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違いの認識

イエスが 汝の敵を愛せ と言ったのとは別に、汝の隣人を愛せよ と言ったのは、違いが在るからだと思うのですが、どう違うのでしょうか  前者は  関心を向け、認識することが愛するということなら、彼らに「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と、「地獄に行け」と言ったのではなく、「そのままではそうなるよ」と、彼らの存在と在り方を認識できたが故に怒ったのは、それも愛が在るということになります(少し大げさな例でしたか)  後者は  隣人として身近にはいるが、自分とは違う性質であるが故に感応しない、関心がない故に認識、認めてすらいない人を認めよ(愛せよ)ということで宜しいですか つまり 空想上の国家や神や目前に居ない仮想の人たちなどを愛するポーズをとることは容易だが、まず身近な人から注意を向けよ、認識せよ ということ。それが難しいからこその言葉だと思うのですが  話は変わって「魂レベルでは人は全て同じ、同じ根源から生まれた、従って目に見える事象にたいしてもそれを前提にして対処せよ、振舞え」と言うことは、そもそも他者を認めていない(他者と認識していない)ということでしょうか 侮りと依存のなせる業なのでしょうか...

みんなの回答

noname#97825
noname#97825
回答No.3

敵も隣人も、どちらも愛せよ、とおっしゃっていますから、違いというよりも共通するものがあることを指し示しているのではないでしょうか。 それは、人間には神性・仏性というものがあり、自も他も神仏も、ここにおいて本質的には共通するものであるから、愛せよ、ということだと思えます。 ちなみに、釈尊の降魔成道の1シーンをある本で読んだことがあるのですが、大樹の下で座禅する釈尊を、魔王が包囲して迫ろうとしますが、釈尊から放射される慈愛光によって、どうしても近寄れないばかりか、その慈悲光を受け続ける内に、その暖かさに全員落涙して本来の人間心を取り戻した、というものでした。 一時的に悪人のようになっていても、魂自体に善性というものが備わっていて、愛により交流することは可能であることを表していると思います。 ただ、現実的にはケースバイケースで対処することが必要であり、愛ゆえに叱ることが必要である場合もありえますので、補足しておきたいと思います。

owlsjp
質問者

お礼

>慈悲と慈愛は 釈迦とイエスということで良いでしょう.  それぞれがその場所、その時代の人間に応じて、対処の仕方が違ったという意味です.

owlsjp
質問者

補足

>違いというよりも共通するものがあることを指し示しているのではないでしょうか。 ◇とりあえず、まずは認識して(後者)それから、何らかの対応をする(前者)という順番で良いでしょう. >大樹の下で座禅する釈尊を、魔王が包囲して迫ろうとしますが、釈尊から放射される慈愛光によって、どうしても近寄れない ◇神は、人に働きかけないでしょう。  いずれにしろ、釈迦は「慈悲」及び「慈悲光」で魔王らをどうこうしようと人為的に働きかけようとしていた訳ではないでしょう。 >一時的に悪人のようになっていても、魂自体に善性というものが備わっていて、愛により交流することは可能であることを表していると思います。 ◇一時的に善人のようになっていても、魂自体に悪性というものが備わっていて、愛により交流することは不可能であることもあるでしょう.  昔の悪は、今より対極化、二極化していないという意味で、まだ「素朴な悪」だったかも知れないですね.  慈悲と慈愛は 釈迦とイエスということで良いでしょう.

  • RingQ
  • ベストアンサー率19% (4/21)
回答No.2

最近あった「隣り人」という質問と補足に私はとても納得できました。キリスト教の神があるとすればその神から見て人の魂はドングリみたいに一様なので、ドングリ同士はどれとどれを取っても隣人だという認識になるんじゃないかなと勝手にイメージしてます。ドングリ同士が敵だろうが神様は頓着しませんという大上段にも思えます。しかしほかの神があるとすればその神にはまた別の考えがありそうです。

owlsjp
質問者

お礼

ドングリ同士が敵だろうが神様は頓着しませんという大上段にも思えます。  神 がいるかどうか解らないし、いたとしても神の気持ちは解らないし、解ったとしても今ここで人間として生きているわけだから、人間として対応するしかやりようがないわけで、人間として対応することを神も望んでいるだろうし.  しかし、神のような?大きな心を持った人なら「誰でも同じ」などと思うのかもしれないですね、生きている人で、そう思えるとしたら、よっぽど鈍感か、よっぽどの強者であるということでしょうか.  しかし、例えば死んでしまえばその神?にとっては身の危険もなくなり、地上の人間のことも他人事になるからそう思えるのかもしれないですね.

owlsjp
質問者

補足

 元は同じだと言われても、理屈ではそう考えることもできるが、実際の生活でそれは全くといっていいほど実感できず、そういった概念を前提として振舞うのも欺瞞のようにも感じるし、そもそも元は同じでないかもしれない。  日本人の祖がどこの誰であろうと、今は日本で、日本人と暮らしているわけだから、その祖の人種と仲良くするとかしないとかはあまり関係ないわけで.ドングリと言われても、人間の美醜や存在感や幸不幸や立場の違い等その他諸々、実際に天と地ほどの差があるというのが実感としてあり、ピンときません. >しかしほかの神があるとすればその神にはまた別の考えがありそうです。 例えば、 善神 と悪神 がいるとすれば、悪神は善神であり、善神は悪神であるわけです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

