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輪廻と業の説は無用か
- 輪廻転生は同じDNAを持つ人がいなければあり得ない誤謬である
- 意志行為が原因で縁を引き寄せ、一生涯を超えてはたらくことはあり得ない
- 因果応報の説は人間の生まれてから死ぬまでの現実性を持つか
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還相についてですが・・・ 自らが受け取ったものを他者に振り向ける救済の行為か、或いは、そこにおいて生じる結果そのものを指すのか はたまた、そのどちらでも無い、作用を及ぼす働きが生じたという慈悲の具現化を指すのかどうか 或いはそれら全体を意味する事も可能性としてありましょう。 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 主観的な範囲に留まる内容などは、否定的論法により一蹴されてしまうものと思われます。 また、下手な客観性といったものを持ち出せば、愚かだと決めつけられてしまうでしょう。 還相の利の面の純粋さを得る事、守る事は容易ではない感じがいたします。 私個人においての還相の行果として確かめられうるものは「祈り」です。 仏から頂いたものでありながらも、自らの能動的な慈悲心の発露としても感じ取れるものです。 この点については、ブラジェロンヌ様も既にご承知の事と存じます。 でなければ、私に書くようにとはおっしゃられなかったでしょう。 ついでながら、私が仏様にたいして逃れ得ぬ非というものを感じているものも、また還相の中にあります。 それは、受け止めているものの大きさに比しての行いというものを、常に小さく感じているからでもあります。 それでも尚、祈っている時には救われます。 信仰という主観の中に納まるものでありながらも、自らがおかれている現実の広がりを変えうる力を得られたと思い込む事ができるからです。 やはり私は弱いのでしょう。 でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 そんなところです。 あとは先生にお任せいたします。 それではお元気で。
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- ztb00540
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bragelonne さん今日は。 (1)生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。 回答:肉体はその時の借り物です。輪廻とは気(魂)が肉体を借りてこの世に何度も存在します。 気(魂)の数は気が遠くなるほど存在しているのでしょう。 私は数億年後に絶景の美女として生まれる予定です、女王蟻かな。その時は宜しく。殺さないで (2)業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり 方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはた らくということはあり得ない。同じく確認です。 回答:一生しか与えられていませんからね。二生あると楽しいんですけどね。 失敗したからやり直そうとか、また同じ失敗やっちゃったとか、面白いでしょうね。 (3)ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこ ととしてなら 現実性を持つと見るべきか? 回答:おなじみの心があなたの人生を作りますからね、因果応報はあります。 生きたくないと強く思えば自殺してしまいますからね。 (3‐1)たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか? 回答:うーん、これは運命又は宿命でしょうね。運命かな、逃れられない結果ですから。 (4)言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか? 回答:運命、宿命がありますから、全て自業自得とは言い切れない。 (4‐1)すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだ ろうか? 回答:無用と言うより論じる意味がない。無用かな? 勘違いではないことは確かだと思う。 おなじみの面々が顔を揃えているみたい。
お礼
ズィーティービーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 回答:肉体はその時の借り物です。輪廻とは気(魂)が肉体を借りてこの世に何度も存在します。 ★ 回答:うーん、これは運命又は宿命でしょうね。運命かな、逃れられない結果ですから。 ★ 回答:運命、宿命がありますから、全て自業自得とは言い切れない。 ☆ けっきょく 人間の知解能力によっては知ることのできないことが 世の中には起こり得る。こういうご趣旨でしょうか。 そうですね。そのあと たとえばお説のように ○ 輪廻 あるいは 運命 ☆ の所為にするのも 通念としてはひとつの答えであるのかも知れません。 哲学は 納得しないでしょうね。 輪廻に対しては 論外と言うでしょう。 運命に対しては 無記つまりこの場合 然りとも否とも言わない でしょう。 或る種の仕方で 文学談義としてうかがいました。
補足
● み な さ ん へ これまでにご回答を寄せてくださったみなさんにお礼をもうしあげます。 ありがとうございました。 ここは長くなりました。途中になるかも知れませんが ここは閉めたいと思います。 同じおもむきの質問を挙げていますので 途中の方は そちらへご投稿をくださいませ。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 ☆ なるほどですね。この主題として――いまの質問としての主題を具体的に実践的な主題として捉え直して―― 問い求める道があるように思われますね。 仰られますように、集団的リンチなるものを防ぐためにも、新たな問題として、取り組むべきかと考えております。 また、実用的・実践的問題としてしまい、“哲学”らしくはなくなってしまい、誠に申し訳ございませんでした。ここらへんは、全くもって、理系人間の不得手とするところでございます。 駄文、ご一読賜りまして、どうもありがとうございました。
お礼
