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天使とは?――《はじめにことばがあった》
- 天使とは純粋思想であり純粋なる内なることばのことを言うか?
- 天使は堕落しうる存在であり、ヨハネによる福音書によれば、光と闇の対比に位置づけられる。
- 天使の存在は神のことばやロゴスの階層においても説明され、人間の言葉化や思考にも関連している。
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こんばんは、ヒドッチでございます。 前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。 まず、天使の例を以下に列記してございます。 [大天使ガブリエルの例] ダニエル書 8章15から17節 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 [大天使ミカエルの例] ダニエル書 10章12から15節 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。 同 10章21節 しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。 (α) 神としてのことば (α’) 天使としてのことば しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。 イザヤ 14章12から15節 ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。 何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。
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- JidousyaGaisya
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クライアントPCのユーザーがサーバの挙動の把握を経験し得る可能性は存在していません。 例えば、「此のサイトへの入力の際に、サーバの遠隔操作を為さっているのだろう。」 と若しかして誤解なさっているのではないですか? あくまでも、クライアントPCの側での読み書きは、ブラウザーソフトウェア上だけでの出来事でして、画面更新の際にクライアントとサーバとの間で行なわれる通信は、ユーザーの経験に「全く」関わっていません。 そこで確認の為に伺いますが、何故に無関係なのかを既に理解出来ていますよね。 因みに、最近の日本では、多くの小学生達が是を理解しています。
お礼
分かりません。小学生以下です。 もしどうしても コンピュータの理解から始めて 神ないし天使の問題とからめるという順序を取るというのでしたら それは ご自分でそういう質問を立てて情報交換をなすったらよい。 順序が このわたしの質問では 逆です。
- JidousyaGaisya
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ターミネータとかマトリックスとかの映画で極端乍らも描かれています通りに、電力供給とか接続関連のメンテナンスとか利用料金の回収とかが必要になっている事情を除きますと、ネットワークの現状維持には、最早、人間の存在が要求されていません。 つまり、既に【人間が関与する低俗な領域】を、 「通信ネットワーク」は超越しつつあるのです。
お礼
その超越と 非経験の領域とは 別だと 口を酸っぱくしてお伝えしつづけています。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
例よって、質問者が教えようとなさる、という本末転倒が起きつつありますが、私の側での説明の不足が多過ぎるからなのかも知れませんから、追加の補足説明を致します。 そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。 但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、 サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、 其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。 そして、プロトコルの裏をかく「ポイスニング」の犯罪の存在が、 是迄にも報告され続けてきていますので、そういう意味では、 堕落の恐れもが潜んでいる、と言えます。 確かに、プロトコルはあくまでも「規格」に留まっていまして、繋がりの仕組みを保たたせるだけですが、ネットワークへの参加の為の開発の基準を、【OSI参照モデル】のプロトコルが開発者達に教え諭しているのかも知れません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB
お礼
★ 質問者が教えようとなさる ☆ これは 誤解です。これまでにそういう振る舞いがあったとしても それは 互いに問い求めの同じ出発点に立ちたいというための質問者としての務めです。務めとしておこなっているものです。 しかも 今回は 単に質問の焦点はどこにあるか。これを明らかにしたまでです。とうぜんだと考えます。 このところ じどうしゃがいしゃさんからの投稿は この問いで問い求めるところとは 筋がずれています。そのように指摘したまでです。 ★ そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。 ☆ これはあまりにも 不用意な発言ないし考え方です。《神》を出すのに こんな漠然とした持ち出し方はないと思います。定義の問題としてはです。そうでなければ 雑談のたぐいになります。 あるいはひょっとして ネットワークのことに詳しくないからそのわたしが 汲み取れないだけかと思い直すなら それでもまづはしっかりとした初めからの定義のもとにひととおりの仮説を述べるのでないと それは通りすがりに顧慮されるに終わっても仕方がない問題提起だと考えます。 