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生きる事の無意味さ
「質問」ではないかもしれませんが、何でもいいので意見下さい。 大学生ですが、最近生きる事の無意味さが頭から離れません。最近何か辛い事があったとかきっかけがあるわけではなく、小学生の頃からただ漠然と「何のために生きるのか」ずっと考えてきました。 (1)生きる目的は種の保存のためと言う人がいますが、では生命は何のために種を保存し子孫繁栄するのか。地球上である種がずっと続いて、それでどうなるのか?だから何なのか? (2)個体に限った話でも、異常を知らせる「苦痛」というシステム、肉体維持のための食欲と睡眠欲、死への恐怖がある。でもなぜそんな機能を持ってまで個体を維持しないといけないのか? (3)人はなぜ子供を作るのか?一度産まれてきた子供が可愛いのは分かりますが、まだ存在していない子供を可愛いとは思えないはずなのに。子供は生きる事を望んで産まれてくるわけではないのになぜ子供に「生きろ」と言えるのか? (3)に関しては自分の両親には聞けません。両親が傷付くというのは何となく分かりますし、両親が僕を産まなかったとしてもまた別のどこかの誰かとして「自分」という意識が生じていた可能性があるからです。 生きる事の無意味さに気付いてからは自殺も考えました。でも死ぬ瞬間の苦痛に対する恐怖という機能には結局逆らえず(自分の意識が消滅する恐怖は僕には全くありません)、確実に死ねるとも限らないので、早く死にたいなと思いつつ生きています。それからは「死ねないから仕方なく生きるのだ」と考えました。生命賛歌の考え方も、肯定するしかないから肯定するだけじゃないかと思ってしまいます。 (4)幸福になるため→僕は特に生きてまで幸福になりたいと思いません。というより幸福になる必要性を感じません。幸福を感じる事もありますが、個人的にそれが生きる事の無意味さを上回る事がありません。趣味もいくつかありますが、暇潰しとしか思えずそのために生きるとまではいきません。 (5)恵まれすぎてるからそう考えるんだ→仮に不幸な環境になったとしても、それはそれで不幸だけを見て生きる事の無意味さから目を背けられるというだけで、解決にはならないと思います。それこそ幸福になる意味がなくなる。 (6)死んだら悲しむ人がいる→その人達のためだけに生きるのも納得出来ません。 これから先の無意味な人生が途方もなく長く感じます。身体的症状は全く無いので鬱病ではないと思います。「じゃあ勝手に死ね」という言い分も正しいとは思いますが、僕と同じ様な方いませんか?
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- nananaa
- ベストアンサー率37% (3/8)
no26です。 うーん。あなたが私の兄弟として生まれてくることはあり得ないんですよ。だってもうその時点であなたではない。 ビッグバンが起こる前に、あなたのいう「魂」は存在したか?という話になる。 じゃあ、あなたは、もし地球がなくなったら、その生命が住むに足り得る新たな惑星まで、その「魂」が何億光年も旅をするのか?どうやって? その方法や、証拠、根拠がないとそれは真実とはいえない。妄想でありますよ。 意識というものは、所詮脳内でのものです。脳内の電気信号に過ぎない。 人格が違えば、同じ意識が生じることはないでしょう。なぜ同じ意識が生じるといえるのか?その証拠は?根拠は?あまりに曖昧です。 双子でも里親が違えば、違う人格になります。あなたのいう魂は、輪廻転生と同じです。違うといっていますが、原理は同じでしょう。どうやって、違う星までその意識とやらが辿りつくのやら。光の速度でも、数億年かかるというのに。 「宇宙は謎に満ちているから」 それが答えなら、私は白旗を揚げるしかないです。議論の余地がありません。 あなたは明確な証拠と根拠を示すべきです。 もしも、あなたが殺人現場の付近を通りかかったというだけで、裁判にかけられ、検事に「お前が怪しい」といわれ、裁判官に「私もそう思う」と、証拠不十分の根拠なしで、死刑になったら、どうしますか。 あなたは、信じているといいますが、そこに証拠や根拠がありますか。百万回やって百万回同じ結果を出さなけらばならないのが科学です。 その科学的な証拠、根拠がないままに、魂やらと言われても、どうしようもないです。 そう信じている、そう思う、で断定されては困るのです。地球が動いているんじゃなくて、天が動いていると、私はそう信じている。と天動説を信じているようなものです。 あなたがあなたの両親から生まれてこなかったら、ほかの両親から生まれてくる。ということは、ほかの両親から生まれてくるまで、ずっとスタンバイしてるってことですか? それはキリスト教の受精した瞬間から魂が宿るという信仰と同じですね。(だから中絶が禁止されているわけですが) じゃあどこでスタンバイしている?死後の世界ですか?もうオカルトです。 でも、人間は神秘主義的なところを持っているのが普通ですから、オカルトでも構わないのですが、どうにもあなたは合理的でありながら非合理的です。 あなたのいう「意識」は「魂」は脳内の電気信号ですよ?発信源の脳が死んだら消えてしまうんですよ? どうやって、その電気信号を保たせるんですか。脳という発信源がないのに。 まぁ私がいくら、証拠を出せ、科学的な根拠を出せ、といっても、あなたは「証拠はないが、自分は自分の意見を信じている」といって、頑固に譲らないでしょう。それが目に見えていながら、こうやって発言をする私もまた愚かなことも自覚しています。 しかし、「自分の意見」というものほど、他に影響されて出来上がったものであるということを自覚していますか? 我々は環境によって如何様にもなります。生まれ育った文化圏によっては、あなたの意見も今とは程遠いものになっていたかもしれません。 この質問には回答を下さらなくても結構です。おそらく、このページの主題の質問文とはかけ離れたところにありますから。 それでは。