いえいえ ★ “哲学”らしくはなくなってしまい ☆ はしません。哲学です。でも ★ 〔実用的・〕実践的問題として ☆ あるようにわたしには思われます。裁判のようにです。 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 仰られますように、集団的リンチなるものを防ぐためにも、新たな問題として、取り組むべきかと考えております。 ☆ ですから この問いをどうやって質問にまとめるか ですよね。 ★★ (回答No.63) ~~~~~~~~~~~~ ひとを何ら実証・反証できない理由で、「罰があたったのだ」、「自業自得だ(自己責任というのとは異なります)」と非難するのは、私刑(リンチ)につながるものと考えております。なんでもありの“裁き”は、社会自体をも不幸にしてしまうものかと考えております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この事例については ちょっと他の人が絡んでいますので言うのを躊躇しますが ひょっとすると わたしがいま直面している二つの場合に或る種の仕方で類型的に同じような場合なのではないかと そのすがたを思い描いてみています。 あからさまに言いますが じねんさんの――わたしに思われるには――いわゆる世間の考え方として たとえば他人(ひと)に迷惑をかけてはいけない また世間を騒がせてはいけないというような慣習法があって これに挑戦するような言論に対しては その中身よりも前にそのお騒がせ自体について 咎めるという傾向 これが 類型的には《いぢめやリンチ》につながる方向性を持つと考えます。じねんさんは そんな心つもりを持つ人ぢゃないと思っていますが まわりまわってそういう世間の方程式のような・また動力のような《空気》に知らず知らず棹差しておられるのではないか。こう見られます。 もうひとつは き・・・さんの場合です。これも大枠は 世間のならわしに倣えという類型ですが その場合は一歩踏み込んでいます。じっさい本人が 自警団のごとき役割を自覚して引き受けている。こういう場合だと考えます。十字軍を非難している立ち場にあるわけですが その十字軍を批判する反動十字軍のごとき役目をみづからに課している。こう思われます。 ですから集団ではなく ひとりでの行動ですが もちろんその背景としては行動様式を目に見えぬかたちでしかもしっかりと世間には倣えというかたちで人びとに促す日本教の隣組大作戦だと考えます。 ★ ひとを何ら実証・反証できない理由で、「罰があたったのだ」、「自業自得だ(自己責任というのとは異なります)」と非難する ☆ ようなものだと考えます。異者の排除の論理です。むろん わたしが異者です。 突っ込んでください。それによってさらに真相が――日本教の現実の姿が――明らかになっていくものと考えます。
- 来生 自然(@k_jinen)
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「輪廻」を望まないとしたのは、スッタニッパータの 「このよをも、かのよをも、望まない」 の範疇を逸脱するものではありません 取り急ぎ、携帯から投稿しております
お礼
ですから ☆☆ でも 今回は 《輪廻を望まない》という発言が聞けましたね。 ☆ になりますでしょ。さもなければ 月を取ってぇ!とか 魚が嫌い!とか叫んでいるだけのことになります。 ▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~ 778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。 779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《想い》というのは どうも――中村元の注解によれば―― 世界のものごと(諸法)のことであるらしい。 いちばん下品な解釈をしてみましょう。 (1) 《この世もかの世も望まない》は あたかも《月を取ってぇ!とか魚が嫌い!とか叫んでいるだけのこと》なのだから けっきょく《勤め励んでおこな》っているという現実の姿は ほかのふつうの市民と変わらない。恰好をつけているだけだ。 なぜなら 《所有したいという執著に汚されることなく》というのだから 《所有したいという執著》は持っていてもよいし それを実際に実行していてもよいことになる。なぜならその《執着に わたしは 汚されてはいないのだ》とうそぶいていればよいのだから。 (2) 《両極端に対する欲望を制し》と言っているのだから 《賢者》とか《聖者》とかという人間の特殊な事例を出しそれにかこつけて特別な境地を突出させるがごとく説教しても それほどつまらない心の吐露があるだろうか。 ふつうの市民の生活の知恵をなめている。ないがしろにしている。いったい何さまだと思っているのか。 《この世もかの世も望まない》なら 早く逝っちまえばいいぢゃないか。うざい説教を聞かなくて済むぶん 世界は明るい。 (3) 《自責の念にかられるような悪い行いをしないで》ったって 世の中は めぐりめぐりまわりまわって人びとの行為の連関は網の目のように錯綜し張りめぐらされた格好である。待ったなしのこともあれば やむなく引き受けなければならない泥仕事もいくらでもある。そう考えれば これらすべてをわたしは家族のためにも引き受けてやっているのだから 《自責の念にかられる》ことばかりだ。何が出家だ! 何が《悪いおこないをしないで》だ! いったいおまえは幼児のままか! 幼児の戯れ言ではないか。考えも思いも何もないのか! 《悪に対しては幼な児のごとくあってよいが 考え方においては大人になりなさい》というぐらいのことは言えないのか。 (4) 《(煩悩の)矢を抜き去って》 ようよう言ってくれるぢゃないか。わがウソに始まる心のへそ曲がりは 物ごころがついたときからだから 今となっては容易に直らない。曲がったままである。その曲がったという棘がわが心には残念ながら突き刺さっている。 このとげを自分の力で抜き去るというわざを いったい人間のだれがおこない得よう。 《(煩悩の)矢を抜き去って》だと? よくも言ってくれるぢゃないか。 《想いを知りつくして、激流を渡れ》だと? 口先だけで世の中が渡れるとでも思っているのか。 こんなうすっぺらな言葉を吐くことが出来るとは いったいどういう魂胆だい? 心の中が スカスカで 隙間風が吹き抜けているぢゃないか。もうちっとは気の利いたせりふを言ってくれたら どうなんだい。世間に出て修行でもしたらどうだい。