おそらくこの判断に大きな間違いはないでしょう。そこのところをしっかりと受けとめさらに 持論を展開していただくよう願います。 ☆☆(No.80お礼欄) ~~~ (あ) 神は非経験です。 (い) おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。 (う) 神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この(あ)と(い)とのふたつの側面が 同時に言えるというのが 神の存在=(あ)であり それに伴なわれる属性=(い)です。 たとえばこの命題と絡み合わせて 論じるのでなければ 筋が違っていると見えてしまいます。 次に 例証します。 ★ ~~~~ 但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、 サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、 其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。 ~~~~~~ ☆ この場合の《経験に先立って存在している》というのは その形相つまりアイディアとして人間の頭の中にはもともとあったのだということを意味しているはずです。 神は それらすべての経験事象を超えている。と同時に それら経験事象のいづれに対しても 遍在しているという捉え方もされ得る。こういう見方を 提出しています。 この見方に絡めて 説明して欲しいという要望を出すと 質問者が教えることになりましょうか。
補足
そろそろ閉めようと思っています。
- JidousyaGaisya
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プロトコルへの認識が経験され「得ない」様に作られているからこそ、 其の仕組みの喩えが妥当なのだろう、と言えます。 そもそも、辿られるべき経路は、ユーザー側で認識されない処か、 中継のノードによっても認識され得ず、隣接部位だけが分かる様に留められています。 余りにも理解が杜撰過ぎます。
お礼
あまりにも神を無みしすぎます。 ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか? もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。 おしえてください。
- JidousyaGaisya
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#75の続きです。 先ず、若し神をネットワークの外部へ配置するのでしたら、 ネットワークは破綻します。 そして、たとえ「サーバとユーザーのクライアント群との連絡を取り持つ【プロトコル】は神なのだ」と見做しましても、別の大きな問題の存在が直ぐに明らかになります。 つまり、プロトコルは文字通りの約束事に留まっていまして、閃きの提供を期待させてはくれないのです。 (※各プロトコルに準拠した製品を拵えませんと、他社製のサーバとの通信を致せませんから、企業が自社の製品の売れ行きを伸ばす為に、OSI参照モデルのプロトコルに準拠させて、PC関連の製品群が開発されています。) 従いまして、現時点では、勇み足の状態に過ぎないのかも知れません。
お礼
★ 外部 ☆ というのは どこまで言っても 経験世界におけるどこかの場所です。神は非経験です。 おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。 神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。 もし仮りに 神を経験世界における何のもかにでも決めるのでしたら そのような仮説なり理論なりをまづ提出してからの話になります。 コンピュータやインタネットの世界で 神のことをめぐって話をするのはあくまで たとえ話としてです。 それをもくつがえすというのでしたら それなりの見方を出して話をすすめてください。 同じことの指摘は もう飽きました。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
サーバから率先してクライアント側へのアクセスを試みさせて貰えない、 という事情を皮肉った冗談プロトコルもが策定されています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/Hyper_Text_Coffee_Pot_Control_Protocol http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E9%A1%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8BIP
お礼
ありがとうございます。
- littlekids
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初めに有りし約束事は何なのでしょう。
お礼
りとるきっづさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 うん? ★ 初めに有りし約束事 ☆ ? いやいや そんなものありませんよ。あるって誰が言ったんですか? あぁ それとも モーセのときの十戒やらその前のアブラハムとの契約の話ですか? それなら アブラハムの《約束事》が先ですから それについて述べますが でもずいぶん何度か書いたはずなんですが。 でもそれは オモテに現われたこととしては 《父祖の地を去って 行け》という声を聞いたということです。75歳だったそうで けれどもどこかはっきりした土地を示されたのではなく 分からないままとにかく去れという声に従ったという話です。ここから 《信じる》という行為が――おそらく人類にとって歴史的に明確なかたちでは初めて――始まりました。 