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「怒り」は実在する感情、でしょうか?
こんにちは。 心理学のカテゴリーと迷いましたが、こちらに致しました。 タイトルにあるように、 「怒り」の感情は、皆さんお持ちなのでしょうか? 私は「感じない」のですが、これは何か「問題がある」のでしょうか? 例えば、「理不尽な目に遭った時」。。。 私はひたすら「悲しみ」を憶えます。 どんな目に遭っても(なかなか酷い目にも遭っている、と思うのですが)、「ああ、私は今怒っているんだ」と思う事がありません。 自分に対する「反省」、 相手に対する「想像」、 すれ違いに対する「無念」、 相手に悪意を抱かせてしまった事に対する「哀しさ」。。。等しか、自分の中に見つけられません。 「怒り」は感情の中では「低次なもの」と言う事ですが、 私の他にも「怒りを感じない人」はいらっしゃるのでしょうか? 私は「変」なのでしょうか? いえ。。。「変な人」と評される事には慣れているのですが。。。笑 漠然とした質問で申し訳ないのですが、何か、回答頂けたら、と思っております。 よろしくお願いします。
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フロイトイズムですが どうも怒りというのは解離的現象から発生するそうです 簡単に言うと心理状態をざく斬りされたような現象です。 つまり自我がエスと連動していてそれが現象や他者から エスを自我から解離させられるとその反動で死の欲望〔タナトス〕が 沸いてきます、そのタナトスは自我と連携する ことになります、そのとき何かのある種の現象から エスを自我から受動的(~させられた)に解離させられ ると自我は不満足になりますからその不満足の自我と タナトスが融合するので【破壊性】として現れてくるのだ そうです。 なので怒りでなく悲しみという場合は他者(そのたもろもろ) に破壊性を向けるのではなくその現象に対しての虚しさとし て現れてくるということではないでしょうか? この違いは自我の能力の違いと言えるかもしれません はじめの怒りの方は自我を守るということだと思います 悲しみの方は自我が悟るということだと思います。 ちなみに自我の能動的(~した)なエスの昇華で自我から解離した場合 自我は【~させられた】のではなく【~した】と感じる わけですから満足となりますのでその後タナトスが沸い てくるのですがその場合自我が満足しているので怒りや 悲しみという不の感情ではなく、【安らぎ】とか【落ち着き】 などという【静】の感情が沸いてくるはずです。 つまりこれが超自我となるわけです。 なので育成過程で超自我を形成させるというのはまず自己満足 を旨く果たさせてあげることつまり子供を子供だからというなかば 投げ出しの目でみないということ、つまり自己に対する愛情を注いで やることがまず第一優先です、その後超自我として素敵な敬意とし て帰ってくるのだと思います。
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- sheep67
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付け足しですが、 怒るときに自分がない、というのは不正確ですね。自己の本質部分がない、と言えますね。自分というもの、表面部分とコアになる部分に分けると。ーーこんなんわかってはるような気はしますが。 あと、非存在について、もともと本の知識です。 明橋さんの、「輝ける子」です。その中の、自己肯定の第一歩としての存在への安心、という言葉です。~~児童心理学の本ですが・・ 本の中で、存在への安心が大事、ということは、普段自己存在に対して安心がない=自分の、非存在感、と解釈してます。 もともと、心理学哲学宗教と分けるのが変だと思います。同じ脳と心の話なのに・・・。
お礼
>でも僕は、闘うより、自分を主体にして状況を判断して、よりよい方向に努力するほうが、結局近道だとは思います。 >今の状況を土台に一番いい手を打つだけかなーという気もします。 はい。^^ 「現状分析」に止まらず、より深く一歩踏み込んだアドバイスに心から感謝致します! 「問題」は、今、では無く、「明日をどう生きるか?」ですものね。 「客観的に過ぎず」、調和し、人間味ある自分をどう描いて行くか、導き出して行くか、ゆっくり考えて生きたいと思います。 「怒りは、主体が無い感情」。。。。この一言が、私の「怒り」に対する疑問や嫌悪感の「元」を言い当てて下さったように思います。 私は常に「主体的に生きたい」と考えています。 例え、傍から見て「そうは見えない」としても、「そうなった自分の意志」は常に意識していたい、と考えています。 そう望む私だから、「怒り」という「主体の無い感情」が引っかかった、のだと思います。 そう言う意味では「怒り」は、感情ではなく「衝動」なのでしょうね。。。 暖かく、明るく深い回答をありがとうございました!