- unagitokujira
- ベストアンサー率50% (3/6)
多くのほかの方の意見もあって、重複があるかもしれませんが、思ったことを。 ご意見の(1)~(6)をざっと読む限り、 (1)(2)(3):生物一般が存在しようとする本能を持っている理由がわからない (4)(5)(6):質問者様の個人的な気持ちとして、生きたいという希望が無い というような印象を受けました。 結論として、 >「死ねないから仕方なく生きるのだ」と考えました。 ということで宜しいのでは無いでしょうか。 私も、そう思って生きています。 本能的に死ぬのは嫌で、恐ろしく不安なことなので、生きているわけです。人生など、暇つぶしに過ぎない気もします。 死への恐怖(苦痛を伴うのではないかとか)が、どういうわけか生物には組み込まれているわけですよね。 その理由は、よく分からないのですが、「生きよう」という本能を持つ個体の方が、「生きなくてもいいや」という本能をもつ個体よりも、生存する可能性が高いと思いませんか? 単細胞生物などの原始的な段階では、「生きよう」などという意志はありませんが、しばらくすると、本能ともいうべき高等な機能を備えたものが突然変異体として現れるわけですよね。 最初は、原始的で未分化な本能しかありませんが、やはり、生存本能ともいうべき本能を備えた突然変異体が現れると、その遺伝子を受け継いだ集団の方が、他の集団よりも生き残ってしまう。 生きようという本能をもつ突然変異体の方が生き残りやすかったというだけのことであり、つまり、生きようという本能は偶発的に生まれて残ったものに過ぎないのではないかと。 無論、偶発的にさまざまな本能の個体が突然変異で現れるので、中には「死のう」という本能の個体も現れるでしょうし、「生きなくてもいいや」という本能の個体も現れるでしょう。ですが、これらはやはり淘汰されてしまうのだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
僕の質問文の解釈はまさにその通りです。 つまり生物が持つ本能そのものがある種の意志ではなく、たまたま生き残るように機能しているだけ、という事でしょうか。 「生きるために本能があるのではなく、本能があるからたまたま生き残っている」。その発想はありませんでした。目から鱗でした。
- AloveB
- ベストアンサー率32% (99/306)
#7 そういう意味では主さんの質問文が 先日の死を考えた私へのストッパーだったのかもしれませんね^^ 質問文を見て、あの回答を思い出していなかったら 「死にたいのに死ぬこともできない、私は本当にダメな人間だ」と 絶望しか考えていなかったのかもしれないですし・・・ もしかしたらそこで「無気力」になっていたかもしれません^^; そう思うと、ありがとうございました、なんでしょうかね。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
どのような事情があるのか知りませんが、僕なんかでも少なからずお役に立てて何よりです。偶然ではありますが(笑)
- nananaa
- ベストアンサー率37% (3/8)
なるほど。 とても面白い考え方だと思います。 言ってしまえば、この世界には「生まれてきてよかったと思う人」と「生まれてこなければよかったと思う人」の2種類がいると思います。 それは、流動的であるときは前者で、ある時は後者になると思います。学生時代、いじめにあっていたりしたら、その時は、生まれてこなければよかったと思っていても、大人になって結婚をするなどの転機がくれば、生まれてきてよかったと思うようになったりします。まぁ人間というの一貫性がない、あべこべなものなので、あんまり自分の心を信頼しないほうがいいですよね。 芥川龍之介の「河童」の出産のように、産まれてくる前に「お前はこの世界に生まれてきたいか?」と聞いてくれるようであれば、生まれてきたい人だけが生まれてこれるという理想的な世界になるんですけどね。 ところで、気になったのですが、あなたが今の両親から生まれてこなければ、別の存在として生まれてきたかもしれない。と言っていますが、その根拠は何ですかね? あなたは質問内容やお礼内容からして、とても科学的、合理的な判断を下す方だと思うので、私にはその意見が不思議でしょうがないです。 というのも、それは「魂」というものを信じているように見えるからです。 なぜなら、あなたという意識、自我、というのはあなたの「脳」が作り出しているからです。 その「脳」は、あなたの両親の遺伝子と、後の環境、受けてきた教育などによって出来上がった「唯一無二」の脳なのです。 その脳があなたをあなたたらしめているわけです。 もしも、両親があなたを生まなかったら、あなたは存在していませんよ。 あなたは生命というのは偶然の産物であるとおっしゃっているように、あなたもまた偶然の産物であり、必然の産物ではないのです。 偶然、生まれてきたわけです。何億もいる精子の中から偶然、選び出されたのです。 