- ベストアンサー
共感の確立における常識観念の違いとは
- 宗教や社会環境の違いにより、常識観念が全く違う相手とのポジティブサイドな共感の確立について考えます。
- 共感は人のネガティブサイドの感情からもポジティブサイドの感情からも生じる可能性があります。
- 常識の違いを超えて共感を生む簡潔なワードが存在するかについて、ネガティブな部分を利用せずにポジティブな部分や他の要素に焦点を当てて検討します。
- みんなの回答 (16)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ご返事ありがとうございました。 パラドクス化する理由は、ひとえに人間という生き物自体が単純な動物の域を脱していないからでしょう。 お示しいただいた例の中の、 「>自らを更新させられている人が少ない」という項目が該当すると思います。 この比率が逆転した段階から徐々に(ワード自体はその都度変わっていくだろうと推測しますが)、新しい精神を持つ人類への進化へ向けて時計の針が回りだすのではないでしょうか。 今の段階においては、本質を変え得るほど『>効力のある「ワード」など元々無い』ということでもあるでしょう。 他者への能動性を意図した「ワード」は言ってみればスローガンにしかすぎず、スローガンによって人が本質的に変化することは殆んどないのではないか、という疑念があるわけです。 スローガンが生まれてくる精神の土壌こそが重要なのであって、そこにどのような花を咲かせるべきかは二義的な問題であろうと考えます。 北朝鮮(=半世紀前の日本)の核実験と、 少女の自殺がいじめによるものであることを封印しようとしていた者がこの国のまさに教育を担っているという現実と、 どちらが脅威でしょうか。 これら両者にどのような「ワード」が有効でしょうか。 「視点を変える勇気を持てよ」としか言えないと私は思うわけです。 また、二つの脅威は双子の兄妹であるも同然です。 例えば、このような認識に至る時、変革の第一歩を踏み出すことになるのでしょう。 勇気を奮い起こさなくとも平穏に人間的な暮らしが可能な世の中になるために、自己の内部の怖れを他者へ転化することによって解決しようとするのではなく、自らが変わることによってそれを乗り越えていくことが、根本的な進化の条件として求められているだろうと思います。
その他の回答 (15)
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#12です。ご返事ありがとうございます。 >こういった既に結実しているであろう何かを利用したら 仰るような時間は掛からずとも花を咲かせることは可能ではないかと考えるのです :とおっしゃる点に関して、私は殆んど悲観的です。 どのような言辞がなされようとも、 自己の変革無しに価値観が敷衍され、あるいは普遍性が定着することはないと思います。 完全な善人、完全な悪人というものはいないわけで、人は自らの内なる矛盾をうまく拮抗させながら生きる存在である、ということでもあるでしょう。 拮抗させるためには常に自らに対する変革が必須である、ということになります。 ゆえに、この点がもっとも肝要なのであって、この点さえクリアーしていればいかなるワードであっても大差はないような気もしてきます。 逆に、この点が不明確であれば、ある日、自我の要請に屈してワードの【本質】が歪められる可能性は高くなるのではないか、と推測します。
お礼
更なるご教示痛み入ります 拝見いたしました 万人ではないにしろ 改革は常に「人」の中で起こっている と言うことなのでしょうか? そういう 言わば常に自分を更新している人には 特別な「ワード」に拘らなくても良いはず なのですね
補足
ですが 万人でなくとも大多数の方に改革が常に起こっていて 取り留めもない「ワード」で紛争の愚かさに対する認識が高まる なら 更新を怠っている方においても争う相手が失われる となりそうなのですが しかし、人の世に紛争は尽きないですよね? パラドクス化してますよね? このパラドクスが消える場合として ・人は向上と共に常に愚行化もしているので 結果としては均衡して争いが絶えない ・改革は起こってもその琴線に触れる「ワード」は鈍化や風化などによって失われつつあり もはや効力のある物は少ない ・そもそも元々効力の強い「ワード」は特別の物でしかない ・効力のある「ワード」など元々無い ・自らを更新させられている人が少ない ・更新の方向性に問題があり紛争停止に向かっていない ・周囲や社会が個人に紛争を強要している などの可能性が挙げられそうなのですが う~ん どれも否定したいところではありますが 今の段階で私には断定するほどに 決定的論拠が見いだせそうにないです この点については如何お考えになるでしょうか?
