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気持ちのコントロールの仕方、思考

高校2年女子です。 高校生なら、誰しもがそうなのかもしれませんが、相談させてください。 私は中学生の時に人生初の失恋をしました。(それが原因で精神科に一時期通ってました)それを機に今まで持っていた自信を失い、物事を悲観的に考えるようになりました。向上心も以前に比べて弱くなりました。 当時、受験も近いこともあり人との関わりもなるべく少なくして受験に打ち込み、現在は第一志望だった高校に通っています。 高校生になってから悲観的に捉えることも増え、さらに気持ちのコントロールがつかず、気分が上がっているときと下がっている時とで差が激しすぎて、いつも友人に迷惑をかけています。 部活はダンス部に入っているのですが、ある日は「チームってすごくいい」と思う時もあるし、またある時は「こんなことして私は何が楽しいんだろ」と思う時もあります。 友達のことも「所詮は赤の他人で、みんな自分のことだけしか考えてないんだろ」と心の奥では思いながら、高校生活を送っています。 少し優しくされただけで、すぐに涙が出てしまいます。 高校生になってから恋愛もしているけれど、うまくいきません。 受験に対する焦りもあり、日々追い詰められている感じで過ごしてます。 家族も妹が問題児で毎日母親を困らせていて、私だけはいい子でいないといけないというような漠然とした責任感を背負っているので家でも気持ちが和らぎません。 以前は(高校一年くらい)一人の方が気が楽で良かったんですけど、最近は一人になるとますます悲観的になってしまいます。 勉強もしないといけないし、志望大学に向けて受験モードにそろそろ切り替えないといけないし、毎回こんなふうに落ち込んでたりできないので…… わたしの思考が基本的に極端すぎるのも問題だと思っています。 また、ひとつの事柄(部活、友人関係、恋愛その他)がうまくいかないと、論理的ではないのですが、自分を全否定してしまう癖があるので、それもよくないと思っています。 恋愛がそもそもの原因なので、今現在も恋愛に依存しすぎていて、恋愛中心の考え方になってしまっているのもよくないと思っています。 なるべく悲観的にならないように、前向きな曲を聞くようにしたり、常に笑顔を心がけて気持ちを紛らわしたり、いろいろやっているのですが、逆にそれが重荷となって沈む時にのしかかってきます。 私は考え方を具体的にどのように変えれば良いのでしょう。 また、日々の生活でどのように過ごせばよいのでしょうか。 やはり無理にでも気持ちをあげていくしかないのでしょうか。

みんなの回答

回答No.3

無理に気持ちをあげると、よけいむなしくなったり、だんだん無理にでも気持ちがあがらなくなってしまう事があります。だからつらいときはつらい気持ちをいっぱい全身で感じてください。泣きたい時はこっそり泣く。しばらく元気でないなら、いま失恋なうだからゴメン…(´Д` )って浮き沈みのあるキャラってことにしておけばまわりも納得するかと思いますし。 気持ちをコントロールするにはもっと我慢しないで自分の気持ち、考え方、感じ方を知った方がいいと思います。自分を落ち込ませる理由は何か?とか色々考えてみてください。1人1人考え方のクセがあります。感情がわいてきたら、その理由とか感じを紙に記録してみてください。だんだん自分を客観視できるようになると思います。そうすれば、コントロールできます。コントロールするのは感情そのものではなくて、感情をおこす原因を少なくするとか、見ない振りをするとかのコントロールです。感情そのもののコントロールは心を病む危険があるのであまりお勧めしません。 あと、質問者さまは考えすぎてる部分があるので、もっと楽観的に。モヤモヤしたら散歩するか、寝てくださいねー。

