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仏教の悪い業について
仏教は素人です。宜しくお願い致します。 最近、悩みを減らす身近な知恵として仏教の教えが気になっています。 因果応報・・・ 自分がした善い事も悪い事も自分に返ってくるという教えについてですが、 口で言ったことや行動だけでなく、心の中で思った事も、ちゃんと仏様(?)阿弥陀様(?)がお見通しだから悪い事も心の中で思わないようにしたいのですが、どうしても湧き出て思ってしまうことがあります。 これではどんどん悪い業を積んでいく事になります。 それで考えたのですが、その悪い思いを紙に書いてくしゃくしゃに丸めて捨てたら大丈夫でしょうか?
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「悪い業」の中身にもよると思うのですが、 「>その悪い思いを紙に」書くまでは、有効な方法だと思います。 しかし、「>くしゃくしゃに丸めて捨て」るのはどうでしょうか。 肝心なことは「(悪い業を)何がなんでも捨てなければならない」などと思い込まない、ということです。 「>悪い事も心の中で思わないようにしたいのですが」とおっしゃっていますが、それは無理なことでしょう。 人間というのはそこまで上等にできてはいません。 たとえ仏教を極めた人でも、キリスト教の信奉者でも、人である以上、煩悩は必ず持ち合わせています。 いくら年老いても性欲が枯れることはないでしょうし、人並みに嫉妬もすれば、独占欲もあるはずです。 なぜなら、煩悩とは悪い業であると同時に、人間が自分を守るために必要な道具でもあるからです。 性欲を全く感じない、ということは生きる方向に体が向かっていない、ということですし、 嫉妬しない、ということは自分に対する愛着が全く無い、ということです。 独占欲が無い、ということは必要なものすら手に入れる能力が欠如している、ということです。 では、感じるままに何をしても良いかと言えばそういうことにもなりません。 大事なのはバランスです。 この場合のバランスとは、世界全体の中の自分という視点を持つということです。 煩悩のように、必ずあるものに対して無い事にしておこうとするのは無意味な抑圧にすぎません。 押さえつけられたものは、必ず反作用として別の面で顔を覗かせることになるでしょう。 「あるものはある」として認めることが大事です。 そして、それを『自分の問題として考える』ことが重要です。 決して他者のせいにしてはいけません。 仏教は良く知りませんが、これが修業ということになるのではないでしょうか。 自分の問題として考えることによって、必然的に他者へ迷惑がかかることは少なくなるはずです。 なぜなら、人に迷惑を掛けるということは、自分の問題を他者に解決してもらおうとする甘えに他ならないからです。 あなたは恐らくとても素直な方なのでしょうね。 「悪い業」を具体的に吐き出してみるのが最も効果的だと私は思います。 先ほども述べましたが、人間というのは煩悩の塊ですからどんなことでもできます。 自分の感情を押さえつければ押さえつけるほど、それが現われる時はより激しい形態をとることになるのは至極当然のことです。 行為となって現われる前に、その感情を吐き出しておくことが大事です。 最初に、紙に書くのが効果的だと述べたのはそういう意味ですが、信頼できるどなたかに思い切り吐き出すのがさらに良い方法です。 日記などで自分の気持ちをぶちまけるのも効果があります。 あとは、自分はもはや庇護されるべき人間ではなく、他者を庇護すべき存在として求められている人間だ、ということに目覚める勇気を持つことです。 あなたは過去の歴史の産物ではありますが、これから新たな歴史を築いていく人間でもあります。 ご質問の意図とずれているようでしたらご容赦願います。
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- adaypajimy
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仏教の本流からボトムアップしていき知識を得てゆくのもよいと思いますが、幕府に反駁してでも気付いていった教えである――今の日本に根付いた鎌倉仏教から始まる日蓮や法然などを学んでもよいのではないでしょうか…となるとまっさきに思いつく浄土真宗の開祖――親鸞について既知でしょうか。 悪人正機説や報謝の念仏などなど、アウトロー思想家が大好きな人物ですが、思想的に行き着いたという点では史上最高の思想家…だからこそ、彼はよく持ち上げられるのでしょう。 そも、悪とは何でしょう。それでは善とは何でしょうか。 