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「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?
似たような質問の繰り返しで恐縮です。 「真の自分」という言葉は、自分自身の、内的自意識・魂・こころ・人格、それらの概念をすべて含む ものと考えてください。(どうも「真の自分」をぴたりと言い表せる言葉がないです) みなさん、自分の「真の自分」を考えたとき、それは理性だと思いますか? 感情だと思いますか? それとも両者を従える超越者だと思いますか? 「真の自分」は真実在だと思いますか? それとも物理化学現象が作り出す幻影だと思いますか?
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ヒンズー教にはこんな言葉があるらしいです。 「宇宙を作ったのは神ではない。神は人間が作った。」 ちなみに、僕も宇宙意識とやらは感じないわけではありません。 ただ、感じても信じないんです。 人間の考えたことは全てが事実なわけではないことは 言うまでもないことですが、なぜ、人は神やら、宇宙意識と 繋がりたがるんでしょう?そしてその直感をいとも容易く 信じられるのでしょう? それは、おそらく宇宙とか、神とか、心とか、精神とか、恋愛とかが、 科学的に理解のまだ及ばない範囲を多く抱えているからでしょう。 それは、たとえば、医学が進んでいなかった太古の昔には 病気になった人を悪魔つきの様に 呪術師が御祓いをして、治療行為としていたようなものです。 今、考えてみれば「そんなことで、病気が治るはずがない」 と思われるかもしれませんが、そんなことはないんですねぇ。これが。 御存じの方もいるかもしれませんが、人間の体は、 「プラシーボ効果」ってやつで、病気が治るケースがあるんですね。 (「プラシーボ効果」:『これはAという病気を治す特効薬ですよ』 などといいながら、患者にただの小麦粉のカタマリを投薬する。 そうすると、患者の20%前後はその暗示で、実際に治ってしまう。 だから、インチキ健康法に必ずといっていいほど、 『私はこの健康法に命を救われました!』なんて人がいるのは 奇跡でもなんでもない。もちろん「プラシーボ効果」は実際に医学的に 実証されている。医療の現場でも投薬量を少なくするためのテクニック として用いられたりもしている。) で、結構この「プラシーボ効果」ただもんじゃない。 太古の昔に、神や、その使いとされている人々のおこしたと言われている 奇跡にも多数のプラシーボ効果が含まれていたのではないかと思われます。 で、ここで、マルクスの超有名な一節の引用。 「宗教はアヘンだ」 僕は共産主義者じゃないけど、この一節はかなり的を得てますね。 宗教は妄信や、過信をひきおこします。 誤解や争いもひきおこします。 みんなわかっているはずなのに、そして、人々が平和に暮らせるようにと いう命題が中心的スローガンになっている宗教がこれほどまでにあるのに、 なぜ、そうなのでしょう? 人は、自分がいいことをしていると思い込みたがる生き物です。 そして、宗教はアヘンです。当然神も、宇宙意識もアヘンです。 そのことを思うと脳内麻薬の分泌が活発になるとも言います。 その脳内麻薬の陶酔感が、そのおのおのとの一体感の正体です。 そして、こんな幸せな、こんな美しい自分が理想の自分であり、 真なる自分であると錯覚します。 そして、それを信じると、こんないいことがあるんだよ~~、 と誰かに伝えたくなります。いいことしたいから。 ところが、伝えられた人はそれと相容れないそれらを持っていたとしたら? ここには争いが、憎しみあいが、悲しみが、巻き起こります。 自分たちの持つそれらは争いなどは求めていないにしても。 それは、悲劇です。世界のどこにでもごくありきたりに見られる、 ありふれた悲劇です。いいことしたいの正反対です。 このような愚かな生き物に動物より、高次な魂(霊魂)が 宿っているわけもないと、僕は思う。 なんらかの与えられたなすべきことなどが与えられていて、 真なる自分がどこかに隠れていて、 それらを見つけるために僕らが生まれてきたなんて宿命論も、 何も全く信じられないのです。 僕が曹洞宗を研究するのは、精神を研ぎすます方法としての、 座禅という方法に興味をひかれるからであり、 神や仏や、宇宙意識とやらとは全く関係ない由縁もそのへんです。 長くなりました、安直に神を連想させるものを語るのは、 争いや災いとなります。 どうしても、語りたいのなら、最初からそれについて質問すべきです。 では。
- tabio
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mori0309さんの話の持って行き方がうまいのか、それとも質問に答えられている皆さんがすごいのか。宇宙云々というエリアまで話が広がっているんですね。質問とは一見関係ないように思えるけれども、質問に込められた真意を、質問に答えられている皆さんが理解している。私めなどは、関心するどころか、恐怖まで感じております。 mori0309さんは「宇宙には意思がある」と仰っておられましたね。私もまったく同じ考えです。 高温の素粒子の塊が一大爆発をして、現在の宇宙がつくられていったというビックバンセオリーは誰も否定しませんよね。そして一番最初にできた原子が水素原子だということも。水素原子は、ひとつの原子核に電子がひとつトラップされています。その原子核は、陽子、中性子、中間子の三つで構成されています。この陽子、中性子、中間子をさらに壊していくと、素粒子が飛び出してきます。現在、数種類の素粒子が発見されていますが、いずれこれは一種類に絞られていくと言われています。この素粒子の塊が大爆発をして、現在の広大な宇宙がつくられていったわけです。浅学な私めが言うのもおこがましいのですが。 素粒子たちがくっついて陽子、中性子、中間子をつくり、この三つがひとつになって原子核が生まれ、そこに電子がひとつ捕まって水素原子になった。生まれた水素原子も、そのままじっとはせずに、水素原子同士がひっついて、ひとつ重たいリチウムができた。そういうふうにして、原子の周期律表にあるような原子たちができていった。原子たちはまた互いに一緒になり、分子をつくり、分子は高分子をつくり、やがて生命体と言われるものをつくりだしていった。そうして、人間という最終形態(今のところは)をつくりだしていった。 