NO.8です。 奥まで突っ込まれましたので、再び参りました。 「相手のうちに学ぶ価値を認めない」 に対する意識改革は、まさに自分自身に問いかけられているように感じました。 以前の私の回答は、色という、内に対すれば、外的なものでした。 自分の内なる声を聞け、身体に聞け、己の心を省みる、とはよく聴きますが、今回質問者様が希望されているワードは、相手の心を掴め、相手の心を汲め、相手の内側に手を差し伸べる、という一段と奥深いものであるように思います。 前回の問に色で答えたのに対して、今回の問には、透明性を以って、答えうるものであると、私は解釈いたしました。 相手が同じ色であろうが、異なる色であろうが、透明性という点においては、普遍性が認められると言うことです。 ワードは「自由の絆」です。 太陽光のように、青が重なれば一層青く、また、海の深みが増すほど一層青く、ジャングルの色彩が豊かで在ればあるほど、一層輝きが増すように、お互いが交わることによって、つまり、「相手のうちに学ぶ価値」を認めることによって、透明度が増す、はっきり言えば、お互いの存在が、白日の元に明らかになるのだと思います。 ここでは、彩には個性とともに、普遍性があるのだと言いたいのです。 アメリカやユダヤの国にも普遍性があれば、アラブやイスラムの国にも普遍性があるのです。 互いの普遍性を汲み取りあうことが、「互いのうちに学ぶ価値を認める」と言うことなのではないでしょうか。
お礼
ご回答有難う御座います BABAaさんのご発言には感服させられるばかりです 普遍性の存在に気付き 自らの内に内在するものが相手の中にもあることを汲み取るわけですね そうすれば相手の中にあるものを仮に否定したとき 己が内なるものをも否定することになるので 相手の中にあるものを否定し得なくなり 相手の価値を認める と言うことだと認識しました 「普遍性の存在」と共に「自由の絆」は確かに素晴らしいワードのようですね では 他の方にもお願いしていることなのですが この「ワード」を説明するに適切な簡潔な説明文を このスレッドを読んでない方用に用意するとしたら どのようなものが適切だとお考えでしょうか? この点について改めてお示し頂けたらと思うのですが 如何でしょうか?
- myrrb
- ベストアンサー率44% (23/52)
ゆっくり回答してみます。 >それを認めた発言が相手に受け入れられた時点で対立関係は壊れているでしょうね。でも受け入れられなければいがみ合いは続くのではないでしょうか?・・・ 私もその通りだと思います。つまり、対立関係が続くかどうかという議論においては、おそらくノーでもあり、イエスでもあるということですよね。しかし、この受け入れられない状態でつまり、敗北宣言を受け入れられないのに、相手からのメッセージを受け取ることはありえますでしょうか。物理的にはありえると思いますが・・・ >いがみ合っている状態にあるものが何故言葉を受け入れられるのか?・・・ 確かにそのような側面もあるのではないかと思います。ケースバイケースで、ストレス軽減・回避のこともあると思います。しかし、この背後には相手も自分と同じように判断しているという前提がないと成り立ちません。つまり、対立している関係にあっても、一方は疲労困憊している。しかしもう一方は、自分たちの主張を通すためにモチベーションも高まっている。このような状況もありえます。 おそらく、同じ文化圏の似たような背景(知っていることが前提ですが)の間での対立はそのような同意というか共感をえられることは可能だと考えられます。しかし、背景が全く異なる人同士が理解しあうのは難しいのではないでしょうか。 話はかわりますが・・・ 「英知の不足」について 知識があれば、行動に起こせるものではありません。分かっちゃいけるけど止められない。人間はそういう点ではバカです。止めた方がいいと分かっていながら、やってしまいます。人を殺すことがだめだと理解していることと、人を殺そうと思うこととは別のことです。また、ペシミスティックな考え方かもしれませんが、みながみな一様に教育を受けたからといって犯罪を犯さなくなるかといえば、おそらく答えはノーでしょう。その裏には個人の能力を超えた社会、状況の影響を加味しなければなりませんし、何より遺伝の影響も忘れてはなりません。 共感が花咲くかどうかは別として、「正しく知ること、努力すること」が争いを解決する前提条件ではないかと思われます。
