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縁起からでる意味と陰陽5行

こんばんはー。 ちょっと質問をー。 以下は、アウトラインとしてですが ぼくらは意味の世界に生きています。それはニヒリズムを考えれば確かだと思うのですが。つまり意味を失っては生きていけません。 物質は物質という意味があります、それは明確に「意識」の外部への投影だと思ってます。それらがただの電子雲だ、と思ってはいません。 で、その意味というものは、矛盾から発生している、のではないか、と思いました。 というより、意味=矛盾、そのものだと思います。 (もう少しベタな言い方だと、「え? なんで?」、という意味のわからなさ、意味わからへん! なんでなの? と思わず叫びたくなる、そういう経験が、まさに意味を作り出している、という) 意味は、矛盾から生まれて、そして、意味はその自己矛盾故に、必ず消えていく、と思うんです。 つまり、意味を、正しいものとして、ぼくが勘違いしている間だけ、意味は成立している、と思います。 意味は、業や、巡りやカルマ、などと言われるように、ネガティブなものと、必ずセットで成立しています。それは切っても切り離せない、というか、マイナスがあるからプラスがある、という意味です。 意味は、理解できなさ、矛盾を、把握して理解しようとした、まさにその瞬間発生する、と感じました。 それは、人の脳の把握能力による、「無」の分裂、と個人的に思っています。 意味が起こる仕組みそのものは、陰陽5行説が僕はかなり正しい、と感じました。 つまり何もないものが、陰陽2つに分裂する、ということですが。 具体的に、縁起によって、矛盾した意味が作成されるところの仕組みを、陰陽5行説は説明している、と思います。 つまり、現実問題、基本的概念は常にペアでしか存在できない、という事実と、あらゆる概念はこのたくさんあるペアの組み合わせによってできてる、というのは、たぶん・・だいたいは、正しいような気もしますが・・・ ちなみにこの概念の現実的に組み合わさり方は、数学の考え方である、複雑系の状態を取っている、と思っています。樹形図的なイメージです。 意味は矛盾そのもの、というのは、別に現世否定とかではありません。 純粋に、意味のメカニズムとしてお伺いします。 縁起などの言葉の意味は、言葉、概念としては少し知ってるつもりです。 縁起はこの世を空だといってます。つまり、意味は「意味がない」といってるとも解釈できます。この世の意味は本質的な意味がないからこその、空じゃないでしょうか? つまり意味のできる仕組みを解くことは、縁起を実感すること、と思ってます。 縁起、と言うような上から俯瞰した視線ではなく、 まさにこの世に、今ダイレクトに生きる人間の視点から、分析したいなーと思ってます。そうでないと実生活でこの概念は使えないなーと思うので。 上のように感じながらも、まだ色々実感するには分からないところがあります。 これが分からないんだ、ということができないのがもどかしいんですが。 理屈が日常生活にまで降りてきてくれない! 何か論理に欠けているところがあります。 イメージとしては、概念としての把握じゃなく、感情や衝動や、そういうものが、理由なく生まれるところかな?? 感情は、無が時間的に分裂した現れ。人格は空間的に分裂した現れだ、と今のところ把握してるのですが、どう思われますか? つまり、現世とは、時間と空間に分裂したものであり、その時空間の性質に沿って、感情と人格、という概念が表れてる、と思ってるんですが、今のところは。 いろんな精神病の事例を見ても、それはかなり当てはまっている、と感じるので。 それらは単に「ない」でも、まあいいのですが・・・ 多分それは、意味の矛盾を感じてるのは、ぼくだけではなく、だれでも70億人みんなそうなんだ、と言うところが実感としてないような気もします。 つまり普遍的な、意味の作成の仕組みが極めて抽象的故に、具体的な外的事柄に依存しない、だれにでも当てはまるメカニズムなんだ、というところかなと。 上の話をふまえて、加えることや、あるいは間違っている所など、あったらと思いました。 まとまりなくてごめんなさい、というかまとめられないので質問してるんですが・・ 自分でも色々勘違いしていることは間違いないんですが、客観的な意見が伺いたいです。仏教的のみの切り口に限らず、ちょっと視野を広げたいなーと。 よろしくお願いします。

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noname#91529
noname#91529
回答No.6

