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「悲しみ」の原因は「時間」ではないか?

エントロピーが増大していることが、「悲しみ」と「焦り」そしてその諦念に乗った、人生論的悲観論と直結しているのではないでしょうか。 思い出に浸るというのは、私の場合ですが、精神的苦痛をもたらします。やり直せないからです。もっといえば、時間がたつにつれ、人生面白くなくなっていくからです。 もし、多少なりとも、年をとる事が美しさを増していくようなことだとしたら、あるいは、肉体的可能性を増大させるようなことだったらば、後悔や感傷はなくてすみます。多くの悲しみもなくなります。 自然的なエントロピー増大の中に生きることは、人間のように思考できる生物にとっては不幸なことではないでしょうか?

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回答No.3

詩的な質問で、感覚的な部分でよく分るような気がします。 誤解を恐れずに言えば、あなたの言うエントロピーの増大とは、虚無の増大ということでよろしいでしょうか。そういう意味では虚無を思考することは「不幸」であると思います。 非常に感受性の強い人にとっては、もの心付いた瞬間から、エントロピーの増大を認識し、老いを含めた人間の悲しみを本能で理解しています。 何故、いずれ虚無に消えるのに存在しているのか、こんなことを考える生物は、やっぱり不幸ですね。

noname#32495
質問者

お礼

虚無の増大でいいです。 やはり、動物のように本能をむき出しに、生きることのみにまい進できることが、この根本的不幸から脱することのように思うのですが、人間は損ですね。

その他の回答 (11)

回答No.12

再度の9です。 で、仏教がどうやって老病死(四苦八苦)から抜け出すかというところを、もうちょっと掘り下げて説明してみたいと想います。 ちなみに、私が仏教といっているのは初期仏教です。 初期仏教には念仏もお題目も真言も・・何もありません。 ただ、克己修身あるのみという、とても現実的な教えです。 たとえば、腕の筋肉を鍛えようと想ったら、ダンベル(重さ)に反発しますよね? 重さに抵抗、反発、拒絶することによって筋肉は鍛えられるんです。 逆に重さを受け入れてしまったら、筋肉は貧弱なままです。 ダンベルを持ち上げるということは「重さ」を拒絶、否定、反発しているんです。 そうすることでしか筋肉は強化されません。 飛行機だってそうです。 あれも空気抵抗に反発し打ち克つから空を自由自在に飛べるんです。 水泳も水の抵抗に打ち克つから自由自在に泳げるようになるんです。 だからあらゆる宗教では禁欲を説くんです。 仏教では煩悩に打ち克つことを説くんです。 自分の中にある感情に打ち克つことでしか、心を鍛えることが出来ないからです。 逆に感情のままに、感情という「重さ」を受け入れてしまったら、ダンベルの「重さ」を受け入れたのと同じ結果になるんです。つまり、まったく、筋肉を使っていないことになるんです。 感情を「獣性」だと定義するならば、それに反発し、持ち上げることにより、対極にある「理性(霊性)」が育つんです。 が、勘違いしないでください。 多くの人が短絡的に勘違いするのですが、言い替えれば、理性(霊性)を育てようと想ったら、どうしても獣性が必要になってくるんです。 警察が犯罪なくして育たないように、獣性なくして、理性が育つことはないんです。 だから美しい蓮の華は、泥の中からしか咲くことができない・・と言われるんです。 ですから、獣性(感情)は、人間にとって大切な「重さ」なんです。 そういう意味で必須です。 でも間違ってはいけないのは、重さの奴隷になってはいけないということです。 反発しないで受け入れてしまったら、筋肉が発達することはありえないからです。 この世は縁起で成り立っています。 縁起とは縁って起こるという意味です。 理性(霊性)もまた縁起の理法から逃れることはできないんです。 ・・・で、仏教ではジッとして動かない坐禅瞑想をすることで、自分自身と戦うことを修行としているんです。 ジッとして動かないためには、どうしても心の安定が必要になってきます。 心を安定に導くためには、自らの煩悩と退治して、反発するしか方法がないんです。 ・・と、上手く説明できているかわかりませんが、坐禅瞑想は、絶対にお勧めです。

noname#32495
質問者

お礼

対立するもの、よどんだものが、輝くものを得るのに必要なたとえはよくわかります。しかし、瞑想って難しいですね。 「瞑想的」な生活ならできそうですが、本当の無心は難しいです。

