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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:常識観念が全く違う相手とのポジティブサイドな共感の確立)

共感の確立における常識観念の違いとは

このQ&Aのポイント
  • 宗教や社会環境の違いにより、常識観念が全く違う相手とのポジティブサイドな共感の確立について考えます。
  • 共感は人のネガティブサイドの感情からもポジティブサイドの感情からも生じる可能性があります。
  • 常識の違いを超えて共感を生む簡潔なワードが存在するかについて、ネガティブな部分を利用せずにポジティブな部分や他の要素に焦点を当てて検討します。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
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回答No.16

ご返事ありがとうございました。 パラドクス化する理由は、ひとえに人間という生き物自体が単純な動物の域を脱していないからでしょう。 お示しいただいた例の中の、 「>自らを更新させられている人が少ない」という項目が該当すると思います。 この比率が逆転した段階から徐々に(ワード自体はその都度変わっていくだろうと推測しますが)、新しい精神を持つ人類への進化へ向けて時計の針が回りだすのではないでしょうか。 今の段階においては、本質を変え得るほど『>効力のある「ワード」など元々無い』ということでもあるでしょう。 他者への能動性を意図した「ワード」は言ってみればスローガンにしかすぎず、スローガンによって人が本質的に変化することは殆んどないのではないか、という疑念があるわけです。 スローガンが生まれてくる精神の土壌こそが重要なのであって、そこにどのような花を咲かせるべきかは二義的な問題であろうと考えます。 北朝鮮(=半世紀前の日本)の核実験と、 少女の自殺がいじめによるものであることを封印しようとしていた者がこの国のまさに教育を担っているという現実と、 どちらが脅威でしょうか。 これら両者にどのような「ワード」が有効でしょうか。 「視点を変える勇気を持てよ」としか言えないと私は思うわけです。 また、二つの脅威は双子の兄妹であるも同然です。 例えば、このような認識に至る時、変革の第一歩を踏み出すことになるのでしょう。 勇気を奮い起こさなくとも平穏に人間的な暮らしが可能な世の中になるために、自己の内部の怖れを他者へ転化することによって解決しようとするのではなく、自らが変わることによってそれを乗り越えていくことが、根本的な進化の条件として求められているだろうと思います。

Nouble
質問者

お礼

ご回答有難う御座います それとお返事が遅れ申し訳ありません 何か良い事案を示せれば互いの理解も更に深まるかと 色々試行錯誤してはいるのですが なかなか見つからず… やはり私の論理が 「人を昇華させうる決定的なワードがあって欲しい」という主観によって 霞んで曲がってしまっている現れなのでしょうか?…

その他の回答 (15)

  • myrrb
  • ベストアンサー率44% (23/52)
回答No.5

まず「ワード」より先にまず同格の扱いを受けているかどうかが問題になる気がいたしますが。。。 というのは、みなが共感できるという状況は互いに尊重しあっていない限り成立しえないのではないかと。 外国の方はウチとソトの感覚が明瞭のようです。日本人は関東と関西といった地域では、ある程度文化差があると思っていますが、基本的には自分と大体似ているという認識が先行するみたいです。 質問の回答としては不適切ですが、私もそのようなワードがある(見つかる)といいなと思いました。

Nouble
質問者

お礼

レスポンス有難う御座います 共感こそ私の心酔するところ >私もそのようなワードがある(見つかる)といいなと その共感を頂き感激しております 何よりの励みをもたらす言葉です

Nouble
質問者

補足

ところで >同格の扱いを受けているかどうかが問題に… とのことですが これの例を挙げるとしたら 例えばU○A現○統領のような 自己の利益などのためのみに 自国の国力を背景に 他者を弾圧するものと それに立ち向かうレジスタンス のような関係でしょうか? だとしたら この様な場合においても 今回の「ワード」が有効であるよう望みたいのです 多くを望みすぎですか?