お礼
ご回答有難う御座います 確かに遺伝的要因や社会的背景の影響は否定できませんね しかしこれではスパイラルのままではないでしょうか? 何処かでスパイラルは断ち切らねばならないと思うのですね その突破口として今回お示しいただいた 「正しく知ること、努力すること」 と言うワードは充分に素晴らしいものだと私も思います 先に挙げられた不確定因子の存在もありますし 万人に一様に同量の英知を分け与えただけでは 不足するものが出てくるのは確かでしょうから これに傾ける努力は常に万人に求められている とも思います しかし反面で この素晴らしいワードを単に言っただけでは 「当事者」には理解を得れないように思うのですね そこには己にも相手にも共通して存在する「根ざすもの」を触発して 共感を開花させるための説明が必要になると思うのですね そこで この「ワード」を説明するに適切な簡潔な説明文を用意するとしたら どのようなものが適切だとお考えでしょうか? 御考察を更に展開頂ければと思います
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#2です。補足を拝見いたしました。 ご指導などと言う恐れ多いことができるガラでは全くありませんが、思いつくままを述べてみます。 >「変革」を促すのにはどうすればいいでしょうか :より根本的な「ワード」を求める、ということですね。 変革はあらゆる状況で可能だと思います。 ただ、その必要性を認識するためには、 人間全体、あるいは生き物全体、地球全体、さらに宇宙全体の保存によってしか、我々は全うな生を生きられるはずがない、という事実に気付くことが求められるでしょう。 その為には、まず己自身を疑う必要があるかもしれません。 価値観の異なる相手の生き方の基盤に対する想像力を養うことが必要、と言い換えても良いと思います。 確固としたもの、決まりごと、定型性。 「保存」の為には、こういった要素が求められます。 しかし、それが利害の一致しない他者の排斥につながることは至極自然の結果とも言えます。 ここで先の想像力が働かないと、「共感」という言葉自体がそもそも成立しないことになるでしょう。 そのためには、いくら確固としたものであっても己の価値観に貪欲すぎてはいけないということが言えます。 しかし、己の価値観は本人にとっては生きる上で重要なものですから、それを一時的にせよ保留にするためには【勇気】が必要になるかもしれません。 無論、それが自己実現のためには必要なことだという論理的な思考が底辺になければ難しいでしょうが。 では、その勇気はどこからもたらされるのか、ということになるかもしれません。 いずれにしても急な変化というものはないでしょうし、仮にあるとすれば恐らく偽物でしょう。 何事もそうだと思いますが、 地に足のついた我々の無意識から湧き上がるものでなければ本物とは言えないからです。 今、私たちにできることは日常の変革でしょう。 難しいことは何もありません。(難しいことはない、と言わざるを得ないということが難しいということの証であるということもまた事実ではありますが・・・。) 例えば、 今日すれ違い、触れ合い、行き会ったひとたちに優しい眼差しを投げかけることです。 それは、何処の誰とも知らぬというだけの理由で、何か疑わしそうな目つきで見ていた自らの卑小さに気付くということでもあるでしょう。 これは自己の変革になり得ます。 そして、仮に皆がこれを行なうことが可能であれば、少なくとも犯罪の相当部分は防げるのではないか、と私は推測します。 他者を信用できる、あるいは信ずるに価する存在である、という認識があってなお他者との共感を拒絶しようとする人は少ないのではないか、と思うからです。 それは、非常に些細なことから始まることだと思います。 そのためには『勇気』というワードでもいいかもしれませんが、やはり当初の『変革』というほうが明快・簡潔という点でなじみやすいような気はします。