ここまでの流れは、現在、誰一人として否定できないはずだと思います。 でも、私には大きな疑問があります。 なぜ、素粒子たちがくっついて陽子になったの? なぜ、陽子と中性子、中間子、電子がくっついて水素にならなければならなかったの? 宇宙は素粒子のままでもよかったじゃない。よしんば何かの拍子で水素ができたとしても、この宇宙は水素のままでもよかったじゃない。なのに、どうして高等生物と言われる人間まで、できていったの? 安直、安易な考え方でしょうが、やはり、私もなにがしかの「宇宙の意思」が、そこに働いているように思えるのです。だって、宇宙は事実として延々と進化を繰り返してきたのですから。「進化」という言葉に語弊があるなら、宇宙は延々と新しいものをつくり続けてきたのですから。 そしてその宇宙の意思とは、私なりの勝手な考え方からすれば、「すべてのものが善かれかし」という意思なのだろうと思っています。すべてのものを生成発展させるような意思なのだろうと思うのです。 ここで少々私の考え方は飛んでしまうのですが、この宇宙の意思、あるいは意識こそ、自分というものの正体であり、真の自分なのではないかと思うのです。ですから、mori0309さんが仰っている象のお話、献血に駆けつけた市民たちのお話、そして結論付けられている「“自分だけは助かろう”“自分だけは生き延びよう”という単純な競争原理だけで動いているわけでないのは、明白ではないでしょうか」というお話は、私自身、ものすごくうなづけるのです。それは、そこに「すべてのものが善かれかし」という宇宙の意思(本当の自分)が働いた結果だと思うものですから。 ただし、それは宇宙というものから命令されたとか、指示が下ったのではないと思います。今言いましたように、自分自身が宇宙、あるいは宇宙の意思なのですから。その自分の意思に従って起こした行動なのですから。 皆さん、学問的根拠からお話をされているのに、申し訳ありませんね。私って本当に訳のわからん考え方をしているなと、つくづく思います。せっかくの高尚な場を汚してしまったような……。
お礼
tabioさん、ありがとうございます。後日、再度お礼いたします。
補足
tabioさん、いつも回答ありがとうございます。 > 宇宙の意思とは、私なりの勝手な考え方からすれば、「すべてのものが善かれかし」と > いう意思なのだろうと思っています。すべてのものを生成発展させるような意思なの > だろうと思うのです。 「善い」とか「発展」という言葉は、どうも共感を得られないんですよねぇ。たぶん科学の 実証性・論理性・厳密性から見れば、幼稚で感傷的で場違いな発言にしか、受け取られない のでしょうね。哲学すら今や科学ですから。現代人は本当に、詩を失っていると思います。 新世紀になったのだから、横行する「皮相科学通念」は批判されて、精神の復興を求められ るべきだと思います。(科学を批判せよと言っているわけでは決してありません) > 私自身、ものすごくうなづけるのです。それは、そこに「すべてのものが善かれかし」と > いう宇宙の意思(本当の自分)が働いた結果だと思うものですから。 私は人間のとらえる詩的真実と、科学のとらえる合理的真実は、核心のところでは、矛盾 しないだろうと思っています。人間の感性がとらえる「善」や「美」は、科学が究明する 「真」と、同じだろうと感じています。それが、はっきりと証明されるまで、あと500年 はかかるような気がしますが、、、、でも、そのときはまた人間の自由の危機なのですね。 だから、人間はさらに進化するしかないです。うーむ。つらいですね。 > 私って本当に訳のわからん考え方をしているなと、つくづく思います。 まったくもって私もそうです。このOKWebが覆面座談会であることで救われてますね。 、、、ホントに。
>自他の境界はないということでしょうか。 ん~ある意味ではそうですね。 というか、自己は自己の外には出られないという感じですかね。 僕は写真をやってるんで思うんですが、 たとえば、友達数人とカメラを持って出かけますね。 で、「おおっ、この被写体最高!!」 なんつって、数人の意見が一致することがあるんですね。 で、同じものを数人で撮るわけです。入れ代わり立ち代わりで。 で、出来たものを見ると、全部違う写真なんですね。 みんなで、思った「最高!!」って気持ちは同時に思ってても、 実は全部違うわけなんですね。 これは、「人それぞれなんだな~」で片付ければ片付いちゃう話なんですが、 僕はこう思うんですね。 人の目はその人の思うものしか写さないと。 ここでもうひとつ例え話 例えば、街にホームレスが座ってたとします。 まぁ、東京都内なんかではいくらでもいますから、 気にしない人は、存在にすら気づかないし、気になっちゃう人は腰を下ろして身の上話に つきあってあげたりする。同じものを見ても反応の振幅ってのは人それぞれですよね。 それは、結局内面の問題なんですね。 だから、視覚だって内面に影響されてるし、影響してるわけです。 同じことが五感全てに対して言えますね。 となれば、自分の内的世界だけで、自己を考えても..... ちょっと狭くないすか?? ということなんですよ。 >すなわち、自分ではない、ものすごく巨大な外部観察者が、大きな目で地球上で起こっている >ことを、観察していると仮定するならば、「すべてが影響しあってゆらゆらしている」「確固 >たる存在などない」という表現も正しいと思います。 う~ん、そうですか? 僕は僕の自我の中で、毎日ゆらゆら、ぐらぐら、ふらふらしてる己を感じてますが。 例えば、ニュースを見て、悲惨な事件があれば、「なぜそうなってしまうんだろう?」とか、 「僕もこういうことには気をつけなきゃいけないんだなぁ」とか思います。 それで、自分の大事に思ってた信念なんかがぐらついたり、違う方向に行ったり、 いろいろします。それは偽りですか?いやいや、生の自己そのものです。 そしてそれに気づくのは、己自身のなかで、己を観察している自分がいるだけのことです。 それは、外部でもなんでもない自己自身です。 そして、AはBとつながり、BはCとつながり、CはDとつながり、DはEとつながり、EはFとつながり、 FはGとつながり、GはHとつながり、HはIとつながり、IはJとつながり、JはKとつながり、 と、無限連鎖しながら関係しあっていくこの世のどこの部分を自分と関係なし、 と切り捨てられますか? となると、内部-外部という二項対立な考え方はあんまりにも単純です。 つまるところ、自分が知覚しうる世界は少なくとも全て自分の構成要素ともいえましょう。 