noname#177238
noname#177238
回答No.4

>宗教や社会環境などの違いにより 相手を殺すことが互いに正義だとまで感じる 全く相容れない常識を持った当事者間に 共感から来る同意を産む 簡潔な「ワード」はあり得るのでしょうか? あなたの質問はこれですね?  それに対して、私は「実践と気持ち一つ」と答えたつもりです。ただ、何をどう言おうと、実践されなくては意味がありません。  「ワード」という言葉で、共通認識を得られるわけではありません。いや、確かに「平和」「愛」等の美しい言葉で、同意を得て、共有した認識を得ることは可能だと思いますが、それもやはり、実践あってのことです。殺人犯が死刑になりたくないから「平和」が大切だから、俺を死刑にするなと言っても説得力を持ちません。 >いがみ合う当事者が共に宗教を信仰していたとします この仮定の時点で既に「人間が存在する最低限の事象」以外の共通点を想定しているので 例とするには不適切なのですが… とにかくこの当事者に「調停者」が 「あなた方の信ずる神は対立しいがみ合うことをを良しとするのか?」 と言えば 神に背く罪悪感と神に見捨てられる恐怖という 共にネガティブな面から由来する共有意識から 共感が発生し停戦に持ち込める可能性が産まれるかも知れません しかしこの「ワード」も共感は確かに発生しては居ますが ネガティブな面を利用しているだけに 今回求める はたと手を打ち 互いの融和の必要性について共感から来る同意を産む ようなことは望めないと思いますし 更にまあもう既に使い古されて効果はないでしょうが 不適切な例しか挙げられず歯がゆいのですが 如何でしょう ご理解の助けとなり得たでしょうか?  あなたは何故自分が不適切な例しか挙げられないのか理解できていないようですね。  いくら言葉を尽くしても、実践がなければ意味がないのです。例えば、今私はあなたの文章を読んでいますが、残念ですが意味が分からないので、推測して書いています。あなたが分かりやすく「実践」して書いてくれたら、何も補足する必要はないのです。  つまり、あなたには「分かりやすく書いて、読者と共通認識を得よう」という気持ちと実践が伴っていないで、理論を得ようとしているのです。私は、そもそもそういうことには意味がないと言っているのです。  ですから、話がかみ合っていないのです。

Nouble
質問者

お礼

更なるレスポンスに感謝します 仰ること 尤もだと思います 「実践無き机上の空論」は遊ぶに等しい と、言うことですよね 名言ですね

Nouble
質問者

補足

まず「ワード」としたところに 貴方の理解を妨げた要因の一部があるようです 私の落ち度です 申し訳ない では「言葉」とか 「語られる相手の言語体系に乗っ取った呪文」 とか色々な言い方が出来るかと思いますが 「ワード」と言う語句が出てきた場合は 読み替えて頂けますようお願い致します ところで 思うのですが 実践には動機が必要で 動機には理論が必要で 理論には実践が必要 (実践無くして理論現実からの乖離は免れない) だと思うのです 詰まり「輪(ループ)」又は「螺旋(スパイラル)」だと思うのですが 実践から切り口を求め「輪(又は螺旋)」の中に飛び込むのも正しいですし 動機から切り口を求め「輪(又は螺旋)」の中に飛び込むのも正しいですし 理論から切り口を求め「輪(又は螺旋)」の中に飛び込むのも正しいと思うのです 駄目ですか? おかしいですか? あと少々疑問が残るのですが >という気持ちと実践が伴っていないで… この実践を経験と読み替えて良いなら 確かに私は経験不足でしょう ですがその経験不足を擬なう意味で 実際に経験するシーンに備えるために 失敗が許されないが故に 教えを請うているのです 失敗すれば被害を被る犠牲者が出かねません (私が戦争調停者になるわけではないのですが) 私の経験不足により不要な読解の努力を強いてしまったことについて 深く反省します 申し訳ありません 出来うる限り理解に対する努力は尽くす所存ですので どうぞ御容赦下さい また、説明しようという意志は見受けられるが判りやすく説明できていない と言うことなら これについても謝罪します 私の文章の癖からくる部分が読解を困難なものにしていると思うのですが もしそうなら直そうと努力中なのです なのでご不明点があれば忌憚なきご意見を頂けますようお願いします もし今「経験を積む」・「文章を改める」 以外の実践が私に何かできるなら 私は何をすべきなのでしょう? 合わせてご教授お願い致します ところで 任意のしかし充分な素養を持つ「調停者」が 今回得られた一連の「ワード」 詰まり仰る「実践と気持ち一つ」にほぼ何ら説明を加えず 前口上と後向上のみをを加えたスピーチを当事者達に対し行った場合 その席にいるものの内 邪心に囚われていないものはほぼ一様に はたと手を打ち 互いの融和の必要性について共感から来る同意を産めるか … …… ……… これを御呈示頂いた「 … 」の正当性の検証手段としたいのですが … (冒頭でのお願い通り、読み替えた内容で「 … 」をお埋め下さい)