世間からやさしい人(いわゆる善人)がいても、雑踏の中に佇む汚れたホームレスを救ったりするでしょうか、まず助けない/助けられないでしょう。 仏教から見放された悪人と、自分の悪人ぶりに目を逸らさなかった男、親鸞は、自分が無力であることを何度も自覚しています。また周囲に持ち上げられると"権威者"になる自分が奢っている部分もあることも自覚します。「小慈小悲もなけれども、名利に人師を好むなり」 本流の仏教を必死に勉強しても彼は境地にたどり着けなかった、そしてそれを自覚していた、煩悩など滅せられるモノではなかった。 そして行き着いた先が他力本願――自分の力では何も救えない救っていない。 No2の人が掲げる五戒にしても、 殺生をしない…でも親鸞は本来の仏教から見放された猟師に、救いの手を伸ばしました(悪人正機)。淫行をしない…でも、親鸞には妻がいました。 仏教をベースに悪を極限まで認識しようとした親鸞のプロセスは、仏教徒に限らず深い思想へと誘います。私は仏教徒ではありませんし、神も何も信じません。ただ、仏教という枠内で、奇麗事に誑かされないで、自分だけの思想の道を築いた親鸞は、思想家として本物だと思います。一度学んでみてはいかが。 http://www.plinst.jp/musouan/inoue18.html
お礼
アドバイスありがとうございます。 信心・・・読んで字の如く信じる心ですよね?信じなければ何も始まらないという事ですよね。 URL・・・全部読んでいませんが、少し読みました。 真実の宗教の(1)(2)おもしろいですね。裕福な老夫婦にしても立派に家業をやっておられるお方も、お金もあって人柄もよく利発で申し分の無い人生を送っているのに、どちらも共通してどこか寂しく満ち足りてない・・・そんな印象を受けました。生きがいが無いんですね。私もそうです。自殺はしない、殺されたくもない、寿命が尽きるまで、どう時間を潰していくのか。ただ時間つぶしてるだけなんです。ある心理学か哲学かの学者が「生きる意味は、人とのかかわりの中でしか見つける事はできないと断言した」ということを聞いたので、気になっています。人とのかかわりにあたって、仏教の教えの中によい知恵がありそうな気がします。
なるほど・・・ 失礼ながら、いい質問ですね。 >悪い事も心の中で思わないようにしたいのですが、どうしても湧き出て思ってしまう これがつまり“業”なんです。 悪いことを思いたくなくても、“悪いことを思う”という“原因”があるから、“結果”として“悪いことを思ってしまう”のです(因果)。 >その悪い思いを紙に書いてくしゃくしゃに丸めて捨てたら大丈夫でしょうか? いえ、だめです。 肝心なのは「私は悪いことを思ってしまう人間なんだ」と自覚することです。 大丈夫。人間である以上みんな悪いことを思ってしまうのですから。 でも、仏教ではその自覚があると無いとでは大違いなんです。 仏を気取った悪い人は心が穢れているのに「自分は心が清らかである」と勘違いして、心の穢れを認めようとしません。 心の穢れを認めないから、よくなろうと努力しません。 努力しないから益々悪くなる悪循環になっています。 貴方はご立派だ。 悪いことを思い、そのために悪い業を積んでいることを認めていらっしゃる。 よい方向に進んでいる筈です。 よほど徳の高いお方なのでしょう。 私も見習いたい。 合 掌
お礼
今、貴重な時間を割いてご解答くださった皆様に順次お礼を投稿していて、思い出した事があったので先にNo.7 boronboronさんのお礼を書かせてください。 No.4 No.5 No.6 の方、追ってお礼いたしますのでNo.7さんの板を借りましてお詫びいたします。 boronboronn様 悪い事を思ってしまう(困った)というのは原因があるのでした。そうでした、そうでしたね。つい忘れる所でした。相手が悪いのではなくて考えてみたら、それもそもそも自分の○○欲から出てきたものでした。 仏教では煩悩と言われていますね。 それなのに悪い事を思ってしまったら困るなんて、自分が困る原因を作っておきながら困る困ると言ってるんですから愚かでしたね(汗) 紙に書いて捨てるより、そもそも原因を取り除くようにすればよいのですよね。煩悩を取り除くのはとっても難しいです(><)。でも悩みも煩悩があるせいだと気付けたので少し見晴らしがよくなってよかったです。 ありがとうございました。
- ojizou-sam