- sheep67
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こんばんはー。 他の人の意見と違うかもしれませんが。 僕が文章を読んで想像した解釈したとおりで間違ってないなら、 怒りを感じない、と言う感性は、うらやましいー、と思いました。 ここからは考えですが、 反省、想像、無念は、状況判断だと思います。僕はそう思ってます。 怒り、はもちろん感情です。 悲しみは感情ですが、それは「わたしが」悲しむ、と言う、悲しむ主体が居ます。自分の上に、喜怒哀楽の感情は乗っかって成立します。 でも怒りは我を忘れます。自分が消えます。 難しくいうと、怒りと自己存在は相補的です。 自分が存在するか、怒りが存在するか、と言う関係です。2者択一です。(これは厳密な言い方ではないですが) おおざっぱに言って、怒りは自分の、非存在感ーつまり、何か胸にぽっかり穴が開いた、とか、自分に欠けてる感じがあるとか、心のよりどころがない、足りない、等が元に起こっています。 自分が存在する、ということを元に起こる感情ではありません。 普通の喜怒哀楽は、自分が存在する、ということを元に発生しています。 自己の存在が傷つけられる場面に遭遇しても、自己存在を失うおそれを持っていない、といえます。 病気治療といわれてますので、自己防衛のために闘うエネルギーがないのかも、とは思いますが、細かいところはわかりません。 でも僕は、闘うより、自分を主体にして状況を判断して、よりよい方向に努力するほうが、結局近道だとは思います。 理不尽などの、普通怒りを出しやすいものに対する、逆の状態は、理解です。怒りは、理解できないから発生する、とも言えますし。 分かってしまえば、理不尽と思ったことも、そうか、で終わることもありますし。 怒りは、問題解決の行動を起こすために必要なエネルギーもくれますが、本来それは、勇気としてあるべきで、怒りから補うのは変だなーと思います。(理想をいってるだけですー) なぜそうなったかわからないですが、今は客観性の強い状態だと思います。精神疲労でなっているのか、感情の波を克服してなっているのかわかりませんが、それだけは言えると思います。 我を失うほど主観的になれるのは(怒りに飲まれる、任せる)、いいとも悪いとも言えないし、今の状況を土台に一番いい手を打つだけかなーという気もします。 自分があるから状況判断もできるし、自分があるから普通の喜怒哀楽も起きます。 でも、怒りは、例えば突っ張ったり、仲がいいはずなのに絶交したり、と言う関係の途絶につながることを見ても、本質的に感情表現ではないし、ちょっと照れて怒る程度なら別ですが、本質的な怒りは自己喪失だと思います。 こんなところでしょうか? とにかく何かちょっと僕と似ているところがあってうれしかったです。
お礼
回答頂き、本当にありがとうございます!! >怒りを感じない、と言う感性は、うらやましいー、と思いました。 あ。。。「感じない」と言うよりも、 *見栄っ張りの性格故、「怒りを人に見せたくない」と望み、 *「怒りを感じて」から「理性的な思考へ移行」する為の「時間の短縮」を長年試みた結果、 *「怒り」をすっ飛ばして、「悲しみ」に飛ぶようになった 。。。と言う感じですので、「厳密に感じない」と言う事ではないようですので、あまり「褒められる事ではない」です。^^ でも、ありがとうございます。 >反省、想像、無念は、状況判断だと思います。 そうですね。。。私はそのような「理性的判断」を好み、「優先したい」と考えています。 考え過ぎて無理をしないように気をつけている、と言った所です。^^ >でも怒りは我を忘れます。自分が消えます。 >自己の本質部分がない、 #9のTENNTENNSEVENOK様がおっしゃる「解離的現象」ですね。 「主体がない」「怒る主体」と言う表現は、とても判り易く、しっくり来ます。^^ >怒りは自分の、非存在感ー >つまり、何か胸にぽっかり穴が開いた、とか、 >自分に欠けてる感じがあるとか、 >心のよりどころがない、足りない、等が元に起こっています。 はい。おっしゃる感覚、よく判るように思います。 その「自分の内部の空洞」が、「破壊性」「非生産性」を生むと言うのは、至極当然の成り行き、かも知れませんね。 私自身が今迄に味わった心の中で、「一番恐ろしい」と感じたのは、「虚しさ/空虚さ」でした。 「存在が無い存在」と言うのは、具体的な悪や恐怖よりも、「もっと根源的な恐怖や悪」を生み出すのでしょうね。。。。 >怒りは、理解できないから発生する、とも言えますし。 (何だか「目から鱗!」の言葉を次々に頂けて感激しております!^^) はい。 「深い怒り」と言うのは、「理解出来ないもの」に対して沸き起こりますね。。。「日常的な怒り」もそうですが、こちらは主に「すれ違い」であり、もう少し、あと僅かの心がけで解消するもの、である事が多いと感じます。 #24のお礼欄へ、続けてお読み頂けますでしょうか。。。?
#17です。 再投稿をお許し下さい。 貴女の問いただした「怒りを感じない」「怒りは実在する感情か」という質問は、大変に奥深いものと私は思います。 才気溢れる貴女のことですから、人一倍こだわりをもって「怒り」という感情を捉えようと努めている姿勢が、今までの回答された方々とのやりとりから私は読み取ることが出来ました。 決して「他人」からは推し量ることのできない複雑な様相を呈しているのではないでしょうか。 貴女の「ある出来事」の因果関係の考察についても、まだ結論は出ていないようですし。 この質問を通じて、様々な知の鋳型にあてはめて捉えようとする「怒り」とは、何と個人の思考の形によって趣を変える面白いものなのだろう、と驚きながら拝見させていただきました。 貴女と他の回答者様とのやりとりは大変ユニークで、ある方はご自身の経験談から回答を引き出す、またある方はフロイト、そしてまた他の方は「快感原理」と「現実原理」との比較考察、「煩悩」、「ホルモン物質」「衝動」起因等など、どれも興味深いものでした。 ですからこの質問に寄せられた今までの回答は決して貴女にとって無駄ではなかったと信じています。 私個人的な回答としましては、率直に言って、とても幸せな生活を送っているから怒りを感じにくいのだと思います。 子育てのストレスや家事に由来する些細な不満から、果ては各種マス・メディアによって伝達される厭世的かつ理不尽なニュースに対する憤りに至るまで。 日々何かしらの感情を抱かないわけはないですよね。 恐らくは可愛い愚痴や不満を最愛のご主人へ小出しに発散して、夫婦のコミュニケーションを上手く形成していることに当たり前となっていて、それほど気づいていないだけなのかもしれませんよ。 