  • konagoo
  • ベストアンサー率24% (67/276)
回答No.11

いわゆる生物は、特定の物質を選択的に収集し集中させてますからエントロピーを減少させています。 これは「自然的なエントロピー増大の中」において画期的なことで、地球の酸素濃度を例にするまでもなくがその影響の大きさは強大です。 これは単純な事実です。「思考できる生物」全てにとって、この事実が幸であるか不幸であるかに「直結」していると言える根拠は見あたりません。

noname#32495
質問者

お礼

冷徹に見ればそういえるかと思います。文学的に見ると、どうも根底に悲しみが流れている気がします。

  • nfhpt224
  • ベストアンサー率22% (2/9)
回答No.10

簡単にパラフレーズすると、人間は理性的であり、感情的であるという事です。ここで問題なのは感情(喜怒哀楽)です。感情のない人間はいません。理性的である事のほうがカッコいいというやつがいたらアホ丸出しです。人間は感情に作用される事を認識してください、そしてそれを社会的レベルで表出するか、しないかはその人の人格レベルに相当します。感情は実は人間にとってとても重要なのです。そのことからエントロピーを思考すべきでしょう。これは至って自明性の解釈です。

noname#32495
質問者

お礼

感情が人間活動の基礎部分を担っていることはわかります。そう考えると、エントロピー増大を意識するとやはり仏教的な「悲しみ」に襲われます。そこからの脱却とか抗いが、自然的な感情移動のようです。

回答No.9

>>人間のように思考できる生物にとっては不幸なことではないでしょうか? 実は、この真逆で、思考することが不幸の原因なんです。 質問者さまのいうエントロピーとは、仏教でいう「老病死」に相当すると想うんですが、「老病死」が不幸なのでは無いんです。 たとえば、ピーマンの平気な子どもにとっては、ピーマンは存在しないに等しいです。 「在るのに無い」という状態が起きます。平気な状態です。 逆にピーマンが嫌いな子どもにとっては、ピーマンがクローズアップされて見えてしまうんです。気になってしかたがない状態です。 全てはこれと同じ理屈なんです。 ですから、老いも病も死ぬことも平気な人にとっては、老病死が存在しないに等しいですから、これを「不老不死」というんです。 老いも死も無くなりはしませんが、それが気にならない人、平気な人にとっては、無いに等しいんです。 つまり、何があっても心が乱れない人、自分を見失わない人、何があっても心が穏やかで、安定している人にとっては、この世は「無」なんです。 般若心経では「一生懸命修行をした観自在菩薩がこの世を「無」と観じた」とあります。 これは、つまり、修行をして心が安定したら、在るのに無いという状態になってしまったということなんです。 つまり、エントロピーが不幸なのではないんです。 他にも、彼女が居ない、仕事が無い、友達がいない、貯金が無い、家がない・・・・等々が不幸なのでは無いんです。 心が安定していないことが不幸の原因なんです。 心が安定していないから思考という状態(在るという状態)がおきるんです。 ピーマンを恐れているから、ピーマンについていろいろ想ってしまうんです。 老病死を恐れているから、老病死についていろいろ想ってしまうんです。 これを無心に対して有心といいます。 じゃあ、どうすれば在るのに無いという状態になれるのか?というと観自在菩薩のように修行をすればいいんです(^^) それは、仏教では坐禅瞑想(ヴィパッサナー瞑想、坐禅)です。 これらは「気を抜かないこと!」によって、不安定な心を安定状態に導く修行方法です。 他にも武道、気功法・・・等々でも心は安定に向かいますが、仏教は完璧だと想います。 ずばり悲しみの原因は【不安定な心】です。 エントロピーではありません。 不安定な心が、いろいろなものを創り出すんです。 そしてピーマンが食卓に置いてあるだけで泣き出したりするようになってしまうんです。

noname#32495
質問者

お礼

「のどが渇いて、暗闇の中でコップの水を飲んでおいしかった。明るくなってから見ると、それは泥が混じっていた」 見たいな話に通じるかと思います。「知らない」ことはほんとに不幸を遠ざけますよね。 やはり、動物的な「本能」に忠実に、「生きる」ことのみに全生命活動を費やすことが、不幸に陥らない秘訣なのでしょう。それを比喩的に人間生活に応用することが一番いいのだと思います。 私は以前、気孔術で瞑想の訓練をしたのですが、ほんとに難しいですね。スポーツや手作業なら練習すればいいのですが、精神の動きをコントロールするなんて、人間業なのかと思いました。 おっしゃるとおり「心」が鍵を握っていると思いました。どうしよう。途方にくれます。 なるべく瞑想に近い安定を得るように意識して無意識的に行きたいものです。