この世界はビッグバンから生命の誕生まで、全て化学変化と偶然で出来ていますから、我々のちっぽけな存在もまた偶然の中にあるのです。 あなたがもしも、あなたの両親から生まれてこなければ、私の、兄か弟として生まれてきたかもしれないということを言ってるようなものです。 それはもう、あなたではない。私の両親の遺伝子を組んで生まれてきた、別人です。 言い換えれば、私の両親が、私の弟を作らなかったから、あなたが、あなたの両親から生まれてきたいうことになってしまいます。 どうにもおかしいでしょう。まるで因果関係がない。 仮にもしも、あなたが生まてくる前に、地球に異常な気候変動が起きていて、太陽が爆発するとか巨大隕石が降り続いたりとかで、何一つ生命がいない星になってしまっていたら、(まぁもちろんあなたの両親もいません)それでも、あなたは、そんな状態でも「別の誰か」として生まれてきたというわけなんですか?どうやって? これは極論なわけですが、「真理」というものは、あらゆる場面において、「絶対的に揺るがないもの」ではなくてはいけません。 つまり、地球が木端微塵になったら、それが揺らいでしまうようなものであれば、それは「真理」とはいえないのです。 例えば、「諸行無常」というのは「真理」といわれていますが、それは地球が木端微塵になろうとも、生命が全滅しようとも「すべてのものは変化する」ということは「揺るがない」ですよね。だからこそ真理足り得るのです。実際に地球は永遠のものではなく変化したということを証明していますし。 我々は、時に「真理」以外のものを信じてしまうがゆえに、どうもおかしくなってしまうような気がします。 ついでに、仏道では三相として「諸行無常、諸法無我、一切皆苦」というが真理とされています。 この諸法無我というのは、すべてものに「我」はないよ、といってるわけです。これはバラモン(ヒンドゥー)教が「我の輪廻」をもとに成り立っている宗教ですから、当時にしてはかなりセンセーショナルな思想であります。 我々が「我(自分)」だと思っているものは、「あれが好き、あれが嫌い」などいった「煩悩」、もしくは「価値観の集合体」に過ぎず、従って自己とは所詮、煩悩の塊であり、その実体はなく、自我と呼べる大層なものでもなく、自我はあるもとと錯覚し、思い込んでいるだけで、その真実は「自我とは幻想」である。すなわち「無我」である。ということをいっているのです。 そのような自我という幻想が、別の存在として生まれてくるということは、正直考えられない、それはもはやオカルトです。というかそれはすでに、あなたではない。あなたではないのに、あなたとして生まれてくるというのは、矛盾しています。 もう一度言いますが、あなたはただの偶然の産物であり、必然の産物ではないのですよ。 もしも「神」や「魂」の類を信じているのであれば、いくら不合理な非科学的な考えをもっていてもいいのですが。 もし、そうではないのであれば、根拠を、証拠を示さなければなりません。なんとなく、そう思う、ではあまりよろしくないかと。 ていうか、これ何の回答にもなっていませんね・・・。批判ばかりしてすいません。 私の回答としては、生きることは無意味だけど、この世の全ては偶然なわけですから、その偶然を悲観するのではなく、ありのまま受け止めたほうがいいよってことです。この世界に望まずに生まれてきたということも。 だから、偶然、何か悲しいことがあっても、「まぁこれも偶然だ。たまたまなんだナ。」って感じで許容するというか、スルーするというか。 別にあなたに対してだけ、集中砲火で嫌なことがあるわけではなく、全ては「偶然」なんですよ。お導きでも試練とかでもじゃなくて。 なんだか一部ちょっと抹香臭くなってしまいましたが、日本の大乗仏教ではなく、原始仏教、上座部仏教を学んでみると何かが変わるかもしれませんよ。 私は、もし子供が出来たら、幼少期から思春期にかけて「自我」という「好き嫌いという価値観」つまり「煩悩の塊」が形成される前に、一休さんみたいに子どものころから仏道修行をさせて、自他を苦しめる「面倒な自我(怒り憎しみ偏見、差別心等々)」というのをなくした心穏やかな人間にしたいなあと思いますね。自我が形成されたら、それを薄めて、なくしていくのってかなり大変なんですよね。 この「自我」というものがなくなれば、我々が「苦」と思ってしまうものを、「苦」と捉えずに生きていけるのですから、それは心穏やかな人生でしょう。 まぁ仏道は発心から、などといいますが、それでは遅すぎるような気がするんですよね。自我が凝り固まっているようじゃ・・・。 何事も、良くも悪くもとらえない。それが大事じゃないですかね。 すべてをプラスに考えろっていう、プラス思考もありますが、正直、どう考えてもプラスじゃないことってありますし、それを無理やりプラスにするのは精神的に負担がかかりますよ。 でも、良くも悪くもとらえないってのは、案外簡単なんですよね。 こんな回答でよかったでしょうか。冷静に、合理的に、理性的に、科学的に、これが本来の仏道なんですよ。インド人は自分の思想を勝手にブッダの名を騙ってお経にしちゃうから、わけわかんない経典が多いんですよね…。 まぁ、フラットに生きましょう。人生ってのは良くも悪くもないものです。我々が勝手に、良いとか悪いとか、言ってしまっているだけですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