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.5,6,13,14,28 and 62です 因果という概念について考えるとき、因果の有無・程度に関わらずに分類するなら少なくとも2つの分類になり、因果の有無・程度でも分けるなら4つの分類を考えねばならないと思っています。この区分は「こころ」の区分(「こころ」をどう捉えるか)とも密接に関連します。 http://okwave.jp/qa/q6142559.html 2ないし4についてのみ、善悪といった価値判断が関与します。 1.(ある人・物にとって、別の人・物との)交換可能性の非常に高い因果関係(因果があるという方向) 誰しもが逃れられない物理学的範疇(ないし第一原理にて記述可能だと誰しもが認めうる化学的・生物学的範疇)として捉えられ得る関係。たとえば、合力の方向(あらゆる力が合わさった方向)へ物は動く。 「こころ」と無関係に成立しうるとみなしうる因果関係。 2.(ある人にとって、別の人との)交換可能性が担保され得ない因果関係(因果があるという方向) ある人にとっては成立しうるが、別の人にとっては成立し得ない因果関係。たとえば、外部の状況に対し、ある人の心的な反応とみなしうる「態度・反応・行為・価値観」によって外部の状況が影響をうけ、別の人であったなら、因果関係が成立し得ないと想定されうる関係。 心理学的に扱われうるであろう関係:ユングの共時性概念の一部(一側面)が含まれる。 人によっては宿命・運命と感じ、別の人にとっては奇蹟・偶然と感じうるような関係。 さらに、これには、以下の二つの場合を含む。 2-1.本来は「1の因果関係」に含まれるが、個々の(知的)理解度や解釈(価値観)によって、誤認される場合。 2-2.本来は「3の非因果関係」に含まれるが、(誤って)因果があるように捉えた場合。 3.(ある人・物にとって、別の人・物との)交換可能性が非常に高いため、因果がない(非因果)と捉えうる関係 本質的に1。 ミクロのレベルとマクロのレベルの二方向に分かれます。 (ミクロな)量子力学レベルでの確率概念として扱われうる関係。 (マクロな)確率的・カオス的に扱われうる関係。 4.(ある人にとって、別の人との)交換が「不」可能であり、かつ、因果がない(非因果)と捉えうる関係 本質的に2で「偶有性」概念に相当する。 拉致被害者の方々の場合(当人にとっては)「2ないし4」に相当します。 もし部外者が「因果の視点から完全に捉えうる」と声高に叫ぼうとするならば、部外者と被害者とは「こころ」のレベルから交換可能な関係、すなわち(実際には不可能であるにもかかわらず、「相同性」を感じうる故に、極端な話「まったく入れ替わっても」(すなわち「転生しても」)何ら問題ないという関係であると、強く主張しているのと同じになります。 また、そういった主張を強くすると言うことは、被害者および関係者の心的状況が「2ないし4」であるべきところを、「1」の方向か、「3」の方向へと引きずる行為に等しくなります。逆に言えば「1」や「3」の概念を「2ないし4」の領域へと誤って導入すること(2-1や2-2に相当する行為を行うこと)になるということです。 もし部外者が「因果」という概念で語らざるを得ない場合には(たとえば裁判員に任命された場合には)、「2ないし4」の立場では決して語り得ないにもかかわらず、(限界を感じつつ)極力「共感」しうる(「相同性」を感じうる)状況に置くように努める必要があるでしょう。状況を詳しく知り得てなお、不完全であるかもしれないという危惧を常に念頭に置きつつ判断を表明すると言うことは、自身が被害者であった場合を想定すること、相同性を感じること=相手の立場に立つこと≒転生した状況を想定することと等価であり、事件現場の状況を体験しているのかどうかは、非常に重要な事柄になるでしょう。 1から4の全ては「経験可能な領域」に成り得ますが、「非経験の領域」については、それが「どこ」にあろうとも(なかろうとも)、「因果という観点からbragelonne様がどのように捉えるか」については、「2ないし4」に属するでしょう。 人は「相同性」を経験できるゆえに、そうしてそれを「共感可能」なゆえに、本質的に共有不可能な(交換不可能な)ものごとを扱いうるのです。たとえ、それが経験可能であろうと、不可能であろうとに関わりなくです。 「(説ではない)輪廻・業の概念」を無用とするということは、人としての「相同性・共感可能性」を間接的に排除するのと同等でしょう。 それが「彼岸」であれば「輪廻」と共に「望みません」。
お礼
ひとこと。茶の木畠です。 分かりやすいように 趣旨説明での問いを言い直してみましょう。 (1) あなたは過去に生きた人物で その人間は自分だと思ったことがありますか? 言いかえると 同じひとりの人間が生まれ変わるということがあると思いますか? ―― DNA の観点からは これはあり得ないと言えるのではないか。 (2) 〔(1)の確認のためのみなので はぶきます〕。 (3) 因果応報説は 行為(思惟・発言・行動)について――その定義はいまどうであれ(ということは (1)の場合と同じようにそれぞれの主観によって判断するという意味です)―― 善と悪とに区分することから始まっています。 そのあと 善因善果(または楽果)および悪因悪果(または苦果)の二種類に分かれます。 (3-1) めぐみさんが拉致されたという〔受動的な〕行為は それとして善果か悪果かのどちらかであるはずです。めぐみさんも一般の人も 悪果だと見なすでしょう。 けれども人は 過去の歴史をも含めて 一人のひとの行為は ほかにただ一人のひとを相手にする場合から始めて 社会的な関係の中にあると見ます。これは環境自然をも含めて社会構造的な影響関係の連鎖・錯綜から成り立っている。(いわゆる縁起共生である)。 したがって この因縁果の構造的な錯綜関係のなかから はっきりと特定し得る因果関係を見つけ出すのは きわめてむつかしい。 (4) 少なくとも 主観において悪果だと見た行為が 自分の過去の特定しうる因によって起きたと決めることは 条件づけを行なっておくといった場合の例外を除いて 無理である。 例外というのは たとえば列をつくって立っているとき 後ろから押されて前の人に体がぶつかったという場合。それは 意図せざる行為であるけれども わたしは事後的にそれをも大きくはわたしの意志行為であると認めて――すなわち 因果関係をその場に限れば特定し得ると見なして―― 前の人にあやまります。 〔ちなみに あなたの今回の【1~4】の説明では この事後的な承認という観点が欠けています。