全てつらなりのなかにいるのだとすれば。 整理して考えたいのはわかりますが、実験室のなかじゃないんですから、 さまざまなノイズ要素を切り離して考えることは現実世界では難しいです。 自分一人で生きてるんじゃないんですから、他者という構成要素は自己とは切り離せません。 「ああ、別の会社入ってたら人生違ったろうな~」って思ったことありません? それが、他者の及ぼす自己への影響の証拠です。緊密に繋がりあっている要素を、 「これは関係ナイ」って切り離せないと思いませんか? >「自分など無い」とは思わない。 そりゃ、僕も思ってないですし、書いてませんよ(笑) 『確固たる「真」などあるわけもない』とは書きましたが(笑) 僕は強いていえば、その「ゆらゆら」こそが自分だと思います。 その「ゆらゆら」を冷徹に観察する目も自分ですが。 え~、曹洞宗研究者(信者ではないですっていうか無神論者です)として、 開祖である道元がらみのエピソードをひとつ。 道元は中国に留学して帰ってきたときに、経典を一つも持ち帰らなかったそうです。 当時仏教先進国の中国に行くということは、重要と思われる経典を中国から持ち帰ってくること が僧たちのなかでは当然とされてたんですね。で、持ち帰った数でその後の出世が決まるって面 もあったようです。 で、そういう時代なわけですから、当時道元の所属していた宗派の先輩に怒られるわけです。 で、道元はこう言ったと言われています。 『我は眼毛鼻直なるを発現せり』 (直訳すると「自分は目とまゆ毛に対して鼻が垂直に下りていることを自覚した」ってことですが、 ホントの意味は「己は己の何たるかを知った。だから、経典なぞいらぬ」ということらしいです。) で、それを聞いた先輩の僧は、その場で弟子入りを申し出たと言われています。 仏教の世界では「己のなんたるか」ってのはかように難しいものとされているんですね。 つまり、最終目的であるところの「悟り」に近いことだと。 だから、お悩みはごもっとも、ややこしいのも当然ですが。 視野狭くないです? 仏教においては、己を知ることの第一歩は、 自分は世界の中の一部分であると知ることですからね。 内的に狭めていくことが答えに近づくことだとはちょっと僕には思えないのですが。 >この「自分」という意識だか何だか分から ないものの、正体は何か? なぜ私は私か? >宇宙の森羅万象に対峙するかのように、見開い たこの目、何かを感じるとるこの心、 >それを外界物と同次元で考えることはできない。 おっと、随分特権的思考ですね。 その「外界物」とやらはMori0309さんと同様におのおのに「内的自我」を持ち、 Mori0309さん自身と緊密に繋がりあっているというのに?? あまりその思考の方向で考えていくと、「己は神と繋がっている絶対者である」 なーんて方向に逸脱しかねないですよ。危険危険。 己は世界との関係性の中で生かされているちっぽけな存在であることを忘れずに。 そしてMori0309さんの言う「外界物」のがむしろ巨大で高次な存在であることもお忘れなく。 しかして、宇宙意識または神なんてアヤシゲな方向も脳内の妄想じゃないかと思いますけどね。 別項で書きましたエンドルフィンの濃度が高いときにその手の感覚に捕らわれることが 多いなんていいますしね。(だったら交信でもお告げでもないじゃん<トリップしてるだけ?) > 私は、どの自分と仲良くすればよいのか。 >言いかえれば、どの自分を、より深めていくべきなのか、、、、、 >なぁ~んて、くどくど書きましたけど、つまり、そういうことなのです。 ここの部分だけ読むと人生相談ですよ。これ(笑) 哲学じゃないような.... で、最後にひとこと。 >「自分と他者との相互媒介関係の中で形作られていく《真の自分》」。それでいいのではないでしょうか。 ozapanさん同感です。
お礼
oni_ocさん、ありがとうございます。
実は僕は、必ずしも無神論者ではありません。かと言って特定の宗教を信じているわけでもない。心情的には浄土真宗門徒かな、とか思うこともありますが。 どういう形で神を認めているかというと、「いたければ、どうぞいて下さい」…おっと、敬語を使うべきですね。「いらっしゃることをお望みならば、どうぞ御存在あらせられておくんなんしょぞなもし」。…あ、ちょっと方言電波が漏れました。 野原しんのすけ風に言えば、「いたければ、いればぁ?」です。 ここで言う神というのは、例えばP・K・ディックのSF『ヴァリス』とか光瀬龍『百億の昼と千億の夜』でイメージされているような神です(両方とも大変な傑作で、「店長オススメ!」)。あるいは例えば、円周率πが「超越数(注)」であることを知った時に感じ、そして人類の至宝「e^iπ=-1」を知った時に感じたようなもの、それが僕にとっての神です。つまり、「宇宙全体を貫く基本的な数を定めた存在」であり、そういう意味では「創造主」のようなものです。(注:「超越数」→予防線的注ですが、「超越数」とは「有限項の方程式の解としては表現できず、代数的数を超越している数」のことで、別に神秘的なものではないです。すごく面白いものではありますが。) そういうわけですからものすごく偉大な存在なわけです。ものすごく偉大ですから、人間がちょっと悪いことをしているからといって「洪水を起こして流しちゃおう」とか、信じてもらっているのか不安になって「わしのためにイサクを殺せ」とか、そういうケチなことは言いません。人間なんかに信じてもらわなくても泰然自若としています。しかし、ということは当然、祈っても通じないでしょう。「テストが明日なんです! 助けてください!」という(人間を相手にした)祈りさえ、通じにくい今日この頃です。人がこのような神に祈ったとしても、それは、腸の中のビフィズス菌が脳に向かって「もっとオリゴ糖をよこせ!」と要求しているのと何ら変わるものではありません。いやそれ以上に空しい。 さてところで、このような神ですが、しかし彼が「宇宙と一体である」とは言えません。この神は「宇宙を貫く基本的な数と法則」を決めた存在です。いわば「宇宙のプログラマー」です。Windowsとビル・ゲイツが別の存在であるのと同様に、宇宙と神は別の存在です。そしてこの神は、自分が決めたプログラム通りに動いている宇宙を、勝手に動くにまかせています。Windowsとちがってバグがありませんので、ほっといていいわけです。かくして、宇宙は、多くの科学者たちが叡智を傾注して見出してきた法則通りに、滞りなく運行している…ということになります。 つまり…ですね、こういう神だと「いてもいなくても同じ」なんです。