生まれたい人だけ生まれてこれる世界ならどんなに理想的かと僕も数え切れないほど思ってきました。 「神」や「魂」などの宗教的な言葉は、その定義によっていくらでも意味を変えられると個人的には思っています。 結論から言えば、僕は「魂」を信じています。ただし僕にとっての「魂」は科学的に解明される事も十分あり得るし、肉体が死んだ後に肉体から出てきたりはしません。人間機械論ではありませんが、つまりそれは煩悩や価値観を除いた、視力による光、聴力による音、肌による触感などで構成された生物的な「意識」の事です。 他の哲学的な考え方を除いて(というより僕自身哲学に詳しくありませんが)、物理法則による外的世界が実在するとするなら、今僕が持っている「意識」はあなたが仰るように偶然による現象です。「意識」が生じる事が偶然であるなら、人格・煩悩・価値観が全く違くても同じ「意識」が生じる可能性もあるはず、という事です。 「あなたがもしも、あなたの両親から生まれてこなければ、私の、兄か弟として生まれてきたかもしれない」。僕は正にそれを言っているのです。例えあなたの言う「自我」が幻想だったとしても、生物的な情報の総体としての「意識」と自発的な思考は、「実在」するかは分からなくても少なくとも僕にとって確かに「存在」していると言わざるを得ません。 地球が消滅したとしても、後に同じ様な星が生じ、同じ様な現象によって「意識」が生じる可能性はあると言えます。そしてその時の自分でも、「普遍的な生きる意味は無い」と気付くでしょう。もちろんその時は違う「自我」なわけですから、今と違って個人的な生きる意味を持っているかもしれません。 ついでにある「意識」と後に生じた「意識」は相互独立の全く異なる2つの現象ですから、僕は僕の定義する「魂」を信じますが、いわゆる「輪廻転生」は信じていません。 回答について、「良い事も悪い事も偶然として受け入れる」という考え方は確かに参考になりました。僕は宗教も哲学も科学も全く知らないので、気が向いたら仏教に触れてみようかと思います。
- AloveB
- ベストアンサー率32% (99/306)
#7 >>いずれにせよ僕が将来無気力にならないと断言する事もまた不可能なんでしょうね。 自ら無気力状態になろうとする必要はないと思いますが そういうことなのかもしれませんね・・・。 >>この質問に回答を頂いたのが一昨日でしたから、 >>その「つい最近」というのは昨日か今日の事ですか? はい、昨日の夜のことです。 こんなにもタイムリーに命について考えることにはるとは思いませんでした^^; >>やはり理性が本能を超える事はないのでしょうか。 >>それとも理性と本能を分けようとする事自体ナンセンスなんでしょうか。 私も本能と理性は違うと思います。いや、違うのは当たり前なんですけど・・・。 反射ってあるじゃないですか、ヤカン触ってとっさに手を離すアレです。 あれを理性で触り続けるって物凄く難しいだろうけど、不可能じゃないですよね? 人によって耐えられる温度って違うし、訓練?もできるし処理の仕方で変わります それと同じようなものなのかなあ・・・なんて、この文を見て思いました^^;
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
皮肉にもすごい偶然が起きたのですね。確かにタイムリーでしたね。 なるほど、確かにそう考えると理性と本能は明確に区別出来そうな気がしますね。
- serenade_ocean
- ベストアンサー率0% (0/1)
あなたにお勧めなのが、反出生論者の、デビット・ベネイターでしょう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC 彼のロジックは本当に素晴らしいと思います。生まれてくることが素晴らしいという常識を論理的に覆す、コペルニクス的転回だと思います。 彼の主論は、こちらにhttp://www.lifestudies.org/jp/benatar01.htm 詳しく書いてあります。 で、私の回答なのですが、(1)に関しては、将来的に何も変わらないと思います。子孫繁栄した結果、何かが完成するというわけではないです。あと28億年後には太陽の光量が上昇して、地球は高温になりすぎて地球上の全生命を死滅に追い込むようなので、みんな干上がって死んでしまいます。 まぁそれまでに宇宙進出するという人間のしぶとさはあるかもしれません。まぁ宇宙進出できない生物はそこで終わってしまいます。たとえば、人間かサルを宇宙にもっていかなかったら、進化の途中で、人間ではなくサルに進化してしまったがために、今までの子孫繁栄がパーになってしまいということです。 まぁ結局、サルも人間も、同じ祖を持つわけですから、結局、子孫繁栄をしたからといって、何かが起こるわけでもないです。まぁ支配体制を敷く上では、数的有利というのは進化の歴史から学んでいるのでしょうね。やたらと個体を増やそうとしています。 そもそも、進化論から言ってしまえば、アメーバのような細胞も我々の先祖です。 で、彼らは分裂して子孫繁栄していたんですね。いわばクローンです。 それが、クローンだと同じ性質しか持たないから、環境の変化で全滅してしまうことがあって、それに対処するために、雌雄に分かれて、異なる遺伝子を掛け合わせて、環境の変化に強い個体を生み出すように進化したのです。 だから、みんな顔や性格なんかも、不平等、不公平なんですね。 じゃあ、なんで死んでしまうのか、というと、これも進化のためなんです。 個体の生死のサイクル(世代交代)は早い方が、環境に適応しやすいのです。 例えば、氷河期がやってきたとすると、氷河期でない時期に生まれ育った親よりも、氷河期の中で生まれ育った子のほうが、親よりも多少寒さに強くなります。