西洋哲学でも、sheep67さんのようなアプローチを取った方はいますよ。たとえば、シェリング。若かりしころの哲学は、sheep67さんのやりかたと似た形態で「自然の実体」に迫ろうとしてました。 でも結論から言うと行き着くところは、「フラグメント」の哲学です。断片哲学とでも言うべきでしょうか。あなぼこの哲学。体系的哲学の反対です。 (余談ですが、彼は面白いことにA=Bという図式も使ってます。私の「割り算」・「ザル」もこれをもじっているのですが) もちろん、意図的にアミの形態を取っているので、大きな魚がかかればそれはそれでいいと思います。(これほんと) よく言えば、ご神託・てんしの哲学(かっこいいのですが・・・) 悪く言えば、まさに「不毛」の禅坊主の哲学です。 でも「し」が、ネックなんですよね。そこでおわり。 このしゅ(主でも種でもいいですが)の哲学には(擬似体系的)背景が常にあります。確かに「あっている」・「あてはまっている」というのは、あります。シェリング自身も、当然か偶然か、「ネガティブな哲学」とよんでいます。シェリングの場合、背景は、(若いころに限定して一義的には)非体系的一神教です。この論の根拠は、「生命の究極は、直感的に把握しようとすると、否定的にしか理解(凝固・固定・圧縮・抽出)できない。」という「事実」・「人知」です。でも、もともとの目的は、「直感」なので、矛盾しているというわけです。いわゆる、芸術的苦悩です。sheep67さんの場合も、現実というコートをまとった「漠然とした神」とか「愛」とかが、ありそうです。それとも仏教的に「種」にする(なる)んでしょうか? 神・愛というものが存在しないとすると、どうするんですか? 一方、わたくしが作ろうとしているのは、戸棚。使う人がいれば、使える道具といえばよいのでしょうか?わかりやすさは、大事だと思ってますので。当然、のこ・かんな・やすりなど基本的道具は、ちゃんと使えないといけません。(わたしは哲学者ではないうえに、雄弁によっては、お金も稼いでませんが・・・)ある種の仕事・ルーチンです。 「哲学者が見ている」といったのもこういう訳です。経験的に言えることは、日本の哲学者は卑怯。禅坊主。自分の「かみたま」を信仰している人たち。sheep67さんやわたくしとは、おおむね、議論をしません。(これだけあおったらやるかな) ここでもほかのかたの意見がないでしょう。(くだらんことは自問自答するのにね) sheep67さんは、「これは、のみとハンマーで彫刻を作っている」というイメージでしょうか。「のみ」というツールが作り出す味はありますよね もちろん。 力があるし見た目はいいかも知れません。が、あくまで「芸術の為の芸術」ですよ。でも芸術にとって「人」は大事なんですよ。直感・現実は「sheep67さんにとって」大事なことなのです。

sheep67
質問者

お礼

お礼に入らなかったので、補足の方に書かしてもらいました。

sheep67
質問者

補足

シェリングさんですか、ばっちり覚えました。 >意図的にアミの形態を取っているので、大きな魚がかかれば これは・・僕どこかでこういう説明したでしょうか? 昨日お礼を書いたときに、まさにこの例えで僕の考え方を説明しようと思ったところです。文が長くなるので削除したのですが。「大きく網を張って、その網をだんだんすぼめることで魚を捕る」、と書こうとしたんです・・・。僕は、良くお城を外堀から囲んで、徐々に堀を埋めていって、次に内堀を埋めて、最後に本丸を落とす、という風な言い方です。 こんなに一致度が高いと、ますますそのシェリングさんの話に興味があります。 でも僕のやり方にはとにかく分析が足りないので、方法論として、哲学や仏教などを行う人の考え方を参考にして、自分のおおざっぱな考え方と、適宜組み合わせております。 哲学の緻密さを加えたいし、おおざっぱに網をかけるだけでは、多分魚は釣れない、という気が、経験上してます。もう少し正直に言うと、身内に哲学タイプの人がいるので、その人を参考にしてます。 >生命の究極は、直感的に把握しようとすると、否定的にしか理解(凝固・固定・圧縮・抽出)できない これ・・僕が言ったんじゃないですよね?? う~~気持ち悪いくらい似てますねー。読むのがいやになってきた・・と言うわけではないですが、自分と同じタイプは、その欠点もよく分かってしまうので。 >神・愛というものが存在しない これは、にやりです。話すと長いですよー!僕の今現在の定義では、神は関係性だ、と言っています。なので、神が「存在する」と言い切ると、それは一般的には間違いです。でも人には依存心があるので、目に見える形で現れて欲しい、という願望を込めて、神が存在する、と勇み足で言ってしまう人は多いです。 >日本の哲学者は卑怯。禅坊主 あーそういう意味でしたか。戸棚のような形のない抽象論を囲って現実に出てこない人のことをいってはるのかなと?  僕もでも抽象が大好きなので、似てます。持って生まれて抽象が好きだと、ついそちらに行きますし、そうなると、現実論にまでつなげるのは、本当に難しいですよ。抽象の肩を持たせてもらえば、不毛、はいい過ぎです。「数学なんてなんの役に立つねん?」と、僕も数学好きなのでそういう批判を聞きますが、頭の肥やしにはなるか・・。いやいや、500年後に役に立つかもしれません。でも即戦力でないことは事実です。 >あくまで「芸術の為の芸術」ですよ。でも芸術にとって「人」は大事なんですよ や、やはり、とても現実的です。おっしゃるとおりです。ある程度普段から自戒はしてるんですが、人に言ってもらったのは初めてでうれしいですねー。 僕自身抽象論が大好きで考えてますが、 もともと極めて具体的で身近な自分の悩みの解決のため、という目標があります。 そうなると、抽象が正しいことをいってるのは僕はよく分かるのですが、同時に、そこだけにとどまり、現実とリンクしていないまずさを、実生活で使おうと思うとびしびし感じます。 なので、抽象と具体を絶対つなげてやる、という大きい目標があります。 ↑宗教は、正しいけど使えない! という僕の実感がありまして、使える形に加工している最中、とも言えます。 普段そんなことを思っているので、「芸術にとって「人」は大事なんですよ」と言われると、これはありがたい! ひやかしじゃなく。 そこまでそちらには見えるんですねー。すごいです。 もっとも足りないと自分でも感じるところであり、うまくそこを補えたらいいと思ってます。 なので、「芸術の為の芸術」、というのは、ほんとにうまい例えです・・・。耳がいたいともいう・・ 基本的には抽象の海の中を泳いでますが、時々具体的な地面の上に出てきます。またその時はよろしくお願いします。