>>イエスが 汝の敵を愛せ と言ったのとは別に、汝の隣人を愛せよ と言ったのは、違いが在るからだと思うのですが、どう違うのでしょうか 現代でもイエスの時代も同じ意味なんですよ。言い方が違うのは相手によるだけですね。 当時でしたら、侵略者のローマ兵がいたるとことにいたわけですが、まあ隣人がローマ兵ですね。ローマ兵は敵だと思っている人には汝の敵を愛せ、隣人と思ってる人には汝の隣人を愛せといっただけですね。現代ではチェチェンとロシアの関係でしょうかね。日本は地面続きの国境をもっていませんからちょっとわかりづらいだけですね。あなたの住んでいるところに隣人・外国人はいても敵はいないでしょ。 ローマ兵は敵でしかないとユダヤ人は何度もクーデターを起こして、それに怒ったローマはユダヤ王国をパレスチナに改名したほどですから仲良くすることは大切なことですね。 >>そもそも他者を認めていない(他者と認識していない)ということでしょうか  いかに元が同じでもみんな個性を持って存在しているのですから当然認めているのですね。 イエスが個々を観てももとの共通の魂が見えるわけではないのですよ。 元は共通であることは知っているということだけですね。 長い転生で今の個性があるわけですが何世代か前の個々の個性が見えるのでしょうね。例えば、今あなたは日本人だと思っているでしょうがちょっと前はヨーロッパ人、インド人であったというのが見えるのですね。こんなのが見えれば人種や宗教や見かけでいがみ合うのは馬鹿らしくなるはずですね。イエスの時代であればローマ人とユダヤ人、エジプト人などいろんな人種がいたはずですが、皆数え切れない転生輪廻で同じような人種の経験があることがわかったのでしょうね。イエスにはそのように見えるから「愛せよ」といってるだけですね。転生輪廻の結果が今のあなたということを知れば難しいことじゃないんですよ。

owlsjp
質問者

お礼

1.2.3の補足とお礼のまとめ  見た瞬間に、相手の今生での生い立ちや、前世や過去生まで見えるとしたら、無理に思い込むでもなく、自然と赦せる、あるいは気にならなくなるものでしょうか.  究極は、何かを為そうとしたり、働きかけたりしないで、自らのうちに留まっていれば良い.そうすれば、それが自然と波動として周囲に伝わっていくでしょう.  慈悲や慈愛による行為にしても、自然と発せられるものであれば良いというわけですね.

owlsjp
質問者

補足

mmkyさんの観自在が本当だとして、しかし前世を観ることができるとすれば、それは在る程度の幻を見ていると言うことにもなります。完全に、真実のみを見ているとすれば、そういったものは見えないはずです。しかし、実際にそういったものが見えるとしたら、その相手も、過去はそれなりの幻、嘘偽りの中で生きていたと言うことの証明でしょう。でなければ、転生してくると言うことはないでしょう。 そういったものを見る人は、確かに見ているはずであり、疑いません。人は、来世が来ないような、存在を目指すべきでしょう。 仏教に六道輪廻があり、その中に「天上界」が在るのは、非常に興味深いですね。水が蒸発して、また雨となって落ちるがごとく、天上界に上がれば、また地獄もしくは人間界に堕ちるというわけです。 >あなたの住んでいるところに隣人・外国人はいても敵はいないでしょ。 ◇そうでしょうか、自分と行こうとする方向性、目指す世界と逆を行こうとする者は、敵 と言えそうです。実際に、妨害してくる(自然と、物理的にも障害となる)だろうから。  少なくとも、この世界を「勝ち負けのゲームを演じる場所だ」とか、「弱肉強食の世界だ」と規定し、それを実現し続け、強化し続ける人たちは、敵とも言えるでしょう。そういう人たちに、泣いて説教して聞かせても無駄です。「この世界はそんなんじゃないんだよ」と言えば、それこそ、そういった人たちの餌食です。「それならば」と言って、敗者、弱者とされ、「勝ちたい者」たちの意図思惑の奴隷とならざるを得ないでしょう。  しかし、それらは悪ではないのでしょう。  自分と同じ存在だと仮定し、みんなおんなじだから仲良くね」という、他者と世界への依存をしている、説教者にも非が在るのだから。  とにかく、今は釈迦のように説教して聞かせる時代ではないでしょう、「西暦」の中で生きていて、西洋文明の中で暮らしているのだから。はっきり言って、今の時代は釈迦よりもイエスのあり方が有意義であり有効でしょう。 >イエスにはそのように見えるから「愛せよ」といってるだけですね。  いえ、イエスが未来にも過去にも生きていなかったのであれば、見えていなかったはずです。

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