ。ただ科学としては…(もお黙れ>電波) これと同様に、「自分の本質は自分で作る」路線もゴリゴリおっけーです。この世界に投げ出された個別者・単独者として、自分の自分たる所以は自分で作る。他の誰のものでもない、自分のものを。この営みって、もうほとんど「生きる」ということと同義だと思います。 しかし、です。 >「ん!そうにちがいない!我々人間は自由なのだ!」と思ってしまいます。 >そしてまた、個々の人間が勝手に自分の本質を創っていくのではなくて、人 >類全体(さらに言えば生物全体、宇宙全体)で、本質を模索しているのだ思っ >てしまいます。「宇宙史は宇宙の自己認識(自己創造)の旅なのではないか」 >と、ときどき思います。 Mori0309さん…これ、もろにヘーゲルしてます。ある意味、すごいです。Mori0309さんの直観が持つ貫通力には、もう、敬服してしまいます。これは皮肉ぬきです。だって、その「自己認識の旅」を、出発点から終着点まで叙述したら、それはもう、若き日のヘーゲルがイエナの町でナポレオン軍の砲声を聞きながら書き上げた『精神現象学』そのものになるからです。さらにはまた、後年、彼が『論理学』『自然哲学』『精神哲学』の三部構成を以て完成した、哲学体系の全体とも一致します。モノスゴイことになります。 が、しかし、これに関してはキッチリ歯止めをかけるべく、批判させていただきます。Mori0309さんの思いの純粋さを疑うものではありませんが、そのような考え方が現実的に応用された場合、それははっきりと危険な影響を及ぼしうるからです。 前の書き込みで、ヘーゲルは「自分の決めたルールに自ら従う主体」の概念を「われわれなるわれ、われなるわれわれ」という形で、共同体レベルまで拡大した、と言いました。それから、「誰でもありうる主体」とは「誰でもありえない主体」と表裏一体だ、とも言いました。では…ここでは何が起こるでしょうか? 抽象的観念でしかない「誰でもありえない主体」、にもかかわらず、人には「主体的であること」が要請されます。人は尋ねます。「主体とは何か?」…答え、「主体とは自分自身の主である。他によってではなく、自ら自分に命じるものである」。また尋ねます。「主体とは誰か?」…答え「おまえでもあり、おまえ以外のすべての人でもある」。「では、すでに私は《主体》なのだな?」…答え「そうだ。だが、おまえだけではない」…。 この禅問答は、その気になればいくらでも続けられますが、肝心なところはこれで十分です。「自分もすでに主体である」とされつつ、同時に「自分だけではない」とも言われている。そして「主体的であれ」と言われる。…つまりはこれ、「われ」に対して「われわれ」になれ、と言っているのです。もっとはっきり言いましょう。これは、個人の全体への帰属を要求しているのです。 カントやヘーゲルの根本的問題関心は「自由」にありました。が、その「自由」を追究する言説が自由を抑圧するものにもなりうるという、恐るべき逆説。さらに恐ろしいことに、現実の人間関係や社会の力学の中ではこんなことまで起こる。すなわち、「われ」に「われわれ」への帰属を要求すると同時に、「われわれ」であるような「われ」が立ち現れる、ということが。…非常に具体的で、個別的な個人です。ヒトラーとか、スターリンとか、金日成とか。 おわかりでしょうか? 「人類全体の、生物全体の、宇宙全体の《本質》」を観念し、それを「真の自分」と呼ぶならば…そういうことも起こりかねないのです。 人と人との連続性を強調する思想も大切です。なければならない。それがなかったら寂しすぎる。でも、強調しすぎて、すべての人を同一性の中に投げ込んでしまってはいけないのです。だから、僕はさっき言った「他の誰のものでもない、自分の本質を」というのを強調しておきたいです。(そういう意味でも、やはり「文学的主題」は軽視できない) また、このことに関連して、フーコーの主体論に関しても、ちょっとだけ付け加えます。 フーコーって人は、他の人たちが取りこぼしたものを丹念に拾って、調べて、語って、投げ出して、「後は考えてね」っていうところがある人だと思います。だから、僕の理解が十分なものであるかどうかは、とても自信が持てません。でも、とりあえず言うとします。 「認めているのか、いないのか」ということで言えば、認めています。先の書き込みでは、フーコーは「自分が自分の主人であるという意味での主体は不可能だ」と宣告した、と述べました。でも、それは実のところ、(推測ですが)上記のような意味での「主体であること」からの「解放」を意図していたのではないか、と考えています。 p.s.「個性化」の意味、「理性と感性」については、機会を改めます。
お礼
ozapanさん、ありがとうございます。数日のちにお返事します。
補足
ozapanさん、ありがとうございます。(自己紹介文、カッコイイですね) 「死して屍・・・」の回答は傑作でした。夜中に会社でゲラゲラ笑っていました。議論や 会話には笑いも大切ですね。私にはその方面の才能がいまひとつないのです。(余談) > Mori0309さんの思いの純粋さを疑うものではありませんが、そのような考え方が現実的に > 応用された場合、それははっきりと危険な影響を及ぼしうるからです。 > …つまりはこれ、「われ」に対して「われわれ」になれ、と言っているのです。これは、 > 個人の全体への帰属を要求しているのです。 私は、社会や文明や歴史を、個人や特権的頭脳集団が、恣意的に創造していけるなどとは、 まったく、全然、思っていません。「ヘーゲルは歴史上の登場人物の一人にすぎず、歴史が ヘーゲルのなかにある訳ではない」(秀雄)ですから。 