わたしの意志による行為でなかったとしても 互いにこれを自分の管轄範囲にあると認め合って(または ゆづりあって) あやまるということをおこないます。それで済むということです。つまり むしろ 自業自得ではないはずのところを そのように相手を立ててこちらの責任であると認める。すなわち 自業自得という考え方を 方便として活用している〕。 一部分を切り離してその行為関係だけで捉えるという条件のもとでなら そこに因果関係を見ることは出来ないことではないとなります。前の人にぶつかったのは わたしの行為であり それについてあやまらねばならないのは そうとすれば方便としての因果応報ゆえにです。自業自得という《理法》は この部分的な場面には そのように当てはまります。 ☆ この主題では 《相同性》もへちまもありません。自分がどう判断するかです。まづは それです。 ただし 輪廻転生は 実際問題としてはあり得ませんねという話であり 業の思想にかんしては あり得ない。かまたは 実際問題として決められないという話です。 きわめて狭い事象をそれだけ捉えて因果関係を明らかにしようとする場合にも 方便として自業自得なのだと互いに取り決め合って――交通の取り決めとして了解し合って―― あたかも因果関係が特定できたと見なすことをおこなう。 その意味は 社会的に相互依存しあって起きる因果の錯綜構造の中から 特定の一筋の因果関係を取り出すのは 容易なことではないということ。 もし犯罪行為に関して 因果関係を特定しうるとするならば それは ひとつの犯罪行為をめぐって当事者を限定して その範囲内でおおよその筋書きを見出し作り上げて 大方の了解を得るかたちにしている。それは因果関係よりは 自由意志の重みです。または ひとをその自由意志に反して身柄を拘束することは ゆるされないという取り決めに従って その拉致なら拉致という犯罪行為そのものを取り締まろうとするかたちにしている。 《共感可能性》というのは ここで持ち出すこともないでしょう。輪廻であろうがなかろうが 業の思想にかかわらせようがそうしまいが 共感ということ自体は 起こります。それだけのことです。 《相同性》は この主題を考える上では《排除》しますが 《共感》は排除するしないの問題にはなりません。 そのような《条件づけ》を勝手につくって ★ それが「彼岸」であれば「輪廻」と共に「望みません」。 ☆ と言っている。善悪から自由な非経験の領域に 条件づけがあろうはずがありません。 でも 今回は 《輪廻を望まない》という発言が聞けましたね。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 四諦において苦を滅した状態――さとり・涅槃――は いわゆる絶対の境地としてこの非経験の領域のことを言っていると思われる場合もあります。実際は どうなのかです。 四諦(Wikipediaから適当に抜粋したものでございます) また、諦:「さとる」という意味があるようでございます。 苦諦:人生には(“四苦八苦”等)、“苦”が存在する 集諦:苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ること 滅諦:苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ること 道諦:苦を滅した涅槃を実現する方法(“八正道”)、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道 これらは、全て“経験世界”のものと判断されます。従いまして、釈尊の“涅槃”なる境地は、少なくとも、初期仏教では、“経験世界”に属するものと解しております。 > そしてもし弟子たちやそのあとの後世の人びとがブッダのおしえに従ったというときには 《非経験の領域》に対する信仰ではなく ブッダの人となりに対する信頼心からだと推し測られます。つまり その場合は すべてが経験行為に属します。 仰るとおりかと存じます。 > だとしたら そのまま従った人たちもいれば 法華経や浄土教のごとくに自分たちの思想として発展させた場合もあると受け取ることができます。 同じ時代に誕生し、またその思想性から“双子の宗教”と呼ばれる“ジャイナ教”とのその後の経緯の比較から、仏教には、概して厳しい“(成文化した)戒律”が存在しなかったものと考えております(逆に申しますと、当時の種々の教え・宗教に比し、仏陀の教えは比較的自由だったものと思っております)。 (参考:“ジャイナ教と仏教”) > 善悪の彼岸という言葉がよく用いられますので使うとしますと むしろ経験的・相対的であるゆえに人それぞれの善悪がしがらみとなってのように必然的に絡み合う場を形成する経験世界 この経験世界から自由でもろもろの善悪から自由な領域を想定しうるか? “世俗の価値観に基づく”善悪を超えることこそが、修行の目標として立てられたものと解しております。つまり、(絶対的)善悪を超えるというものではなく、釈尊にとりましては、単に世俗的価値観から自由な領域を求めたに過ぎないと考えております。 > わたしのたたき台としては 《非思考の場》として=つまり信仰において この善悪の彼岸に到達できるというものです。潜在的な可能性を見ます。 実を申しますと、有神論者である愚生もその可能性を覗っております。ただ、釈尊ご自身は、かようには考えてはいなかったかと…… > それが実現したらむろんのこと 可能性においてでもそれを根拠として 輪廻の思想は必要がなくなるということ。業の思想にしても 同じく不要になるということです。輪廻や業から自由になるのですから。 「“それ”が実現すれば、つまり、“善悪の彼岸への到達”が実現すれば、輪廻の思想は必要がなくなる」というのは、論理的に筋がとおっているかと存じます。 そこでは、“善悪”が相克されているのですから、「“善因”・楽果、や“悪因”・苦果」なるものは、消滅していると考えられるからでございます。 >でもそこに(いわゆる現世に)、すでに善悪の彼岸は見え隠れしているなら 輪廻と業の思想は お払い箱に入れられる。こう考えます。 まず、仰られますように、“見え隠れしている” つまり、“ある種の想定をしている もしくは、それを望んでいる”という意見を持つ方々を、無視はできないと考えております。 そしてこれは、愚生の意見でございます。繰り返しになってしまいますが、ひとを何ら実証・反証できない理由で、「罰があたったのだ」、「自業自得だ(自己責任というのとは異なります)」と非難するのは、私刑(リンチ)につながるものと考えております。なんでもありの“裁き”は、社会自体をも不幸にしてしまうものかと考えております。 最後まで、お読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。