noname#203655
noname#203655
回答No.2

まず私見では大丈夫だと思います。 高校生ならば、誰しもそうかもしれないとご自分を客観視されています。 自分の現状の因果関係もきちんと分析されています。 中学生のときの失恋で弱ったにせよ、きちんと第一志望の高校に合格されています。 若い時は血気盛んなので、自覚されているように、個人差はあるにせよ、気分の変動が激しく、コントロールする力も弱くて普通かと思われます。でも、友だちに迷惑をかけていることも自覚されています。 「チームってすごくいい」と思えることがあれば、いいのではないでしょうか。 「所詮は赤の他人で、みんな自分のことだけしか考えてないんだろ」と思っても、それだけではないこともわかっている。 普通、誰でも自分がかわいいのは当たり前。それを基本線として考えた方がいいかもしれません。 ご自分がそれに問題を感じるのであれば、ご自分のみをどうにかするように努めればいいのではないでしょうか。と、言うは易しで私もできていませんが。 少し優しくされてすぐに涙が出ることは、心が弱っていることもあるかと思いますが、心が傷ついて、苦労しているから、人の優しさを深く感じられる証拠ともいえ、それはとてもいいことではないでしょうか。 受験に対して焦るのも当たり前かもしれませんし、きちんとしようと思っている証拠だと思いますし、そのくらい危機感をもって過ごした方が後々ご自分のためになるかもしれません。 「中国語で書くと、危機という言葉は二つの漢字でできている。ひとつは危険、もうひとつは好機である。」J.F.ケネディー 人生に危機がないことなんてほとんどないかもしれませんよ。偉そうに言えませんが、それを楽しめるくらいになりましょう。 家で責任感を持てるのも、きちんとした人間であることの証拠。 辛いかと思いますが、力を蓄え、心を豊かにするチャンスとも言えるかもしれません。 塞ぎ込んだり、落ち込んだり、悲しんだりすることはもう少し進んだ段階でははっきり言って無駄かもしれません。 しかし、今は必要だと思います。強くなるためには苦しみを経なければなりません。アスリートと同じです。 思考が極端すぎるという問題も自覚している。 恋愛は最も傷つくことでもあるかもしれませんが、それも自分を鍛える契機という側面も持つと思います。 「なるべく悲観的にならないように、前向きな曲を聞くようにしたり、常に笑顔を心がけて気持ちを紛らわしたり、いろいろやって」、試行錯誤している。それは素晴らしいのではないでしょうか。そうやって自分の形を見つけて行けばいいのではないでしょうか。こうすれば上手くいくという具体的な方法論はなかなかないかもしれません。ご自分の形を見つけていけばいいかと思います。し、でなければ、意味がないかもしれませんし、そうするしかないかもしれません。 私の一意見では、ともかく一生懸命やってればいいかと思います。そうすれば、必ず上手くいきます。間違いありません。 ただ、絶対に諦めたり、屈してはいけません。どれほど苦しかろうと、悲しかろうと、善意を失ってはいけません。自分と戦うんです。その意志を失わない限り、絶対に大丈夫です。ご自分を信じて。絶対に大丈夫。 大丈夫。必ず善意と努力は報われます。さしあたっての目標は、苦しみからの解放ではありません。もし苦しくてたまらない状況でも、その状況を肯定する強さの獲得です。 あと、とりあえず行動してみるということも大事かもしれません。 ただ、これは重要ですが、休むことはすごく大事です。ご自分を労わることも大切にすることもすごく大事です。 なりふりかまわず、今にぶちかましてみてはどうでしょうか。 応援しています^^ 一緒にがんばりましょう!

  • HeyXey
  • ベストアンサー率26% (134/497)
回答No.1

 こんばんは。50代の男性です。少し哲学的です。  どう転ぶかわからない、若い頃は不安定です。将来、恋愛、妹さんのこと、部活、友人関係、受験…。  不安と恐怖は似て非なるものです(漢字で書くと‘亜’―亜鉛の‘亜’は似て非なるものと言う意味です)。恐怖は「今、ここ」にあるものですが、不安は想像の産物です。猛スピードの自動車が迫ってきた。僕は怖さを感じた。その自動車は走り去ったので恐怖もなくなったが、また同じような出来事があったらどうしよう・・・という気持ちが消えない。いわば未来形の恐怖・・・これが不安です。なぜ、このような厄介な感情があるのかと言うと、『注意を払え!』という警報機なのです。不安という感情が無ければ、人は平気で高い所に立つし、獰猛な獣に近づくでしょう。そうなれば、人類存亡の危機です。  不安が人間として当然にある感情である以上、「不安を無くそう」という発想は自然の摂理に反しているのでやめた方がいいでしょう。中には危険を警告する不安ではなく、欲求の裏側にある不安というものがあります。好きな彼とうまく付き合いたい、受験に成功したい、良く思われたい、そういう欲求があるから不安もあるのではないでしょうか。欲求があるのなら、不安も引き受けなければなりません。そして、もう少し深く見てみると、不安の強さは欲求の強さに比例していることに気付くでしょう。帰宅時にこの電車に乗れないのではないかという不安と、受験に失敗する不安とでは、当然後者のほうが強いでしょう。電車は次のを待てばいいのですから。  不安があった時は、その裏側にある自分の欲求に目を向けるといいでしょう。不安と欲求はコインの裏表なのです。  もう一つ僕が感じるのは、窮屈さです。♪生きてく方法なんて100通りだってあるさ― By浜田省吾♪なのです。『広い道路にロープを敷いて、その上を綱渡りのようにして歩いている』―誰かがそう表現していました。本人は『足を踏み外したら落っこちてしまう』という感覚なのですが、傍から見ている人には違うのです。  それと、高校2年生の女の子に言うのも変ですが、「首尾一貫して生きる姿勢」がまだ出来ていない様に思います。『仕方なく…した』、『XXさせられている』、そいうい感覚です。「自分に選択の余地がない」と感じてした行為に対して、人は責任を感じないのです。これも、感じる‘仕方なさ’の度合いが大きければ大きいほど、責任感は薄れます。デートの待ち合わせ時間を相手に半ば強引に約束させられた場合、遅刻しても悪びれる様子が無かったりするのはそのせいです。  他人が見ていなくても、してはいけないことはしない、それさえ守っていれば恐れることはいりません。『誰かが見ているから』という理由で判断する人は、常に左右を見なければなりません。「自分中心」という考え方があります(自己中心と区別しています)。責任と自由もコインの裏表です。  何もかもが自由になる訳ではないけれど、自分に与えられた自由もあるはずです。自分の自由にならないことに責任を感じていては、身が持たないのであります。おじさんだって、自由にならないことに責任は取りたくないのであります。よく見極めることです。  失敗する自由、嫌われる自由、もあるのです。結果責任を負う覚悟があるなら、自由も楽しめるでしょう。  自然体でいいのです。

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