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主観における言語に基づいたある命題は議論可能ですか

他の質問で自由意志の有無について質問しているのですが、自由意志というのは基本的に自分しか知覚できないですよね。客観的な証拠は何もありません。 自分で選択している”気がする”ということを、私達の共通の性質も鑑みて同じように感じてあろうことを自由意志という言葉を作った人は見て取りました。 そこから他のものから束縛されていない自発的な思考、とすれば少なくとも理性にも心情にも反しないしあってそうだしいいんじゃないと考え、言葉として定義された気がするのです。 つまり自由意志という言葉の定義は「自然、つまりこの世の原理に束縛されているが、主体から見れば選択しているように見える、人の間に沸き起こる情念を処理する能力」 といった類のものでも間違っているとは言えないと思うのです。 それで質問に戻りますが、このようなステップを経て作られた概念について議論するとき”自由意志”という言葉を使いながら議論するのは不適切だと思うのです。このような概念について議論するときどのように行うのが適切だと思いますか。 また、もし議論できる形式があるとすればどういったものですか。

みんなの回答

noname#194996
noname#194996
回答No.6

>もし議論できる形式があるとすればどういったものですか。 議論の場で共通した定義がなされていて、皆が納得できる言葉が存在すれば、それらをつかって、共通の論理で議論ができるはずです。 たとえそれが客観的に証明されてないことどもであっても、確実に論者間で理解ができておれば可能です。 これまでで問題があったとすれば論者間で「自由意思」というものの定義が共有されていなかったということでしょう。 >自由意志という言葉の定義は「自然、つまりこの世の原理に束縛されているが、主体から見れば選択しているように見える、人の間に沸き起こる情念を処理する能力」 といった類のもの はい、わかりました。それは私見では自由意思とは考えません。自然に束縛されて出す結論は自然:主体 のシーケンス的反応に過ぎないのではないでしょうか。いかに主体(あなた)が強弁しようと、やはりそれは自然の自然な固定的行動だと思いますがどうでしょうか。

回答No.5

#2の者です。 >客観的論証が不可能なことについて議論することができるか?という内容の質問です。 もし二者の言語体系のベースの違いが、現象的なもので あれば、たとえば赤色を説明するのに「赤はリンゴの色」 と言っただけでは色覚異常の人には、どちらも灰色に見え るので、「そうだ」と答えるので自分との区別がつかないが、 「葉っぱの色と同じかどうか」を問えば、違うものを感じ ている事が分かる。 だが原理的な違いに由来する場合、たとえば射影幾何学に おいて、点と線を入れ替えても、等価的に公理系は成り立 つ事が分かっている。 平面上において「任意の2点は一意的に1直線を定める」 と「任意の2直線は一意的に1点を定める」は、全く等価 な公理系(点と線が入れ替わった)を成すのです(そこに おいては「長さのない線は点」が「点が移動すると線」と いうように有ると無いさえ入れ替わっている)。 そのような本質的な射影が成立している場合、それぞれの 世界で使われる言語にも射影し、自分が「2点によって定 められた線」と言っているのを、相手が「2直線によって 定められた点」と感じていても、お互い完全な同意が可能 になり、その相違を区別する方法は存在しないのです。 (そこで「自分の感じているもの」としてしか言明が可能で ない場合、自由意志に対立する環境的拘束性は本質的 根拠を失うのです)