ではインターネットはどうでしょう。 ネットだから何ら実害がない、と貴女は本当に思いますか。 これは個人の考え方、感じ方によって異なると思われますし、瞬時に感情が鎮まるかどうかというのも個人差があるでしょう。 感情は大変主観的なものなのですから。 そして時として悲しみへ転化して鎮まっていくであろうこの厄介な感情は、第三者から見たらとるに足らない滑稽な様子に映ると#19様の回答から私は拝察致しました。 このサイトにおいては、会員同士がお互いに怒りを覚えるために質問に投稿、回答を寄せ合っているわけではないと考えます。 私自身、自省期間を経て、過度の私語や言葉選びに配慮して回答をしたためているつもりです。 ですが時としてある特定の方と回答を同じくしてしまうだけの場合、その都度貴女のように誤解されてしまうのは私も経験者だけに非常に辛く、怒りではなく悲しみが募るのです。 貴女もこのような感情を抱くのでしょうか。 怒りと捉えらるほどに自ら自傷行為の罠に陥るか、或いは笑いなどの感情へ転化させ得るか。 ネットは「両刃の刃」。 「ママは天然記念物イリオモネヤマネコだね」と笑い&泣き上戸、やれお調子者だなぁと、夫と娘達からからかわれるネットに疎い私にとって、この度は大変得難い教訓とすることが出来ました。 まだ貴女の「怒り」についての考察の答えは出ていないのですよね。 出来るだけ多くの回答の中から、貴女の問いただしたい「怒り」について何かヒントを見出していって欲しいと思わずにはいられません。 頂戴した得難い回答を基に、しっかり思索なさっていって下さいね♪
お礼
再びの回答をありがとうございます!^^ 他の回答者の方へのお礼も兼ねて、この欄を使う事をお許しください。 今回、この質問をした事で、「怒り」と言う、私にとって「好ましくない感情」について、よりしっかりと向き合う事が出来たように思います。 そして、皆様に頂いた、様々な観点/理論からの奥深い回答、現実生活に即した視点からの「私の心の無理」を心配する暖かい回答。。。。どれも新鮮で参考になりました。 頂いたお智慧を活かし、より良い人生/生き方/人間に近づけるよう、努力して行きたいと思っております。 皆様の貴重なお時間、深い思索から生まれたお智慧の提供に心から感謝申し上げます。 ありがとうございました!!
yukkinn66さん はじめまして。 怒りは実在する感情じゃないといけない。そう考えているものです。 自分のなかの怒りというのは、恐らく誰もが自分自身が一番疲れてしまうのではないでしょうか? だから早く消したい、消えて欲しいというのは自己防衛が働くからです。 私は長く人を恨んでいたり、憎んでいたり、怒っていることができません。 人はそういうものじゃないでしょうか。 怒りを感じないというのは自分は悪者になりたくないという意識に見えます。 >私は「変」なのでしょうか? いえ。。。「変な人」と評される事には慣れているのですが。。。笑 変ではなく「おかしい」 失礼な書き方をすれば異常ということだと思います。 >自分に対する「反省」、 相手に対する「想像」、 すれ違いに対する「無念」、 相手に悪意を抱かせてしまった事に対する「哀しさ」。。。等しか、自分の中に見つけられません。 では反省とは言葉だけじゃなく態度や行動で示すべきです。 もし反省されているなら質問の目的は達せられたので早くこの質問を締め切ることではないでしょうか?でないと変な連中をこのサイトに呼び込んでしまう。 現に、お仲間がきてここは荒れはじめている。 yukkinn66さんもご存知のはずです。 そしてyukkinn66さんも煽りをしている人物と同じです。 もう辞めてくれませんか? こういう煽りをする場所を提供するのは控えて頂きたいのです。 yukkinn66さんのお仲間はここで煽っている。 一般の人にわからないように相手を煽っている。 yukkinn66さんもそれをわかって質問を開けているようにみえるのですが? それが罪ではないでしょうか? いい年の人たちがあっちこっちを意識して書くことに私は不愉快です。 早く質問を閉め切って下さいますようお願い申し上げます。 サイト管理者にも連絡をしておきます。 どうぞ宜しくお願いします。
お礼
回答をありがとうございます。 >怒りは実在する感情じゃないといけない。 はい。 「何かに気付く為」に、その「切っ掛け」となる感情です。 持っていなくてはいけませんね。 >自分のなかの怒りというのは、恐らく誰もが自分自身が一番疲れてしまうのではないでしょうか? その通りかも知れません。ですが、 >だから早く消したい、消えて欲しいというのは自己防衛が働くからです。 この「自己防衛」は、私の中では「第二の目的」です。 私が一番恐れているのは、私が感じる怒りによって、「誰かに害を為す」事です。「怒り」は多分に「衝動的」です。 私は、「プラスの感情」は多いに発揮したい、と考えています。 反対に「マイナスの感情」は、「必要最低限の発露」に止めたいのです。 そして、可能な限り、「全ての感情を生産的な方向へ利用したい」のです。 >私は長く人を恨んでいたり、憎んでいたり、怒っていることができません。 >人はそういうものじゃないでしょうか。 はい。「多くの感情は」そうだと思います。 しかし、意志的に「継続して持たねばならない感情」も存在する、と私は考えます。 例えば、「親への愛」「こどもへの愛」「配偶者への愛」 「被害者としての苦しみ」は忘れても、「加害者としての苦しみ」は忘れてはならない。 「日常の怒り」は忘れても、「不正に対する怒り」は持ち続けるべき、だと思います。 このような「意志的な感情」こそが「大切」であり、「価値があるもの」であり、「周囲へ発露するべきもの」だと思います。 逆に言えば、「日常的な感情」は、「自分同然の身近な人間」に発露するに止め、そこで「処理/昇華」を終わらせ、「自分の感情」と銘打って「社会/周囲に発露すべきではない」と考えています。 私は「発露すべき自分の感情」としての「怒り」を、周囲の人間に「判り易くしたい」とこどもの頃から考えて来ました。「怒った」ところで自分の思いが伝わった事等無かったからです。 その為の「自己分析」や、「生産性」と言う視点での「感情の見直し」等を長年試みて来ました。 その「長年の結果」を見直し、改善点を見出し、更により良く生きる為に何を気を付けるべきか?、とこの質問をさせて頂きました。 こうして、色々な視点、観点からのご指摘を頂いた事、頂けるこの場に、心から感謝しております。 ありがとうございました!