noname#177238
noname#177238
回答No.3

 表現が難しく何を言いたいのか推測しますが、要は「宗教等の価値観が違う人でも、仲良くできる方法はありますか?」という質問でしょうか?  人間は、様々な文化を持っています。  それが、たとえ宗教が違っていても、例えば、スポーツ交流や音楽の趣味が一緒な人同士が共演するなど、宗教以外の様々な生活領域で、同じ人間同士分かり合える側面は多々あるかと思います。  思うに、宗教は、信仰なので内面的なものですが、なぜか思弁的な傾向に陥り、自己正当化の根拠にする人が多いようです。理論化です。宗教の教義(自分がしてほしいことを他人にもせよ等)を実践しないで、自己正当化に使うのですから、結局、他宗教の排除による自己正当化という下らない方向に進んでしまうと思います。  結局、お互い理解し合おうという気持ち一つなのですが、それが持てないのが人間の性なのだと思います。  理論では解決しないと思います。具体的な「共通認識を得る努力」により、初めてお互いボジティブに理解し合えるのではないでしょうか?

Nouble
質問者

お礼

レスポンス有難う御座います では 宗教などよりも更に人材に根ざした 「生ている!故に共感する」 と言う部分での「ワード」はないでしょうか? 生きていれば 飯を食うとか 代謝をするとか 社会に関わるとか etc… そういう不変の部分があると思うのですが こういう全人類共通の揺るぎない現象から来る内の ネガティブでないところから由来する「ワード」です

Nouble
質問者

補足

今回お伺いしたい内容についてですが 更に補足させて頂きたいと思います。 任意のしかし充分な素養を持つ「調停者」が 今回得られた一連の「ワード」にほぼ何ら説明を加えず 前口上と後向上のみをを加えたスピーチを当事者達に対し行った場合 その席にいるものの内 邪心に囚われていないものはほぼ一様に はたと手を打ち 互いの融和の必要性について共感から来る同意を産む そんな簡潔な「ワード」を求めているのです。 本日私は恋愛に悩む方に対し http://oshiete.coneco.net/kotaeru.php3?q=2410444 にて ゲームに準えて共感を元に理解を得ようと試みました 此処に例として挙げるにはあまりにも「簡潔」さが足りず 「はたと手を打つ」ような感覚もないでしょうし そもそもある一定の常識や共通観念の存在を前提としているので おこがましいのですが 自画自賛ではありますが一定の効果があったものと感じております 彼女はきっと恋愛に対し悲観的にならず 努力を惜しまないで居てくれると私は信じるのです 上記では他の事柄・「ゲーム」に準えましたが この「準え」は一つの手段でしか過ぎないと捉えておりますので ご回答に影響を求めるものではないとご承知下さい また違う例として いがみ合う当事者が共に宗教を信仰していたとします この仮定の時点で既に「人間が存在する最低限の事象」以外の共通点を想定しているので 例とするには不適切なのですが… とにかくこの当事者に「調停者」が 「あなた方の信ずる神は対立しいがみ合うことをを良しとするのか?」 と言えば 神に背く罪悪感と神に見捨てられる恐怖という 共にネガティブな面から由来する共有意識から 共感が発生し停戦に持ち込める可能性が産まれるかも知れません しかしこの「ワード」も共感は確かに発生しては居ますが ネガティブな面を利用しているだけに 今回求める はたと手を打ち 互いの融和の必要性について共感から来る同意を産む ようなことは望めないと思いますし 更にまあもう既に使い古されて効果はないでしょうが 不適切な例しか挙げられず歯がゆいのですが 如何でしょう ご理解の助けとなり得たでしょうか?