波動関数で表現される空間状態に対称性の自発的ゆらぎが生じたあたりから、じーっと見てるだけですから。だから、「いたければ、いればぁ?」。 さて、ではその偉大な神が創った「宇宙」です。宇宙の歴史は、「より低次のものが、より高次のものに進化する」という進歩史観で見ることができるものでしょうか。事実として、です。 できないでしょう。 まず「十億年前の宇宙より現在の宇宙の方がすぐれている」などという議論はナンセンスです。少しダウンサイジングして、生物の歴史で見ましょう。ここでも「進化=進歩」ということは言えません。これもまた「進化論」にまつわる誤解の一つでしかない。進化は「環境への適応」です。ある環境の元で最強の生物であっても、環境が変われば滅びるしかない。別々の環境に生息する生物同士を比較して「どちらがより高次」などと議論しても無意味なことです。むろん、進化の系統樹ごとに辿ると「発達」は見られます。でも、それも「より生存に適した個体が生き残った結果」であって、「宇宙の本質に近づく」という意味で「高次に」なるというのとは無関係です。 「人間は動物よりも高次」はどうでしょうか。この見解は信じやすいですね。けっこーみんなそう思ってる。でも、「種」としては決して強くはないですね。強さと知性を兼ね備えた馳浩さんのような人でも、ライオンには負けます(…って断言しちゃってごめんなさい>馳さん 名誉毀損で訴えたりしないで下さい)。 もちろん、「強さ」だけが優劣の基準ではありません。何と言っても人間には言葉がある。文化がある。考える能力がある。では、だからと言って「宇宙の本質により近い」という意味で「人間は動物よりも高次の存在である」と言えるでしょうか。 言えません。 これは、「本能ルーム」の方で、エロ本作家ジョルジュ・バタイユの考え方にからめて、そのうち書こうと思っているのですが、人間は文化を持ったことで「ケダモノ以下」の存在にもなるのです。真冬の早朝、裸足で献血に赴く人の人間愛が、一方にはある。でもその一方で、制圧した都市の住民を殺し、犯し、奪い、拷問を楽しむ人間の過剰な攻撃性も現に存在している。 するとここから、もう一段ダウンサイジングした「人類の歴史」に関しても「より高次な方へ進化している」とは言えないことが明らかになるでしょう。むろん、科学のように先人の業績に後から積み重ねていける分野では「進歩」もあります。また、法権利としての自由も、たしかに展開しています。が、その一方で、人間の愚かさは相変わらずです。残念ながら、この愚かさが消え去ることは決してないでしょう。人間が人間であることの根源に由来する病だからです。 やはり、宇宙には目的などありません。もちろん「意志」も。神も「沈黙」を続けるでしょう。 でも、そんなに遠いところに「真の自分」を求める必要はないでしょう。「自分と他者との相互媒介関係の中で形作られていく《真の自分》」。それでいいのではないでしょうか。
お礼
ozapanさん、ありがとうございます。また、しばらく時間をください。
補足
今、とても忙しいので、また週末にと思っていたのですが、ひとつだけ再質問させてください。 私の宇宙観は哲学の部屋であることをつい忘れて出た、ひとつの詩みたいなものですから、その 正しさを強く主張するつもりはないです。ozapanさんのいろいろな発言やコメントを読ませて いただくたびに、その博識と考察の深さに驚きと敬意を感じております。そのozapanさんが 「歴史に進化などない」「宇宙に目的などない」とあっさりおっしゃる。「進化」も「目的」 もないということは「人間」にとってどういう意味をもっているのでしょうか。ozapanさんに とって、どういう意味を持っているのでしょうか。「進化」も「目的」もないということは、 逆に私もozapanさんも、自由なのだ。自由に「意味」や「価値」を創造していけるのだ、という ことになるのではないでしょうか。
- stomachman
- ベストアンサー率57% (1014/1775)
>「普遍」を信じ「普遍」になろうとしている ここから連想したこと。 普通の「普通の人」は「普通が良い。だって普通だから。常識でしょう。」ここまでです。普通というのは文化であり、子供の「普通」は家庭や社会生活を通して育まれるのが健全だと思います。成長段階ではそれで良い。 しかしいい年してまだこのままでは、思考停止していること、XXX教となんら変わるところはない。「民主主義=多数決」「でも少数意見も大切に」なんて、中身を見ずに数だけ数える幼稚な相対主義です。「多数教」とでも言いましょうか。みんなが渡れば怖くない教。新しいものが出てきたとき「好き・嫌い」しか言えず、広まってしまえば「みんながやってる。だから普通」に繰り入れてしまう。これでは「普通」が無くなってしまいます。 「普通が普通であること」の根拠がなくちゃいけません。でも突き詰めてがちがちの論理にしてしまうと、柔軟性を失うか、ほとんど意味のない自明の理に堕してしまう。漠然としていて良いんです。押しつけるのではなく個人個人が自分で考えて納得すべきもの。(なぜなら、誰が考えても同じであるというのが常識=common senseです。<日本の首相はだれ?なんていうクイズを「常識」って呼ぶのやめにしてほしい。>)で、見慣れない物が出てきたときに、その根拠に照らして判断する。なのに単に「それもまた良し。」って相対主義を「普通」にしてしまっては(戦後個性化教育のせいかな)、価値観・モラル・思考能力が破綻するのは当然でしょう。 世の中の「普通」が壊れて来ている。だから「普通」と言えず「普遍」と仰る。mori0309さんは内的世界を論じているように見えて、実は外界を見て心配していらっしゃる。普通であることの根拠を求めていらっしゃる。そういう、普通でない「普通の人」であり、「早く普通になりたい」と思ってる(?)(ってベムかい) 進化論の初めの頃の議論(今でもプ×テスタントが言います)に「適者生存って何ですか?」「環境に適応したものが生き残れるということです」「どういうものが環境に適応したと言えますか」「生き残ったものです」「同義反復じゃないか。進化論なんて空論だ」というのがあります。もちろん、現実の現象と言葉遊びとを混同した幼稚な議論。「適者生存」の正当性は結果論であり「善きもの」が生き延びたわけではない。(マルキ・ド・サドの自然観も実にナイーブではあるけどこのへんを突いてはいます。)生命に目的があるわけじゃない。生命が持続し、繰り返し、増殖する。単にその事によって、生命足り得ている。