回答No.4

 No.1です。  ★ 選択をしようとしている人と全く同じ条件の人がいた場合毎回同じ選択をしない。という事が論証できない  ☆ この場合の  ★ 全く同じ条件の人  ☆ という前提が 実証できないのではないでしょうか?  いわゆる《実験》による検証〔だけ〕が科学であるという行き方には合わないのが 《自由意志》の理論である。こういうことであるに過ぎなくありませんか?  ★ 嘘をついた時の反応は単に嘘に付随する様々なことに対する自然な反応だとも言えます。  ☆ これは これも第二次の派生的な現象を取り上げて論じておられる。  すなわち  ★ 嘘に付随する様々なこと  ☆ だけではないはずです。ウソをつくとき身と心が起こす自然な反応は 《ウソないし ウソをつくこと》自体に対するものもあるはずです。    何も《善と悪》といった概念を用いなくても 《第一次の感じ》と《第二次の気持ち》というように用語を決めて用いてもよいでしょう。  すなわち ウソ自体ないしウソをつくこと自体に対する反応に 《第一次》と《第二次》とがあり ウソに付随する様々なことに対する反応も 第一次と第二次とがある。  第一次(つまり ふるい言い方で 善)と第二次(≒悪)とのあいだでひとは選択をすることになる。  もしこの選択が 主観よりほかのチカラによってすでにつねに決定されているということならば 《自由意志》はありません。《意志》ということすら要らなくなりましょう。  そういう問題ではありませんか?  ★ ~~~~~   >知覚の共通性  他の痛みだとかそういった知覚は数値化もできますし、前提条件(経験・性質)にかかわらず、明らかに共通の反応を示しますので共通と言えます。自由意志の場合は前提条件に左右される面は否めないので全く別のものではないか?と思うわけです。  ~~~~~~  ☆ ですから   ★ 前提条件に左右される面は否めない  ☆ というとき 《影響を受ける》のと《左右される》のとでは違うということではないでしょうか?  たとえば 容疑者の自白〔だけ〕では証拠能力がないという原則があります。しかも 自白の強要がおこなわれたとします。  その《強要》という前提条件によって ひとは影響を受ける。とうぜんです。では 左右されるか?  ここでは 左右もされると仮定してみましょう。  つまり おどされたり なだめすかされたりして容疑者が けっきょく自白をしたという場合です。    《自由意志》の一般的でふつうの理論によれば このとき自由意志は 《自白をする》か《こばみつづける》かの選択肢をもって〔こそ〕結論として選択をおこなうと見るものです。  つまりは 前提条件によって影響を受けるだけではなく 左右されたとしても じつはかまわないわけです。選択肢があって そこから自分の判断において考えや行動をえらび決定するという身と心の仕組みがあることを言っているわけです。  強要によって左右されて自白するほうをえらんだとしても 自然本性としての自由意志はそこで死んだわけでもなくなったわけでもない。こういうことです。  たとえ死んだというように見られるとしても それは その前提条件としての強要が じつは 人間のやはり自然本性〔にのっとる行為〕として無効であるということを意味しています。そのときには 自由意志が死んだとは見ないわけです。生き続けているけれども 悪貨に駆逐された。こういう捉え方をする。これが 自由意志の問題です。  ちなみにこの一人ひとりのあくまで主観としての自由意志を認めないとすれば 犯罪行為は その犯罪者に責めを帰すことはできない相談だとなります。選択がすでにつねに決まっているというのですから。情況としての前提条件を責めなくてはなりません。

  • bokeyu
  • ベストアンサー率37% (15/40)
回答No.3

命題とは何か? 命題とは、具体的状況によらず常に真偽が一定している文、のことである。 といった具合に、質問者様も、ご自身がお考えになる「自由意志」という言葉の意味をを最初に定義して議論なされば、何も問題ないのではないでしょうか。

314h
質問者

お礼

主観による”自由意志”のようなものを質問者の一存で規定してしまって大丈夫なんでしょうか? それは私が「ピーマンが嫌いだからピーマンはまずいものであるという前提にそって、美味しい料理を作る方法を教えて下さい。」と同じぐらいのものになりませんか? 自由意志が存在するという客観的論拠があればいいんですが、全く同じ条件の人を複製することができませんので今困っているところなんです。 ご回答ありがとうございました。

回答No.2

>自由意志というのは基本的に自分しか知覚できないですよね 全てのものが、自分にしか知覚できません。 他人が、「私も同じものを見ている」と言っても、その 他人自体が「自分が知覚しているもの」に過ぎません。 いくら言葉を尽くして、自分が見ているものと他人が 見ているものが同じであると分析しようとしても、その 言語自体が、互いの経験によって発生している以上、 根本的に違う場合は、誤解の上塗りにしかなりません。 量子論的世界像において、「有限な存在性は、観察さ れる事で生じる」=「自我仮説(時間的流れ=記憶=心) と時空仮説(空間的広がり=予測=物質)が、(不確定性 原理の相補的不確定性を介して)相補分化している」 =「全てはあなたが存在するための補完(ただし物理 的根源にまで遡った)である」と言える時、この宇宙 自体が「自由意志」だと言えます。 ただ、低認識における(真の自己の必要との)自己 矛盾として、短絡的自由意志を阻害する“モノ”に ぶつかるのです。