回答No.8

毅然として現実の運命を受け入れてていくべきです。 そこには一切の真理が潜んでいるからです。 不幸と感じるのは人それぞれだとおもいますが、 不幸と感じてそれを特別な感覚で意識していると 逆にそてにふりまわされてしまうことにないります。 すべてをありのままに見ることのできる知恵がとても役に立ちます。 「夢なんか希望なんか持てるわけないじゃないか。」 そんな人が多いと思います。 でも、わたしの経験上これだけははっきりしています。 純粋に聡明に夢を見続けている人に協力すること 協力できないなら、その人の言葉や行いに間接的にでもいいから 触れることで人生は大きく変わるということ。

noname#32495
質問者

お礼

そういうプラスの方をもっと吸収したいものだと常に思っています。この不幸の中で、どう幸せを紡ぐのか、ただの素材を使ってどううまい料理を作るのか、そういうプラス精神は、生きがいと結びついています。

noname#20102
noname#20102
回答No.7

私もよく、エントロピー増大と、生命の価値の相対関係について考えます。 この世の中が、ただひたすらエントロピー増大、つまり破滅に向かうだけならば、確かにそこにあるのは悲観だけとなります。 でも、生物にとって本当にエントロピーは増大するだけなのでしょうか。 もちろん、科学的には無から有は生まれませんし、エントロピーは増大する一方だと言われます。 けれど、それはベクトルとして、方向性としては破滅、つまり「終了」に向かっているだけであって、その間の生命活動は、エントロピー減少への抗いなのかもしれません。 例えば、活性と老化は紙一重だと思います。 酸素を取り入れなければ生き生きとは生きられませんが、活性酸素が老化を早めると言われます。 生まれてから寝たままで何も活動しない人と、生まれてからずっと身体を動かしている人では、どちらが寿命が長いかはわかりませんね。 くだくだと理屈を書いてしまいましたが、私がこのご質問に対して投稿させていただこうと思ったのは、 >やり直せないからです。もっといえば、時間がたつにつれ、人生面白くなくなっていくからです。 これについて、もう一つの見方があるということを、書きたかったからです。 人生の過ぎた瞬間はすべて「やり直せない」です。 でもそれと同時に、すべての瞬間、過ぎた物事から「開放」されるのです。これに気づくと人生はとてつもなく楽しい宝箱になります。

noname#32495
質問者

お礼

そうですか! 両義的な意味合いも「生きる」行為に含まれているのかもしれないですね。いつまでも、「今」を背負っていたらとてもやっていけないかもしれません。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.6

質問者の方の質問の主旨を掴みかねており、適切な回答になっているかどうか自信はありませんが、私は、以下ように考えております。 人間を含め生命の本質は、エントロピー減少へ向けての衝動だと思います。それは、物質秩序を利用しつつ、物質にはない生命の新しい秩序を生み出す衝動だと思います。人間の場合には、さらに、精神(心)のレベルでの新しい秩序の創造という衝動が付け加わっていると思います。精神の秩序というのは、見方、考え方、感じ方、表現や行動の元型のようなものです。 ”「悲しみ」と「焦り」そしてその諦念”というのは、精神のレベルでのエントロピー増大の傾向を表していると思います。これは、精神(心)が持つ本来の衝動に反するため、消極的な心情になるのだと思います。精神は、過去に流されるのではなく、常に新しい秩序(見方、考え方、感じ方、表現、行動)を創造しようとする衝動だと思います。従って、そのような衝動を開放してやることが、人生に対する消極的な気持ちを解消するもっとも有効な方法だと思います。 >自然的なエントロピー増大の中に生きることは、人間のように思考できる生物にとっては不幸なことではないでしょうか? 「創造」とは、課題を解く喜びだと思います。自然的なエントロピー増大の中だからこそ、エントロピーを如何に減少させるかの課題が生まれ、それを解決する創造の喜びが生まれるのだと思います。それは、決して、不幸なことではないと思うのですが。従って、天国が、もし、課題のない場所であるのなら、天国は、不幸な場所ではないかさえ思えます。

noname#32495
質問者

お礼

秩序への希求ですね。それが、やりがいという錯覚に陥っているのではないかと感じます。本当は悲しいだけなのに。もちろん、すごく浅く広く広がる海という感じで、エントロピー増大は存在しています。だから、日常的に忘れられている精神活動があれば意識しないのですが、やはり、根本的に悲劇の中の人生だということです。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

