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参勤交代の実態について
NHK高校講座「日本史」の「江戸幕府と大名・朝廷」 https://www2.nhk.or.jp/kokokoza/watch/?das_id=D0022120059_00000 の中で、仙台藩伊達家の参勤交代のことが紹介されます。内容は、殿様は籠に乗って、移動するようですが、行列の総人数約1600人で、仙台・江戸間約350キロを約10日間で移動するようです。 ふと、疑問に思ったのですが、これって、単純計算(1日10時間歩くとしても、時速3.5キロ)しても、ずいぶん速いというか、速すぎるような気がします。参勤交代というと、「下に~、下に~」とのんびりした物見遊山の旅を想像していたのですが、……。 1 今みたいに道路だって舗装されているわけでもないだろうし、1日に35キロを歩くだけでも大変だろうし、ましてや籠を担いでということになるともっと大変だろうし、殿様だって楽じゃないと思うのですが、本当にこんなハードな旅だったのでしょうか??? 2 大名行列でさえも、こうだとしたら、当時の人は、これ以上にハードな旅をしていたのでしょうか??? 3 名のあるスポーツ選手は別にしても、当時の人に比較して、現代人は、体力的には退化しているといっても良いのでしょうか???
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1 参勤交代にかかる費用はすべてその大名の自腹なので、当然藩としては「なるべくお金がかからないように」と気を付けます。最も簡単なコスト削減は日程を短くすれば宿泊費がかからなくなりますね。 江戸や宿場に入るときは、大名の格を保つために中間を揃えなければなりません。けれど中間をぞろぞろ連れて参勤交代したらお金がかかってしょうがないので、江戸市中や宿場に入るときだけバイトの中間を雇うということをしていました。中間は今日は○○家、明日は凸凹家、みたいな感じでの日雇いだったのです。日当はすごく安かったと思うのですが、仕事としては楽だったでしょうね・笑。 2 仙台藩の記録によると、仙台と江戸を三昼夜で行くと「健脚なやつだなあ」と一目置かれたみたいです。 記録に残る中では、水戸の人が早朝に水戸を出て、鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝して日帰りで帰ってきたというのがあるそうです。歩いていたら間に合わないと思うので、おそらく24時間テレビのマラソンよろしくずーっと走っていたと思われます。そんなのに伴走できる人もいないでしょうから、荷物も持って走ってたってことですよね、きっと。 ただし鉄道が発明される前は、洋の東西を問わず人々のほとんどは自分が住んでいる場所から半径15㎞以上は出ないで生涯を終えていたそうです。これは日本だけではなく、ヨーロッパでもそうだったんだとか。 半径15㎞というのは、だいたい日帰りで用事を済ませて歩いて帰ってこれる距離です。それ以上の範囲に出かける理由はほとんどの人になかったんですね。 3 「退化」というほどではないでしょうね。退化したらその能力そのものが失われていますから。「劣化」といったほうがいいのかな。 昭和40年代頃まで、千葉や茨城のおばちゃんたちは畑で野菜をとったらそれを背負って鉄道に乗って東京に行き、歩いて行商して回っていました。野菜は何十キロにもなるし、当時の駅はエスカレーターもエレベーターもなかったのですから、全部階段も野菜を背負いながら(!)歩いたことを考えると「当時のおばちゃんはタフだったんだなあ」と感じますね。今そんなことができるおばちゃんはいないでしょう。 ただ、昔の日本軍は「都会出身の兵士が体力がなく、かつ体力テストで落ちる若者が多い」ことが悩みでした。農村出身の若者は頑健な体を持っていたのですが、東京や大阪などの都市部の若者は体力がなく、兵役検査に不合格になる者が多かったのです。三島由紀夫もその一人でした。 戦後しばらくは三島由紀夫も含めた文学者やインテリはいわゆる労働階級からバカにされることがしばしばあったのですが、それが「まんまと兵役につかないで戦争を逃れたのにエラソーにしている」からです。 またノモンハン事件で「日本軍の大砲がソ連軍の大砲より射程距離が短くて負けた」という話が有名ですが、これものっぴきならない事情がありました。日本軍の主力は75ミリの野砲でしたが、ソ連軍はもっと大口径の大砲を用意しました。けれど大口径の大砲は大砲そのものも重ければ、砲弾も重いです。当時の日本人の体格と筋力では75ミリ以上の大砲だと「大砲も重くて動かすのが大変だし、砲弾も重い」と兵士たちから嫌われていたのです。 戦前の日本人の「パワー不足」は、タンパク質の不足からくるものだったでしょうね。肉も卵も牛乳もあまり口にすることがなく、ほとんどお米しか食べていませんでしたからね。そんなパワー不足の日本人がメジャーリーグでホームラン王をとる日がくるなんて、昭和世代の私からすると想像もできなかったことです。
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- jkpawapuro
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1すでに出ている通り経費がかかりますのでハードです。 雨で足止めがあれば昼夜兼行となります。 2お伊勢参りが15泊と聞いています、現在の地図ですがおよそ500kmですので、物見遊山でも似たような量を歩いていますね。 3そりゃ当時ほど歩く必要はありませんので体力的には落ちているでしょう。 ただ鍛えれば江戸時代の人と同様に歩けるようになるのではないでしょうか?