その他の回答 (6)

回答No.7

 投稿者の一番目 そのご返事から:  ☆sheep67⇒太陰大極図ー韓国の国旗の図はすごく心引かれるものがあって、縁起に、いわゆる、業?というか、意味の矛盾が加わるときの仕組み、みたいなのを、この図に感じました。これらの意味の矛盾、あるいは業は、人格単位で保存されるので、自覚ができない、生きる前提条件になってるので、気づけない。この世の仕組みそのものが、矛盾でできているので、それを否定はできない、という心理が働くのではと思ってます。自己肯定は、これらのこの世の仕組みは、自分とは無関係だ、と気づくことにあるのでは、と思うんですが。  ○krya1998⇒sheep67さん、この文章は、こうかな?と私の中でまさぐりして、内容化の構成をするのみで、本当は仰せになっているとは理解はしたとはいえないでしょう。  ☆sheep67⇒でも~~、kryaさんはものすごく陰陽について詳しいみたいですが、僕はネットでかじった程度で、知識としてはほとんど存じません。  ○krya1998⇒私も勉強や実践はしておりませんで、自分なりに理解しているだけです。  ☆sheep67⇒そうだ、回答を読んでいて、知らない専門用語に興味があるのですが、補足していただいていいでしょうか?  (“:”の後に私の文章を書きましたので、ご参考にして下さい。)  ・創造界のforce性  :用語ではないです。私は一定の精進に身をいれております。その教え、そして私の思いでは、この多様にして無限なるこの創造界は、唯一の存在(意識)がその観念と意志を発出してその中の内容たる、個々の意識が紡いでいる世界であると存じます。最初の根源意志が根源の当為でそれ以上の意味と価値を有さない原理、forceだということです。ですからこの創造界はその意識のforceで成り立っている、というものです。  ・飛ぶ矢的なあり方性  :そういう世界の中のあらゆるものは、その根源意識(を終極価値とする、前方を陽、後方を陰とする、エネルギー存在で、つまり当為命題で飛んでいる矢である。そこに存在するとともに、飛んでいるからこそ存在し、そこに存在としては止まっていない。)を最高価値とする理念としての有り方である。  ・オウム  :究極者が発する最初の意志、当為、力が、オウムというvibrationである。バイブルのアーメンである。ガンガに象徴される、ヒマラヤから大海に流れ入る精霊。三位一体ですが。  ・フム  :それをチベット仏教ではこのようにいう。  ・オン  :真言密教が意識しているかどうか、知らないがオン○○、ターターギャータと続く真言です。アーメンです。  ・意味を越える意味  :意味が意味であれば、いつまでも相対と相関の中の意味づけ認識でしょう。それは止め処なく、取り留めなく続くだけでしょう。意味を超えた理念、終局の、そして説明のない意味が前提でないものは、意味を持ちませんでしょう。それに関連しないような存在は、これを無意味というのでしょう。  ・この世の仕組みを理解:  理解には常に意味が付きまとっているでしょう。机一つ例にしても、その目的と意味を説明しないで何の説明にもなりませんね。  ・磁力:全ての存在は当為である。全て当為は前後に磁力を以って存在している。陰陽といってもいいのですが、その場合の陰陽は、何もない玄黄なる天地にを太極にして、その中に内在していた陰陽の力、磁力を想念しています。陰陽の異なる側面はここでは指し示めしておりません。  ・意味と無意味  :上記の説明でご理解いただけると存じます。  ・この世は、僕本体とは別物だ、ということの実感がまだ無い、というくらいの大まかな捉え方です。  :そうなんですか。全てが私であり、私とは全てだ。つまり私とは存在してはいない、と私は思っていますが。一なる全てが、三位一体の一つである唯一の息子が存在しているのみだと存じております。私の場合は。  他人(ひと)のことをいえないのが、人ですね。  傾向や側面の異なる、私の文章を読み進むのは多分相当のご苦労であろうと存じます。  でもこうしてお相手いただいた事に心より感謝申し上げます。  どうぞまた、どこかでお会いできますように。