お礼
ご回答有難う御座います 確かに変化には慣れ親しんだものを捨てるという意味合いもありますから 痛みも伴う場合があるでしょう なので仰るように変革には勇気が不可欠ですよね 己が心に横たわる 何か事を起こそうとしたときに 踏み止まらせようと障壁となるものを乗り越える力 思い切り とでも言うのでしょうか? こういった観念は生きていると教訓的に身に付くものですよね 先日とあるドラマを見ていたのですが その中でロシアにこの様な諺があると紹介していました 「どんなに長く巻かれたものにも必ず端がある」 社会性の中で人は必ず物事の終わりを知りますよね これからの教訓だと思うのですが 反面社会性無くして生きられない私たちには 万人に共通する教訓だと思うのです 以前私自身が 「宗教などよりも更に人間の存在(人材は誤植でした)に根ざした「生ている!故に共感する」と言う部分での「ワード」」を求めた経緯もあるし そもそもこういうことはむしろネガティブだとも思えるので 持ち出すのは反則かな?とも感じるのですが… でも他にも色々あるのでしょうね 例えば 希望の楽園に終わりはない とか… (希望の可能性) 端が近いものでも他を結べば延長される とか… ね (融和の価値) 実際はこれらでなくても こういった既に結実しているであろう何かを利用したら 仰るような時間は掛からずとも花を咲かせることは可能ではないかと考えるのです この私の思いを飲み込んで昇華して頂いた上で 腑に落ちない点なども併せて ご自身の意見を 「このワードを当事者に説明するにはどのような文面を用意するか」に込めて 改めてお示し頂けたらと思うのですが 如何でしょうか?
- myrrb
- ベストアンサー率44% (23/52)
>いえいえ、ザックリ言うと「哲学」とは「思い悩む」事らしいのでもの凄くこのカテとして王道のご意見だと思いますよ ありがとうございます。若干質問内容から外れてきたような気がいたしましたので。。。 お出しになられた例(敗北宣言、謝罪、相手の自分への利益保護など)がいずれの場合も二者が既に対立関係にないように思われますが・・・どうでしょうか?私は、挙げられた例の後には、共感できる可能性があると思います。お互いを理解する準備ができるのではないかなあと。 全く共感しえない状況がありえるかといわれると私も難しいと思います。ただ、いわゆる日本人間で修復不可能なまでに悪化した関係での共感はありうるかもしれません。しかし、背景や認識の仕方が違う人たちの間で共感をえるのは非常に難しい問題です。 その1つは、双方の努力です。対立している状況が、双方の理解する努力を怠らせます。なんで、敵であるあいつらのことを正しく知らなきゃいけないんだというわけです。相手を知ろうと努力しないうちは、自分の経験と相手の経験の違いを加味することは難しいと思います。このことを含め、人間の「判断する」機能がお互いのことを歪めてしまうのです。 なので相手を尊重するのにも程度があると思うのですが、少なくとも、知ろうと努力する、相手を受け入れる体制が整うことが、共感の最低条件ではないかなと思われます。 蛇足です。 いがみあった集団が仲良くなった研究がありますが、これは1.共通の協力しないと解決できない課題があって、2.(協力した結果)お互いのことをよく知ることができたからではないか、と考えられているはずです(認識不足ならすいませんが)。マイクロなレベルでは、確かに(戦略として)知らないこと・関わらないことが対立を深めないといえるでしょう。しかし、マクロなレベルでは、まずは(ある意味正しく)知ることが溝を埋めるのには必要だと私は思います。