現実に存在している。それだけと言えばそれだけ。そこに目的を求めたがるのは(たとえばエコロジストの看板を掛けていても)実はXX教に他ならない、とstomachmanは思います。OkWebで「尻尾はなんのためにあるんですか」という質問がありました。この問いの立て方が、すでにXX教的です。(「尻尾はなんに使われますか」ならOKデス。)安易に「普通」=「善きもの」という風な根拠を求めるべきではない。 普通であることは「普通がうまく行く」という以上の根拠を持たない。だったら別の「普通」もあるんじゃないかという考え方も出てくる。確かに「普通」は危ういものですが「持続する。そのためには自己修正能力、自己変革能力がある」というまさに生命にアナロジーの性質が要求される。これは大切なことです。「擾乱に対して安定である」(共産主義落第)「新しいものを取り入れていける」(教条主義落第)「誰が見ても悪いことは悪い」(法治主義落第)「メチャは排除する」(相対主義落第)「個人と社会の損得が適度にバランスする」(無政府主義・独裁主義落第)..... 普通を深く理解することは難しい。いつも(たとえどんな危機的状況においても)普通であること、これも難しい。でもね 「紳士たれ。」(筒井康隆は「二枚目意識」と言ってますが) つまり「普通」って、かっこよさ。非凡なる平凡です。このセンスが健全であるうちは大丈夫。mori0309さんの内なる導きの声に耳を傾けること。また、いろんな意見を広く聞くこと。それが正解じゃないんでしょうか。 おっと、覆面。
お礼
stomachmanさん、いつも素早いコメントありがとうございます。 また、すこし時間をください。
補足
stomachmanさん、いつもありがとうございます。 > (?)(ってベムかい) 私と同世代? (どうでもいいんですけど) > 「適者生存」の正当性は結果論であり「善きもの」が生き延びたわけではない。 異論はないです。(別に私が決めることじゃないですけど) 先験的イデアみたいな「善」がないからこそ「結果」によって「善」が創造されたと 言えるのではないでしょうか。「善」の本質は「同胞との親和的分業協力性質」だと 考えれば、それほど科学が排斥すべき概念とも思えないのですが? 質問からはそれますが、科学と哲学の違いは何なのでしょう? (例によって自分への問いです) ozapanさんの回答への補足文もお読みいただければ、幸いです。 短くてすみません。stomachmanさんは天才ですね。お世辞でなく。
あ、すいません。説明不足が遠い遠い過去の下の方にあるようです。 ちなみに、僕の何度もいっている「全て」という単語は、 本当に「全て」です。<わけわからんか? ええっと、つまり質問に含まれる項目の「全て」ではなく、 この世に存在する思想、物質、妄想、等々のまったく全部 という意味の「全て」です。 つまり、この世の全てのものに影響を受け、与えながら、 自分は成り立っているので、何かの影響で、コロッと違うものに 変わってしまうような脆いものなんではないでしょうか? ということ、をいいたかったわけです。 改めて、自分のアドバイスがわかりにくいなと思ったので、 補足でした。
批判? ほっときましょう。フェルマー予想の証明に賭けた多くの人々の試行錯誤が数学史上に多くの実りをもたらしたように、ここでのこーゆー話も、それなりに何かを生み出すのではないかと思います。でなきゃ、僕だってやってませんよ。 (けど、使いにくいことは確かですね。こういう用途には。)
補足
すみません。補足の補足です。 「歴史に進化などない」「宇宙に目的などない」ということは、私やozapanさんを 外部から制約・掣肘するものは何もなく、私もozapanさんも、自分という存在の 意味や価値を自由に自己創造していけるということなのではないでしょうか? だから「人間は自由なのだ」と言えるのではないでしょうか?
宿題が残っておりました。というわけで…「個性化」の意味 まず「個性化」。要するに「人格全体が、自覚的にバランスよく統合される方向に発達すること」です。倫理性や道徳性には、直接的には結びつけられていません。もちろん、「理想の人間像」というのとも別です。人の人格はそれぞれに、他の人とは違った元型の束ですから、もともと個性的なのです。そうした人格の要素であるさまざまな元型が、無理に抑圧されたり歪曲されたりすることなく、それぞれの役割を果たしつつ全体との整合性も保つような姿を目指して発達していく、ということです。 人が一生の間に、どの程度まで「個性化」できるかには個人差があります。完全に近い形での個性化というのは極めて困難で、これをなしえた人は「イエスか釈迦くらいなもの」だとユングは言っています。適切な環境と適切な教育が与えられれば、けっこうイイ線いきますが、そうでないと難しい、と(なんかこう…あたりまえではないかと…思うのですが)。 今、「発達」という言葉を使いましたが、これは「おざぱんはレベルがあがった! HPが2あがった! MPが3あがった! ちからが1あがった! すばやさが1あがった! トントカイモのじゅもんをおぼえた!」というのとは違うようです。比喩的に言えば、一粒の種の中に潜在的に与えられた幹や枝や葉への可能性が展開されて、立派な大木に育つようなもの、のようです。「人格は、潜在的・可能的な【真の自分】から、現実的に形をもった【真の自分】へと自らを展開する」って感じです。
お礼
ozapanさん、ありがとうございます。感謝しております。 週末にはお返事します。 (掲示板じゃないよ~という批判、多いですね。OKWeb大好きだけど利用法が難しいなあ)