sheep67
質問者

お礼

回答をいただいた方みなさん、大変ありがとうございました。 勇気出して質問してみたのですが、やってみるもんです、とても有意義なやりとりができて、本当によかったです。

sheep67
質問者

補足

こんばんは! まずはこれですが >創造界のforce性 意味が分かりました。なるほどです。 >飛ぶ矢的なあり方性 これもよく分かりました。前方を陽、後方を陰、というのはとてもすぐれた例えですねー。 昔「人間というのは、回っているこまみたいなもので、高速で回転しているのに、とても静かで落ち着いている」と例えた人がいるのですが、同じニュアンスを感じます。 >オウム、フム、オン 細かい知識がないのですが、創造界を、最初に時間的にも空間的も作り出す、まさにその最初の出来事、と捉えます。 陰陽のエネルギーの元がforce,でしょうか? >説明のない意味が前提でないものは、意味を持ちませんでしょう ほんまですねー。僕は、理屈はともかく実感としては、まだこれは半信半疑で、本当に今、説明のない意味が前提にないものを、意味がある、と思いこんでいるので、その固定観念をほどいていっています。 >磁力 これは・・太極のことかしら? と思ったのですが・・。あるいは、太極を、力としてみたときの把握、のようなもの? >全てが私であり、私とは全てだ。つまり私とは存在してはいない、と私は思っていますが 下の sanagiさんへのお礼でも書いたのですが、視点の違いによって、同じ単語に託する意味が正反対になってしまう、という事例があります。多分、これはこのことかなと思いました。 kryaさんの言われる、この語句は意味は分かります、ただ、僕はこの言葉まだ実感を持てません。 それこそ、真の意味と、意味のない意味を、混同している最中です。 なのでこの語句を実感として感じるゴールに至る道中での方法として、 お書きになっている「説明のない意味が前提でないものは、意味を持ちません」を実感する=この世が仮の姿である実感を持つ それによって、本質の意味と、仮の意味とを分離して、「意味を越えた意味」のみが、真の意味だ、という実感を得たいと思っています。 そこまで認識が深まれば、この「真の意味」こそがすべてであり自分そのものである、と実感できるようになるかな? と想像ですが。 でもこんなことをずらずら書いてしまうと、なんか実現が難しいような気がしてきました。いうのは簡単でやるのは難しいです。実際、大変難しく悩みまくっています。 >傾向や側面の異なる、私の文章を読み進むのは多分相当のご苦労であろうと存じます 2つの違う分野の折衷、というかまとめる、というのがメインの課題なので、哲学のかたとも良く話させてもらってます。 こちらに投稿しだしたころは、いわれるとおりさっぱりわかりませんでしたが、もうずいぶん慣れました。 kryaさんの文章を読ませていただくと、そういう折衷というか、統合というか、あまり枠組みにこだわらない、柔軟でオリジナルなスタンスがあって、そこから得るものも多くて楽しいです。 本当に、こちらこそ、読みずらい文章だったと思うのですが、色々考えていただき、本当にお世話になりました。 とても参考になりました。 また機会があったら、意見を聞かせてください。 話をしていただければ、とてもうれしいです。 ありがとうございましたー。

noname#100496
noname#100496
回答No.5

この地球は仮の、虚像の、影の、シュミレーションの世界です。だから空、無なのです。そして陰陽原理で出来ています。宇宙の太極から、陰が現れて、次に陽が現れて、打ち消しあって、中和して、プラス、マイナスゼロになり、空になり、元の宇宙の太極に帰って行きます。同じ事が中国の老子に書いてあります。陰と陽がぶつかると、宇宙の太極の癒しのパワーが発生します。日本人は無意識にこれを応用しています。だから中庸、中間、曖昧を好みます。例えば和食は、淡泊ですが、これは甘い、辛いの中間の味です。間の原理ともいいます。だからこの世界すべてが、陰陽半分半分です。人も男半分、女半分、またこの世界は、調和世界と不調和世界がぶつかる世界なので、善半分、悪半分、調和半分、不調和半分です。だから輪廻転生のカルマも、良い事半分、悪い事半分で、それ以上の意味はありません。だから文明や人は、栄えたり滅んだりを、くりかえします。世の中陰と陽がぶつかると、宇宙の太極の癒しのパワーが発生します。この事が中国の老子に書いてあります。社会生活に応用されてます。人の男と女、心の自我と無我、電気のプラスマイナス、化学の酸とアルカリ、天気の晴れと雨、運命の吉と凶、経済の景気と不景気、地球の昼と夜、輪廻転生のあの世とこの世、夫婦の勝ち気と内気、漫才のボケとツッコミ、お金の金持ちと貧乏、身体の健康と病気、音楽の高音と低音、リズムの速いと遅い、言葉の母音と子音、絵画の具象と抽象、能の動と静、墨絵の画像と余白