氷河期という環境に多少、適応した個体が生まれてきます。そしてその子の、子ども(孫)は氷河期という環境で生まれ育った親から生まれてくるわけです。そうして、世代交代を短期間で進めていけば、だんだんと寒さに強くなった個体が生まれてきます。 もしも、この世代交代が遅ければ、親の世代の寿命が1000年もあって、300年たってから子供産むようならば、氷河期に対応できないまま、子孫を残せずに凍え死ぬことになってしまいかねません。 とにかく、サイクルは早い方が環境に適応しやすく、環境に適応できない古い個体は子孫を残したら、早く死んでしまった方がいいのです。 まぁそんなわけで、なぜ死ぬのかというと進化のためです。なので我々は順番に死んでいくしかないのです。 で、なぜ原始生命は細胞分裂したのか、というと、細胞というのは栄養をたくさん吸収して大きくなりすぎると、分列するのです。適度な大きさというのがあるのです。 これが我々が子孫繁栄する元となった行動理由です。大きくなりすぎたから分裂したというわけです。 (2)のシステムですが、苦痛がなければ、生命維持の危機というものを知ることができず、遺伝子に組み込まれた「生命を維持、そして子孫繁栄」という命令に支障をきたすからです。 もし、ナイフが腹にささっても痛みがなくて、平気にしてたら出血多量で死ぬ。ということになってしまいます。そんなおちおちと死んでもらっては子孫繁栄できません。なので、できるだけ強烈に生命の危機を知らせておかないといけないのです。まぁその代わりに、子孫繁栄するときには快楽を与えられていたりします。 (3)なぜ子供を作るのか。というのは遺伝子レベルでそうなっていることで、もはや長い進化のなかで「食欲を満たす」といったような「自然なこと」というレベルまでに達しています。 もちろん、反出生論者であれば、遺伝子の命令に歯向かいます。出家者も歯向かいまくりですね。 親に聞けないとのことですが、私は聞いたことがあります。 なぜ、生んだんだ、と生んで欲しくなかったと。 回答は、一言、生みたかったから。です。 それ以外ないでしょう。つまりは欲望です。子どもが欲しいという欲望がそうさせたんだよ、ということだけです。 じゃあ生まれてくる子供のことを考えなかったのかと、聞くと、考えてはいたようです。 でも、子どもを作るときって、新婚ホヤホヤだったりして、ものすごい幸せな状態なわけなんですね。 だから、そんな幸せな私たちから生まれてくる子供も、きっと幸せになるに違いない。 私たちのような幸せなことを体験させてあげたい、という根拠のない確信から子どもの未来を想像したりしてしまうのです。 人間ってチンパンジーとほんのちょっとしか遺伝子配列が違わないんです。 だから、人間は結構単純なんですよ。 まぁ、それでいざ生まれてきた子供が障害者だったり、ひきこもりなったりすると、こんなはずじゃなかったのに、と思うわけです。 東電と同じ感じです。福島原発を作ったときは、これで日本の電力も安泰、なんて思っていたのに、津波でものすごい被害を出してしまいました。東電も悪気があったわけではないのです。きっと、これで国民が幸せになるだろうと思ってやったことなのです。 (4)幸せになりたくないとのことですが、だからといって不幸にはなりたくないでしょう。あなたのいう幸せは大金持ちとか、結婚とかそういう幸せの代名詞のようなことを指しているのかもしれませんが、たとえば、今からご飯を作って食べるとして、あなたは不味い料理を作ろうとしますか? きっと、できるだけ、手間をかけたくないけど、なるだけ自分の口にあった美味しいものを食べようとか、つまり、ちょっとした幸せを味わおうとかするはずです。 結局、幸せというものを無意識に求めているのです。 例えば、この質問をしたという行動自体が、何かしらの幸せを求めての行動でしょう。この質問をしないでいることより、したほうが何かしら自分にとってプラスになる、ちょっとした幸せになるだろうという淡い期待が、気づいていないだけで、無意識にあるのです。 我々は苦痛を避けます。車にのって長距離を移動するのも、歩いて長距離移動するという苦痛を避けるため、全自動洗濯機を使うのも、自分で手で洗う苦痛を避けるため。 みな苦痛を避けたところにその行動があります。自殺もまた同じです。これから生きていくと、苦しいことだらけだから、そこから避けるために自殺するのです。私は自殺というのは、戦略的撤退だと思っています。 (5)恵まれすぎていても、いなくても、人生は無意味であります。 例えば、私は会社のために生きている、といってもその会社が倒産したら、その人の人生の意味はなくなってしまいます。学生時代のときには、俺は野球のために生きている、野球こそが人生だといっても、その人は、就職なんかしたりすると結局、野球ではなく違うもののために生きていたりします。 こうやってコロコロ変わっていきます。人生の意味っては絶えず変化する、諸行無常なものなんです。あのとき、僕はああだった。というのが人生です。 だとすれば、そんな曖昧なものは切り捨てるべきでしょう。執着すべきものではない。自分にはこれしかない、なんて思ってると、熱中しすぎてしまいかねません。 あなたが人生を無意味だ、と思っていることも、もしかしたら数年後には今のようには思っていないかもしれません。心の中なんてどんどん変化していきます。なので、あまり執着しないほうがいいですよ。 「人生は無意味だ。」ではなく、「人生は無意味だ、と今の僕は思っているんだな。」ぐらいがちょうどいいです。「あの人が憎い。」