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大名
同程度(二十~四十万石)の国持ち大名でも、歴代当主の多くが四位少将まで進む家(両池田・浅野など)がある反面、歴代ほとんど侍従どまりの家(毛利・鍋島・山内など)もあるようです。 伊達家は十万石の准国持ちながら何代も少将に叙されています。 五十万石を超える大大名・細川越中家も、中将・少将まで進んだ当主がいる反面、侍従止まりの当主も多い様です。 官位の違いは将軍家との関係の親疎が影響しているのでしょうか? 確か在位三十年で少将だった様な気もするのですが、何か基準があったのでしょうか… ご意見を伺えれば幸いです。
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石高は官位には直接影響しません。石高で大名のランクは決まりますがそのランク内では同等です。つまり、石高→国持→官位と影響しますが、国持間での石高差は関係しません。昇進はだまっていてもかなうわけではなく、大名から昇進伺書を幕府に提出し、審議裁可されれば、将軍の思し召しで朝廷に推薦され朝廷から任官されます。 武家は先祖がなった官位にその嫡系子孫は同等の官位につく資格があるという不文律があります。だから将軍家は代々将軍を世襲できるわけです。昇進審議は先例や他大名家との関係をみながら行われていたようですが、完全に公平には行われていなかったようです。将軍家との親疎、昇進運動の賂、妻の実家の後押しなどで決まっていくようです。 昇進基準を明文化したのが寛保三年御定です。 国持 1)は初官は侍従、侍従より30年で少将 2)30年未満でも50歳になれば少将。 3)少将の先例がなくても侍従から30年かつ60歳になれば少将、 ただし家格により64、5歳とすること。ただし、宗家と有馬家は除く。 准国持 1)家督時四品、30年で侍従 2)宇和島伊達家は秀宗の先例で30歳で侍従 池田と浅野は初期藩主が将軍と縁戚関係になったため、早い年齢からに少将になっており、これが先例となって時代を経ても多く少将になってます。 池田忠雄と浅野光晟の母は家康娘、池田光政の妻は千姫娘です。細川は初代忠興がもともと参議だったこともあり、初期から少将になってます。同じ50万石でも黒田は6代継高が初めて少将になってます。 宇和島伊達は准国持ですから、本来は侍従どまりですが、5代伊達村候以降が少将になってますね。村候は13歳で家督、15歳で四品、30歳で侍従と寛保三年御定どおりにきてます。ところが64歳のときに少将になっています。これは小生の考えですが、国持の3)の規定によるものと思われます。すでに例外のはずの有馬頼ゆき(ぎょうにんべんに童)が3)の例で少将になっており規定にも例外の「先例」があったようです。一度なってしまえばその子孫は「先例」で少将になれます。 寛保三年御定は不相応な昇進伺いを抑止するためのものです。一方でその家の先例があればそっちを優先しました。むしろ、規定によって昇進させるというより大名が昇進したさに自分に都合のいいように先例、他家事例、規定をいろいろ取り混ぜて幕府に申し入れたようです。 およそ、官位、爵位、叙勲、階級などは人間の見栄と出世欲をくすぐるものですから、時代を経るにつれ、インフレになりこそすれ、デフレにはなりません。侍従どまりのはずの有馬も幕末には中将にまでなっています。 国持大名は国元の藩政は家老以下家臣が握っており、幕府からは謀反を おこさないか常に監視の目があるので派手な遊びもままらず、幕政にも参加できないので趣味に生きるか、昇進に情熱を注ぐかくらいしか生きがいを見つけられなかったんでしょう。
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- 6dou_rinne
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各大名家の極官については大体の基準はあるものの、詳細についてはそれぞれの家の由緒や徳川家との関係などでできあがってきたもので石高や国持ち、準国持ちといったような関係で一律にきまるものではなく、それぞれの家の歴史の積み重ねでなんともいえません。 同じ家の当主で官位に違いがあるのは、最初のスタートは同じでも若くして死んだり、隠居したりすると極官までたどりつけないといったことがありますので、途中で家格が変わらなくてもばらばらになります。 侍従から少将への昇進は、家督から30年という基準がありましたが、50歳を超えていれば30年に満たなくても少将になれました。 宇和島の伊達家については初代が侍従であったという由緒から30歳になれば侍従になれました。
お礼
御回答ありがとうございます。 五十になれば三十年未満でも少将になれたのですね。
お礼
御回答ありがとうございます。 官位は石高で決まるものではないのですね。 とても参考になりました。