sheep67
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 説明よくわかります。下のsanagiさんが言われるところの「詩的」な意味としてよくわかります。 文章全体としてなるほど、と思ったので、それ以上ないのですが、 文体の力といいますか、ビッチり書かれた文章にこもる信念みたいなのが伝わって、説得力がありますね。 >世の中陰と陽がぶつかると、宇宙の太極の癒しのパワー 喧嘩した後ほど仲良くなるとか、雨降って地固まるとか、なんにせよ正反対のものは、お互い相手が自分にないものを持っているので、仲良くなるとレベルが上がりますね。 参考になります。ありがとうございました。

回答No.4

 投稿者の一番目 そのご返事から:  ☆sheep67⇒太陰大極図ー韓国の国旗の図はすごく心引かれるものがあって、 縁起に、いわゆる、業?というか、意味の矛盾が加わるときの仕組み、みたいなのを、この図に感じました。  ○krya1998⇒非常に個性的にご思索されておられるのでしょう。  矛盾ということばの意味がここでは独特につかわれていますようで、それを受け取れないと、仰せの意味の理解が切断されてしまいますね。  この≪縁起に、いわゆる、業?というか、意味の矛盾が加わるときの仕組み≫ということの文意が理解できないで、ここから先を一生懸命歩いたみましたが、もう地面も空もわからなく為りました。  でもこの辺りが、質問者の思いの中核なのでしょうね。  午後もう一度、読解のチャレンジをしてみます。

noname#91529
noname#91529
回答No.3

文学者の書いた哲学っぽい文章。その全体の文章が、エッセイなので論理的に推敲することは、なかなかできません。できたとしても、詩的な「意味」でココをこう「書く」ことで読みやすい文章になるよ、とかの次元です。 でも、楽しむということはいいことですよ。 詩に「評論を加えること」はできても、議論を議論として論証する力は、ありませんよね。そこが問題です。Sheep67さんのいう「意味」は、文学的・私的「意味」であって、哲学的意味論上の「意味」ではないのです。 意味と矛盾の関係をくりかえしますと 意味は矛盾( ID-No.1)から発生している 意味は、矛盾( ID-No.1) から生まれて、自己矛盾( ID-No.2)が原因で(どこかへ)必ず消えていく。 意味のもつ正しさ・その安定性は、Sheep67さんの勘違いと密な関係性(規定性)を持つ。というより、Sheep67の勘違い(「勘違いし続けているということ」)が、成立の直接的要因、もしくは、すくなくとも条件である。 いずれにしても、意味は、ネガティブなものと「セットになって」成立しています。 ということですよね・・・ 推理小説みたいですよ! では、このセットになっている「意味」が、矛盾自体であると仮定するとIDは何番になるのでしょう? 議論の根幹となる部分ですが・・・ 要するにSheep67さんは、ネガティブなものの中心であります。Sheep67の詩的な「意味」は、Sheep67の業・巡り・迷い・カルマとは、切り離せないものであって、その意味の中心が、ひょんなことから矛盾の中から生まれきたのであっても、いずれ、また、(どこかへ)「さって」いくのでしょう。 それはそれ・・あなたの一部ですから。 意図的に「どこへ」とか「いつ」とかを書かないのも し てきです。 一方、陰陽五行に「ネガティブ」なモノは、存在しません。加えて意味と矛盾が、ついになっているというわけでもない。 でも、わたくしの意見では、「意味は存在し続ける」んですよね。残念ながら。 全ては矛盾である。 意味は、「全てのもの」の代表的ひとつである。 ゆえに意味は、矛盾である。 これは意味がないでしょう? 全ては心理学である。 意味は、全てのものの代表的ひとつである。 ゆえに意味は、心理学である。 そこに「かみたま」・「哲学」をいれてもいいですよ・・・ わたくしがいいたいことは、 「む」は「む」。分裂しません。ということ。 Sheep67さんの表現の場合 思っている・感じているというのが、「意味の規定」自体なのです。それ以外ない。 この2つのプロセスがなければ、何もない。矛盾です。「無」です。Sheep67さんのおっしゃる矛盾は、「なにげな」オブジェクトのない思考・感覚的受容(感じるということ)。 思考対象・受容対象のない退屈な自己矛盾の状態です。「なにげな」という表現は、とりあえず「ベタの言い方」を受け入れるという「思考noザル」を意識的にこう表現してみたのであって、矛盾をし的な「意味が通用しない世界での出来事」と言い換えてみてくださいというのは、こういう趣旨です。考えてみてください。  更に、意味は、矛盾( ID-No.1)そのものであるというのも根拠はありませんよ。詩としては、耽美的なのでしょうか? 縁起はプロセス理論。空というのは空仮中の空であって、決して、「意味は、それ自体意味がない」とは、主張していませんよ。 まず、第一に「意味」と「意味がある」は、分離すべきでしょう。 意味は、 し を超えたところにありますYO。 (現状、これ以上は、議論しても不毛ですから、ふでをやすめます)