- bagnacauda
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お礼ありがとう。 ショスタコーヴィッチと「怒り」の話ですが、僕はショスタコーヴィッチという作曲家の一番の特色は、その多様性というか、音楽の引き出しの多さだと考えています。 まあ、いろんな曲、いろんな音、いろんな様式、交響曲の数もベートーベン以後の大作曲家で最も多いと言えるし、しかもレベルが高い。 彼の「怒り」って「やり場のない」ものなんですよ。 スターリン体制下の理不尽は感じても、それを表だって言えない。 そういう中で、粛正を免れながら、世俗的にも高い地位を守り、しかも自分の音楽を追求する。 矛盾と才能、怒りと希望、使命感、なんというか、ものすごい人生、本物の怒りなんだと思う。 「やり場のない怒り」って辛い。 しかし、多くの無教養な脳細胞の持ち主の劣った怒りって、全然レベルが違って、ちょっと視点を変えれば「滑稽」この上ない。(笑) でも、あの「スピード感」は凄い! かの「スピード感」のお陰で、僕は捜したい投稿を朝起きれば簡単に一発で見つけることができる。 とても頭は悪いが特別な機能に特化された検索エンジンを手に入れた気分。 しかも大笑い付だから、こりゃ~手放せません♪ 間違いなく、僕の感情は「怒り」とはほど遠い。 みんなそうでしょ?幸せな人生を送っていれば♪ ショスタコーヴィッチは、あまりに作品が多いです。 先ずは3曲推薦します。 ●チェロ協奏曲 第1番 ●交響曲 第10番 ●ピアノ五重奏曲 以上^^
お礼
こんばんは。 三度目の回答に感謝します!^^ ブルックナーの七番を、マタチッチのチェコ・フィルで聴きながら、書いております。 >ショスタコーヴィッチと「怒り」の話ですが、 やはり、「今手にしているもの」を「捨てる」と言う事は、「可能性/未来の一つを手放す」事に成るのかも知れない、と思います。 どんな物でも、「マイナスに見えるもの」でも、「プラスに転じる」事は「可能」なのでしょうね。。。。 「やり場のないもの」って、ものすごいエネルギーを含んでいますよね。 「蒸気機関の発明」って、じつは「かなり哲学的発見」でもあったんじゃないか。。。なんてふと思いました。 私の文章って「脈絡が無い」のでしょうか? 全て頂いた回答から派生した事、なのですが。。。 何故だか、「関連性の無い事柄」が、何らかの糸で繋がって行くのです。 ですから、「全然回答を無視している!」等とは思われないでください。 それだけ、「深い回答」を下さっている、と言う事なのですから。 「水の沸騰」と言う、古代から生活に染み込み過ぎる程染み込んでいるものを、全く新しい視点で新しい活用法で「動力に応用」した。 その「転化」が可能であれば、「非生産的な怒り」の「生産性への転化」等、「不可能な筈が無い」と思えてしまいます。 その「転化」に必要な「発想/新しい視点」が、「幸せの実感」かも知れませんね。 頂いたショスタコービッチの曲、心して聴きたいと思います。 今、ブルックナーの二楽章を繰り返して聴いています。 ありがとうございました!!
