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東海道五拾三次の宿場の規模。
大藩の参勤交代では数千人が移動しますから、宿の手配は大変だったそうです。 1. 参勤交代する西国の大名は、東海道を何日(何泊)かけて歩く予定だったのですか。実際には予定日数以上かかったと思いますが、大きな宿場を選んで、泊まる予定を立てていたと思います。 どの大名でもよいですから宿泊地が分かる記録があれば教えてください。 2. 東海道(品川から守口まで57宿)の宿場の大半は、大名行列千人以上が宿泊できる規模だったのですか。 3. 品川宿は、5千人くらいは宿泊できたようですが、他に、規模の大きい宿はどこですか。 よろしくお願いいたします。
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1. 第6代萩藩主毛利宗広が元文二年(1737)3月5日に萩城を出発し4月6日に江戸藩邸に到着したときの東海道(京都から江戸)の旅程は14泊で、3/21京都藩邸→大津(本陣大坂屋嘉右衛門邸)→守山(本陣宇野忠右衛門邸)→高宮(本陣北川四郎右衛門邸)→大垣(本陣沼波吉助邸)→宮(本陣森田八郎右衛門邸)→赤坂(本陣赤坂彦十郎邸)→新居(本陣疋田八郎右衛門邸)→袋井(本陣田代八郎左衛門邸)→岡部(本陣二刀清左衛門邸)→蒲原(本陣瀧縫殿右衛門邸)→沼津(本陣間宮喜右衛門邸)→箱根(本陣川田角右衛門邸)→藤沢(本陣蒔田源右衛門邸)→川崎(本陣田中兵庫邸)→4/6江戸藩邸となっています。 <参考> 「萩藩主参勤交代の記録を読む―『元文二年宗広公御参勤御道中記録 但惣陸』」 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/kouza-kaidoku/01-02sankin.pdf
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- pri_tama
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>品川宿より大規模だったのですね。 品川より規模が大きい宿場だと 小田原宿 旅籠95、 本陣4、脇本陣4 江戸を出て最初の城下町 浜松宿 旅籠94、 本陣6 天竜川の川待ちの宿場 岡崎宿 旅籠112、本陣3、脇本陣3 神君家康公の生誕地 桑名宿 旅籠120、本陣2、脇本陣4 海路「七里の渡し」の西側港 四日市宿 旅籠98、 本陣2、脇本陣1 海路「十里の渡し」の西側港 ※ 桑名、四日市を船で出航した場合にたどり着くのが宮(熱田)宿 >「浜御殿と呼ばれる尾張藩が東海道を往来する大名らを招待し供応する目的で作られた御殿」ですが、この目的で作ったとすれば、いったいどこの大名が供応に応じたのだろうかと、調べてみたくなりました。 浜御殿に関しては、まだ研究中らしく以下の記載は、あくまで自分の個人的な見解です。 「御代御記録」の記載で応接を受けた事が確定しているのだと 徳川秀忠 2代将軍 徳川家光 3代将軍 徳川頼房 初代水戸藩主 吉良吉冬 赤穂事件で有名な吉良義央の父 秀忠・家光時代に幕府と朝廷の仲を調整 春日局 家光の乳母 永井尚政 前老中 板倉重宗・重郷 京都所司代の父子 あと「尾張藩の屋敷調査記録」では歴代の紀伊藩主(徳川吉宗等)や公家の近衛家や九条家の接待も行っていたとの記載が有ります。 さらに、維新後の明治天皇の東京への行幸でも歓待も行っている様です。 徳川家光の上洛に伴う歓待も、事前に幕府の老中が連名の文章で「御殿の新築等の過分な歓待は不要」と通知されているにも拘わらず、それを無視して御殿を建築し、歓待をやっています。 将軍の上洛等の歴史的慶事に対して尾張徳川家が無視されているのが耐えられなかったのでしょうか? 紀伊徳川家の参勤交代時にも歓待をやっていた様ですが、傍目からだと御三家の紀伊徳川家が尾張徳川家へ挨拶に赴いている様に見えますから、尾張徳川家の面子を保つ為の見得でやっていたのでは思えてなりません…。 (尾張徳川家が参勤交代の際に、紀伊へ寄り道[反対方向]などしませんから…。)
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 ご教示の「御代御記録」「熱田東浜御殿」をヒントにいろいろ検索して調べました。 家光と義直の不仲説などが出てきて結構面白かったですが、理解するのはなかなか難しそうです。
- gunsin
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大名や公家は「本陣」に宿泊してました。 「本陣」は名主などの地方の有力者の居宅を使用してました。 庶民は宿泊出来ませんでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- pri_tama
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>2.東海道(品川から守口まで57宿)の宿場の大半は、大名行列千人以上が宿泊できる規模だったのですか。 最初期の大名行列(この頃は、純粋な軍事行軍なので道中隊列を組んでいた)を除けば、自領を出発する時と重要な地点と江戸に入る直前以外は、バラバラに移動していました。 ⇒なので、一か所で泊まれるかは、あまり意識しなくて良かった。 ちなみに加賀藩は、大名が泊まる宿場の前後数か所の宿場を、先に押さえていました。 (宿場の入口に高札を立てて、いかな雄藩であっても譲らないと宣言していたとか…。) ⇒参勤交代は、幕府に予定を事前申請しないといけないので、中小の大名は、道中かち合わない様に調整していた…。 何らかの事情で、想定外の小規模宿場に泊まる際は、近くのお寺や神社の境内に泊まらせてもらう事も多かったとか…。 