お礼
★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ひとを何ら実証・反証できない理由で、「罰があたったのだ」、「自業自得だ(自己責任というのとは異なります)」と非難するのは、私刑(リンチ)につながるものと考えております。なんでもありの“裁き”は、社会自体をも不幸にしてしまうものかと考えております。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほどですね。この主題として――いまの質問としての主題を具体的に実践的な主題として捉え直して―― 問い求める道があるように思われますね。 どうでしょう。これは 具体的な事例を持ち出して 情況や事実の把握をいろんなかたちでしなけれならなくなるでしょうか? つまり裁判の手続きのようなです。――そう考えると ちとむつかしいようですね。 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 おおむね趣旨説明のたたき台を ひどっちさんの立ち場から裏づけしてもらったようにも受け取ったのですが いいでしょうか。《すでに善悪の彼岸は見え隠れしているなら》などと文学に堕してしまったところを論理的に掬いあげていただきました。 ブッダは 自由なのだが・だから開かれているのだが おおむね経験思想の範囲での思索と実践にとどまると見ていらっしゃいますか? ということは 後世における発展は 一応別だと見るということですね。 すっきりしますけれど たぶん ブディストの側からは クレームがつくかもしれないですね。ついてもどうってことないと思いますが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・“ジャイナ教”とのその後の経緯の比較から、仏教には、概して厳しい“(成文化した)戒律”が存在しなかったものと考えております(逆に申しますと、当時の種々の教え・宗教に比し、仏陀の教えは比較的自由だったものと思っております)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも そうだとしますと 大きな特徴ですね。従来の解説とは違うように思います。日本でこそ 戒律はゆるやかになったけれど もともとは きびしいものがあったと聞いていましたから。 ――あぁ あるにはあったようですね。わたしの嫌いな中沢新一の発言として読んだのですが 例の不邪淫戒は 出家の修行においてはそうとう細かく規則づくめだったそうです。ブッダの生前だったか死後のことだったかは 申し訳ないですがいま思い出しません。 この質問としては いくつかの方面へ手を伸ばしつつ探ろうとすることは出来たかに思われます。 じねんさんが ふたたびおとづれて来ていますので もう少し開いています。 さらにまとめなどありましたら ご投稿ください。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.5,6,13,14 & 28です >>> No.61 補足欄 たとえば次のように《非経験の領域》を想定します。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 非 経 験 の 領 域 ______________________________ 《生まれる前→生身で生きている時空間→死後》という経験世界の系譜 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いわば上下の構造です。死後にも生前にも――なぜなら それらは 経験世界に属すると考えられるから―― 別様に非経験の領域があるという見方です。 四諦において苦を滅した状態――さとり・涅槃――は いわゆる絶対の境地としてこの非経験の領域のことを言っていると思われる場合もあります。実際は どうなのかです。 <<< なぜ、「死後・生前にまで【経験】世界を拡大した状態を想定しうるのか?」 もし、「そういった状態を想定しえない」ならば、仰るところの「非経験領域」は「死後・生前」をも含むことでしょう。 すなわち、「非経験領域」というものは「経験領域」という概念の成立によって「それ以外」という概念で生み出され得るものでしょう。 因果という概念は「論理的・無矛盾な説明可能性をもたらしうる概念」として捉えることができます。 ○○「だから」●●だ。 「だから」には、「結果の●●の原因が○○だから」といった暗黙の了解(経験則)が組み込まれています。 ※何度もくり返しますが、因果という概念を、「人為的に特定の範囲で切り出すことをしない」という前提条件での話をしております。また、因果という概念の強度・適応性についても、相互に了解可能な範疇で取り扱うこととします。 そういった「因果という概念=論理的・無矛盾な説明可能性をもたらしうる概念」があるからこそ、ブッダの生前から(誤った因果概念の適応としての)輪廻転生説が受け入れられていたと考えられるでしょう。 ※「(誤った因果概念の適応としての)輪廻転生説」:No13,14でも説明していますが、「相同性」(=「状況が似ていたら、同じような事が生じうる」)に「因果」という概念を「誤って」結びつけようとした結果、生み出された概念でしょう。単に「同一の魂」といった概念のみならず「生死に際して一つの魂が複数に分裂したり、複数に分裂した魂が一つに合わさったりといった概念」すら生み出すことが可能です。 「全てが因果という概念内部にある」と信じているからこそ、なにか「悪いこと」が起こったときには、人は「なにがしかの理由が必ずあるはずだ」と原因を探すことで、安心するものだから生み出されたともいえます。 だからこそ、ブッダが(業や輪廻転生といった狭い領域ではなく)「広い意味での因果」からの脱却を 「この世をも かの世をも 望まない」(スッタニパータ) と表現したのだと思っています。 仰るところの、「経験領域」の上段に構えた「非経験領域」は、そういった「脱却後」の領域と捉える見方も可能でしょうが、因果概念内部に経験側を置くと言った見方をするならば、「非経験領域」は「因果概念」内部に位置づけされかねないと思います。