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ありがとうございました。 ただ鍛えれば江戸時代の人と同様に歩けるようになるのではないでしょうか?……鍛える機会がないほうが平和ということなのかもしれませんね。
- 69015802
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「下に~、下に~」をやるのは他の方も書いておられるように大きな街中だけだったようですし、その行列の中のかなりの人数は現地ごとの日雇い(つまりお供の家臣ではないエキストラ)だったようです。 1 道も今ほど整備されていないし、履物も草履ですからハードっちゃハードですが基本移動手段は徒歩ですから。 2 行列も一般の旅も一緒ですよね。むしろ義務感ない分一般のほうが気楽かも。 3 歩かなくても代替え手段が発達しているので、日常生活そのものがトレーニングのようなものだった昔と比べてトレーニング不足は否めないでしょうが、持っているポテンシャルは少なくとも退化してないと思います。
お礼
ありがとうございました。 日常生活そのものがトレーニングのようなものだった……同感です。
- Reynella
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1.ハードでした。元々、参勤交代はその往来で金を使わせて外様大名の力を削ぐのが目的、逆に言えば遠隔地の外様大名はいかに節約するかが勝負。「下に~、下に~」とのんびりした物見遊山の旅」などありえません。「下に~、下に~」をやるのは、見物人がいるところ、つまり大きな宿場、交通の要衝、他の大名の城下町や関所だけでした。また藩主もずっと駕籠に乗っている必要もありません。例えば越前福井藩の松平慶永(春嶽)というお殿様は十代の時の参勤交代では殆どの行程を自分で歩いています。当然、多くの大名は青年・壮年期には、あまり人目の無いところでは歩いたりしたはずです。 2.一番ハードな旅をしたのは大名行列かもしれません。彼らは楽しみでも、金儲けでもなく、幕府に課された「義務」として旅をしていたのですから。一般人が旅をするのは商用でなければ、伊勢参りや、湯治に行くなどです。当然、目的と予算によって旅のハードさは違います。江戸時代の商人や歌舞伎役者の道中記から、成人男性が急ぎ(商用・武士の公用、費用を切り詰める場合)で1日12里(48km)、お伊勢参りや湯治目当てののんびり旅で9里(36km)、女性でも普通は7里(28km)以上を歩いていたと考えられています。 3.衰えてはいますが、生物学的に「退化」はしていません。たかだか2,300年しかたっていませんから。 確かに、普通の人にいきなり40km歩け、と言っても無理ですが、それは歩く習慣がないからであり、きちんとトレーニングすればじきにその程度は歩けるようになります。例えば今でも50台のアマチュアゴルファーで、1.5ラウンド、15km程度は平気で歩く人はザラにいます。 普段使わないから錆び付いていても、ちょっと錆を落としてやれば動く機械みたいなものですね。
お礼
ありがとうございました。 元々、参勤交代はその往来で金を使わせて外様大名の力を削ぐのが目的……私もそのように思っていましたが、そればかりでもないような。 成人男性が急ぎ(商用・武士の公用、費用を切り詰める場合)で……「武士の公用、費用を切り詰める」というのが気になりますね。現代にも、こんなのがあったじゃないですか……と。
- kon555