と断言するより、「あの人が憎い、と今の僕は思っている」とすれば、客観的要素が加わって、冷静な判断が下せます。 結局、苦しみがない人生というのは、どれだけ自分を客観視できるかが勝負でしょうね。自分の主観を絶対視してしまうと、自分の価値観と違う人などに対して、強烈な差別心や偏見やらで心が狭くなって、心の自由がなくなって苦しみが生まれてしまいます。自分の好き嫌いといった価値観、いわば自我を、どれだけなくせるか、が大事ですね。これが完遂出来れば、悟りが開けると思います。 (6)ですが、悲しむ人がいるのは、老人でも尊敬されていれば、多くの悲しむ人がいます。ですが死なないわけにもいきません。 やがては死んでいくのですから、悲しむ人がいなくなってから死ななくてはいけないというのは、難しいものです。 いつ死ぬのかは、わかりません。それが自殺だとしてもです。 親より先に死ぬのは親不孝だといわれていますが、それは親が悲しみたくないからです。 わが子を失いたくない、悲しみたくない、という欲があるからです。 人は苦しみを避けて行動しますから、子どもが死ぬことによる、親が受ける悲しみ苦しみを回避しようとする自然な行動です。 ただ、それはあくまでも、欲です。人は欲を持つと、それが達成できていないときに、苦しみが生まれるのです。 生まれてこなければよかった、というのもまた欲なのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
すごい偶然なのですが、僕もつい最近反出生主義とベネイターをネットで知りました。基本的な部分は自分と全く同じ考え方だと驚きました。 (1)(2)の回答については、僕は文系ですが最低限の生物知識はありますので承知の上です。生命は現象に過ぎないと僕も思います。 (3)について、やはりそうなのでしょうね。僕はやはり「今のところは」絶対に子供は作りたくないと思います。僕の場合は「両親が僕を産まなければ僕がこの世に生まれなかったとは限らない」と思い、両親に聞いても問題解決にならないという意味合いの方が強いです。 (4)確かに「幸福と不幸どちらかを選ばなければならない」となれば僕は幸福を選びます。でもそれはあくまで「相対的幸福」に過ぎず、僕にとっての「絶対的幸福」は存在しないし、あったとしてもそれを積極的に求める理由も無いという事です。 (5)について、「生きる意味は常に変化するもの」という点にはなるほどと思いました。確かにその通りだと思います。「生きる事は無意味だと今思っているだけ」なのかもしれませんね。 (6)「自分の死にたい欲」と「他人の生きていてほしい欲」は対等だという事でしょうか。これは僕も同じ事を考えた事があります。僕の場合は「知人が自殺したいと言ったらどうするか」です。確かに僕にも悲しみがありますが、理屈で言えば他人に対する欲より自分に対する欲が優先されるべきだと思います。
- apacheneo
- ベストアンサー率13% (3/23)
まず、一個人のたわ言として、反感を持った方も流して下さい。 微々たるものですが霊感があり、小さい頃より不思議な体験をする事により 死後どのようになるのかなどの事に興味を持って来ました。 ただ、大した能力も無いので存在は意識するものの、どうのようなものか解らないので歯がゆく 生と死、生きる事の意味など人より考えてきたのではないかと思っております。 自分の体験、経験と照らし合わせながら色々な方の考え方や本などで得たものから共感出来るものを取入れ 今は、ほぼ自分なりの答えが出てすっきりしております。 ただ、文章能力に乏しく短い文章で多くを伝えるのには無理があるので上手く伝わらないかも知れません。 殆どの場合、人間は向上心を持って生まれて来ます。 だからゲーム等でもスキルやレベルを上げる事に熱心に取組み、そこで得られるものに達成感を感じると思います。 向上心が無ければレベルを上げる事やその先の世界に興味も無くゲームを頑張る事も出来ません。(ゲームが重要ではありません) スポーツも同じで、上手くなっている時、特に楽しく感じるのは向上心の表れだと思います。 ゲームではレベルがMAXになり、すべて体験出来る事がなくなってしまうと飽きてしまいます。 レベルがMAXまで達成する前に頭打ちになっても飽きてしまいます。 質問者さまは、向上心の強い方だからこそ、 多くの人が感じる小さな幸せ(趣味や嗜好品)などに興味が無く そんな生活(人生)を続ける「生きる事の無意味さ」を感じているのだと思います。 多くの場合、自己顕示欲から地位や名声、多くの富を得る事に一生懸命です。 そこから得られるスキルや経験から学ぶ事も多々ありますが 死んでしまえば社会的な地位や財産など関係ありません。 残るのは精神的に向上した自分自身だけです。 大学生との事ですが、小、中、高校と卒業してきた中で様々な思い出があると思います。 その当時を振り返ると楽しい思い出だけでなく、あの時の自分はダメだったなぁ、何故あんな事したんだろと 未熟な自分を悔いる出来事は誰にでもあると思いますが、 色々な経験をし成長するからこそ未熟さに気付く事があるはずです。 また人とのトラブルで変なプライドが仲直りの邪魔をしたりしますが 相手を責めるのではなく内省すれば100%相手が悪い事は少ないはずです。 例え10%でも至らない部分に気付く事が出来れば未熟な自分を素直に認め、 その欠点を克服するように前向きになれれば「オイシイ」です。 それは、イヤな自分の負の部分を少しでも減らせ、それを積み重ねる事によって 精神的な向上が出来るからです。 