(なぜなら、上であろうが下であろうが、右であろうが左であろうが、「経験領域」があるから(原因)「位置付けが可能な領域」(結果)として扱おうとしておられるように見えてしまいます) そういった(非経験領域をどう扱うかについての)目的意識があるにせよ、ないにせよ、因果という概念を「狭い範囲に」誤って適応してしまっている「業」概念や「輪廻転生」概念を対象として論ずる限りにおいて、「非経験領域」は「因果」領域に片足を突っ込んでいるようにすら見えてしまいます。 「広い意味での因果」という範疇で考えるなら、「業」概念や「輪廻転生」概念は無用なものではなく、人が人として生きている限りにおいて、(昔からの「相同性」としての)性癖故に、簡単に用いてしまいうるものなのでしょう。だからこそ、「業」とか「輪廻転生」といった概念を積極的に認識する(原因)ことで、逆説的に、そういった概念の危うさを知ることができ、「それ以外のもの」といった概念をも導き出すことが可能になる(結果)のだと思います。 表題のように「狭い意味での因果」に固執し、「悪い状況」の原因を「業」や「輪廻転生」のみに限定して理由付けしようとすることのみをとりあげ、そうしてそういったものごとのみを「無用」として断じようとするのならば、ブッダが思慮したであろう「因果」からの脱却は不可能なような気がしています。
お礼
ヒントを書いておきます。(完全に上から目線です)。 (1) 拉致被害者の場合を例に出すことは 悪因悪果の狭い範囲にしぼった事例ではないかとおっしゃるのは 当たりません。因果応報説が もし理法であるなら 悪因の場合にもとうぜん当てはまらなければ何にもなりません。 いいですか。こんなことまで説明されることの侮辱を感じてください。 (2) 《死後にも生前にも 経験世界の系譜とそしてそれを超える非経験の領域とがある〔と想定される〕》と言ったのは わたしは過去世はどうでもよいと思っているからです。取り上げなかった。《生前》というのは 《生身で生きている人生(いわゆる現世)》のことです。誕生以前という意味ではありません。 (3) 過去‐現在‐未来という時間的系譜として捉えた経験世界 このほかに《非経験の領域》を想定するのは 好き勝手におこなっているのではありません。方々にすでに書いていますが あくまで現実世界において《神 あるいは 信じる》という言葉をじんるいは使って来ている。一向に消えない。では その本質(真意)は何かという問いから起こしたものです。 《神》という言葉に対応する経験事象は ありません。雷(神鳴り)・狼(大神)あるいは野球の神様などという言語習慣もあるにはありますが これらはあくまで偶像(仮りの姿)なのでしょう。対応すると想定される何ものかを仮りに人間の言葉で代理して表わしたものです。 鰯の頭にも神〔の霊〕がやどると言って言えなくはないわけです。偶像としておれはそう思うと言うひとに その発言までは止めることが出来ません。 ということは すでに答えは出て来ています。人びとは 《この経験世界においては見えないそして如何ようにしても表象し得ない何ものかを想定している》ということです。これはそのまま《非経験の領域》と捉えるよりほかにない。 そうしてこの領域は ひとの《身体=精神》においては《非思考の場》であろう。なぜなら表象し得ない(思考によっては捉えられない)からです。心の窓とたとえることが出来るかも知れません。つまりこの心の窓において神とわたしとの対面が いづれのときにか 起こる。対面においてわたしが神を受け容れたなら それを《信じる》と名づける。それの持続は 信仰と呼ばれる〔動態である〕。 (4) 人間は 経験世界に生きる時間的相対的有限的存在です。その時間過程に沿ってしか生きられません。光速を超えて生きる非相対的な行き方をすることもかないません。からだは移ろい行きやがて朽ちるという限界を持ちます。 そのとき ひとりの人間の行為は ほかのそれと相い対して 全体として社会的構造的に入り組み錯綜して連関し合っています。この因縁果の交通網を抜け出すことは およそ出来ません。特に厄介なのは 人によって気持ちが違い考えが違うことです。おのれの良いと思っていることが ほかの人間にとってはそうでもないということです。 善悪の問題になります。 それでは 善悪というものの彼岸はあるか? 歴史を経て来た人びとの生活の知恵としては 《ある》と言っているわけです。想定しています。 《神 ないし 神を信じる》という言葉で表わして来たというわけですが 現代ではこれを《無い神 ないしわたしは無神論者である。つまり無い神を信じる》という場合も 同等な《非思考の場》のあり方であろうと考えられる。あるいはちなみに 《神》には ヤハヱー・キリスト・アッラーフあるいはブラフマン・アミターユスなども入ると言っています。名が違うだけだと。 (5) 善悪の〔因果関係の絡み合う必然の王国とも呼び得る経験世界に対する〕彼岸がもしある〔と想定される〕のであれば 輪廻や業の思想は――想定として――お払い箱行きだ。こうなります。
補足
(6) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・だからこそ、ブッダが(業や輪廻転生といった狭い領域ではなく)「広い意味での因果」からの脱却を 「この世をも かの世をも 望まない」(スッタニパータ) と表現したのだと思っています。 仰るところの、「経験領域」の上段に構えた「非経験領域」は、そういった「脱却後」の領域と捉える見方も可能でしょうが、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この後つづく反論については説明したかと思います。(《神・信じる》といった言語慣習が 基礎にあるということ)。 でこのように《脱却後》の領域について ブッダはどう言っているのでしょう。どう――けっきょく一人ひとりが――推し測るでしょう? それをきちんと述べることが 現代思想としては必須だと考えます。
