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「仏教の仏様は自分の中にある」とは・・・
「仏教の仏様は自分の中にある。」 という文が、あるお寺のサイトに掲載されていたのですが、いまいち私には解釈し辛いのです。どなたか、分かり易く教えて下さい。宜しく御願いします。
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http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/situubussyou.htm 一切衆生悉有仏性 ということを、平たく言っているかと思われます。 仏教では、修行によって悟りを開くことになっております。悟りを開いた人はすべて仏様になります。ゴータマシッタルダという個人が仏様ではなく、悟りを開いた人すべてが仏様。 そして、その悟りを開く可能性は、すべての人の中にすでにあるというのが、仏教のスタンス(すくなくとも、大乗仏教ではそういうことになっている)なので、 仏教の仏様(になる可能性)は、(すべての人の中にあるので)自分の中に(も、当然)ある ということになります。 キリスト教では、神が神に似せて人間を作りましたが、人間は決して神様になはれません。しかも、誰が救われるかは神様が勝手に決めます(予定説)この辺が、仏教と大きく違います。
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こういう事は、言葉では説明しきれません。 長年座禅をして、初めて自分を知り、自分の仏性を感じて理解できるものです。 本当の意味で理解するには、悟りを得るつもりで座禅等の修行をしてください。
わけいっても わけいっても 青い山
- mmky
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「仏教の仏様は自分の中にある。」 神とか仏とか呼ばれる存在が人間の心を「その一部を分けて」創造したのだから、その一部である人間の心の奥には神とか仏とか呼ばれる存在があるということですね。神とか仏とか呼ばれる存在は、人間が機械ロボットを作るように人間を作ったわけじゃありません。その一部を分けて作ったということですね。生き物は誰でも心の奥の奥を覗けば根本仏(神)に行き当たります。仏の一部であることがわかります。さらに根本仏(神)はこの大宇宙も念いで作ってますから、仏の一部はすなわちこの惑星であり銀河であり、大宇宙ですから天体望遠鏡で見なくとも心の奥の奥には宇宙すべてがあり、誰にでも見えるということですね。見えるというか、その一部であることがわかるということですね。 目で見える世界には限界があるが心の世界には限界はないということですね。まあ見て御覧なさい間違いなくあなたの心にも仏がいますから。
小乗仏教では悟り 大乗仏教では覚り 二つ逢わせて覚悟かな
仏典等は不案内ですが 「神は我が心に有り」と考えています。
仏教と関係があるかどうか分かりませんがどんな人でも自分の正体だけはわからないということではないかと思っています。それこそ超人的な人でも人である以上同じ原則が成立すると思っています。他力本願なども近いのかもしれません。西洋ではデカルトのコギトエルゴスムが近いかと思います。一方汝自身を知れとか自分探しというのは正反対で無理なことだと思います。正体がわからないと言うのはモノにたとえれば暗闇のようなものだと思います。仏様が暗闇であるというのはおかしいようにも思えますが、明るすぎてもまぶしくて何も見えませんから正体不明というのは光がありすぎると仮定しても良いかもしれません。いずれにしても仏様は存在することはわかっても正体不明ということではないでしょうか。正体不明でも平気なのだというのが実はなかなか難しいのだろうと考えています。
- koko_u_
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「自力で悟りを啓くしかない、他の仏様に頼るな」という意味。 救い=悟りだとすれば、それは自分の中にある「悟りの芽」のようなものを開花させるしかなく、他の仏様に頼っても真の救いは得られない。 と、まったくの門外漢が回答してみる。
お礼
回答して下さった皆様、真に有難うございました。 今はこの質問をした自分でも、「仏の何如を問うことが、なんの意味も無い事なのではないか」と思っております。 仏性とは何なのか。人それぞれその考えは違って当然だと思います。 ゆえに仏性を育てることすら、主観的な観念の上で行われる事なのですから、生きながら人間が仏になれるとは私は考えません。 ですから、「悟りを得る」とは、それを自覚出来るものとも思えません。 もし理解出来たとしても、それはすでに自己満足に過ぎなく、仏になったとは到底いえないように思えます。 なので、「仏様は自分の中にある」と考えるのも考えないのも、それ程大差ないことだ、と私は考えさせて頂きます。 そしてまた、こういう事を考えてしまう人間の思考に、一種の矛盾と無意味さを我ながら感じてしまうのでした。。