ANo.5です。 実は私はこの質問に回答し、その後ついたお礼やその他の回答をよみ怒りが襲ってきました。 そしてその怒りはyukkinn66様の仰る通りにすぐに哀しみに移行しました。 この質問に回答すべきでは無かったと、です。 これはただの質問ではないのだと気付いたからです。 このご質問はNo.13様とNo.17様の書かれていた「別サイト」というのがキーワードになっているようですね。No.13様の(現在は修正済みの回答)で私はそれを知りました。 yukkinn66様もその意味合いをこめてお返事を書かれているようですし部外者が回答すべきではなかったようですね。 この質問に新たに書かれる回答やその返答に意味深さと、別の意味があるのだと察知しました。 このご質問がネットのうえでの怒りというものをさしておられるならば、それは感情が早く移行するのは当たり前だと思います。ネット上の悪口なんて何も害がないからです。 だから怒りも早く解けるのでしょう、と今なら思います。 もしこれが家庭内の現実のことのときyukkinn66様の怒りは早く昇華されますでしょうか?私は無理だと思います。次元が違うからです。 怒りは正しく開放、放出されるべきです。 今回のご質問もその意図があってされたのであれば「正しい開放、放出」ではないようにみえます。 このご質問で別サイトの怒りは開放されたのでしょうか? 私は以前違う方のご質問で回答したことがございます。 大変多くの回答を寄せられておりますのでお時間のある時に読んでくださればと思います。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4371475.html 今回のお怒りも別の開放の方法があるのではないかということに気付いて頂けることを願っております。 私は怪物になりたくありませんのでこれで失礼致します。 それではお元気で,お大事になさってください。
補足
こんばんは、kelly585様。 返事が大変に遅くなりましたこと、お許しください。 そして、この質問に回答くださった皆様。 きっと、私への疑念と不快さでいっぱいの事と、思います。 心からお詫び申し上げます。 申し訳ありません。 もし、お時間、お心がお許しくださるなら、この先の私の弁明をお読みくださると、大変嬉しく思います。 kelly585様が、このような回答を下さり、拝見しまして、私は呆然と致しました。 本当に久々に、「呆然」とし、本当に久々に「心が痛む音」を聴きました。 kelly585様のお心を苦しませてしまった事、 自分の行為が「無意味」「悪用される」と言う事は、何よりも堪え難い事、屈辱的な事、虚しい事、であると、思います。 そのような「誤解」を、この私が作り出してしまった事に、激しく心が軋みます。 はい。「誤解」です。 一つずつ説明させて頂きたいと思って、此処に参りました。 >この質問に回答すべきでは無かったと、です。 いいえ。回答くださって、本当に感謝しております。 >これはただの質問ではないのだと気付いたからです。 「只の質問」です。 強いて言えば、私自身の「カウンセリングの為の質問」です。 「それ以外の意図」はありません。 >このご質問はNo.13様とNo.17様の書かれていた「別サイト」というのがキーワードになっているようですね いいえ。それと、この質問に直接の関係はありません。 >yukkinn66様もその意味合いをこめてお返事を書かれているようですし これについては、少々長い説明が必要になります。 この掲示板には、本当に多くの方が集まっておられます。 その中を、それこそ「街の中を歩くように」歩いていると、「心惹かれる方」をお見掛けする事があります。 私は、この掲示板が「街」と思えて仕方が無いのです。 とても「素敵な街」です。 勿論、行き交う人々はとても数え切れず、顔も知らず、気にもかけず行き過ぎる事が多いのですけれど、でも、「ふと気になる言葉」「ハッとさせられる一文」。。。そんな物に目を留めるのは自然な事。 いいえ、きっと誰もがそんな「琴線に触れる何か」を求めてこの掲示板に集まっているのだと思います。 その中で、ふと気付いたら、「この前見掛けた人が、また素敵な言葉を言っている」「あれ?この人何だか気になる」。。。そんな事が在ります。街中で、でしたら、「目で追い掛ける」ですよね? 此処でも同じ事です。そうしていたら、「少しずつ知って行く」訳です、その人の事を。 だから、「以前やり取りをした事がある」と、その人に関する「情報が多い」のは当然の事です。相対的に「お互いの理解度が高い」のは、当然の事です。 「多少の説明を省く」程度に「知り合いである」。。。と言う事なのですが。。。 >部外者が回答すべきではなかったようですね。 いいえ。 私は「怒りと言う感情」について、また「その生成の過程」について、「自分に必要な解答(回答ではありません)」を探しています。 その為には、「様々な方の」「様々な言葉」が必要でした。 ですから、kelly585様も、他の方々も、回答を下さり、「私を助けて」くださっています。 ありがとうございます! >このご質問がネットのうえでの怒りというものをさしておられるならば 違います。 私がこの質問の対象としている「怒り」は、「全ての怒り」です。 >それは感情が早く移行するのは当たり前だと思います。 いいえ。 このkelly585様の回答を拝見して、私は「人に誤解を受けた時感じる哀しみ」を「いつものように」感じました。 >ネット上の悪口なんて何も害がないからです。 いいえ。 「害が無い」なら、何故ニュース等でこれほど迄に「ネチケット」や「書き込みの内容」が問題視されているのでしょうか? >もしこれが家庭内の現実のことのときyukkinn66様の怒りは早く昇華されますでしょうか? はい。「それを不思議に思い」、この質問を立てさせて頂きました。 >次元が違うからです。 いいえ。「私にとって」は、此処は「ひとつの街」です。 実生活と何ら変わりはありません。 >怒りは正しく開放、放出されるべきです。 はい。 その為の方法、考え方を、皆様に助けて頂いております。 >今回のご質問もその意図があってされたのであれば いいえ。先程それは否定させて頂きました。 >「正しい開放、放出」ではないようにみえます。 ですので、これはこの質問には当てはまらないものです。 >このご質問で別サイトの怒りは開放されたのでしょうか? このご質問が「誤解」である事を判って頂きたいのですが、こんな私では力不足かも知れません。 どうか私の未熟さをお許しください。