この信仰の中身を たとえばむさぼるなかれといったように戒めとして モーセのときに言葉として表わされたという歴史がつづきます。 さらにそのあと歴史を経て イエスという男は 自分はこれらモーセやアブラハムより前にいたのだと言い出しました。その信仰の動態が 一人ひとり《わたし》の生きることにおいて実現したよとも言いました。 イエスの前には そのような実現は無理でした。むさぼるなかれなどの戒めを生涯きちんと守ることのできる人間はいなかったからです。 パウロは これを説明して その存在じたいが完全になったのではないが その信仰の動態をあゆむその過程は たとえ脱線したとしてもただちに復帰できるかたちにおいて〔過程をあゆむこと自体としては〕すでに完全であると言いました。つまり イエスの十字架上のはりつけとその後の復活〔のうわさ〕によってそれは実現したと宣言しました。 ★ 初めに有りし約束事 ☆ というのでしたら そういう話になると思いますが 果たしてお応えできましたでしょうか。 * 初めにあったのは 《ことば》です。それと《わたし》との関係が・つまり約束事が アブラハムの時に起きたという物語です。
- JidousyaGaisya
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厳密な訳語に気付きました。 「初めに言葉成りませり。」 という表現こそが原義に近似しているのかも知れません。 つまり、【高天の原に成りませる神】と同じ見方です。
お礼
《成る》というのも 経験事象に とうぜん当てはまります。 それを非経験のシルシとして成り立たせるのは おそらく次に出て来る《神》などの語ないしそれを取り巻く全体としての物語の性格にあるでしょう。 ★ 【高天の原に成りませる神】 ☆ については たとえば その神が ● 独り神に成りまして 身を隠したまひき。 ☆ でしたか そういう表現で中身を吟味させようとするまでの文章としての力量はありますが 総合的に言って 非経験のナゾの何ものかについてその文章のままで指し示すところは きわめて薄いと考えます。 アマテラスは お日さまのことです。 オホモノヌシ(物)とヒトコトヌシ(事・言)のそれぞれ神という表現については モノの究極としての物質や精神ないし概念の究極としてのイデアのようなものを想起させていると採れば採れないこともないようではあります。そのつてで 取りようによっては 非経験のナゾについて解釈が出来なくもないと思います。 ですが 総じて言って 記紀神話だけによっては 発展がその力にとぼしいと見ます。 経験世界と非経験とを峻別してください。また そのように峻別したかたちに解釈しうる文章表現を問い求めるべきです。 一文だけでは 用を成さないとも考えられます。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
失礼を致しました。 更にもう1つの情報の追加が必要でした。 ブロードキャストの場合には、TVの配信と同じく、 受信側がキャッチ出来ているのか否かの確認をしていません。 其の際に使われるプロトコルは是です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/UDP
お礼
直前のお応えにて 礼を失するとは考えません。
- JidousyaGaisya
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すみません。 私の勇み足なのか、微妙な修正が必要です。 そもそも、「布教」と申します行為の喩えは、恐らく「サーバ(神様)へのアクセスの為のアプリケーションソフトの【無料配布】」に相当するのだろう、と思われます。 現在には私達が当たり前の如くにインターネットへのアクセスの権利を行使させて貰っていますので、通信費を期日迄に支払っていますと、中々気付かれ難いのですが、インターネット接続(ウェブブラウジング)の為のブラウザソフトウェアは、昔からインストールされていたのではなく、昔のPCの中には存在していませんでした。 従いまして、最初にインターネット回線のサービスが提供された頃には、それを利用する為に、「様々なソフトウェア・ハードウェアの意図的な【追加】」が必要になっていました。 とすると、それ等の流布の際に「【初期不良品群】の混入」もが有り得たのではないでしょうか? そして、もう1つです。 ユーザーのクライアントPCの側ではウィルス・スパイウェア等からの侵略を防ぐべく、空きポート番号を隠す為に、毎回にポート番号を変更させていますので、どの番号のポートが開放され得るのかはサーバ側から分かりませんから、無謀なブロードキャストが出来ないのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ですが 残念ながら 同じお応えになります。 さて おそらくコンピュータないしインタネットの仕組みとの喩えでは ぴったりときれいに当てはまっているのであろうと思われます。 それと 神とわれとの関係にかんしてどう捉えるかについては 微妙に違うところも見られる。こういう結論に行き着きます。 わたくしの立ち場からのみ捉えるなら こうなります。 《天はみづから助くる者を助く》ということわざに即して考えるなら どうなるかから出発する。 けっきょくこれまでの説明を受けて理解したところによれば こう考えられます。 1. サーバは 神ではなくて 人間とその社会としてのいとなみなる経験世界に属している。 2. 神は 天のほうである。その神は 《無い神》でもよい。 3. つまり 《みづから助く》という行為が 人間のつくったサーバなり何なりを含むそのネットワークの全体にかんする取り扱いに及ぶものだと見られる。 4. 無い神にしろ神にしろその天が そのような人間たちのいとなみを見守っている。 5. 無い神つまり無神論の場合には そういう《無い神とわれとの関係》としては 有神論と同じ類型において非思考すなわち信仰という心の場も持ち合わせているが その信仰類型を一たん確かめたあとは もうその《無い神》にはこだわらない。 5-1.せいぜいが いま取り上げていることわざやあるいは《人事を尽くして天命を俟つ》というようにたとえば《天》で言いかえるのが ふつうのようである。 