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私というものに対する本質的な勘違い

私たちは普段から「私」という一人称を使いますが、 「私」というコアは本当にあるでしょうか。 例えば 私の家は私でしょうか 私の車は私でしょうか 私の家族は私でしょうか 私の体は私でしょうか 私の命は私でしょうか、 すべて「の」がつくものは私の管理物または所有権を表しているに過ぎず、私本体ではありません。 すべては私を構成する一部であるという考え方もできますが、車検が来るごとに交換できる私のパーツなど想定したところで意味はないでしょう。 だとすれば私というコアはどこにあるでしょうか。 本当はそんなものは無く、ただ意識があるだけの存在ではないでしょうか。 しいて言えば私とは「記憶」ではないでしょうか。 このQ&Aでは自殺願望がある質問者をよく見ますが、彼らは本質的に勘違いしてないでしょうか。 私の体を殺したところで私が死ぬとは限らないですよね。

みんなの回答

  • zakire
  • ベストアンサー率37% (104/276)
回答No.3

「私」というのは自分の手の届く範囲の空間、といった理解でどうでしょう。手の長さは人それぞれの見解によりますが。 私というものを突き詰めていくと結局単なる物質の運動にすぎないといった辺りに落ち着くと思います。それはそれで間違いではありませんが、それで納得できるわけではないでしょうね。 「私」を作っているものは「あなた」が手に入れた情報が形作る雲のようなものです。遠目に見れば様々な形を見ることができますが、実体を確認しようとすると空気と水の分子しかないということになりますよね。同じことです。 ここであなたに質問。「あなた」は誰でしょう?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 普段は私という概念が独り歩きしているわけです。 人間社会を含めた概念上の私という存在ですね。

  • taka-aki
  • ベストアンサー率12% (748/6126)
回答No.2

「意識だけ」の存在など見たことありません。 ということは、意識はどこか物質に宿っていると思われます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 それは言うまでもなく私たちの体ですね。

  • shubal
  • ベストアンサー率20% (402/1958)
回答No.1

数千年の記憶の存在でしょうね。「私」というのは単なる記号に過ぎません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私たちはこの記号に終始振り回されていますね。

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