そして、そのような時間を共有した相手には感謝する気持ちを持って下さい。 嫌いな相手でも自分の至らない部分に気付く事が出来るきっかけを作ってくれたからです。 肉体を持たず精神世界だけで精神的な向上をするのにはすぐ限界が来ると思っております。 生きる(食べる)為には嫌な仕事や人と関わりを持ちながら同じ時間を共有する必要が出て来ます。 それは無駄な労力ではなく、苦手な事(相手)も克服(攻略)すると言うミッションにもなっています。 その避けては通れない嫌な事に向かい合うからこそ向上し高められます。 モンスターをすべて避けてゲームを進めたらレベルは上がりません、 嫌な事をすべて避けて生きていたら精神的に成長が止まった、わがままで幼稚な人間性を持ったまま年を取る事になります。 人生(生きる意味)とは人それぞれ与えられたシチュエーション、ミッションを 挫折&クリアしながら多くを経験し、高めていく ある意味、ゲームのようなものとして自分は考えております。 ミッションを避けて通るもチャレンジするもプレーヤー自分自身の選択にかかっています。 前世で納得出来ないからこそ、向上心を持ちリベンジしに生まれて来たのだと思います。 面倒だと思えば生まれずに、ただ佇んで居れば良いのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
「向上心」という視点は初めて頂きました。ありがとうございます。 しかし「向上心」についても考えてみたのですが、やはり僕は自分が向上心ある人間とは言えません。僕は自他共に認めるいわゆる「欲の無い人間」です。 確かに何かを達成したという経験もありますが、僕にとってはその時に味わった歓びと日常の小さな幸せは同程度のものでした。 過去を振り返っても、僕は「未熟だった」とは思いません。「その時の、その状態の自分の言動として必然だった」と考えます。それに対する現在の自分も「成長した自分」ではなく、「結果としての自分」と考えます。 あなたの考えを否定する気は全くありませんが、僕個人はそもそも「成長」という言葉が嫌いです。それは「成長」ではなく単なる「社会への適応」に過ぎないと思うからです。「わがままで幼稚」というのはあくまで社会から見た視点ですよね。 つまり僕は自分にとっての価値は自分で決めたいし、他人や社会的な価値には全く興味がありません。その上で、人生というゲームに僕にとっての価値が無いと思うし、ゲームを始めるかどうか選択出来ない強制的なものだとも思います。 「レベルを上げる事やその先の世界に興味も無くゲームを頑張る事も出来ない」。正に今の僕がその状態なんです。
- AloveB
- ベストアンサー率32% (99/306)
#7 >>あなたの考えを否定するような言い方をしてしまい、申し訳ありませんでした。 いえ、私より真剣に物事を考えているのでしょう^^; テーマが大きな事だけに受け取り方に差がでるのは当然です、お気になさらず。 >>そういった感情が湧く要因を消す事は出来ないのか、という意味です。 無気力状態。実際に見たり聞いたりしたわけではありませんが、 無気力状態になり全てがどうでもよくなった状態で飛び降り自殺・・・。 そういうことはあるでしょうね。死を覚悟した場合以外だったら。 >>人によって考えが違うのは確かにその通りです。 >>その中の一つとしてあなたの考えも参考になりました。 ごく最近、もう嫌だなと思って「生きていたくない」「死んでしまいたい」と思いました。 それでもやはり死の恐怖には勝てず、行動にも移せませんでした。 その時にこの質問で自分が答えた内容を思い出しました。 「行きたくない」「死にたい」「でも痛いのは嫌だ」「苦しいのも嫌だ」「忘れられるのも嫌だ」 「でも死んだら関係なくない?」「でも、その可能性を考えて苦しいのも嫌だ・・・」などなど 本能と、本能から付いた機能の経験からなる痛みや苦しみへの恐怖と、存在の証明と それらに悩んでしまうから行動が起こせないのかもしれませんね^^; まあ、これで完璧な回答が出たら自殺率も減るんですけどねえ・・・。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
理性にとっての「生きる事の無意味さ」を嘆く感情を消すには、いっそ無気力になるしかない、という事でしょうか。いずれにせよ僕が将来無気力にならないと断言する事もまた不可能なんでしょうね。 この質問に回答を頂いたのが一昨日でしたから、その「つい最近」というのは昨日か今日の事ですか? 僕は「世界の中心は理性だ」と考えていた時期もありましたが、やはり理性が本能を超える事はないのでしょうか。それとも理性と本能を分けようとする事自体ナンセンスなんでしょうか。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
宗教が幅をきかせていた時代では、神は意味があって 人間を創ったのだから、必ず意味があるはずだ、と 単純に考えていたのです。 これ、西洋のキリスト教文化圏の話ね。 ところが、神などいないらしい、ということが解り 人生に意味なんか無いんじゃないの? となった訳です。 しかし、意味がない、なんて思想が広まると困ります。 社会とか国家が維持できなくなるからです。 それで頭の良い人が色々考えて、意味など人間が 自分で創り出せばよいじゃないか、神になど頼る 必要はない、という思想が出てきました。 どう生きようが、その人の勝手ですが、自分で意味を 創る人生の方が面白いのは確かです。 同じ生きるなら面白い方がよいと思いませんか?