「怒り」。これは紛れもなく実在する感情だとわたくしは思います。 そしてこれを素直に感じる自分を正しく認識して、的確かつ速やかに発散していけたらどんなにか楽でしょうね。 何よりもそれが一番自然なことではないでしょうか。 貴女が怒りを感じないとおっしゃる、その深層心理に何がしかへの転嫁か昇華ではないストレスの貯めこみをしているとするならば。 理屈に疎いわたくしには、貴女のそれを危惧せずにはいられません。 どうか決して無理をなさらないで下さいね。 そうでないことをひたすら願うばかりです。 わたくしが思うに、貴女の素晴らしいところは物事を前向きかつ善良なる方向に捉えようとひたむきに思考することです。 そして大変な努力家・読書家でもあり、わたくしは自分に無いものだけに、素直に尊敬します。 ですが、理詰めで内なる感情について思考模索する手法以外にも、時には自然なままに感情を小出しにするのも可愛らしいと思いますよ。 例えば、母としてせっかく大切なお子さん方を育んでいらっしゃる最中なのですから、もう一度自ら幼き心に戻って一緒になって無邪気に怒ってみるとか。 (家庭外での公共のマナーとはもちろん別の話です) 哲学的な話に疎いため、このように大変に稚拙な内容となってしまいました。 参考にならなくてごめんなさい。 わたくしは貴女と違って喜怒哀楽をストレートに出してしまう性分なので、控え目で慎ましやかにふるまう貴女を見習いたいものです。 この1か月ほど、こちらのサイトにおける自らの寄稿に対し、わたくしは出来得る限りの自省を試みました。 そのあいだ別サイトにおける思わぬ風評に怒り傷つくことも多々ありました。 それを察してか、ある方がわたくしを鼓舞するべくわざと気丈かつ尊大に振舞って下さったので、わたくしは為すすべのなかった内なる怒りの発散をすることが出来たのです。 本当に有り難かったです。感謝の気持ちで一杯です。 (照れ臭いから一回しか書きませんからね♪) 時には「弱い自分」を思いきりさらけ出してしまう「格好悪さ」というのも、なかなかに悪くはないものだなぁ、と素直に思いました。 また今後は初心に戻ってより一層慎ましやかに寄稿していきますので、よろしくお願い申し上げます。 たかだかネット上のお話なのですが…。
お礼
お久しぶりです。 暖かい回答をありがとうございます。^^ >「怒り」。これは紛れもなく実在する感情だとわたくしは思います。 そうですね。 こちらで色々と伺いまして、私の中にもちゃんと「怒りが存在する」のは確かだと思っています。 >これを素直に感じる自分を正しく認識して、的確かつ速やかに発散していけたらどんなにか楽でしょうね。 はい。 「理屈でないもの」を「理詰めで考える」矛盾はありますが、出来たら、こんな「非生産的な感情」でも、何らかの生産的なものへ転化して、利用して行けたら、と思っています。^^ >貴女のそれを危惧せずにはいられません。 はい、ありがとうございます。 他にも何人もの方が、同じように「私の心の無理」を心配してくださり、改めて、「人の暖かい心」を実感しています。 「怒り」と言う、「好ましくない感情」を排除するのは不可能ですが、その「怒りの行き着く先」を、「暖かい心」に出来たら良いな、と思います。 もしかしたら、「何かに気付く為の感情」なのかも知れませんね。 ありがとうございました!!
ついでと言ってはなんですが超自我についてですが 超自我というのは人の心の躍動を静に直し安楽を求めるという自己安定の要素だけではなく他にも 親の性格や育成環境もしくは躾などによる超自我というのもあります このなかで性格というのはモニタリングにあたる超自我といえると思いますこれは自我が未熟な故に本能が無意識的に親の性格をモニタリングして感情を間接的に形成していく段階で勝手に超自我が身についていくというものです、これは自分で生命を維持できる能力が無いが故に親の性質の影響を受けることで生命を維持しようという無意識の倒錯です、自分がさびしいときやなんか物足りないときに親に甘えたりまねをしたりするのは無意識の不安信号を解消する行為であってそれが超自我へ変わるということです。 二つ目の育成環境というのは自我の模索といったところだと思います自我の模索における超自我は理想となって現れてくることでしょう、エスを他の環境を参照にしてに昇華しようと試みることです、例えばアイドルに憧れを抱いた少女が居たとしたらその少女の願望はアイドルに近づく行為として昇華を果たそうと試みるということになるでしょう、これは周囲からも良い風に見られるとか話の話題として盛り上がるなどという利点などからも自我にとってはうってつけです、なので理想というのは周囲の環境が大いに作用していると言えると思います。 三つ目の躾ですが、この躾は親の誘導ということですが、親がしっかりしているとその親を脅威と無意識は感じますので半ばエスむき出しの悪ふざけ行為というのを抑制するということでしょう なのでそのエスは親の目の前では怖くて出せず他の方法を模索するしかなくなるのです、それがまともな方へ傾くと善意の基礎として根付くのだろうと思います、これは不当な方へ傾くと親の目の前だけでしかっりしてればいいやという悪意的な形として超自我が現れてくるということだと思います、子供も馬鹿ではありませんからそのくらいのことは考えだして、(←この『考え出して』が超自我の所業)だまし続けようとたくらんでいる子どもはわんさかいます。 大まかに書きましたが分かりやすく超自我を説明すると 包丁を扱うときを思い出してみるといいかもしれません 包丁は手を切るかもしれない脅威です、この脅威に無意識的に不安を感じます、なので自我は『うまく包丁を操作せねば』と(こんな言葉はいいませんよw)感じるわけで、それが一時超自我となりその内自我にとりいれられて無意識的自我の能力のひとつとして備わるわけです 自動車教習上ではじめの運転が緊張するというのは『事故らないようにうまく運転せねば』という部分的な超自我が働いているということになると思います、この包丁や運転に対して不安を感じる要素のひとつがタナトスということになります、このタナトスを自我とどう混合するのかによってその方向性は大いに変わるのでしょう。 ちなみ先ほど「超自我が自我にとりいれられて」と書いたように超自我は必ず安定しているものとは限りません、無論自我もエスも同等です。