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

非常に重要ですが難しいご質問だと思います。 その割には単純で一方的な思い込みに基づく内容になりそうで恐縮ですが、 感覚的には、この「ワード」は『可能性へ向けての変革』ではないかという気がします。 >全く相容れない常識 が存在し、自他の利益が競合するのは、自己実現と自己保存が同格に扱われているからだと思います。 自己保存は本能的です。 自己実現は自我的・超自我的な属性を持つとも言えそうです。 ところが、あらゆる意味での「既得権益」を守ること(いわゆる保存の欲求)が必須であるかのうようにどうしても考えてしまうので、それらの本能的欲求が自己実現への確かな基盤になる、と錯覚してしまうのではないでしょうか。 なぜ、必須であるかのように考えてしまうかというと、最終的には、そのほうが楽だから、そして安心だからという、ある意味では切実ですが単純な理由しか残らないはずです。 人は自ずから不完全な存在と言えるでしょう。 しかし、意図して不完全になっているわけではないはずです。 人は、全く無力な赤ん坊の時代から、自分を取り巻くあらゆる世界からの影響(刺激)を否応無く受け入れざるを得ないわけで、それを「自分なりに」こなしながら死へ向かってではありますが、生き続けているわけです。 個人のキャパシティには限界がありますし、受け止めきれない刺激も数多存在します。 それらによって図らずも人は不完全な者としての宿命を付与されていると言っても良いでしょう。 何より、人類自体が大局的に考えれば野蛮な猿とそう大差の無い存在ではないでしょうか。 このような状況を「保存」しようとすることによって拓けてくるものは何も無いような気がします。 無論、本能としての『保存欲求』は重要です。 ただ、自らが不完全な者として生きつつあるという自明のことにさえ気づくことが出来れば、 従来的思考法から抜け出せなかったり、闇雲な現状(水準の)維持に固執することなく、何らかの可能性へ向けての『変革』こそが自己実現の唯一の道であるという結論に達するのではないかと思われます。 変革は、あらゆる事柄の本質に関する検証が行なわれる糸口になり得ますから、その時点で自ずから共感、あるいは共存への手段も模索される可能性は高くなるように思われます。

Nouble
質問者

お礼

レスポンス有難う御座います 私の拙い脳では荷が重く まだ理解には及んでいないのですが 思考の幅を広げてくれる貴重な瞬間になりそうな予感がしています また教えを請うかも知れませんので その折にはどうぞ宜しくお願い致します

Nouble
質問者

補足

大筋で仰るとおりだと思います 変革無くしては確かに物事の好転は望めないでしょうね ではこの「変革」を促すのにはどうすればいいでしょうか? ご指導宜しくお願い致します

  • coverfly
  • ベストアンサー率21% (346/1608)
回答No.1

双方の個性を大切にしたいなら「他人の干渉をしない事」になると思います。 この方法でそれぞれの環境も生活もポリシーも害することなく過ごせると思います。 双方がそれぞれ干渉し合うとどちらかが折れるまで続ける事になります。 まるで米国や日本の隣国の国家みたいに何時までも限りなく「どっちが強い」というギリシャ時代から変わらない争いを続けても何も生まれないと思います。

Nouble
質問者

お礼

早速のレスポンス感激しました

Nouble
質問者

補足

済みません 「互いに共感し互いに前向きにそこに横たわる問題に対し手を携えて打開し友好関係を築く」 端的に言って「わだかまり無く仲良くなる」 と言う物をゴールとして(勝手に)想定していたもので 正直脇腹を指先でさわっとつつかれたような感覚に陥ってます。 「他人の干渉をしない事」 =「無関心」・「非干渉」と思うのですが あってますか? もしあっているならばこれは 確かに合意はしていますが 相手の存在価値を認めない2者間において 共感を分かち合っている状態なのでしょうか? ポジティブな感情や感覚に根ざした「共感」なのでしょうか? だとしたらそれは「尊重」なのでしょうか? はたまたポジティブやネガティブ以外のキーワードから由来する「共感」なのでしょうか? 先にも述べましたように 小生少々混乱を来しております 今暫し御考察をお示し頂ければ幸いです 宜しくお願い致します

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