お礼
ご記載有難う御座います 仰る通り無知からくるファクターはかなりあるでしょうね 相手の殺害に罪悪を感じないときの多くでは 相手に対する無知があると思います 只、知り尽くしてなお殺害の必要性を感じることもあるとは思いますし もう一つにはナチュラルボーンキラーによる殺戮もあり得るでしょう この場合は知っていようが知らまいが「殺す」でしょう 他にも罪悪を感じないシュチエーションがあるかも知れませんね が、今の私には思いつけません 残念ながら 知り尽くしてなおの殺意は 例えばナチュラルボーンキラーを止めねばならないとき などがあげれると思います しかし「罪を憎んで人を憎まず」の真の精神を熟知していれば 罪悪感を感じるでしょうし 今回の疑問から成果が結実し新たな知恵となったなら… ナチュラルボーンキラーの脳が破壊されていない限り 止められると信じるので 何も殺す必要はなくなるでしょう きっと… 詰まり英知が足りていれば殺さずに済む となりませんか? 後、ナチュラルボーンキラーによる殺害ですが 先にも述べました通り私は性悪説支持者です 人は周囲により教育を受け理性を会得する 言い換えると 人は知恵や知識や経験を授けられなければ 理性の獲得に困難をきする ナチュラルボーンキラーはこの知恵や知識を 正しく授けられなかったが故の仕業ではないでしょうか? そう考えると彼のものは周囲に踊らされた被害者に過ぎない のかも知れません 仰る通り 今挙げた全ては無知の罪と言うファクターがあるように思えますね この事から 万人に共通に根ざす何かを種として この英知の不足を解消させる「共感」を開花できたなら 争いは止むように感じました 更に言えば 種があるいじょう気付いていないだけで この「英知の不足」と言う状態でなくなるための知恵や知識は 既に備わっているのではないでしょうか?
補足
>二者が既に対立関係にないように思われますが… 確かに敗北宣言や謝罪では それを認めた発言が相手に受け入れられた時点で 対立関係は壊れているでしょうね でも受け入れられなければ いがみ合いは続くのではないでしょうか? この事から 対立関係(相手への蔑視)が崩壊する可能性のある時点は 発言が為されたときでなく 両者間に合意が発生したときなのではないか? と思うのですが如何ですか? 更に片方のある特定量の利益保証では 利益を保証された者が 更なる利益を求め闘争に身を置く場合が 多分ににしてあると考えられますので 対立関係や蔑視が必ず崩壊しているとは言えないでしょう 本来双方に共同所有権があるにも関わらず AがBに全体の6割の所有を認めた場合 Bは喜んでこれを受け入れるが それでBが満足するとは限らないし Bは更にAを蔑視しかねない ですよね? この事から いがみ合っている時点でも 相手及び相手の権利を蔑視していても 人として万人に普通にある 「根ざすもの」から芽を吹かせれば この場合は「欲望」ですが 「相手の声は届く」と仮定できると思うのです 後ご発言を拝見し自らの中にかみ砕き浸透させていくなかで いがみ合っている状態にあるものが何故言葉を受け入れられるのか? と言う疑問が生まれました これを合理的に説明しうる仮説の1つとして いがみ合っている状態ではストレスが 意識下・無意識下のどちらか又は双方にかかっていている このストレスを解消してもらえる行為には好感を感じるのでは? と言うものが産まれました 実際 敗北宣言、謝罪、利益保護などはこれにあたり そういう面もあって受け入れられるのではないのか?と感じました こう考えると 許しを与える(当事者間では難しいでしょうが) 癒しの言葉 等々 他にも受け入れられやすい言葉があるように思えてきました 「欲望」も「ストレス」も万人に共通に根ざすもの この万人に共通に根ざすものには他にも色々あると思われます これらのものを芽吹かせ 「共感」を花開かせられないでしょうか? どのような「ワード」がこの種の開花を促せるでしょうか?