No.84600へのコメントにつきまして。 ちょっと伝わってなかったみたいです。 >> Mori0309さんの思いの純粋さを疑うものではありませんが、そのような考え方 >>が現実的に応用された場合、それははっきりと危険な影響を及ぼしうるからです。 >>…つまりはこれ、「われ」に対して「われわれ」になれ、と言っているのです。これ >>は、個人の全体への帰属を要求しているのです。 >私は、社会や文明や歴史を、個人や特権的頭脳集団が、恣意的に創造していけるなどとは、 >まったく、全然、思っていません。 …というところなのですが。酔ってたせいかな。言葉が足りなかったようです。 僕が言いたかったのは、「少数者の恣意的な考えに、多数者が隷属する」ということではなかったのです。たしかに、あそこでは全体主義=ファシズムのイメージを重ねながら述べたのですが、実はこれ、民主主義の下でも起こりうること、いや、日常の中でも起こりうることなんです。(僕は「民主主義」と「ファシズム」は対立する二項ではなく、「ファシズムは民主主義の一形態に他ならない」と連続的に捉えます。このことも「自由」という問題の恐ろしさと連動しています。そういう意味では、今この部屋で論じられていることとも密接に関わるのですが、話が広がりすぎるので、今はやめておきます。そのうちに…ということで) 言いたかったことは、次のようなことです。少しずついきましょう。 まず、mori0309さんがよく用いられている「普遍」という語から見ます。「普遍」というのは、時・所に関わりなく妥当するものを指す言葉です。ここで論じられている「自分」論の枠組みの中で言えば、「普遍的な人間の像」が一つの主題になります(mori0309さんは宇宙全体にまで広げておられますが、いったん措きましょう)。ここで「普遍的」の語義を「普遍的な人間の像」に代入しますと、「時・所に関わりなくすべての人間に妥当する人間の像」となります。これが、僕が書き込みの中で用いている「誰でもありうる主体」というものと合致するということには合意いただけるものと思います。ここのあたりから後に言葉が足りなかったようです。 今度は話を性急に急がずに、次は「抽象」という言葉を見ます。「抽象的」って、どういうことか。 「トラやライオンやウサギに混じって、《動物》なるものが闊歩している」 これは、マルクスが「貨幣」を論じる際に用いた比喩です。ここに述べられている事態が、すっごく奇妙であることはおわかりいただけると思います。だって《動物》っていう動物はいない、それは「抽象概念」だからです。 「動物」といえば、それは哺乳類だけでなく、魚も昆虫も軟体動物も動物プランクトンも含むわけです。だとしたら、《動物》という名の動物って、いったいどんな動物なのか。「足は四本でも六本でもあり、かつまた同時に足がなくもあり、しかも同時に百本でもあり、しかしまた同時に二本でもあり…」…と、ただ「足」に注目するだけでもものすごいことになります。「動物」の諸属性を「総和」するだけでも、このような動物は「ありえない」ことは明らかでしょう。むしろこのような動物は、「足は四本でも六本でもなく、足がないわけでもなく、百本でもなく、二本でもない」と言ったほうが、抽象概念たる「動物」の説明には近いでしょう。 「抽象」って、こういうことです。ありとあらゆる動物から、共通点を抽出(抽象 abstract)する。でもそうすると、もうせいぜい「動く生き物」という程度の貧弱な内容しか残らない。それは何故かというと、個々の動物の個別的な属性を「捨象 abstract」しているからです。 さて、もうとっくにおわかりいただけているかと思いますが、「普遍」を語ろうとする場合、そこには常に「抽象」の罠が、ぱこぉーんと口をあけて待ち構えているというわけです。「誰でもありうる主体」が「誰でもありえない主体」と表裏一体、と言ったのはこういうことです。 こういう背景から、「主体」が「誰でもありえない主体」であるにも関わらず、人に「主体たること」が要請された場合に何が起こるか、を述べたのでした。ここでは、 個別者(われ)の普遍者(われわれ)への一方的吸収 個別者・単独者の、個別性・特殊性・具体性の捨象(揚棄) という事態が起こるのです。 図式としては、「滅私奉公」と異なるものではない…。 No.84600で引き合いに出したヘーゲルですが、彼の言葉に、 「実体は偶有性の総体である」(『論理学』「本質論」) というのがあります。これは、僕の中で「好きな言葉です」というのと「好きな言葉でした」というのが混然となって渦巻いている言葉です。片付かなくて、卒業できない。 なにしろ卑怯な言葉です。偶有性=「たまたまあるもの・どうでもいいもの」の総体が実体だというのですから。 この言葉は一面において、「あなた」や「わたし」といった具体的個別者が「実体」を形成しているのだ、と言っています。が、しかし、「あなた」や「わたし」が死んだとしても、実体はやはり実体としてあり続けるのです。やっぱり「あなた」や「わたし」は「どうでもいいもの」。…「実体は偶有性の総体である」という言葉は、言い換えれば「どうでもいいものはかけがえのないものである」ということでもあります。卑怯でしょ? こういう卑怯な言葉は、要するに軸足の置き方、重点の置き方で意味合いが変わってきます。デジタル的にではなく、アナログ的に。「普遍」に重きを置けば「滅私奉公」になるし、「個別」に重きを置けば「バラバラな個の散乱」になります。 「要はバランスの問題」……というこの言い方自体、非常に卑怯な言い方だと思います。が、個々の具体的問題の局面を離れて言い得ることとしては、これくらいのことしかない。だからとりあえず、「バランスの問題」。 mori0309さんは、僕から見ると「普遍性」を強調しすぎるのです。「すべての存在を抱擁する」ようなもののイメージへの、強い希求がそうさせるのではないかと推測しているのですが、そして、そういうお気持ちは僕としても共感できるのですが、…だが、しかし、やはりそこには「抽象の罠」に陥る危険性が立ち現れてくる。このことが、僕の中の「あぶねーぞ」センサーに刺激を与え、警戒の気持ちを引き起こします。 そういう理由で、それに対して僕は「個別者・単独者」の強調を対置することになったわけです。抽象的なもの、「普遍」を称するものに対して「Noと言える個別者」「Noと言える単独者」です。そういう点では、ご指摘のように「文明・文化・社会から切り離された単独者」という、また別の一方の極端に陥る危険性もあります。認めます。が、社会の中で、社会と協調しながら生きている人間にも、そういう側面が残されていなければならない、このことはやはり強調したいのです。 それから、もう一つ。実はこれが、ここでの議論の中心だったのかもしれません…。 mori0309さんの言われる「真の自分」であるような「宇宙の本質」が、上記のような意味での「抽象」を免れている場合を考えます。つまり「すべてのものでありうると同時に何でもありえない」ような、単に「呼び名」にすぎないような抽象概念ではない、とします。すると、それは具体的な内容を持った実在ということになります。…なるほど、「真実在」ですね。 でも、ここで言う「真実在」=「宇宙の本質」は、宇宙のどこかに見出される「本質星」だったり、人体のどこかに見出される「本質器官」だったりということではありませんよね。するとありうるのは、「宇宙という実在が、その全体として表現しているもの」が、「それ」という捉え方でしょう。