sheep67
質問者

お礼

この種の定義の混乱がなぜ起きるのか? というのも僕の考えの重要なポイントなのです。 その混乱には、明確に理由がありますし、まさにこの質問に含まれる問題ですし、最終的には、縁起、にとどめを刺すとは思うのですが。 感情を推し量る、俳優が演技をする、小説を読んで感動する、相手の気持ちに立つことなどが可能なのは、一見主観的で脈絡もない感情や感覚もある種の論理に基づいて成り立っているからこそ、赤の他人がその気持ちを想像することができる、と思うのですが。 そこには分析的ではない、別の論理があります。何の筋もなければ、人間は他者の感情を理解などできませんし。だからこそ詩を読んで感じて理解でき、可能ですし。それは、筋、と普通に言われるところの「ある種の論理」だと思います。探偵は分析はしませんが、論理的です。 これらは明快な論理ではあるのですが、分析的ではありません。なので、本質的に分析に適した言語に載せるのが難しいのは事実です。 以前こちらで質問しています。   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1985415.html?check_ok=1 といっても、僕もまだまだ人に表現できるほど把握はしていません。それができてたら、そもそもこちらで質問することもないでしょうし~。 なので、意味が矛盾だ、といったことで、もしかして少し傷つけてしまったかもしれません。勘違いでなければ。 sanagiさんが思われてるところの意味が=矛盾だ、といったのではないのです。ご容赦ください。 sanagiさんが言われるところの意味 はもちろん、それは無でありすべてであるところのもので、それは言われるとおりです。 他の用語ー上に書いている、「矛盾」や、「無」についても同列であって、最も本質のものではなく、2次的3次的な意味、 というよりも、僕らが普通に日常生活で使う使用する単語の意味、というスタンスで使っていますので、市井の人の使用例に習っていますし、僕も考えを、こちらの日常的な意味を基礎に、本質に届く方向でくみ上げています。 このスタンスの違いを了解願いたいです。すみませんでした。 本当にわざわざお返事いただき、ありがとうございました

sheep67
質問者

補足

文学や詩は論理的ではない、というのは違うと思っています。 感性に論理がない、というのは固定観念だなーと思います。 それは、分析的論理とは逆の総合的論理だ、と僕はいってます。 ただ、それは分析的ではない、ということで大きく定義できる論理だ、と思っています。 感性に任せて書きながらも、その論理は自覚しています。 >推理小説みたいですよ ビンゴですね。その通りです。みたいではなく、探偵の推理と、同じ論理です。名前は付けかねています。帰納的? あるいは総合的、それは,いわゆる普通の意味の論理がなぜ出来上がっているのか?に関係するものだろうと思います。まさにこの質問の中身そのものですし、意味のメカニズムだろうと思ってます。 同じ次元で、文学者が書いた哲学的文章、とはうまい言い方です。もちろん僕は哲学をしてるというわけではありません。哲学的意味論とお書きですが、そういう範疇で言ってるつもりがそもそもないのです。 僕の基本スタンスは、考える対象は、現実、です。もちろん感情が実在する、というのも含めてです。なのでどうしても哲学の範囲を出ます。心理学、宗教、科学、など、ひとつの分野に縛られるのもいやです。広く浅くになりがちです。 >「どこへ」とか「いつ」とかを書かないのも し てき これは、難しい話になるかもと思いますが、決して意図的ではなく、僕にとっては自然です。詩的というよりは。その違いは、人格の構成ー人格成立の前提条件が違うから、と僕は把握しています。 >わたくしがいいたいことは、「む」は「む」。分裂しません 無が語るとも思えないので、僕からみると、今これを書いておられるanagiさんは分裂しているように観察できます。 でも同時に、sanagiさんの本質は決して分裂することがない、と僕はいいたかったのですが、これらの説明は長くなるのではしょろう、と思って質問したのがまずかったです。手抜きしてしまいました。用語の使い方を勝手に求めたところがありますし、少し考えて見ます。 なので、無は無であり、分裂しません、というのは、ぼくも全くそう思うのです。 これらの用語の違いは、その用語を生み出す僕らの人格、その人格を基礎で支える直感の違いに由来します。くしくも直感の仕組みは、まさにこの質問文そのものですが。 これらの用語は、意味の階層の中で、どの層に視点を置くかによって、その主張するものが正反対になったりします。 無は分裂しませんが、この世にいる僕らから見ると、分裂したように「見える」。この世の視点から言うならば、それは「分裂している」という表現で問題ない、と思います。問題はないですが、あらかじめ言うべきかもしれません。今回明瞭にこの問題がなったので、次回からはすぐに気づけるでしょう。 それはお書きの通り、「意味」と「意味がある」は、分離すべき、と書かれているまさにそのことです。もちろん僕の中では分けて考えています。それは、どちらも、「意味」、と書くことができます。でも、同じ「意味」、という言葉が、視点の置き方で、正反対の内容を持つことは、わかってもらえると思います。 僕が考えるのは、意味と、意味がある、を分けなければならない状況がどうして生まれるのか? という表現もできます。 意味は相対的ですから、自分の認識のポイントによって、中身が変わるのだろう、という想像してますが、もっと厳密に捉えられると考えています。 sanagiさんが言われる「意味」は、より本質的な、もともとあり、永遠にあり続けるほうの「意味」ですよね? >「なにげな」オブジェクトのない思考・感覚的受容(感じるということ)。 受容ーー受動的、といっていいと思いますが、受動と能動は、セット、ペアになって存在している、といったらわかってもらえるでしょうか? 受動的であるはずの感情は、回りまわって、主体的である自我に影響を与え変化させます。受動は人格の半分を支えていますし、これがないと人は成り立たないにもかかわらず、哲学で扱われるのを見たことがありません。それはあまりに片手落ちだと思ってます。 >矛盾を詩的な「意味が通用しない世界での出来事」と言い換えてみてください これは、読み違えてました。失礼しました。意味はわかりました。やはりここでも、2人の視点、用語が正反対なのことが明確に出ています。 僕自身は、「この世の仕組み」をまず解決することを最優先にしてます。感情の仕組み、自己の仕組み、その2つの組み合わさり方、などです。 sanagiさんは、無は決して分裂しない、といわれることから推測して、この世ならざる部分にある無、そのものの性質の把握に向かっている、と思いました。 その視点の違いが、たぶん用語の使い方の違いじゃないでしょうか?