- gooegg
- ベストアンサー率31% (5/16)
初めに一言置きますが私は共感という言葉は好きではありません。他人が自分に共感を求めてきて、それに同意しなかった場合、相手が不満を募らせ、反感を買うといったような経験はないですか? また、自分の心を観察していて相手に自分の主張、感情を理解してもらえなかった場合、不満、怒りなどを覚えるといったことはありませんか? 基本的に共感を求めれば求めるほど、相手との溝は深くなります。 個人の思想、信念体系によって強固に形づくられた心に一瞬にして革命をもたらす簡潔な「ワード」もしくは「フレーズ」があるのかはなはだ疑問です。 むしろ現実には対立があった場合、こちらが「話せばわかる!」と望む前に「問答無用」と、対話の余地も与えられずに衝突してしまうといったような事が横行しています。 言語によって相互の対立が緩和される可能性があるのは双方に認め合おうとする友好的な意志がある、または互いに譲歩できる余地があることなどが条件ではないでしょうか? どちらか片方にでも一方的に相手を服従させようとする意志がある場合、言葉による説得はほぼ不可能になってしまうと思います。調停者もいなく双方一歩も譲らない場合には衝突は避けられないでしょう。 このような時“敢えて”対立、衝突をさける手段があるとすれば、それは言語ではなく、力(権力)の拮抗ではないのかなと思います。「力なき正義は無力」というわけです。しかしこれも「休戦協定」のようなもので根本的な解決にはなっていませんし、このような物騒なやり方は現代人は好まないでしょう。 しかしよりミクロな個人的な人間関係もその基盤は、共感同様、お互いの権力関係で成立してると思われます。 それで私自身決定打を打ち出せなくて申し訳ないのですが、最終的に行き着き同意したいのはNo.1さんの「無関心」・「非干渉」です。 話が分かり合えそうもない相手とできる限り関わらないようにすること、自らの主張、意見に同意が得られない場合においては、改めて冷静に考え、無理をしてでも相手に同意を得る必要性がないと判断された場合にはサッサと手を引く、というのは私の少ない人生経験から得られた処世訓みたいなものです。 Noubleさんの「共感」という考えは基本的に人間同士は理解しあえる、または性善説といった楽観的なものに基づいているかもしれませんが、私はこの多種多様な宗教、思想、慣習などが複雑に絡み合ってる現実世界の中では「人間一般」として解決しがたい問題があると感じるのです。
お礼
ご記載有難う御座います 私はBABAaさんがANo.8で発言されている 此処に違いがあるからこそ存在に意義が産ませる(で合ってますか?) と言う考えに賛同しています 同時に個々の共通点からも「癒し」が産まれるとも思ってますが
補足
私は自己観察するに 性善説支持者じゃないですよ むしろ生誕時は善でも悪でもないグレー状態か 性悪説支持者です ただ、純粋な性悪説ではなく 「単独生活を送れないもの」 と言う特記事項も付いているとは思いますがね だって乳幼児に母親相手以外の社会適応性なんて無いでしょう しかし母親相手のみに限定すれば 社会適応性は産まれながらにあるでしょう そういうことです 簡単な話です 「善」のカテゴリーの中には 他者の嫌うことはしない と言うのがあると思うのですが 性善説を肯定しようとすると 新生児にもこれを含めた「善」なる心がある と分解できることになりますよね あり得ないでしょう 泣きわめく 人のものを壊す 自らを人質にして脅す その他「嫌がらせ」(表現不適切かも?)