◇ 調べてもよくわからなかった「エントロピー」という言葉の意味づけが難しいですが、 「目に見える現象として宿命的に肉体が衰えていくのを意識的に認識できる」ということは不幸なことか? というようなことと解釈しておきます。 その意味では確かにあまり有り難くないことだということは言えるかもしれません。 ただ、このことに関しては色々な立場が存在しますし、個人的見解を述べる自信がありません。 ◇ 私としては、第2段落でお書きになっていることについて感じたことを少し述べるに留めたいと思います。 ただ、そのことによってエントロピー増大自体を生命の不可思議な法則として【楽しむ】余裕が出る可能性もあるのではないか、と考えます。 ◇ この段落で述べられていることは、いわゆる「イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)」ではないかと私は思います。 「>やり直せない」 と思うから、 「人生面白くなくなっていく」ということですね。 しかし、どのようなことであれ厳密に言えば、 「やり直す」ということは不可能なことです。 そこまで厳密な意味に特化して考えるのは非現実的、とおっしゃるかもしれませんが、そうではありません。 たとえ完璧と思われるクローンであってもそれはあくまでクローンであって「そのもの」でない、というのと似ているかもしれません。 かといってクローンが「そのものではない」ということに悩んだとして何になるでしょうか。 また、悩むべきことでしょうか。 いや、悩むこと自体は自然な感情だと思いますが、しかし、それは【目指すべきもの】ではないでしょう。 なぜなら、クローンはクローンとして『今現在の自分』を生きているという厳然たる事実が存在するからです。 「>思い出に浸る」というのは、仮想的に過去を現在に蘇らせようとする脳の動きでしょう。 思い出のインパクトが大きければ、人はしばしば、そして簡単に「仮想的」という前提を完全に忘れ、あるいは無視してしまいます。 かくして、 「あの忌まわしい出来事はまたいつでも復活する」、という思いに捉われます。 これが「イラショナルビリーフ」の典型的パターンです。 気安く言うな、と感じられるかもしれませんが、重大な要素であるために、このような局面においては 『視点を変える』という言葉が非常に重要な意味を持ちます。 『今までの考え方を、すなわち今までの自分を疑ってみる』ということでもあります。 固執しすぎるのはいけません。 肌に当たる日の温もりをありがたいと感じれるようになった時、 かすかに揺れるカーテンのすそに風と共に何かが訪れたように思った時、 見上げる真っ青な空に夏の雲がモクモクと盛り上がりつつあるのを見た時、 そんな時に視点の転換が訪れるかもしれません。 しかし、それを受け入れる準備が、かたくなにならぬ心の姿勢が整えられていてこそのことであろうとも思うわけです。

noname#32495
質問者

お礼

そうですね。クローンはクローンであって本物でない。そう考えると、不可避的に常に今のものしか相手にできないということは、新鮮さの維持ということで精神にいいのかもしれません。なにか、人間精神に欠陥があって、本来の「今」というものを楽しめずに、どうも悲観的なバイアスをかけてみるという傾向があるのかもしれないですね。

noname#25358
noname#25358
回答No.4

 #1です。補足見ました。  たしかにおっしゃるような考え方であれば、周囲の物が廃れていくのを見るのはたしかに悲しいですね。  人間はいつまでも若くいたいと願う生き物ですからね。  でも俺の経験論からいうと、そういう気持ちと戦うのをやめた人間は急激に老け込みます。  あなたが何歳の方なのか存じませんが、仮に150歳のギネス級長寿者であったとしても、逆に10歳の若者だったとしても、若くいたいと思うことをやめてはいけないんだと思います。  そのどっちだったとしても、あきらめたら老けてしまいますからね。  そして人間がいつまでもあきらめずにいるためには、エントロピーの増大することを悲しく思う気持ちが必要なんだと思います。

noname#32495
質問者

お礼

そうですか!諦めが逆にいいのかと思ったら逆なんですね。私もそんな気がします。そう考えると「世界の悲劇=エントロピー増大」の上に生かされている、という認識は、カンフル剤のようなものと考えてもいいかもしれませんね。