恣意的に作られた政体も文化も、自己認識(自己創造)の模索の1ページにすぎない。 歴史を生きる人は、歴史創造ということにおいて、全員等価ではないでしょうか。 時代を生きる人々の大多数(臨界多数)が納得・合意しなければ、社会や文明の新段階 には移れないのではないでしょうか。それなしに築かれた社会や文明が早晩瓦解することは、 歴史が何度も証明してきました。私が「人類全体(生物全体)で本質を模索している」と 言ったのはそういう意味です。別にオリジナリティのある思想でも何でもないです。普通人の ただのコモンセンスです(ものすごく文学的ですけど)。歴史が物質的因果律のレール上を 「本質」による自動運転によって走らされているだけのものなら、我々に自由はありませんが そうでないなら、人類全体・生物全体・宇宙全体で本質を模索していると語っても、それほど 間違いではないのでは。 自己認識(自己創造)の旅は、生物に限って言えば、始まってからすでに30億年経過して います。『現実的に応用された場合、それははっきりと危険な影響を及ぼしうる』と言われ ますが、歴史を真に動かしているものは、誰かが作った応用可能な理論などではありません。 と、素人のMori0309は思うのですが、どうでしょうか。 > 人と人との連続性を強調する思想も大切です。なければならない。それがなかったら寂し > すぎる。でも、強調しすぎて、すべての人を同一性の中に投げ込んでしまってはいけない > のです 人を「われわれ」のなかに投げ込もうとする行為は、人をモノ扱いする思想だと思います。 「自由」はそういうものに抵抗しないわけにはいきません。どのような「われわれ」思想 も、人間の自由を殺すことはできません。だから「われわれ」思想の跳梁は、かえって 人間の自由が鍛えられる契機となるのでは。 (私はたぶん「われわれ」になって難を逃れる小市民ですけど、、、) > 「他の誰のものでもない、自分の本質を」というのを強調しておきたいです。 社会や文明や歴史から切り離された《自分の本質》などというものは無いと思うんです。 私はむしろ自分から脱落していく個人のほうを心配します。それが現代社会の最大の 病理であるとも感じています。つまり「自由な個人」に「社会」は手を出せないんです。 本人は「自分の本質」を守っているつもりでも、心が硬直化・砂漠化して、生命圏から 暗黒の闇に落ちこぼれようとしているんです。そういう人を「われわれの理論に取りこむ」 こと以外の方法で救済する必要があると思うんです。政治も法律も社会制度も倫理規範も そういう人を救うことはできないです。 (もちろん私のこの思想も「正しい思想」ではなく歴史の一登場人物の「模索」のひとつに すぎないです)
まず「真の自分」という場合、 「真」とはなんぞや? という問題から入らないとならないでしょう。 まず、「真」とは誰にとってのものであるか? ということから発することになりますが、 このへんのあたりは様々な哲学者、宗教者たりとても共通の見解を持てぬまま、「真」ということばを発しているかと思われます。 「真」とはなんであるか? という問いには十人十色の答えがあり、その個人にとっての都合のよい適合条件が当てはめられます。 つまり、そのような「真」であるからこそ、人は「真」を見つけるものとされる「宗教」「哲学」に惹かれるのだと思いますが。 つまるところ、「真」が人それぞれ、曖昧な認識の上に成り立っている以上、 「真」の自分というのも共通のものなどなく、曖昧なものであるのではないかと思います。 一時期はやった「自分さがし」というやつ、あれは今の自分からの逃避できる「都合のいい自分」を探すものであったのではないでしょうか? >「真の自分」という言葉は、自分自身の、内的自意識・魂・こころ・人格、それらの概念をすべて含むものと考えてください。 御自分で言っているそこに答えがある、僕はそう思います。 「の中に」ではなく「の全て」が「真」ではないかと。 ま、僕に「都合のいい答え」に過ぎませんが(笑)
補足
oni_ocさん、回答ありがとうございます。 > 「真」とはなんであるか?という問いには十人十色の答えがあり そうなんです。質問文に「真の」という言葉を使ってしまったため、「それ以外は自分 ではないのか」というご指摘をずいぶんといただき、自分の言葉の使い方の、ひとり よがりに気づいた次第です。 私が「真の」という言葉で表現したかったのは、「より影響力の強い」とか「より 上位にある」とか「より素直な」とか「より自分らしい」とか「より高次の」とか 「より道徳的な」とか「より良心的な」とか、、、、、、、 とまあ、こんなふうに、一言では言えないのです。 > 御自分で言っているそこに答えがある、僕はそう思います。「の中に」ではなく「の全て」 > が「真」ではないかと。 そうだと思います。で、その「真」なるものの正体が知りたいのですが。
お礼
> 答えが1つだと考えるから悩むんです。正、誤、真、疑、善、悪でかたづけようとする > から無理がでる。ならば、『コレもあり!』<-----(納得!)ということばに > なったのです。はやめに気持ち切り替えて『コレもありね~♪』っておもうほうが > 気持ちが楽になる。 なるほど。答えはたくさんあっていいんですね。その通りですね。ケンカをして決着を つける必要はないんですね。見方を変えれば見え方も変わる。誰も間違ったことは言って ないんですものね。(ということでいいのかなあ) 「真理」って何なんでしょう? そんなものないのかなあ? と、また悩みはじめる mori0309です。