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運慶と快慶
東大寺南大門金剛力士像は運慶と快慶の共作といわれていますが、どういう共作なのですか。たとえば、上半身は運慶、下半身は快慶とか、設計は運慶、工事は快慶とか、そういうことがわかりません。そもそも、この二人の関係はどういう関係なのですか。
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当時は、平安時代末、鎌倉時代はじめの時代になりますが、 源平の戦いで、奈良の興福寺・東大寺が荒廃して、 その再建の過程で建物を建て直すだけでなく、 内部に収める仏像を数多く作り直す必要が生じている状況でした。 それまでの仏師の主流は貴族の好む京都仏師でしたが、 鎌倉武士は、より写実的な力強い作風の奈良仏師の方を好み、 彼らが脚光を浴びるようになりました。 寺院再建に伴う仏像需要もあって 奈良仏師の作品が数多くつくられました。 南大門の金剛力士像もその一つです。 さて、奈良仏師の直系に成朝という人がいましたが、 成朝と同時代で傍系に康慶という仏師がおり、 その息子が運慶になります。 成朝が途中で歴史から姿を消してしまうので、 以後は、康慶→運慶(息子)→湛慶(息子)が奈良仏師を受け継ぎます(慶派)。 快慶は康慶と血のつながりはないと思われますが、 康慶一門の中で運慶の兄弟弟子であると思われ傍系にあたります。 金剛力士像をつくる際に、 彼らが実際にどのような役割分担をしたかはわかりません。 よく言われていたのは、 よくまとまっている阿形に快慶の個性を、 躍動感のある吽形に運慶の個性を見る という見方でした。 また近年、像内に収められた文書から、 阿形(口を開けている方)の大仏師は運慶と快慶、小仏師13人 吽形(口を閉じている方)の大仏師は定覚(運慶の兄弟弟子か)と湛慶、小仏師12人 ということが判明しました。 ただし、吽形の大仏師の方が経験が浅いため、 全体の総括者は運慶であり 吽形の監督・指導も随時運慶が行ったのではないか、 という見方は依然としてあるようです。
お礼
運慶は監督だったのですね。じょうかく、という人もいたのですね。そして、運慶、快慶には血縁は無い。とても勉強になりました。ありがとうございました。あー、うん。