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参勤交代は色々と面白い制度ですよね。 >>本当にこんなハードな旅だったのか どうもかなりハードな日程だったようです。よくある「下に~、下に~」的なアレはあくまで自国内の人里だけで、あとは人数を減らして早足になったりしていたとか。 何しろ日数が増えればそれだけ費用がかさみます。江戸時代の大名はどこも経済的には逼迫していたので、のんびりした遊山とは行かないですね。 >>当時の人は、これ以上にハードな旅をしていた? 大体1日40km歩いたとか。道や履き物を考えると、非常にハードですね。 https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000139827 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index4/answer1.htm >>体力的な退化 災害時などに1日に徒歩移動できる最大距離の目安は大体20kmほどらしいので、歩行距離だけで言えばそうですね。 車や電車などで便利になった分、そうした基礎体力が落ちるのは仕方ない事なのでしょう。
お礼
ありがとうございました。 よくある「下に~、下に~」的なアレはあくまで自国内の人里だけで、あとは人数を減らして早足になったりしていたとか。……見栄も張りたいし、お財布事情も考えなければいけないし。 大体1日40km歩いたとか。道や履き物を考えると、非常にハードですね。……現代の私との違いを思い知らされますね。 紹介していただいたサイト、興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。 車や電車などで便利になった分、そうした基礎体力が落ちるのは仕方ない事なのでしょう。……災害時に車や電車が役に立たないことを考えると……。
お礼
ありがとうございました。 江戸市中や宿場に入るときだけバイトの中間を雇うということをしていました。……お殿様って、プライドのカタマリですね。(笑) 中間は今日は○○家、明日は凸凹家、みたいな感じでの日雇いだったのです。日当はすごく安かったと思うのですが、仕事としては楽だったでしょうね・笑。……私たちが幸せなのかどうか???(笑) (笑) (笑) 洋の東西を問わず人々のほとんどは自分が住んでいる場所から半径15㎞以上は出ないで生涯を終えていたそうです。……わかりますね。私も数年ほど前までは、趣味の野草観察で毎日のように歩き回っていましたが、どんなに歩いてもマラソンの距離にはなりませんでした。 それ以上の範囲に出かける理由はほとんどの人になかったんですね。……私なんか、今はほとんど家から出る理由がなくなりました。(笑) 「当時のおばちゃんはタフだったんだなあ」と感じますね。……おばちゃんばかりじゃなかったですよ。私も小中学校は昭和30年代ですが、超田舎だったものですから、学校まで遠くて。「学校に来るだけでいい」なんて言われたりして。でも、それを当たり前として受け入れていた。懐かしいですね。 ただ、昔の日本軍は「都会出身の兵士が体力がなく、かつ体力テストで落ちる若者が多い」ことが悩みでした。農村出身の若者は頑健な体を持っていたのですが、東京や大阪などの都市部の若者は体力がなく、兵役検査に不合格になる者が多かったのです。……バブルのころだったでしょうか???採用する企業にとって、「地方よりも都会の大学生を採用する、と。駅の階段の昇り降りなどで体力があるし、我慢することにも耐えられる。」みたいな論評が記憶に残っています。 三島由紀夫もその一人でした。……三島由紀夫の文章の切れ味は鋭いですね。私は彼の小説は好きでしたねぇ。才能も家柄も申し分なかったのに、ただ、彼なりにコンプレックスがあったんじゃないかと想像しますね。 そんなパワー不足の日本人がメジャーリーグでホームラン王をとる日がくるなんて、昭和世代の私からすると想像もできなかったことです。……想像もできなかったことだからこそ、私たち日本人に、「夢と誇りを持ちたい」という気持ちを持たせてくれますね。今の日本の政治状況がそれをますます際立たせていると感じます。