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
僕は宗教の知識を全く持っていませんが、何となく宗教は世界や生の謎を神という仮の答えで埋めた盲目的なものというイメージを持っていて、同時に宗教が盲目的なら普通に生きる事もまた「生きる事に盲目的だ」と思っていました。 ですが、他の回答者様の意見も含めて「自分で生きる意味を作り出す」という発想はありませんでした。参考になりました。
- yunasoru
- ベストアンサー率39% (20/51)
あなた面白い方ですね。 ほっほー!!と考えさせられながら読ませていただきました。 あなたの言い分を見ると、 確かに。生きる意味ってなんだ?と思いました。 何でも良いので意見 という事なので、私なりの見解を。 (1)どうなるんでしょうね?とりあえず子孫繁栄しないと先が見えませんね。 (2)苦痛と恐怖 これについては私も、この二つが無かったらどんなに良いか!とよく考えます。 この二つが無かったらどうなっていたでしょうね!気になります。 (3)これもまた本能かしら? 男性は生殖 女性は母性。 まあ生まれたら死ぬまで生きるのが宿命?だからですかね。 (4)死ぬ瞬間の苦痛に対する恐怖という機能には結局逆らえずにあなたは生きているだけっぽいので、幸福にならなくても別に良いと思います。幸福を望んでいない人には関係ない願望ですね。 (5)これも(4)に同じですね。恵まれていても不幸でも別に良いと思います。 (6)まあそうですね。確かに。毎日毎年何十年も泣いてくれるわけではないですしね。 人生まだまだ長いですから、とりあえずは何かあるまで 途方もなく生きてみては如何でしょう? 生きる意味なんて人それぞれ。あなたが無意味だと思うならそれでいいじゃないですか。 どうせ死ねなくて生きてるなら、無意味だと思うことをなんでもやってみてもいいと思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
回答を読ませて頂き、あなたはとても前向きで肯定的な方だと思いました。 無意味でもいいからとりあえず生きる、というのも考えてみようと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
まず僕の言い方でお気を悪くさせてしまったならば謝罪します。申し訳ありませんでした。 返事は不要との事ですが、やはりどうしても誤解は解いておきたいと思うので、あなたが目を通されなくても補足させて頂きます。 1つ誤解されているのは、あなたが「僕が世間一般的な定義による魂が、肉体の死後どこかでスタンバイし、また別の肉体に宿ると考えている」と思われている点です。これは全くの誤解で、僕の方こそこんな考え方は非科学的なオカルトだと思うくらいです。 あなたは「意識や魂は脳内の電気信号であり、脳が死ねばそれらも消える」と仰いました。一方僕は魂を「視力による光、聴力による音、肌による触感などで構成された生物的な意識」と定義しました。この2つはほぼ同じ意味であり、あなたと僕がこの点で同じ考えを持っていると思えませんか? 僕は僕の定義する「意識」が肉体を超えて宇宙空間を旅するだとか、どこかでスタンバイするなんて考えていません。 「意識というものは、所詮脳内でのものです。脳内の電気信号に過ぎない」。まさにその通りです。僕もそう思っているんです。 「人格が違えば、同じ意識が生じることはないでしょう。なぜ同じ意識が生じるといえるのか?」恐らくここに誤解があるのだと思います。「同じ意識」というのは、「脳内の電気信号という点で同じ」という意味です。つまり僕は人格と意識を別々に分けて考えているんです。 意識が脳内の電気信号で、脳を持つ生物の数だけ存在するなら、その中のどれが「自分」という意識になるかは分からないでしょう? 「だってもうその時点であなたではない。」の「あなた」が指しているのは、僕の人格の部分であって、脳の電気信号の事ではないですよね?人格も電気信号で出来ているのかもしれませんが、それは意識の構成物には含まれません。僕の言う「意識」を構成するのは感覚神経だけだからです。 そして「生きる意味は普遍的に実在するものではない」というのは人格とは無関係な論理的事実なので、別の脳の電気信号による「意識」が再び生じたとしても、その事実に辿り着くだろう、という事です。