  • debya1959
  • ベストアンサー率43% (41/95)
回答No.2

一言書かせていただきます。 つまりbossamba様がおっしゃっているのは【老い】という事ですね。 ちなみに私は時間という抽象的な捕らえ方ではなくあくまで実際的な捉え方で考えたいと思うのです。 時間と言う概念自体が、人間の【老い】を表すために存在していると思います。なぜなら時間よりも人間のほうが 先に出来上がっているからです。時計や時間の概念が出来上がる前に人間が存在していたのならば時間や時計は 人間の【老い】を計るために作られたものでありますから、人間の感情である「悲しみ」は時間や時計よりも先に 存在していた事になります。するとbossamba様の命題は実際の時間軸との関係が逆となります。 では私の考える「悲しみ」の原因は何か?と言うと 【老い】も勿論有りましょうが、ここでこの結論になるのはいかにもありきたりのような気がしますし、実際にそれだけでは無いと思います。。。。 まず「悲しみ」と言うものの定義が広範囲すぎると思われます。 bossamba様の分を読ませていただくと >私の場合ですが、精神的苦痛をもたらします。やり直せないからです。もっといえば、時間がたつにつれ、人生面白くなくなっていくからです。 とのことですので、次のような感情の移行が対象であると考えられます。 「後悔」「忘却による興味の移行」もしくは「知能段階向上化による興味の消失」等でしょうか? しかし、私は〈少なくとも私は〉「悲しい」のはそれだけではありません。 特に何の前触れもなく母の事を考えただけで泣きたくなる事もあります。 コマーシャルで小学生が黄色い帽子をかぶってランドセルを背負い、家路を急ぐ姿を見るだけで悲しみに胸がきしみます。 残業で帰りが遅くなり深夜に帰宅した時、食事の用意が整った食卓につっぷして私を待ちつかれて寝ている妻を見た時、泣けます。 子犬・子猫が捨てられていても、近所の老犬がヨタヨタと歩いているのを見ても「悲しい」気持ちになります。 この気持ちは色々な働きで起こる事であり、一括りにならずしかも「そんなのお前だけダロ」的な個性も持ち合わせている。 人間の感情事態が一括りにならないからこそ、思想・宗教・芸術・文化などが世界各国地域それぞれに違いを持って織り なされている。 さらに言わせていただくと >自然的なエントロピー増大の中に生きることは、人間のように思考できる生物にとっては不幸なことではないでしょうか? エントロピーって?  よく分かりませんけど。。。 思考できる生物にとって確かに【老い】と言うものは「悲しみ」を与えるでしょうが、人間にとって地球は知り尽くせない 思考の源、満載てんこ盛りの環境であります。「悲しみ」だけでなく同時に「楽しみ」も人間は持っているからバランスが取れて いくのだと思います。年をとることは確かに美しさからは離れていく事かもしれませんが、知恵を得る事は増大できるのです。 これは若い時には出来ない? いや出来ますが、時間をかけたほうがたくさん得られるのですから。 さらに考えるに 「悲しみ」が多い事が本当に「不幸」でしょうか? だったらほとんどの全員が「不幸」なのですね。という事は他人と比較して「不幸」かではなく自分自身の中での評価ですね。 と言う事は個人的な見解であるという事ならば、これは真理ではありえません。 PS bossamba様がここでお使いになっている「エントロピー」とはいったいどんな意味なのでしょう? 不勉強で申し訳ありませんが、私に知る「楽しみ」をお与えください。 ちなみにWikiでは以下の通りでした。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC
noname#32495
質問者

お礼

長文のご回答、恐れ入ります。いろいろ難しく濃厚な印象です。人間のほうが時間より先にあるということですが、どうも私はそうは思えなくて、逆だと感じます。老いを図るためでなく、そのような世界にいやおうなく住んでいるから、老いの概念が生じる。もし、こういう物理的世界に住んでいないとすると、悲しみは起こってこないのではないか。「失われていく」ことが世の原理なのです。それに抗って人間動物活動がある。それが「エントロピー増加」とだいたいいえるのではと、科学素人の私は思いました。 >>特に何の前触れもなく母の事を考えただけで泣きたくなる事もあります。 親が時間の経過とともに若くなっていくとすると、悲しみは起こりません。あまりに幼くなると、親甲斐なくなるので逆に悲しいか? >>コマーシャルで小学生が黄色い帽子をかぶってランドセルを背負い、家路を急ぐ姿を見るだけで悲しみに胸がきしみます。 その子供の時間的経過に生かされている、運命のやるせなさみたいなものじゃないですか? >>残業で帰りが遅くなり深夜に帰宅した時、食事の用意が整った食卓につっぷして私を待ちつかれて寝ている妻を見た時、泣けます。 やがて別れが来るという潜在意識と関係ないですかね? >>子犬・子猫が捨てられていても、近所の老犬がヨタヨタと歩いているのを見ても「悲しい」気持ちになります。 生物の運命的な生長と老いを背景に見るからじゃないでしょうか?つまりどうも「時間」というものが絡んでいる気がします。そしてその「時間」というものは、秩序から無秩序へと物事を変貌させるということと付随して存在するものなのです。これがやはり、ほとんどすべての悲しみの原因だと思うのです。 もちろん得るものもあるでしょう。長寿の巧とか。でもそれは背景にある「無常観」の悲劇の上に載った気休めのように思います。

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