- ベストアンサー
大和郡山藩・柳沢家
Yahoo!のスクロール古地図を見ると、大和郡山藩の柳沢家の屋敷のところに「松平時之助保申」とあります。 吉保・吉里は綱吉から偏諱を受けていますし、松平姓を許されていたのは分かるのですが、柳沢家はその後も譜代ながら歴代当主が松平姓を許されていたのでしょうか? 将軍の寵臣は没落した家も多いですが、柳沢家はどうして甲府から大和郡山に移封されたとはいえ、減封されることもなかったのでしょうか。 他に譜代大名で一代限りではなく代々松平姓を許されていた家はありましたでしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
将軍の寵臣で,没落しなかったのは柳澤家のみと言われています。これはやはり柳澤吉保の身の処し方がうまかったからでしょう。 甲斐甲府15万石から大和郡山15万1千石に加増(わずか1千石)移封され,従四位下の官位と領地を保持したまま幕末まで存続した大名家です。 譜代大名で,松平家の分家でもないのに松平姓を賜ったのは6家あります。(下記参考URLには7家ありますが,鷹司家は親藩大名です。)
お礼
URL拝見しました。 同じく譜代で松平姓を許された本庄氏は綱吉の母の異父弟の系譜のようですし、他の家々も松平を名乗るに尤もな由緒がある家々のようですね。やはり柳沢吉保の家は特別みたいですね。田沼主殿頭と違って柳沢家を潰そうとする政敵もいなかったのでしょうね。 ありがとうございました!