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劣等であることと劣等感は違う
劣等であることを認めても、劣等感を持たない人がいます。さらに、劣等性を認められるということは、すでに劣等感を克服できている、ということでもあります。 劣等を劣等でないと意識できる(劣等を受け入れられる)ようになるなら、本当の劣等とは何ですか?劣等の概念て何でしょうか?実在しない虚像のようなものでしょうか?
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心理学カテに相応しいのか否かちょっと悩みますが・・・以下お読みください。 まず質問文にある >劣等を劣等でないと意識できる(劣等を受け入れられる)ようになるなら、本当の劣等とは何ですか? という部分から、劣等感と劣等が少なからず融合した形で理解しておられる印象を受けます。 折角タイトルに「劣等であることと劣等感は違う」とお書きなのですから、ここは明確に区別してお考えになった方が宜しいでしょう。 劣等感とは、自己の能力や立場が他者と比較して劣っている時に生じる(負の)感情、です。 劣等とは、他と比較して劣っている事(事実)です。 ですから >劣等であることを認めても、劣等感を持たない人 とは、別の比較において負けていない部分を持っている人でしょう。(例えばアナタに期末試験の総合点で負けたが、バレンタインにチョコをもらった数で比較したらこっちが勝ってる、とかね) そうでなければ、負けるのが当然なので負の感情が生じない人でしょう。(アナタに期末試験の総合点で負けた、でもあんなに頭のイイ人になら負けるのは当然だ、とかね) >劣等性を認められるということは、すでに劣等感を克服できている のは、劣等であると認められた分野(成績・学歴・年収・社会的実績・名声etc.)を「大した事無い」と思っている場合(大学教授が100m走で学生に負けても別に悔しくない/横綱がダイエット大会で女性に負けても悔しくない)と、現実は劣等でも自分には潜在的な能力があり、未来は逆転できると思っている場合(あすなろ、ですね。この場合、自らを客観視しているケースと誇大妄想のケースがありますが)が考えられます。 ですから劣等感からくるコンプレックスこそが >実在しない虚像のようなもの であって、劣等か否かは客観的な事実(数値で表せるもの)です。 劣等か否かはあくまでも、ある一つの基準についてにのみ平均より劣るか否か、なのであって民族や人間性そのものには適用できないのです。 ですから、アナタ自身がお書きの 「劣等」を受け入れられる=「劣等感」の克服 という図式は正しいのです。 劣等と劣等感をはっきり区別して考えれば問題ない事が分かりますよね。
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- hakobulu
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「劣等」を辞書で引いてみると、「他と比べて劣っていること、もの。」とあります。 「劣等感」となると、他者と比べて自分が劣っていると思うこと、なのでしょう。 他者と比較した場合、全く同じ人間でない限り必ず差異があるのは当然のことです。 ところで、差異にも様々あると思いますが、どの差異について劣等感を抱くのか、という点に注目してみたいと思います。 そこには本人の価値観が浮き彫りになるでしょう。 お金持ちになりたいと切望している人は、豪邸や資産家に対して劣等感を持つかもしれません。 お金に対して「適度な欲望」を持つ人にとっては、「ほお・・」という感想ぐらいは持っても嫉妬したり、劣等感にさいなまれたりすることは無いはずです。 劣等感が、対極の意味である「優等」を目指すべき内容を含むのは、明らかに人間という『精神的存在として』劣っている場合だけでしょう。 なぜかというと、精神性はある程度自らの意志によって改革できることがらであり、また自他に甚大な影響を及ぼす可能性を持っているからです。 これ以外のことで劣等感に苛まれるのは、言ってみれば一時的な刺激みたいなものにすぎず、可能であるなら克服すればいいし、そうでなくとも人間的に何か問題が発生する性質のものではありません。 可能であればどうでもいい事柄に関しては「足るを知る」の精神で対応し、真摯に対処しなければならないことに対してエネルギーを傾注することが、結果的に有意義(何が有意義かということはまた別にして)なことかもしれません。
- groovyreality
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'劣等性を認められるということは、すでに劣等感を克服できている、ということでもあります。' これが、違うと思います 劣等であることを認めるってことは、自分は劣等なのだと思い、他人より劣っていると常に感じ、意識することが劣等感だと思います 認めるから、劣等感が生まれるのだと思います 認めたことによって、それに対峙するエネルギーとできるなら、おっしゃるような考え方もできます。 でも、意識しすぎた結果、自分に絶望する人がいる。 劣等性を克服できない人がいる。 そういうのを劣等感というのだと思います
補足
回答ありがとうございます。 >劣等であることを認めるってことは、自分は劣等なのだと思い、他人より劣っていると常に感じ、意識することが劣等感だと思います それは、違うと思います。劣等であることを受け入れられないから、人は苦しむのです。受け入れたとき、劣等であってもよいと思えて、心がラクになるのです。劣等を無いものとごまかしてるうちは、劣等感にさいなまれます。しかし、劣等を劣等として認めたとき、劣等感から開放され、不安が無くなります。 無意識下で働いている漠然とした不安感に、自らが意識的に直面していくことで、劣等感と戦うことになります。 逆に劣等感を認めないということは、反発です。反発することによってでは、それを無くすこともできませんし、それと向き合う姿勢も作られません。よって劣等をいつまでも、心の無意識下に置いて、苦しむことになります。 だから、劣等感を認め、それを受け入れることによって克服できると思ったのですが、どうでしょうか? 私の解釈は間違ってますか? なんか考えてて、混乱してきたので誰かアドバイスお願いします。
補足
回答ありがとうございます。少しわかったような気がします。劣等と劣等感をはっきり区別することが大事ですね。 >劣等か否かはあくまでも、ある一つの基準についてにのみ平均より劣るか否か、なのであって民族や人間性そのものには適用できないのです。 これに納得しました。 思ったのですが、劣等なんて、ある角度から見たときにそれが一定レベルより低いというだけであって、絶対的なものではないですよね。その劣等自体が自分の存在の妥当性の否定に感じる時に、激しい不安と劣等感にさいなまれるのだと思いました。 劣等であることによって自分の存在の妥当性が疑わしくなるわけではない、と感じられれば安定するものだと思いました。ごちゃごちゃと書いて、すみません。 少し回答者さんと違う考えを持ってるので、書かせていただきます。 >劣等であることを認めても、劣等感を持たない人 とは、別の比較において負けていない部分を持っている人でしょう。 私はこの考えと、少し違っています。つまり、他人と比較して優位なものを持ってるから、というのではなく、そのあるがままの自分の存在に妥当性を確信しているから、自分に自信を持てるのではないかと思います。 何もできなくてよいわけです。自分が自分であるが故に、自分に自信を持ち、自己肯定感を持って生きられるということです。つまり、自分の存在自体に自己信頼感と自己尊重感を持てる人が、劣等にも悩まされず、自信を持って生きられるのではないかと・・・。 他人と比較しながら自信を持とう(劣等性を無くそう)としても、それは絶対的な自信にはつながらないのではないかと思います。なぜなら、あるがままの存在に自信を持ってないからです。他人より秀でたものによって劣等感を克服しようとするからです。別の面で他人より秀でた人間になろうとしても、その中でまた新たな比較や競争が始まり、自己の存在を脅かすものになるのではないかと思いました。 また、いろいろと書きましたが、ご回答ありがとうございました。大変参考になりました。