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縁起と意思
仏教に関心を持ち出してから半年ぐらいですので勘違いをしているところがあればご指摘ください。縁起とは全ての存在はさまざまな条件の調和によって成立しているということのように受取りましたが、命や意識も縁によって存在するなら、自分の意志(と思っているもの)さえ内外の事象の縁によって起こっているに過ぎないことになり。ただ縁によって変化しているだけなんですか。これでは全てのことが結果から見れば必然ということになるのではないのでわないでしょうか…??。
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- neil_2112
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本論に入る前に一点。 縁起の根底に輪廻がある、という見解が巷にあるようですが、これは仏教の基本をまったく理解していない人の意見です。仏教においては愚論の極みといっていいでしょう。 輪廻の扱いは仏教でいろいろと議論のあるところですが、最低限言いえることは、仏教の基本的立場として、無明や渇愛をはなれた者には輪廻はないと説く、ということです。無明というのはつまり「縁起ということがわからない」ということですから、縁起を知った者は輪廻を離れる、というのが仏教の大原則です。 (書くまでもないことですが、スッタニパータなど古い経典には、「衆生はよろしく輪廻を超えるべきである」、「輪廻を捨離すべきである」、「有愛を断ち切った者には輪廻は滅びる」といった言葉が頻出します。これは常識中の常識です。) さて本題について。 縁起というのは、すべてが因果関係の中で生まれる、ということです。すべてということは、つまり存在を生み出している条件そのものも縁起した存在ですから、この関係をどこまでさかのぼっても、「ここからすべてが始まった」というような究極的原因にたどり着くことはない、という立場です。硬い言い方をすると、仏教では存在の基礎に決定性や所与性を求めない、ということです。 別の角度から書くと、仏教は実践の教えであって、経験的な存在や現象をそのまま受け入れる立場をとります。いわば世界をあるがままに見ようとする態度であって、存在や現象の背後に形而上的な思考をめぐらすことは、(否定はされないにせよ)もっぱら必要なこととはされないのです。 阿含経には、お釈迦さんの言葉として、「われは行為を説く者、実践を説く者、精進を説く者である」という言葉がありますが、これに端的に表されるように、もともと仏教は「私」という実在や「私が考えている」「私が行為を行う」ということの自明性を疑うことはないのです。 「私」について哲学的にいろいろなことは確かに思考し得るし、一見「自由意志」と見えるものが実はレベルを替えてみれば既に決定済みの事柄である、という見解もあります。仏教はそのような思考の道筋をたどらずに、自分を含めて多くの人が自分の自由な意志に基づいて行動している、という経験的事実に即したうえで、その「自分」があたかも良い御者のように自らをコントロールすることで苦を離れようとするのです。 縁起する存在は無常でもあります。これは苦しみの根源でもある「無明」についても成り立つことですから、縁起の法則によれば無明は永遠不滅の存在でなく、滅し得るものです。ならば、私たちは自らの精進によって苦を脱せるはずではないか、苦とされる輪廻を絶つことができるではないか、というのがお釈迦さんの説法の根幹にある、縁起と悟りの関係です。 上の点を踏まえたうえで書くのですが、しかし、後代の親鸞などのように、縁起を徹底させて考えたがゆえに、逆に自力を放棄して、いわゆる他力本願という信仰に行き着いた考え方もあります。 親鸞は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と書いています。つまり、人間はすべて縁によってそのような存在でありえているわけで、さるべき縁に出会えば誰だって少しはいいことをするかも知れないし、逆にそのような縁に出会えば殺人をもするかも知れない。 人間はただそういう遇縁の存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。ならば自分の考えで善悪を分別することも成り立たないのではないか、むしろこの世界に自分の価値判断を持ち込むことなど本来不可能なのではないか、それが苦しみを招いているのではないか、ということを突き詰めて考えていったわけです。 結果、人は遇縁のままに生きざるを得ない、それしか生きようがない、という徹底した自覚を親鸞は持つようになります。「凡夫の自覚」といわれますが、凡夫である人は煩悩を断じるのではなく、煩悩を煩悩のままに、老いや病をそのままに受け止めて生きるしかないし、それがつまり悟りに生きることだ、という確信に至るわけです。 これなどは、決定論とは少し違いますが、それでもご質問の感覚とかなり近いのではないかと思います。
- mmky
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追伸の参考まで 釈尊の縁起を理解するには、その根底に転生輪廻があることをまず知る必要があります。人は、過去幾百、幾千転生して現在がある、つまり時間縁起のその結果としての現在があるというものです。 「その様な縁がなかっただけだ」というのは転生の過程で殺人をしてこなかったという意味ですね。つまり縁が無かったということになります。 また、縁起には、過去現在未来を永遠に貫く時間的縁起と、同一時代に固定する空間的縁起があるということですね。いろいろな環境で生きていますが、環境が空間縁起ですね。環境は誰も変えられないがその環境でどう生きるかは個人の自由意思ということですね。でもどの時代を生きようが変わらない法則があるということですね。それが則、仏法ということですね。 意思や結果を環境のせいにして人生を終え、その考えが法則違反であったことを知る人のいかに多いことかということでしょう。