こんばんは、ご返答遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。Hidocchiでございます。 > ★ (要約) 非経験の世界=死後の世界? ☆ これには 賛成できません。 愚生と致しましては、“世界”の方に重きをおきました。つまり、その“世界”の何たるかを経験的には知りえない という形で使用させてもらった次第です。 また何かございましたら、ご教示賜れば、幸いでございます。 > ★ 「“苦”からの脱却」、換言致しますと、「心安らかな。平安な境地」 ☆ この境地が それでは 非経験の領域とどういう関係にあるか これが問題になると思います。 単純に永遠に変わらざる境地であるのならば 絶対なる非経験を指し示すかたちであったでしょう。 以下に、中村元氏の説をご紹介させていただきます。「釈尊の生涯」(平凡社) 中村元著「釈尊の生涯」(平凡社) 四 ゴータマの悟りの思想史的意義 p.126-127 「このように悟りの内容に関して教典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれがほんとうなのであろうか。教典作者のよって誤り伝えられるほどに、ゴータマのえた悟りは、不安定、曖昧模糊たるものであろうか?仏教の教えは確立していなかったのであろうか? まさにそのとおりである。釈尊の悟りの内容、仏教の出発点が”種々に異なって伝えられている”という点に、われわれは重大な問題と特性を見出すのである。 まず第一に仏教そのものは”特定の教義というものがない”。ゴータマ自身は自分の悟りの内容を定型化して説くことを欲せず、機縁に応じ相手に応じて異なった説き方をした。だから彼の悟りの内容を推し量る人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。 第二に、 <中略> 規制の信条や教理にとらわれることなく、”現実の人間をあるがままに見て”、安心立命境地をえようとするのである。<略> 第三に、人間の理法(ダルマ)なるものは固定したものではなくて具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。実践哲学としてのこの立場は、思想的には”無限の発展を可能ならしめる”。後世になって、仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。」 “永遠に変わらざる境地”=“絶対の境地”、これらは“非経験世界の領域”かと、存じますが、最終的には、“入滅”という一種の“非経験”のものが関わってくるように察せられます。現実(経験)世界におきましては、ある程度の「“苦”からの脱却」は可能かもしれませんが、やはり、“絶対”ともなりますと、そう考えざるを得ないと思われます。 つきましては、 > この死後の世界について あらたな不安をおぼえたとした場合に おそらくそのように《信じる》という言葉を使うのではないか。 死への不安に対しましては、釈尊は、“四諦”を説いたものと考えております。 > ☆ これについて ひとつには《死後の世界》がそのまま経験から自由な《非経験の世界》であるのかが問題になるのではないかとわたしは考えました。 法華経を例にお挙げいただき、またさらに詳細なご見解もいただきまして、ありがとうございました。法然、親鸞が重要視した“浄土三部経”(西暦140年には、漢訳があったそうですので、それ以前に原典が存在していたものとされております)、これらは、”仏教思想は段階的に発展したもの” と解しております。 「仏教思想は段階的に発展したもので、そもそも上座部をも含む仏教の“経典全体”が数世紀という長時間をかけて徐々に成立してきたものである」 参考:「大乗非仏説」論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99#.E3.80.8C.E5.A4.A7.E4.B9.97.E9.9D.9E.E4.BB.8F.E8.AA.AC.E3.80.8D.E8.AB.96 > ☆この縁起の法則は 倫理学でしょうが おそらくいちいち他人にそんなことを言われたくないという答えも返って来かねない。ともかく人間理性は ブッダのことばによって満足するように単純には出来ていない。こう帰結していますが どうでしょう? 現在では、その発展経典に依存しているものと解しております(釈尊が比丘達に説いた時代とは、現代はあまりにもかけ離れた時代ですので)。 ご参考になれば、幸甚に存じます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 たとえば次のように《非経験の領域》を想定します。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 非 経 験 の 領 域 ______________________________ 《生まれる前→生身で生きている時空間→死後》という経験世界の系譜 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いわば上下の構造です。死後にも生前にも――なぜなら それらは 経験世界に属すると考えられるから―― 別様に非経験の領域があるという見方です。 四諦において苦を滅した状態――さとり・涅槃――は いわゆる絶対の境地としてこの非経験の領域のことを言っていると思われる場合もあります。実際は どうなのかです。 対機説法はそれでよいと思われます。要するに どうなのかです。 もしブッダひとりは この非経験の領域のことにいっさい触れずにまたそのような説には関係なくしかも へたのすけさんが言うようにみづからの過去世のすべてが分かったというのであれば ほかの人間は分からないということだと言わざるを得ません。 そしてもし弟子たちやそのあとの後世の人びとがブッダのおしえに従ったというときには 《非経験の領域》に対する信仰ではなく ブッダの人となりに対する信頼心からだと推し測られます。つまり その場合は すべてが経験行為に属します。 だとしたら そのまま従った人たちもいれば 法華経や浄土教のごとくに自分たちの思想として発展させた場合もあると受け取ることができます。 つまり問題は もはやブッダの問題ではなく ブッダを信奉していてもいいのですが 《非経験の領域》をどう扱うかにあると思われます。 善悪の彼岸という言葉がよく用いられますので使うとしますと むしろ経験的・相対的であるゆえに人それぞれの善悪がしがらみとなってのように必然的に絡み合う場を形成する経験世界 この経験世界から自由でもろもろの善悪から自由な領域を想定しうるか? しうるはずだが そのときこの《非経験の領域》に対してひとは・あなたは どういう態度をとるか? わたしのたたき台としては 《非思考の場》として=つまり信仰において この善悪の彼岸に到達できるというものです。潜在的な可能性を見ます。 それが実現したらむろんのこと 可能性においてでもそれを根拠として 輪廻の思想は必要がなくなるということ。業の思想にしても 同じく不要になるということです。輪廻や業から自由になるのですから。 おそらく現実は 無明(煩悩)からの悪循環と明智からの好循環との両方の組み合わさったような動態であろうと思います。でもそこに すでに善悪の彼岸は見え隠れしているなら 輪廻と業の思想は お払い箱に入れられる。こう考えます。 ここであらためて ブッダはこれについて何と言っているでしょう? と問われるのではないでしょうか。