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業(カルマ)というのは、物理でいうと「慣性」のようなものなんだと想います。 慣性は辞書では「物体が外力の作用を受けない限り同じ運動状態を続けようとする性質。」となっています。 これを心に置き換えてみると、心がなんらかの影響を受けない限り、同じような発想、行動を続けようとする性質」ということになります。 ですから、悪い想いを紙に書いてしまったら、悪い慣性が強くなってしまうんです。だって考えてもみてください。「ばか」「しね」「くそ」「へたれ」「あほ」・・・・などという品の無い言葉を連発・多用していれば、その慣性が働いてしまうではないですか。 さらに「丸めて捨てる」というのも、あまり品のある行為だとはいえません^^)。 したがって、一番良い、善業の積み方は、良い想いを紙に書いて部屋に張っておくとか、日記に書き溜めておくことなんです。 倒産はしてしまいましたが、ヤオハンの元会長の和田和夫氏は、毎日、毎日、良い想念ばかりを日記に書いていたそうです。さらには、毎日、毎日、笑顔の練習をしてとても柔和な表情を努力で獲得したんだそうです。 腕の筋肉トレーニングと同じで、日々、繰り返される行為が、その人を作るんです。 その人の心の持つベクトルというか、ポテンシャルです。 ですから、良い人生にしたかったら、良い想いを育てることです。 ありがとう、ごめんなさい。という気持ちです。
お礼
お返事遅くなり申し訳ありません >心がなんらかの影響を受けない限り、同じような発想、行動を続けようとする性質」ということになります。> なんとなくわかります。昨日まで信じていた事が、今日になってみると違って見える事があります。それは何らかの影響で・・・本だったり、人の言った事だったり。でも何らかの影響がなければずっと同じに見えますね。 >さらに「丸めて捨てる」というのも、あまり品のある行為だとはいえません^^)。> そのとおりですね^^;) >腕の筋肉トレーニングと同じで、日々、繰り返される行為が、その人を作るんです。> なるほど! >良い人生にしたかったら、良い想いを育てることです。 そのように心掛けていきたいです。> アドバイスありがとうございました。
- kikkikiman
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悪い思いを紙に書いて・・・ あなたはとてもいい人だと思います。(微笑) 仏教の教えは幅広くて、もちろん「因果応報」という概念もあると思いますが、仏教の本質ではないと思います。 仏教の最もメジャーな考え方の流派の一つに「空」があります(違ってたらごめんなさい)。般若心経に「色即是空」とありますよね。この世は皆、「空」であると説いているわけで(その説いていることも空だといってますが)、だから因果応報の思想ですら実は「空」なのです。空については、空ってなに・・といわれるととても難しい問題になりますが、簡単にいって「無」の一種だと思います。 そこで、虚無思想に陥り現実逃避に走るか、もう一踏ん張り現実と対峙するかは、個々の性格や能力によると思いますが、仏教が一番言いたいことは、どんなに社会的に恵まれていても、たとえば金持ちでも、人気者でも異性にもてても、いい奴でも、悪い奴でも、みな最後は「死ぬ」ということなのです。生きることは結局「空」なのです。 無限の時間で見れば、人類なんて本当にちっぽけで塵のようなものです。 そう考えると仏教を学んだ人の中には、やけっぱちになる人も必ずでてきて世の中が立ち行かなくなりますから、その辺の思想的なものはオブラートに包んで、なるべく人(生き物)には優しく、うらまれず、うらまず、ねたまずETC・・生きていこうじゃないか・・と提案しているのが釈迦以後の仏教者の教えだと思います。まあ道徳的であることは普遍的(世の中に認められやすい)ですから。 日本の仏教思想は、もともとの土着の民間信仰や神道と習合(混ざり合うこと)しています。同じ仏教思想でも、宗派等により思想的に全く合致しないことは多々あります。自分にとって「よいことだ」と思われることを行えば、それほど「仏教」にこだわってガチガチになる必要もないと思います。 悪い思いは誰でも湧き出ます。あなたはそれを意識しているのですから、普通の人以上に、良心的で、道徳的だと思います。仏教的であるかどうかは別にして・・。 個人的には悪い思いを、紙に書く必要も、丸め捨てる必要も全く無いと、思います。
お礼
般若心経、この四文字は聞いたことありますが内容は知りませんでした。 >この世は皆、「空」であると説いているわけで(その説いていることも空だといってますが> そうなんですか。無限の時間の中の人類の歴史が塵のような短さだとしたら、ひとりの人間の一生なんて無いも同然ぐらいに短いといっているような印象を受けました。 道徳的ですか、ありがとうございます。照れます。 仏教の歴史など、丁寧にありがとうございました。