314h
質問者

お礼

すみません。言いたいことがうまくつたわりませんでした。 客観的論証が不可能なことについて議論することができるか?という内容の質問です。 客観的論証が多少なりともあれば、解釈は多少違えどある程度同じ結論に達することができます。 ご回答ありがとうございました。

回答No.1

 こんばんは。  ★ また、もし議論できる形式があるとすればどういったものですか。  ☆ こちらの入り口から入ります。  自由意志は  ★ 自然〔* ないし社会的自然 ないし社会力学的自然 あるいはつまり端的に言ってその内容のほとんどが無効なる悪のほうがそれとして理論的に有効だと見られる善よりも社会的に理屈抜きで有力であり優勢であるというような自然史過程〕、つまりこの世の原理 に束縛されている  ☆ のではなく そうではなく 自由意志の良し悪し両様の自由度が じつは この・この世の支配法則を生んだのである。と考えます。また そのように考えるのが 自由意志の理論である。こう思います。  すなわち  ○ (自由意志が この世の社会力学的な原理を派生させた) ~~~  1.この世の・理屈に合わない不合理でまた不条理なことを許容するような原理 これがひとの自由意志を束縛しているという現象は じつは第一次に発生した出来事なのではない。  2. そうではなく 自由意志がその自由度にまかせて ありとあらゆる善および負の善としての悪をおこなった。何でもありの世界をこの世に現出した。その結果・・・  3. よってその結果 悪貨が良貨を駆逐している状態にある。しかも 自由意志を擁するひとの自然本性は この社会状態を逆転させるというよりは そう見るよりは 良貨が悪貨をその現象が起きてもおのれの包容力のなかにおさめうる状態 このような社会状態を目指すことになる。  ~~~~~~~~~~~~~    ★ 自由意志というのは基本的に自分しか知覚できないですよね。客観的な証拠は何もありません。  ☆ ウソをつくことが出来る。これが 自由意志の自由度です。この場合 おのれの心にさからってウソをつくか それともそのウソをつかないか このふたつの選択肢があります。  ひとの意志は いづれをもえらび得ますので 自由意志と言います。  ウソをつくとき ひとはおのれの心にさからうのだと思われ 胸の動悸がはげしくなったり 顔をあからめたり 言葉がしどろもどろになったりする。このような知覚の現象は たしかに主観に属しその範囲を超えないと見られますが あとは いわゆる共通感覚(センスス・コムニス)という概念が どれだけ現実のものであるかにかかっていると見られます。  一般には 知覚の共通性ということは 受け容れられているのではないでしょうか。  共同主観としての証拠がある。と見られます。

314h
質問者

お礼

>自由意志の理論 普段自由意志を前提として議論される時という意味ですね。 前半半分は私にはまだ難解ですし、応答しなくてもよさそうなので誤解を避けるためにも応答しないことを断っておきます。 >ウソをつくことが出来る。これが 自由意志の自由度です。この場合 おのれの心にさからってウソをつくか それともそのウソをつかないか このふたつの選択肢があります。 2つの選択肢があるがそれらはその人の性質や経験によってすでに決まっているのであって本当に選択しているとはいえないという反論があります。 選択をしようとしている人と全く同じ条件の人がいた場合毎回同じ選択をしない。という事が論証できないので反論もあなたの言う論も”解釈”にすぎないと思うのです。ポパーに習うのであれば科学ではありません。 嘘をついた時の反応は単に嘘に付随する様々なことに対する自然な反応だとも言えます。 >知覚の共通性 他の痛みだとかそういった知覚は数値化もできますし、前提条件(経験・性質)にかかわらず、明らかに共通の反応を示しますので共通と言えます。自由意志の場合は前提条件に左右される面は否めないので全く別のものではないか?と思うわけです。 ご回答ありがとうございました。

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