親鸞をはじめ良識のない仏教者を、スタンダードとして、それは間違っているというのは簡単なことです。 旧漢字はお読みになられるのですか? イメージキャンペーンをするのはやめたほうがよいと思います。
お礼
ナナニスくん 無理しないようにね。 あぁ なるほど。《輪廻と業の思想》が ★ イメージキャンペーン ☆ だったということか。どういうわけか 成功してしまったわけだ。 ★ 旧漢字はお読みになられるのですか? ☆ 漢訳仏典を読むという訓練をするまでには到っていませんが お読みになられますよ。
- heartmind
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原因があって結果があるという至極当然のことを少し歴史的な大きな視点で みてみましょうということじゃないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いえいえ それでは広げ過ぎですよ。 ひとりの人間の歴史ということが基本です。 何でもかでも原因を取り上げるのではなく 《わたし》の行為(思惟・発言・行動)がどういう縁に触れてどういう結果を得るか この主題についてのみ言っています。 一般的な因縁果の関係については――つまり 縁起説については―― おっしゃるような主題です。 けっきょくブディズムもその正統派(?)では この《業(ごう・行為)》の思想は 単によい結果を生むためによく考えよく行動しようということのみを言っているようです。つまり積極的な行為についてのみ 因果応報を何となく認めようということのようです。 諸法無我というのは ものごとに何も不変的なものはないと言っています。必ずそれに対応した結果を生むというような変わらざる原因を 一つひとつの業(行為)に認めることはありえないと知っているわけです。 つまりもし因果応報の説を認めるというのであれば すべての被害はその被害者の自業自得だということになります。加害者は ただ縁(間接的な原因)となったのみと見るわけです。 このような問題は自明なことです。認められません。
A56についてお礼の傾向を悩みの類と受け止めての回答です。 訳のわからん状態のそうですが、判んないままで済ますのが賢明です。 マネをする行為。 コピーする行為。 これらは成立しないにもかかわらず、彼ら多数派は試行をやめません。 マネ行為は私が神であってこそ成立するのでしょうか?
お礼
へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ここまでおつきあいいただきまして ありがとうございます。 さて 話が――と言いますか こころがと言うべきでしょうか――噛み合わさって なかなかたのしい対話でありました。どこかボケとツッコミの漫才でもあったでしょうか。 そうですね。わたしはいつも撞かれた鐘として響いて来ていましたが 相手のほうからも鳴り響いてくる音を聞くのは 正直なところしばらくぶりでした。 ★ 還相についてですが・・・ ☆ たしかにいわゆる教学においてむつかしい教理があるように聞いております。詳しくは覚えていないという体たらくですが ぎゃくにわたしは勝手に解釈して積極的に《人間的交通への踏み出しあるいは対話の姿勢》という意味で使っています。 ★★ (回答No.29) ~~~~~~~~~ 悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。 ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この姿勢もしくは心構え だけでじゅうぶんという捉え方です。おそらくこの意味での還相は 述懐しておられるように すなわち: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というこの《祈り》にも通じているものと思われます。 そこで問題点のひとつは: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにつきましては わたしの筆の力が及びませんで 誰かから引いて来ることになります。 ▲ (パウロ:コリント後書 13:7) ~~~~ わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽物の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ま 上から目線でもあるのですが そういう役割をになう人びともいるということではないでしょうか。 ★ 人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問 ☆ をもってみづからの身をつつしみつつ――同時にそのようにしつつも―― 勇み足を辞さないボケを演じる人間もいてもいいのではないでしょうか。さもなければ 仏性がやどるという命題は撤回していただきたい。 《疑問》は 身をつつしむためのものでしょう。つつましやかであることと 相手と場合によっては・またはそのときの社会の情況によってはバカを演じることとは 両立すると胸を張って考えます。それに大きく言っても 末法なんでしょ? これだけ鐘の音が鳴り響いてきたのであるなら わたしはバカから足を洗って さらに利口ぶりを発揮しなければならないでしょう。決定的なことをのべます。 祈りは あくまでひとの目から隠れて――つつましいというのは 身を包み思いは胸に包み込むという意味ですから――おこなうものであると同時に 祈りのことを口に出すときというのは よっぽどの時だけです。ひとつの最後のことばになりがちなところがあります。 これを言いかえると・そして逆にいぢわるく捉えるならば 祈りを口にするというのは 《還相》のための言い訳にしか過ぎなくなると考えるのです。還相のためのアリバイづくりにしか過ぎません。 自信や確信がないのであれば 信仰を持つ意味がありません。というよりは 自信があやふやなときに それでも信じるというわが存在の動態があるのならば 大いに他流試合をいどむのが ふつうの社会生活なのではないでしょうか。 いまは そういう時代でしょう。 捨て台詞のごとくなったとしても 天の岩屋戸籠りは ふるいと申し上げておきましょう。 底抜けの脳天気よりにて。