noname#91529
noname#91529
回答No.2

>意味=矛盾、そのものだと思います。 矛盾/意味 という2つの言葉が厳密には「対を成していない」というのが論点を不明確にしています。 わたくしの意見からするとこれは詭弁です。 世の中は、矛盾でいっぱい。世の中は、矛盾ということがいえます。 矛盾は、言葉では言い表せないのですけれども、でも実際には、「なにげに」言い表せているでしょう? 私は、死というものを経験したことがあります。と主張するのと同じです。 主張はできますが意味がありません。 ご意見に沿って説明するとすると、これも(こういう結果になるというのも)人生。矛盾に満ちているのです。人間、人生は意味がなければ やっていけませんよね…とかなんとか まずは、矛盾を「意味が通用しない世界での出来事」と読み替えてみる必要があるのではないでしょうか? 矛盾÷心=意味 哲学者は、この結びつき方を人それぞれ自分なりに見ているのです。

sheep67
質問者

補足

こんばんは!ご回答ありがとうございます。 まず >2つの言葉が厳密には「対を成していない」 対をなす、というより、同じものの2つの側面に過ぎないのではないか? という意味合いの質問でした。 >「なにげに」言い表せている もちろんそうですが、それでは議論の俎上に載らないのではないでしょうか? 僕はダイレクトにつかみに行きたい、という希望があります。 >死というものを経験したことがあります、が意味がない どうしてでしょうか? それなりの意味はある、と思います。 それは、論理的に検証できないから、意味がない、という判断は、気持ちは分かりますが、それはそういう一つの目安に過ぎないのでは? >矛盾を「意味が通用しない世界での出来事」 これは言葉の定義の問題になりますねー。定義付けの議論は確かにいると思いますが、この一文は、sanagiさんの主張と言うことになりますよね? つまり、言葉を入れ替えて、「矛盾に満ちた世界での出来事」が意味だ、とも言えます。 あと、僕の意見を言わせていただくと、それは、矛盾は「意味が通用する世界での出来事」です。定義について、誤解、あるいは、解釈の違いがありますね。 >矛盾÷心=意味 上に書いたように、用語の定義も要りますが、こんな式が成り立つかな~~、とちょっと考えてます。何となく言わんとすることが解らないではない、という感じです。 意味、とは、意識が心を捉えるときの、味わい、とも解釈できます。 それで「意味」です。その味わい、とは、まさに矛盾のおもしろさやほろ苦さやそういうものでは、と想像するのです。ばっちり論的に語るほどまだ整理できていませんので、ここで質問してるのですが。 もともと、即非の論理や、仏教の縁起、西田幾太郞さんの話を参考にしてます。哲学と関係なくはないと思います。詭弁のつもりはもちろんありませんし、 縁起をこの世に当てはめたときの解釈として、こういう解釈はどうですか、という質問なので、詭弁と言われても、特に言う言葉がないです。 質問文冒頭の、縁起という言葉に、sanagiさんが全然触れられないのも気になります。これが質問の重要ポイントなのですが。 >結びつき方を人それぞれ自分なりに それぞれ自分なりなんですか・・? 議論しないんですか??? ん~~、なんでですか? やりませんか? 解明できるとおもしろいですよ。 済みません、回答文読んでると、疑問がてんこ盛りになりましたので、こんな文になってしまいました。 あるいは僕の推測ですが、sanagiさんは、あまりになにもかも論理的にやってしまうのを、嫌がっておられるように感じました。誤解でしょうか? もしそうで、もう少しおおざっぱな把握が好み、というのであれば、それは良く理解できます。認識には、人の直観に基づいた、様々な階層がある、と思っていますし、それぞれが存在意義があると思います。 また良ければお返事ください。