でしか自己主張が出来ないものが 何故「善」であり得る いやあり得ないでしょうね それでも純粋に見ているだけで癒されるのには自分でもビックリします これもやはり 「単独生活を送れないもの」 と言う特記事項も付いているが故の業なのでしょうかね 話が変わりますが >共感同様、お互いの権力関係で成立してると… 「権力の均衡でのみ調和が産まれる」 と、言う意味合いとはまた別ですよね? こう仮定すると人類どころか哺乳動物は存在し得ないですものね また話が変わりますが ANo.6でのhahiroさんのご記載に対するお礼でも述べましたとおり 共通に何か根ざすものがなければ共感は産まれなくて当然 とも思ってますので 共感が産まれるか? と言う話の一面には 結局根ざすものの有無についての議論と その根ざすものから如何にして共感を上手く生成できるか があると思います >それに同意しなかった場合、相手が不満を募らせ、反感を買う… というのは 例え同意したとしてもそれは 根ざすもの自体が実際にはない以上共感ではないと思いますし そもそも無い物を「あるよね?あるとお言い!!」と言っているようなものなので 無い物は無いんだから 《あって欲しかった》とか 《これがこうだから気付かないだけで本当はあるのじゃないの?》とか 言うならまだしも 《なんでないの?!それおかしいよ》とか 《「白」を「黒」だよね!!》と言うような相手に非があると思いますよ P・S・ 万人に共通に根ざすものはあると思ってます 例えば hakobuluさんがANo.2で述べられている 自己実現とか自己保存というのは 確かに万人にあると思えますよね 他にも色々あると思うのです
- myrrb
- ベストアンサー率44% (23/52)
哲学カテなのでふさわしい回答ではないかもしれませんが。 >「相手の存在意義を蔑視するかぎりは共感は起こりえない」とした上で「共感がないのに共感するワードが見つかる」と仮定するのは非論理的 誤解を恐れずに言うのですが、常に人は理性的・合理的な判断をしているわけではありません。時には不合理だと思われる判断を平気でします。それは、理性と感情が判断という機能を支えているからだろうと考えられます。 質問者さんが考えられていること、つまり「相手の存在意義を蔑視したとしても、共感は起こる」は、共感が理性だけで行われるとしたらそうだといえるのではないでしょうか。しかし、感情が(共感するかしないかの)判断に介入するとしたら、相手の存在意義を軽視して判断するのは難しいです。卑近な例を挙げると、嫌い、苦手な人から言われたことを受け入れがたいという経験をしたことはありませんでしょうか。 言葉が持っている意味というのは文化やその相手の要因を強く受けます。互いの利害、価値観が異なっていると分かっていても、相手を尊重することができないならば、共感することはできないと思います。というのは、尊重してしまうと、例えば一方的に搾取する行動自体を起こすことに抵抗が生じます。相手も同じように人なのですから、相手が困ることを好き好んでやる人間はそうそうおりません(しかし、自己利権>他者利権の場合は別ですが)。このことはどうお考えになられますでしょうか。
お礼
ご記載有難う御座います >哲学カテなのでふさわしい… いえいえ、ザックリ言うと「哲学」とは「思い悩む」事らしいので もの凄くこのカテとして王道のご意見だと思いますよ >嫌い、苦手な人から言われたことを受け入れがたいという… うん!なるほど ありますあります わだかまりのある相手の声は届きにくいですよね 詰まりは わだかまりのある相手の声は届きにくいので共感も産まれない と言うことでしょうか?
補足
でも待ってくださいね わだかまりのある相手の 全ての声がこちらに届かないわけではないと思いますよ 例えば敗北宣言や心からの初回の謝罪などは むしろ心地よくないですか? 他にもこちらの利益保護など 心に響くシュチエーションはあるように思えます ですので詭弁になってしまうかも知れませんが わだかまりのある相手の声は届きにくいので共感も産まれない というのは 相手の声がこちらの心に響くシュチエーションがあるいじょう 肯定不能だと思うのですが? 如何ですか?