6. 有神論としての信仰の場合には むろん同じように人事を尽くすのであるが そのあと天命を俟つというかたちでは必ずしもないかも知れない。それには ふたつの見方がある。 6-1. ひとつには 人間の能力と努力には限界があるとつねづね思っている。もともと《天命》には勝てないと思いつつ 能力を最大限に発揮する。人事を尽くすと言うよりは つねに――おのれの能力が磨かれて発達することもあれば情況が絶えず変わっていることもあり 全体としておのれの境地が高められることがあるとともに――振る舞い方や問題への対処の仕方も変わるはずであるから 《尽くし切る》ということはむしろないという前提に立っている。 その務めあるいは人生としての仕事について局面は変わり段階を踏むことになりステージも移って行くであろうから そのつどの一幕ごとに区切られた個別の仕事もあると考えられるが そして人力に限界があると思っているにもかかわらず おのれの務めを尽くし切るということはないとも思っている。 6-2. ひとつにはぎゃくに見ることになるが すでに《走って来た》という自負があるときには むしろ天命を俟つと言うよりは 神に対してその走って来たことの結果を堂々と催促すると言ったほうが 合っている。ただし けっきょくのところは つねに天命に俟っている。 すなわち基本的に天命に俟ちつつしかも 具体的な個々の天命を俟つというよりは おのれの務めの成果を求めて神に請求書を出す。しかも上の観点をここに加味すれば 務めの終わりという意味での仕上げはない。 こんな感じでしょうか。今回は大胆に述べています。 そうですね。 理神論という思想がありました。アダムスミスの経済学は その考え方に則っているとも言われます。 簡単に言って 一人ひとりがむしろ利己的に経済活動をおこなうなら その結果こそが――《見えざる手にみちびかれて》―― 社会全体の効率をよくし利益をも増すのだという自由市場経済の説明にあるものです。 言いかえると 市場経済に《一元的な管理者を存在させていない という仕組み》こそが 《見えざる手》の解釈としては 神の配剤によるのだということでしたでしょうか。 よく似ています。インタネット回線のその世界大の仕組みについてと似ています。 どうなんでしょう? スミスは はっきりと《神》とは言っていないかも知れません。《 the Invisible Hand 》とのみ言っているかと思います。ただし理神論を信奉していたらしい。 どうですかねぇ。 ★ 【認識されていない神】の介在を連想させてくれている、と言えそうですか? ☆ うっすらと言えるかも知れませんかねぇ。ただそれは どうも《認識されていない》という規定において 《非経験》のことを示唆しているゆえに そうであるだけなのかも知れません。 結論:そのように《連想させてくれる》かも知れないが 特筆大書してそう規定するものでもないと思われる。 ですかね。さらによい見解がありましたら お寄せください。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか? そしてダニエル書とイザヤ書ですか。 さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。 ★ ~~~~~~~~~ 【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。 (α) 神としてのことば (α’) 天使としてのことば 【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。 【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。 ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。 「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の 果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。 【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。 それほど大きなまちがいではないように思われますね。 それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。 たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。 さらに何かありましたら お寄せください。
補足
ひどっちさん 参考資料を見つけました。 パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。 ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~ ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。 新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。 (III) では、実際はどうであったのでしょう? (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。 (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。 (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。 ~~~~~~~~~~~ ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。 これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか? ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。 天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・