私は、仏教の日蓮宗の日蓮正宗の信徒です。 ちなみに、仏教を極めた人間ではないですから、その辺の人より少し知っているぐらいです。 私の修行の経験上とからみ合わせて回答したいと思います。とは、言え、絶対を証明する術はありませんので信じるか信じないかは、気をつけてくださいね。 人間というには、仏(如来、成仏した人)ではありません。仏は、一切の悪を断ち、この世の法則を感じ悟り、知っていて、幸せになるための行動ができる人です。 言い換えれば、大小ありますが、生きている人間のほとんどは、心が汚れ悪質なのです。 あくまで、悪ではありません。良い心の状態ではなく、大小ありますが、愚かで醜い存在なのです。 悪質な心は、悪質なことに魅力を感じ、悪いと解っていても、ついついやってしまいます。また、どう生きれば本当に幸せになるのかも解らず、良いと思ってしても、結果が悪く、苦しんでしまいます。その結果が悪いことを次に生かせばいいのですが、それもできずに、長い目で見ると同じようなことで何度も何度も苦しんでしまいます。 その悪質な心を良質な心に変えるのことが、仏教の1つ目的です。 私の宗派では、曼荼羅(掛け軸)に南無妙法蓮華経と何度も言い、修行をします。 とは、言え、1日、2日では、その効果を体感することはありません。人それぞれですが、私は、1年はかかりましたから。 南無妙法蓮華経とは、妙法蓮華経に帰依するという意味です。 仏教には、修行方法には、六波羅蜜というのが、ありまして、自分の行動を戒めて、良い行いをするというのがあります。 言葉で言うのは、簡単ですが、これは容易なものではありません。解っていると思うのですが、これは良くないと思っていても、したいことがあります。その場合、我慢しなければなりません。 我慢することは時として辛いことです。気が緩んでいれば、我慢することができません。 また、我慢し続けることは、ストレスを溜めて、生きる活力が低下していきます。 解っているけど止められないという言葉あるように、人間の人生には、それがあります。 解っているけど止められないのはどうしてでしょうか? それは、それを求めるからです。求めるということは、気付く気付かないがありますが、それに魅力を感じたり、それに快感を感じたりするからです。 それに魅力を感じる、快感を感じるというその感性そのものが変らなければ、いつまでも我慢し続けることになります。 自分を律することも必要、禅を組み平常心を高めることも必要でも、人生とは、常に感覚の中で生きます。 人を愛する、人を憎む、理想を叶えるためにがんばる、心が傷ついて落ち込む、眠たくなる、イライラするなど、意識がある間は、常に感覚が働いています。 感覚が働くからこそ、何かを求め、何かをし、何かを拒みます。 感覚とは感じるもの、感じるのを決めるのは、心の感性、心の感性が綺麗が良質な人間は、感じるものを正しく理解し、良質へ繋げようとします。 しかし、感性が悪い人間は、鈍感であって、感性が良い人には感じることができるものであっても感じれなかったり、良いことを悪く捉えてしまいます。 悪いことをしても心は満たされます。その時は、充実します。ですが、長い目で見れば、そのつけが必ず返ってきます。 感性とは性格のことです。この性格を良質にするからこそ、自分が悪いと頭で思っていることを心でも思い、衝動的にならずに、生きていけるようになるのです。 私は、この宗派に帰依し、それを悟り、数多くある目的の1つとしてそのために修行をしているのだなと実感しています。他の宗派では悟れるかどうかは解りません。そ 私が思うに、悪い思いを紙に書いてくしゃくしゃに丸めて捨てても駄目だと思います。 毎日反省しても、なかなか直りませんでしたから。 ちなみに、勧誘する目的で書いた訳ではありません。ただ、私の経験上からです。私の経験上であってすべての人に共通するか解りませんし、普段の生活で気付くこともあると思います。ただの参考にしてください。 以上、今の悩みを減らす糸口になれば幸いです。
お礼
丁寧に教えてくださって恐縮です。 悩みを減らせる知恵があるなら、仏教でもキリスト教でも科学でも何でも使える知恵があるなら拝借したいと思っています。欲張りなのでどの宗教にも帰依できない性分です(汗) 生きてると次から次と悩みが出てきますよね。最後には死ぬのに何で悩みながら苦しみながら生きてるのかな?と不思議に思ったのです。そうしましたら仏教の教えで人間は沢山の欲があるから悩むんだよ、だから欲を減らせば悩みも減るよ、と教えてくれたんです。それで悩みの湧き出てくる原因なんて普通考えないんですけど、自分なりに悩みがどこからやってくるのか考えてみたら、どの悩みも結局は「○○欲から」にたどりついたんです。それで、ああなーんだそうだったのかと見晴らしがよくなったのです。明確で粋だな~と仏教の教えはそんな感じがします。 いろいろ教えてくださってありがとうございました。