mori0309さんの言われる「人類全体・生物全体・宇宙全体で模索している」本質というのは、このようなものと思われます。 もしかしたら、mori0309さんの発言に「オカルトっぽさ」が滲み出してくるのは、ここらへんが源なのではないでしょうか。 たしかに、宇宙というのは実在です。そこではさまざまな現象が起こっています。宇宙を、そうした諸現象の総体と捉えることはできます(あまり意味はないですが)。が、それを「自分をより高め、導くような真の自分・真実在」あるいは「自らの本質を模索するもの」とするには、以下の要件を、宇宙に付与せねばなりません。 一つ、それが「意志」を持っていること。 二つ、それが、何らかの媒介を通じて、個々の人間に働きかけていること。 うーん…うーむ…であります。 「宇宙」よりも少しダウンサイジングして、領域を「人間」だけにしても、問題は同じです。 一つ、人類全体としての(まとまった)「意志」が存在する。 二つ、それが何らかの媒介を通じて、個々の人間に働きかけている。 ふみゅー…ひぇみゃー…だったりなんかしちゃったりして、もう。(な、なんだこの電波は? ひ…広川太一郎か?) …ま、その、つまり、こうなると「あぶねーぞセンサー」がピピピっとくるわけです。 また例によって長くなりましたんで、まとめましょう。 1 「普遍」という言葉には抽象の危険が伴う。だから軽軽しく使うべきではない。(個を重視する観点から言うと、「普遍は実在しない」と想定するのが安全。) 2 宇宙や人類全体について擬人法的表現をとることは可能だが(間違いではないが)、その表現に引きずられて(かな?)、それに「意志」や「目的」を想定すべきではない。 …といったあたりでしょう。 なお、実は、No.84600には、もう一つ言葉が足りないところがあって、それは、「われ」が「われわれ」に吸収されるのと並行して、「われわれであるようなわれ」が立ち現れる、として、ファシストたちの名を列挙したところなんですが、ここ、思いっきり説明をはしょってました。 この辺の力学については、アメリカの経済学者・ハイエクや、同じくアメリカの倫理学者・ロールズ、あるいはドイツの心理学者・フロムらが問題意識を持ち、論じているものです。ちょっとこの場では話が広がりすぎますから、さきほどの「そのうちに…」というのと同じ土俵で(同じ問題ですから)、場を変えてやりましょう。…そのうちに。 追伸:えー、なおー、ozapanは「一般人」でぇーす。予備校講師だし、大学だって非常勤だし、けっきょく根無し草だしぃ。「ひろぉーく、あさぁーく、ところどころふかくぅー」ってやってるだけでぇす。 まあ…いやだわ、アタシったら…「ところどころ深く」だなんて…そんな! いやらしい! …って、おーい、今度はちがう電波かぁ?
お礼
すみません。訂正です。 ●動けない像 → 動けない象 ●個羊の群れ → 小羊の群れ でした。
補足
ozapanさん、ありがとうございます。遅筆なもので、、、すみませんでした。 ■> たしかに、宇宙というのは実在です。そこではさまざまな現象が起こっています。宇宙を > そうした諸現象の総体と捉えることはできます(あまり意味はないですが)。が、それを > 「自分をより高め、導くような真の自分・真実在」あるいは「自らの本質を模索するもの」 > とするには、以下の要件を、宇宙に付与せねばなりません。 > 一つ、それが「意志」を持っていること。 > 二つ、それが、何らかの媒介を通じて、個々の人間に働きかけていること。 > 宇宙や人類全体について擬人法的表現をとることは可能だが(間違いではないが)、その > 表現に引きずられて(かな?)、それに「意志」や「目的」を想定すべきではない。 ●私は宇宙には意志があると思うんです。 (うわぁ、オカルト丸出し。でも言うだけ言わせてください) 宇宙の進化史を考えてみると、宇宙は 無 → 物質 → 生命 → 意識 → 精神 という具合に、より高次な存在を途方もない 時間をかけて生み出してきました。私は、宇宙の意志・宇宙の本質は「自由の希求」なのでは ないかと思っています。それは 無であることからの自由 → 物質であることからの自由 → 反応(反射)体であること からの自由→ 動物(本能)であることからの自由 → そして今、人間(ego)であること からの自由を求めて、われわれは旅をしています。(と、勝手に私は思っているんです) 宇宙本質の最高(今のところ)の顕現体が、人間なのではないでしょうか。この宇宙の地球 以外のどこかに、もし生命が存するのならば、地球生物と同じように、より大いなる自由を 求めて進化の試行錯誤を続けているだろうと思います。だから私は、進化論の言う、「突然 変異・適者生存・自然淘汰だけが進化の推進原理である」などという説には、ちっとも納得 できないのです。 ●個々の人間や個々の生物に、何らかの媒体を通じて指令が来ているなどとは、私も思いま せん。けれど生まれながらにして共有している何かがあると思うんです。うまく言葉で言え ないのですが「苦難の旅を続ける者同士の連帯意識」とでも言いましょうか。 以前、テレビの動物番組で象のドキュメンタリを見て感動してしまいました。足を骨折し、 ぬかるみにはまって動けなくなり、死を待つばかりの象がいました。そこに別の象が通り かかり、動けなくなった象を見つけるのですが、助けてやることができません。するとその 象は、長い鼻を動けない象の体にあてて、さかんに介抱のような慰めのような行為をするの です。しばらくのちにその象は立ち去るのですが、何度も何度も動けない象のほうをふりか えり、ゆっくりゆっくりと離れ、まるで永久の別れを惜しむようでした。(動けない像は結局 死にました) また、これは人間の話ですが、97年2月に千葉県鴨川市の病院で、深夜手術中に血液が 不足するという事態が起こり、市役所の防災無線で市民に献血を呼びかけたところ、真冬の 早朝であるにもかかわらず、56人が駆け付けました。着の身着のままの主婦や素足の青年 もいました。全員が二百mlずつ献血し、手術は無事終わりました。(読売新聞2月15日) この象の行動や、人々の行動がもたらす感動は何なのでしょう。 われわれ人間は決して単独者ではないし、単独種でもない。やはり、いのちある者同士、何か を共有しあっている、何かを守りあっている、と考えるのは、きわめて自然なことではないで しょうか。