>「解釈に間違い」がありましたら、訂正をお願い出来ますでしょうか?> まあこれといってなかったんですが付け加えという形で >>怒りは解離的現象から発生する つまり、外からの刺激に対する「自己防衛の手段のひとつ」と言う事でよろしいでしょうか?> よろしいです。 >>エスを自我から受動的(~させられた)に解離させられると >【破壊性】として現れてくる 破壊性。。。と言う言葉にハッと致しました。 そうなのです。「怒り」に潜む「非生産性」が私は嫌いなのです。> あなたはまさに悟っているわけです。 >>自我の能動的(~した)なエスの昇華で自我から解離した場合 >自我は満足となりますので >【安らぎ】とか【落ち着き】などという【静】の感情が沸いてくる うーーーん。。。要は、「自分の言動全て」に「自分の意志を意識」していれば、「刺激に対応する反応」は「生産的なもの」になる、と勝手に解釈しました。^^> >自分の言動全てに>というところの意気込みが凄いですねw 【生産】や【非生産】という置き換えはまた斬新でおもしろいです 付け加えておけばあくまで昇華ということですので、無理をするという行為はある種マイナスになる可能性もあります、つまりもはや自我が満足しているのにそれにもかかわらず強引に無理をしてしまうと逆に自我を痛めつける破目になって(会社などの現実的にどうしてもという場合以外を省いて)逆に自我が不満をきたしていらいらするということもありえますので極端な無理は控えた方がよさそうです。 >その代わり、自分の言動は強く意識し、忘れないようになった気がします。 勿論、「こども達の失敗」が「私の失敗」にならないように「言い訳の為の資料集め」です。笑 そっかーーーこの方法、ちょっと嫌だなと思っていたのですけれど、結構生産的なんじゃありませんか!笑> なるほど内容的にはよいと思います、もんだいは子供の本質どう連動しているかどうかですね。 つまりよいことを言ったとしても本人がそれをどう感じどう学校や友達関係の中でどう発現しているかということです。
お礼
お礼が大変に遅くなりまして、申し訳ありません。 思わぬ方向へ、話が進んでしまい、とても不快な思いをされている事と思います。 この質問を立てました私に責任がある事です。 もし、お時間、お心がお許しになりますなら、#18の方の補足欄をお読み頂ければ嬉しいです。 >怒りというのは解離的現象から発生する 何気ないこの一文を見過ごしておりましたが、 「怒り」と言う現象は、それそのものが「アンバランスな状態」と言う事なのですね。 では、「その他の感情」はどうなのだろう?、と思ってしまいました。 「感情」とは、「バランスを失った状態」の事を言うのでしょうか。。。? それとも、「バランスの有無」は、「自我の満足/不満足」で決まるのでしょうか。。。。 これを決めるのは、「自我とエスの解離」が「能動的か受動的か」でしたね。 ううーーーん。。。やはり「フロイトイズム」の理解がなされていないので、イマイチ比較や展開が出来ません。汗 よろしければ、フロイトイズムについて、初心者にも理解し易い書物等ありましたら、教えて頂けませんでしょうか? この後に頂きました回答の「超自我」についても、せっかくご教授頂きましたのに、理解が進まず、もったいなく思っております。 >>自分の言動全てに>というところの意気込みが凄いですねw いえいえ。「他人の言動の責任迄背負い込む」事を辞めたら、自分の行動に込める「意志の量」が増えたように思うのです。 ひとつひとつの言動に、「これは自分が望んで決めた事」と「ちょっと立ち止まって確認する余裕」が出来た感じです。^^ それに、結婚をし、こども達を産み、育てている「今」は、「何も護る物が無かった頃」よりも、「行動の選択の条件」がはっきりしていて、右往左往する事が減りましたので。^^ 再び、三たびの回答、本当にありがとうございます!!
- magga
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<<『感情は大きく別けて「怒り」「欲」「無知」』こういう分け方も有るのですね!>> 感情自体は煩悩の部類のこの三つ。細かく別けるともっと増えて分別出来るだけしようとすると5000近くになるとききます。それも大きく別ければこの三つに集約できると思います。 自他の苦しみを生み出す醜い・汚い毒のようなものなので「三毒」と呼ばれています。 もう一方この煩悩を出にくくする逆の感情である「慈」友のような心「悲」悩み苦しみがなくなるように思う心「喜」成功を喜ぶ心「捨」冷静な生命を平等的に観る心。という善心もありますね。無量に育てるべき心と言ういみで「四無量心」といわれています。 これらは煩悩とは同居せず、同じとき瞬間には出る性質は無いと思います。そして心は思い癖のような性質があり、よく思念した思考に赴きやすくなる性質があると思います。 <<私は「暗いもの」「醜いもの」が嫌いです。世の中には様々なもの、人が溢れていますけれど、私は「生物は、明るいもの、美しいものを見て、目指して生きるべきだ」と考えております。そうする事が「先物としての自然」であると思うのです。^^>> ですね。 「暗い醜い」感情である「三毒」多くいるより。「明るく美しい」の感情「四無量心」多くいたほうが因果法則にのっとった自然な状態と言えると思います。 <<「暗いもの/醜いもの」を「否定する/捨てる」のでは無く、共存しつつ決して「それが主流」にならぬように心掛けて行く。これこそが「調和」ではないかな?と考えております。>> 煩悩・三毒は理性を圧迫します。