- riderfaiz
- ベストアンサー率31% (1072/3360)
僕も専門家じゃないのですが、 「因果応報」とか「業」というのは前世(今生に生まれかわる前に 生きていた時代)に行った悪行の結果、今の人生において 災いを受けることを言っているのではないかな? だから幸せな来世のために今の世では善行を行いなさいという 教えだと思います。 >心の中で思った事も、ちゃんと仏様(?)阿弥陀様(?)がお見通し これはキリスト教的な考え方だと思いますが。 だからと言って悪い考えをもっておればいいということではないですが。 仏教は極めて現実的な宗教ですので、本来はそんな おまじないのようなこと(紙に書いて捨てる)で悪行を 払うことはできないと思うのですが。 ところで仏教における悪行とは何だかご存じですか? 全部で250の戒律があってこれを守っていくのが真の仏教 (仏僧)です。でも衆生(一般の人は)まずこのうちの 基本である5つを守って生きていくところから始めましょうと いうことになっています。それは 1.殺生をしない 2.盗まない 3.淫行をしない 4.うそをつかない 5.お酒を飲まない です。この5戒を守らないことが悪行なんですよ。 5番目はちょっと難しいかもしれませんが、とりあえず 飲酒運転をしないということでここから始めてみては いかがですか。
お礼
そういえばそうでした^^。今、ど素人向けの法話の因果応報のところを読んでいるのですが、現世の宿命が、前世の悪業の結果だという話になっていました。ということは、やはり毎日よい思いをこころがけたことに越した事はないということですね。 悪い思いを無かったことにするイメージしやすい儀式として紙に書いて捨てるというのを思いつきました。やはり無かった事にはできないんですね。 5は難しいですね(汗)。でも今の時代5番は飲酒運転はしないとした方がマッチしてますね。 ありがとうございました。
- MIKENEKO99
- ベストアンサー率21% (12/55)
善業も悪業も、全て自身の無意識層に蓄積されます。それは自身の今後の生き方に重大な影響をもたらします。また、全ての衆生が仏性を持っていると説いているのも事実です。この仏性によって過去の悪業を善業に変えていけるのです。また、擬人的な阿弥陀様というものは存在しません。釈迦が阿弥陀を説いたのは、あくまで衆生に渇仰心をもたらすために説いたユートピアです。現実に存在するものではないのです。
お礼
おしえてGoo利用はビギナーです。お礼を書いたつもりだったのですが反映されていないのでもう一度入力してみます。二重投稿になりましたらすみません。 ポイと捨ててそれで終わりではないんですね。自分の中には残ってそれが未来を造っていくんですね。悪業は変えれないと言われたらなんだか投げやりになりそうですが、善業に変えていけるよと言われたら希望が湧いてきました。 ありがとうございました。
お礼
お返事遅くなり申し訳ありません。 >ご質問の意図とずれているようでしたらご容赦願います。 いいえ、監視カメラか盗聴器かしかけられてるかと思うぐらい今の自分の状況を読まれていると思いドキッツとしてしまいました。 そうなんです。紙に書くというのを思いついたのは私がよく読む精神科医の人が書いた本に、すごく腹が立ったときの対処法で、紙に書いてほとぼりが冷めたら捨てるというのが書いてあったのです。湧き出た憎悪は簡単に忘れる事が出来ません。でも憎悪は心に留めて置くと苦しいです。それで(紙に書くことで)いったん預けるといったイメージです。私も時々そうするのですが紙に書いてみると客観的にみれて、自分はどうしたいのかとか整理して考える事ができるので有効だなと感じています。 でも、仏教の法話も読んでいて思ったのはそれは悪い業を積む事になるので「くしゃくしゃに丸めて捨て」たら仏教の教えではどういう解釈になるの興味がありました。 >人間が自分を守るために必要な道具でもあるからです。 おっしゃるとおりですね。バランスが大事なのですね。 >無意味な抑圧にすぎません。 煩悩の一つに「我慢しすぎ」というのがあるのですが、そのことですね。 >自分の問題として考えることによって、必然的に他者へ迷惑がかかることは少なくなるはずです。 そうなんですね。 >あとは、自分はもはや庇護されるべき人間ではなく、他者を庇護すべき存在として求められている人間だ、ということに目覚める勇気を持つことです。> 親になるという事ですか?私の事をまだ親の自覚が出来ていないように感じられるのですね。頑張ります! ご回答、その他アドバイスありがとうございました。 「くしゃくしゃに丸めて捨てる」から、どんどん広がっていろいろためになりました。