(stomachman博士だってアリの巣を抱きしめたくなったりするのですから、、、 博士ゴメンナサイ) 「自分だけは助かろう」「自分だけは生き延びよう」 生命進化が、そんな単純な競争原理 だけで動いているわけでないのは、明白ではないでしょうか、、、、 と、言ってはみても、しかし、文学的な理想主義で科学を批判するのは、間違いであるとは 思っています。私が批判したいのは、科学の皮相理解からきている流行通念です。 ●「人間(ego)であることから自由になる」とは、思うに、自尊・嫉妬・卑屈であるとか 富・地位・名誉などへの執着であるとか、そういう自分をもっとも不自由にする、やっかいな もの・(ego)とその殻、その仕業による重みや痛みから脱け出し、自他を分け隔てなく愛する ことのできる、ゆたかで、よりひろい、より高次の精神に進んでいくことなのだと思います。 そのための、思想も思想家も、教義も教祖も、まったく必要ありません。人々が、人と 人(や動植物)との交流を大事にしていくだけで、それは次第に実現されていくだろうと思い ます。思想・思想家、教義・教祖こそが、ozapanさんのいう 『個別者(われ)を普遍者(われわれ)へと一方的に吸収し、個別者・単独者に個別性・ 特殊性・具体性の捨象(揚棄)を強いる』危険物なのではないでしょうか。純朴な人々を 無個性で力無い個羊の群れに押し込めてしまうのではないでしょうか。私は「自由教」を説 いて世に広めようだとか、「自由教」の教祖になろうだとか、そんなことはまったく考えて いません。ですから、世人に害の与えようがないです。 私の「より自由な自分」「真の自分」は、きれいな音楽を聴いたとき、美しい自然に触れた とき、あたたかい人の人情を受けたとき、そういうときに私のなかに呼び覚まされ、その存在 が明らかになります。世の中の人はみんなそうなのではないでしょうか。そんなこと、いち いち考えないだけだと思うのです。「真の私」は、私が思弁的に作り上げたものなどではない です。 ■> mori0309さんは、僕から見ると「普遍性」を強調しすぎるのです。「すべての存在を抱擁 > する」ようなもののイメージへの、強い希求がそうさせるのではないかと推測しているの > ですが、…だが、しかし、やはりそこには「抽象の罠」に陥る危険性が立ち現れてくる。 > このことが、僕の中の「あぶねーぞ」センサーに刺激を与え、警戒の気持ちを引き起こし > ます。そういう理由で、それに対して僕は「個別者・単独者」の強調を対置することになっ > たわけです。 ●強い希求があるのだと言われれば、そうかもしれないという気がします。そういうふうに 信じないと「生」が不安なのです。でも、私は、私の神を無理にでっちあげて、勝手に信じ ているのだとは、思っていません。心を素直にしていれば、「真の私」が現れてきて、私を 救ってくれます。「それがお前mori0309を「抽象の罠」に落とし込んで滅私奉公させようと するぞ」と言われるでしょうか。私は「真の私」を盲信などしようがないのです。「真の私」 は私に滅私など求めてこないです。私のかけがえのなさは、失われることはないです。 さらにまた「「真の私」は内面化された自己維持装置だ」と言われても否定はしません。 逆に、そういう自己維持装置が特別な意識的努力なしに得られるとは、なんと自然や宇宙は 神秘的で偉大なのだろうと思います。還元的説明も私の「真の私」を無意味化することは できません。 ●かなり、すごく、とっても恥ずかしい事を書いてしまったので、ちょっと転換します。 ☆古きよき時代の習慣や文化を守り、残そうとしたがる「保守」と、新しいもの若いもの 奇抜なものを認めるばかりでなく、自分にもどんどん取り入れる「リベラル」 ☆学問的ジッセキを上げよとうるさい「アカデミズム」と、売れるものにこそ価値アリと 言う「ジャーナリズム」 ☆位階や教義にお堅い「カトリック」と、カタ苦しくなくて聖書解釈にも寛容な「プロテス タント」 ☆子弟愛うるわしく粛々たる「仰げば尊し卒業式」と、生徒企画の、思いっきり楽しもうよ 「トイレットパーパー乱舞卒業式」 ☆OKWebルールとマナーを守りなさい「派」と、OKWeb自分のスタイルで自由に 楽しんでナニが悪いの「派」 (あちこちの部屋で激論中です) ☆「普遍」に重きを置く「滅私奉公」と、「個別」に重きを置く「バラバラな個の散乱」 ☆(例によって、安直のmori0309です。類似性に厳密さは、まったくありません) こりゃ~、やっぱり、両方つねに存在していて、本気でケンカしているべきでしょうね。 「まあ、まあ、適当に真ん中でいいんじゃないの」なんて言うヤツはノンポリと言って 役に立たないヤツだから、いちばんはじめにぶん殴られるべきでしょうね。 かく言う私は「右」派です。(上の☆リストで言えば「左」派ですけど) なんと言ったって「普遍」を信じ「普遍」になろうとしているんですから。いずれ全員 「普遍」になるだろうと思っているんですから でも、やっぱり、個を重視し、孤高の個別者・単独者であることを守り続けようとする、 ozapanさんがいてくださらないと、「普遍」もきっと「立つ瀬」がないんでしょうね。 (言葉の使い方がまちがっとるぞ~>電波) ●やっぱり「実体は偶有性の総体」つまり「普遍は異端の総体」でなくては、ならんの ですね。私、この言葉、好きになりました。 ●誤解やこじつけだらけだと思います。なにせ論理にはヨワイもので、、、ホントに。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
書き忘れました・・・・ mori0309から発せられた『?』から、stomachmanさん、ozapanさん、その他たくさんここで発言されている方々のお言葉・考え方ず――っと読ませてもらってて感じたんですが、言葉を多く語り合うことで『教え教えられ』の関係がとても素敵だなと・・・・・読んでてとってもいい気分にさせてもらいました。 『ありがとう―☆』と、一言いいたくて・・・・。難しい言葉もたくさんでてきていましたが、わからないなりにも心のこもったやり取りとりなりなので、勝手に割り込んで余計なことをブックさ読者・視聴者感覚で口をはさんだことご気分を害されていたらごめんなさい。 もっと続くのならこのまま見つづけたいとまた、よけいでしたね。このトビのファンより~♪
お礼
> 読んでてとってもいい気分にさせてもらいました。 うれしくて、ありがたいコメントです。でも、いちばんいい気分を作ってくださって いるのはlittlekissさんですヨ!
お礼
oni_ocさん、ありがとうございます。後日、再度お礼いたします。