回答No.1

 この創造界のforce性、そして飛ぶ矢的な有り方性、それと陰陽の関わりをご思索したかのように拝読しました。  太極と陰陽のことについては少し、ご説明が不足しているかのように感じました。  宇宙の最初のvibration、オウムやアーメン、さらにはフム、オン(字がでません)との関連をつけてくれると、いいかと存じました。  意味と無意味とはもう少しご説明が欲しいと存じました。  意味を超える意味は考察の必要がないのでしょうか?  磁力性、陰陽などのご考察は、一面参考にはなりますが。

sheep67
質問者

補足

お返事ありがとうございます。うれしいです。 太陰大極図ー韓国の国旗の図はすごく心引かれるものがあって、 縁起に、いわゆる、業?というか、意味の矛盾が加わるときの仕組み、みたいなのを、この図に感じました。 これらの意味の矛盾、あるいは業は、人格単位で保存されるので、自覚ができない、生きる前提条件になってるので、気づけない。 この世の仕組みそのものが、矛盾でできているので、それを否定はできない、という心理が働くのではと思ってます。 自己肯定は、これらのこの世の仕組みは、自分とは無関係だ、と気づくことにあるのでは、と思うんですが。 でも~~、kryaさんはものすごく陰陽について詳しいみたいですが、僕はネットでかじった程度で、知識としてはほとんど存じません。 あまり既成概念を頭に入れたくない、というのもあるんですが、 でも回答を伺うと、すこし興味もわきます。 一人で徹底的に考えるべきか、他人の意見を徹底的に取り入れるべきか~~人の話に弱い僕には両立が難しいので、困ってます。 そうだ、回答を読んでいて、知らない専門用語に興味があるのですが、補足していただいていいでしょうか? 簡単に説明しずらいので飛ばされたとは思うので、概略でいいんですが。 ・創造界のforce性 ・飛ぶ矢的なあり方性 ・フム、オン  この辺りは初耳なのです。 オウムーヨガにもすごく強い興味があります。というか考えてると、ばらばらのものではなく、陰陽も、仏教もヨガも、全部関連があることは、仕組みとしてぼんやり分かってきたので、でもあまり間口広げないで、こつこつやります。 意味を越える意味ーーー「あの世」の仕組みか、あるいは、上位存在の概念、みたいなのでしょうか? 僕は、まず、この世の仕組みを理解しきることを念頭に置いております。この世の仕組みを理解すれば、この世を客観視できますし、そうなれば、次の段階として、意味を越える意味?のようなものに自然と興味は移動するのではないかな? などと青写真ですが。 今ダイレクトに、この世成らざるものに手を出してはいません。 死後の世界がどんなのか位はちょこっと考えてますが、想像の段階ですし。 磁力~~地球の磁場の話でしょうか? これも今は考えたことが無くて、陰陽は激しく興味があります。 kryaさんがおすすめなので、念頭に置きたいです。 意味と無意味の説明~~よく分かっていないので書けるだけ書いてみると、 意味~~筋が通っていること。整合性、納得、理解ができること、と捉えてます。 無意味~~質問に書いたように、矛盾を感じること、理解できないこと、誤解していること、かなと思います。 意味や、筋、整合性が、人格の次元をまたいで成立しているとき、一見、それは、愛が感じられない、ナンセンスだ、無意味だ、存在意義がない、と判断されると思います。 深い視点から見れば筋が通ってても、浅い認識では、その浅い人格の捉える範囲内では、矛盾は矛盾としか認識できない、と思います。 哲学で言うところの、止揚、昇華、などは、直接論理で捉えても、難しいと思います。 筋が通る、の筋とは、個人的には、愛が具体的な世界に言動として表れる、そのルートのことだ、と思います。意味があるとは、愛を持って行動している、と言うふうに思ってます。 人間は、その人が愛を持って動いているか、常に無意識でチェックしている、と感じます。 無意味や矛盾は、その愛が取るルートが、矛盾によるねじれで防がれていて、人格に現れてない、感じられない、 同時に、その無意味や矛盾の存在に、存在意義を感じてしまってるーー自分とは無関係のものだと思い切れていない。 この世は、僕本体とは別物だ、ということの実感がまだ無い、というくらいの大まかな捉え方です。 こんな所でしょうか?回答冒頭の肝心かなめなところが意味が分からなくて・・・どうでもいいことを書いて長文になりました。済みません。

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