感情的になっているときは冷静な判断が出来ませんね。冷静な判断が出来なければ自分や他人の役に立つ行為が何なのか判断できず、失敗する可能性が増します。 慈悲喜捨の心は理性を伴います。 慈悲喜捨を多く思念することによって三毒が自然に出にくくなりますね。 その「暗いもの/醜いもの」である三毒が主流にならないように「気付きを保ち」ながら「明るい/美しいもの」である慈悲喜捨が主流になるように「調和」に向かっていくことはすばらしいことだと思います。 拒否感無く、自然と三毒を捨てていく道になると思います。 <<私が私の中で行いたい「調和」は、「怒りを消す」のではなく、「怒りの生じる切っ掛けや様子」を把握し、そのエネルギーを「より生産的なものに変換したい」と言う事です。>> 「怒りの生じる切っ掛けや様子」に「気付き」を持つことで、その原因と結果・そのシステムを分析理解し、知り、その結果その感情を正しく運用し、真に自他の役に立つ道を発見し、その道を実践すると言うものですかね。 すばらしいことです。妄信的でなく分析的で科学的で論理的なすばらしい思考方法と感じます。 <<『「現代人のための瞑想法」をオススメしときますw』はい。ありがとうございます。探して読んでみたいと思います。本当にありがとうございました!!^^>> この書籍には上記したような慈悲喜捨の思念や、観察方法が書かれていますので希望に添えると思いますよw 僕の保つ見解が何か役に立てば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
こんばんは。 再びの回答ありがとうございます! >自他の苦しみを生み出す醜い・汚い毒のようなものなので「三毒」と呼ばれています。 「そのまんま」ですね。。。 同じ言葉、同じ表情、同じ仕草。。。これを、「相手に対する拒否感を持って受け取る」のと、「相手に良いように解釈して受け取る」のでは、天と地の差がありますものね。 この「情報の受け取り方」って、いったい何処で決定されるのか、不思議です。 そして、私が「興味深い」と考えているのは、magga様のおっしゃる >無量に育てるべき心と言ういみで「四無量心」 これらの「生産的な心」は、「豊かな想像力から生まれる」ように思える事です。 ほんのちょっと、ちょっぴりの好奇心、いたずら心。。。 そんな「心」がちょっぴりあれば、「そんなに哀しい解釈をしなくても済むのに。。。。」と感じる事/人に出会う事が度々あります。。。 「何故、そんなに怒っているの?」と思う時、そのような人は、「見た物/事しか見ていない」ように私には思えるのです。 私はそんな時、「私が見えない所であったかも知れない事」をいつも考えます。そうすれば、相手に対して「ネガティブな心」と抱かないで済むからです。 そうする事で、「相手のネガティブな心」も早く溶けるだろう、と思えるからです。 でも、現実には「見た物/事しか見ていない」「それ以外は考えようとしない」人が多いように思えるのです。 そして、その人は「ネガティブな心」に捕われ、苦しみ、「相手をもネガティブに引き込む」のです。 何故「不要な三毒」を増やしてしまうのか、私には理解に苦しみます。 だって、ほんのちょっぴり少ーーしの、「想像力」で自分も相手もHappyになれるのに。。。と思うのです。 >慈悲喜捨の心は理性を伴います。 そうなのですか? 私には「生物の在るべき姿」に思えます。 「多種多様な命が共存」している以上、「あらゆる命の向かう所」は「生産性」だと思うのです。それはつまり「四無量心」では?と思うのですが。。。 人間は「脳が発達」している以上、「理性がそう意識する」のでしょうけれど、私には余程「三毒」の方が、「理性的/意志的」に思えます。 不思議なのです。。。。 とりとめの無い文章になってしまいました、申し訳ありません。 素敵に暖かい回答に、心から感謝致します。 ありがとうございました!!
お礼
回答頂き、ありがとうございます。 >怒りは解離的現象から発生する つまり、外からの刺激に対する「自己防衛の手段のひとつ」と言う事でよろしいでしょうか? >エスを自我から受動的(~させられた)に解離させられると >【破壊性】として現れてくる 破壊性。。。と言う言葉にハッと致しました。 そうなのです。「怒り」に潜む「非生産性」が私は嫌いなのです。 >自我の能動的(~した)なエスの昇華で自我から解離した場合 >自我は満足となりますので >【安らぎ】とか【落ち着き】などという【静】の感情が沸いてくる うーーーん。。。要は、「自分の言動全て」に「自分の意志を意識」していれば、「刺激に対応する反応」は「生産的なもの」になる、と勝手に解釈しました。^^ 二十歳のある大事件、ですが、 あれは、あまりにも「自分の意図と乖離した結果」が出てしまい、呆然としたのです。 自分の善意が悪意にすり替えられる。 努力が他人の業績になり、立場がすり替えられる。 私が護って来たものが、悉く破壊されており、その事にその時まで全く気付いていなかった「自分の落ち度」。 「あーーー私は無意味な事をしていたんだ」と当時は思いました。 でも、その時迄の「自分の努力」を「間違っていた』とは、私はどうしても思えず、何年も堂々巡りに考えて来ました。 まあ、「他人に対して責任を持とう」とした事、「責任の範囲」を間違えていたのかな。。。と。 それは、こども達を世話していても思います。 こどもが牛乳のコップをひっくり返したからと言って、「私が手伝っていれば」「私が少なく注いでいれば」等と、考えたって「出来っこ無い」のです。 怪獣は三人、対するこちらは私一人、なのですから。^^ その代わり、自分の言動は強く意識し、忘れないようになった気がします。 勿論、「こども達の失敗」が「私の失敗」にならないように「言い訳の為の資料集め」です。笑 そっかーーーこの方法、ちょっと嫌だなと思っていたのですけれど、結構生産的なんじゃありませんか!笑 。。。と、勝手に結論付けて喜んでおりますが、 「解釈に間違い」がありましたら、訂正をお願い出来ますでしょうか? あーーーでも、何だか「すっきり!」してしまいました。 ありがとうございました!!^^