- mmky
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参考程度に おのれの欲するとこに従い則(法則)を越えずという孔子様の教えがあります。 縁起というのは、原因結果の連鎖ということです。自らが努力した結果としての未来が現れ、それがまた原因となって永遠に続いていくことです。努力の結果ということですので確定運命論ではありません。しかし、孔子様の指摘のように則があり、その則・法則の中から逃れられないことも事実なんです。個人の努力の結果は、法則の下に評価されるといってもいいでしょうね。人間の心は他に制約されずに自由に何でも考え、行動を起こすことはできるが、法則のもとで裁かれるということで、不迷因果なんですね。 自由意志があり、因果=努力、ゆえに評価されるということです。全てが他力で決まっているということではありません。
- Komiker
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ANo.1です。 >行動であれば行動するべくして行動しているということのように…。選択しているようでも実際には選択の余地なく。 個人の意志を決定しているものがそのようなものだとすれば、全ては既に決まっているということになりますね。が、事実はどうでしょう。頭の中、ことばの世界でなく、事実どうかということですが。 あなたは自分の意志を正しく把握できていると思えますか? 人の意志は自覚できるレベルのものだけではありません。むしろ、自覚し得ないレベル、深いところに、その人の気付かない意志があると言い切ってよいでしょう。 ところが、それがどのようなものか、質、量とも知ることが、困難です。 私は未だ自分の真実の意志、つまり自己を知ることができません。 「 縁起 」とは、世界の事象全ての関係性を言っているだけです。何か固定した現象を言っているのではありません。さまざまに変わりうるものであるからこそ、個人が「 真実の意志 」に目覚めることが望まれる、私にはこのように思えます。どうでしょうか。
- mashahide
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昔、物理学にラプラスの悪魔って言うのがいました。未来をも細部に渡って見通す力を持った悪魔なんですけど。不確定性原理によって否定されましたけど。 釈迦が悟った縁起の法は、釈迦自ら「分かりにくくて一般人には理解できん!」と言ったほど難しい物ですよね。これの意味が完璧に理解出来ると悟った、と言う事になっちゃうので仏になってしまいます。つまり真の意味は仏にしか分からないのではないかと...。 我々一般人はこの縁起の真の意味を理解しようと、”自分の意志”で努力するのが最善ではないでしょうか? 般若心経に書いてあります。 『この世の全ての物、苦、意志や悟りまでもが幻』 だと...。 後、もう御存じかもしれませんが仏教を勉強するにあたって、物理学(量子力学系)天文学、心理学(特にユング物)などを同時に勉強するとかなり面白いです。仏典と同じ事が書いてあるので。 なんだか回答になってなくてスミマセン
- zenzenzen
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縁の網の目に発生する波 意思力による 融通無碍なる変化. 規則性があるのかもしれないし 無いのかもしれない. 極まった状態に対して 突発的に起こり広がる波紋かもしれない. 投げ入れられた小石によって
宗教には無関心で、縁起については判らないのですが、 意志に関しては、科学者は色々研究しています。 遺伝子の二重螺旋の発見者のワトソンは、 生命の発生に神の存在を、科学的に「ノー」の結論を出しています。 意識についても、無意識的行為(自律的心臓の鼓動や条件反射)と意識的行為の違いについて、刺激と行動の時間差に注目して、選択がされる可能性が有るようです。 脳科学に関する、ページには、扁桃体が、生命的価値判断を行っているという、刺激的な研究もあるようです。
- Komiker
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お尋ねに対しての答えではありまぜんが (^o^)。 >自分の意志(と思っているもの)さえ内外の事象の縁によって起こっているに過ぎないことになり。ただ縁によって変化しているだけなんですか。 あなたはその辺をどうお考えですか? 事実どうかというところですが。
補足
過去の記憶と目の前に起こることを総合した結果が意志という形になり、成るべくして成っているように感じるのですが…?行動であれば行動するべくして行動しているということのように…。選択しているようでも実際には選択の余地なく。
補足
例えば、お釈迦様の説話に従順を誓った弟子が人殺しを拒否するのはあなたにその様な縁がなかっただけだというようなものがあったと思いますが(殺人を肯定する条件を持っていなかっただけと受取りました。)、これは条件の総和が結果(意志、行動)であるということとは違うのでしょうか。記憶(特性特質と出生後の環境や経験も含め)と今受けた刺激の総和が意志や行動となるように思われてならないのですが…。私の知識のなさと理解力の低さによるものでしょうか。関連するような経典等があれば教えて頂けないでしょうか。