違うから仲良くなる価値がある。と、私ならば考えます。 イスラム過激派とアメリカ、ユダヤの関係を想像いたしました。 同じ色を混ぜても同じ色にしかなりません。違う色を混ぜるからこそバラが咲くのではないでしょうか。 危機的な戦争の裏側には、必ず融和の花があると私はおもいます。 意識されるべき場所は、棘ばかりではないはずです。 お互いの異なる利害を理解し、コントロールし、又は発見することによって、新たな色(共感、同意)を生み出しえるのではないでしょうか。 ワードは、「争いのバラ」です。 争いが和平に転ずるためには、という立場で考えました。地球というキャンパスに、人類社会という絵の具を乗せている私達。色は、お互い争うようにしてキャンパスを踊り狂っていますが、興奮を鎮めて見れば、見事にうねるバラの渦が描かれうることに気付けるのではないかと思いました。 ご参考までに。
お礼
書き込み有難う御座います 限りなく私の求めている回答に近いと感じています なるほど名言ですね 尊重されるべき素晴らしい認識だと思います 只少し疑問は残ります 「相手の存在価値を認めない」=「相手の内に学ぶ価値を認めない」 とはならないのか? と言うことです もしこの仮定が成立したなら 「相手の内に学ぶ価値を認めない」 に対する意識改革を促す 別の新たな「ワード」が必要なのかも知れないですね
- myrrb
- ベストアンサー率44% (23/52)
#5です。 同格というのはとてもシンプルですが、言語化することは難しいです。というのは、いわゆる立場や属性が同質である=同格ではないからです。そこには互いの認識が介入する余地があるからです。レジスタンスと現○統領の場合も難しいと思います。価値のある個であると認められたならば、一方的に搾取するのは難しくなるでしょうから。いずれにせよ、当人たちの認識に干渉することは難しいのではないでしょうか。 あくまで前提条件の話ですが・・・。 >今回の「ワード」が有効であるよう望みたいのです 多くを望みすぎですか? 有効かどうかについては何とも言いがたいです。というのはあくまで共感するモノがない→共感するワードが見つかる→仲良しになる、の関係が成立するかということですよね?むしろ逆に、分かりやすくいえば、(自分とは違う)人→共感するモノがない(ハズ)、という認識が先行しているのではないかと思われますので・・・。「ワード」が有効になるよう努力したいものですね。
お礼
書き込み有難う御座います 「相手の存在意義を蔑視するかぎりは共感は起こりえない」 とした上で 「共感がないのに共感するワードが見つかる」 と仮定するのは非論理的 と言う意味合いで構わないのでしょうか? 私は 「相手の存在意義を蔑視しようとも共感は起こりうる」 と考えるのです
何を言いたいのかいまいち分かりませんが、そもそも、人間には自由意志があります。 従って、「共感」を理論的に強いるということはありえません。独裁国家ではないのですから、「さあ、ドグマはこうだ、ゆえに感動せよ」ということはありえないのです。 人は、様々な状況で様々な努力や挫折の元、そうですね~一年に何回か「感動」や「共感」をすることがあります。カタルシスが生じます。しかし、それは何時何処でどのようにして起きるのか予測不能です。 ただ、こうは言えると思います。一生懸命生きている人の方が、「感動」「共感」「感謝」等の様々な微細な経験をする可能性は高いと。 何ごとにせよ、理論で人を変えよう、認識を変えようというのは、独裁国家ではないのですから、ありえません。全てその人次第です。 太陽と北風の太陽です。北風になってはいけません。自分の思い通りにならないから、もどかしいから理論を振りかざし、さあ共感しろ!ということは、ないと思います。 あくまで、あなたがこういうことを言いたいのではないかということを推測した上でのものです。言いたいこととずれていてら、申し訳ありません。
お礼
記載有難う御座います 「共感」とは「自由な認識下の共に共有できる何か」という語意だと思います この語の行間からして 「自由意志」下にしか 「共感」はあり得ないと感じています 決して「ドグマ」を押しつけよとか 「強要」しようとか そういう次元では存在しえ無いと感じています 「共感」とは本来は 示された瞬間に あらがう必要を感じず「自然」に 心に染み入るもの と考えています
- 1
- 2
お礼
ご回答有難う御座います それとお返事が遅れ申し訳ありません 何か良い事案を示せれば互いの理解も更に深まるかと 色々試行錯誤してはいるのですが なかなか見つからず… やはり私の論理が 「人を昇華させうる決定的なワードがあって欲しい」という主観によって 霞んで曲がってしまっている現れなのでしょうか?…