しかも、大名行列の人員って、江戸に入る直前に日雇い人員で人数を水増しするので…。 (要領がいい者は、複数の大名の供人をはしごしたりするとか…。) あと、最初期の大名行列は軍事行軍なので、基本野宿です。 (運よく宿が確保できれば、上級武士達が屋根の下で寝れる…。) >3.品川宿は、5千人くらいは宿泊できたようですが、他に、規模の大きい宿はどこですか。 宮(熱田)宿は、相当規模が大きかったようです。 (東海道、美濃路を経由して中山道その他脇街道が集中する場所な為) 旅籠248、本陣2、脇本陣1 (脇本陣級の規模の旅籠も有ったとか…。) 東海道唯一の海路である七里の渡しの港の役割も有りましたし…。 さらに、ここには浜御殿と呼ばれる尾張藩が東海道を往来する大名らを招待し供応する目的で作られた御殿が有り、三代将軍徳川家光が上洛の際に使用した事から、下手な城郭並みの規模が有ったと言われています。 (神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を造り、建物は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様で、2棟の高楼を設け、西側は鯱をいただいた小天守閣のようで、桑名城の天守閣に対抗して建造されたと言われています。) 参考: 品川宿 旅籠93、本陣1、脇本陣2
お礼
ご回答ありがとうございます。 宮(熱田)宿は、大規模だったろうと想像していましたが、「旅籠248、本陣2、脇本陣1」 とは驚きです。品川宿より大規模だったのですね。 「浜御殿と呼ばれる尾張藩が東海道を往来する大名らを招待し供応する目的で作られた御殿」ですが、この目的で作ったとすれば、いったいどこの大名が供応に応じたのだろうかと、調べてみたくなりました。 何か尾張藩の下心があったのかなと、これは尾張藩が将軍職を狙ったというドラマの見過ぎかもしれませんが。
- NOMED
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大名行列は小さい藩で100人ほど、大きい藩では2000人から3000人前後になりました。加賀藩の場合は、多いときで約4000人にもなりました このような大名行列を円滑に進めるためにはさまざまな準備が必要でした。まず旅行に先立って宿舎や人馬の手配をするために、あらかじめ宿場に「先触」(さきぶれ)といって通達書を出しておきます これを受け取った各宿では、宿の割り当てや人馬の手配をしておかなければなりません 実際の旅となると、行列から先行するかたちで宿割りを担当する家臣らが宿場におもむき、本陣や宿場の入り口に関札を高く掲示します この関札は、これを掲げた以上、いかなる大藩もいっさい宿泊を許さないという厳重なものでした 大名は本陣に泊まりますが、その家臣らは宿内の旅籠屋に分宿し、時には周辺の寺院も使うこともありました 1つの宿場ですべての人員を収容できない場合は、前後の宿場に分散して泊まることもありました ので、「先触」について、調べられると良いと思います 例:https://kotobank.jp/word/%E5%85%88%E8%A7%A6-1168650#:~:text=%E7%B2%BE%E9%81%B8%E7%89%88%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%A4%A7%E8%BE%9E%E5%85%B8%E3%80%8C%E5%85%88%E8%A7%A6%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC&text=%E2%91%A0%20%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%98%E3%82%81%E8%A7%A6%E3%82%8C%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8,%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%B6%E3%82%8C%E3%80%82&text=%E2%91%A1%20%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B1%9F%E6%88%B8,%E6%89%8B%E9%85%8D%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%9B%E3%82%8B%E9%80%9A%E7%9F%A5%E6%9B%B8%E3%80%82
お礼
ご回答ありがとうございます。 「先触」「関札」について調べました。 いろんなことが分かりました。
お礼
これは面白い!! 読みだしたら止まりません。 熟読しました。 単なる事実の羅列にすぎませんが、事実ですから一字一句の重みが違います。 話が具体的なので、毛利宗広公に従って、行列に参加しているような気分になりました。 早朝に出発することは知識として知っていましたが、「早朝七つ時」出発したという記事を見れば、臨場感が出てきます。 どこの宿場に泊まって、何泊したのか、を知りたかったのですが、期待した以上によく分かりました。 毎日の行動を丹念に読んでいきました。 宿泊は、前もって調整してあるという知識では及びもつかない事態多発で、まさに臨機応変に対応している家臣の苦労がよく分かりました。 備忘録として勝手に書いておきます。 美濃路大垣で宿泊時、一つ手前の垂井宿に福井藩参勤一行が泊まっています。 宮宿で宿泊時には、一つ先の宿場鳴海に大和小泉藩主一行と筑前秋月藩主一行が泊まっているという報が入っています。 大井川渡河後の岡部宿では、名古屋藩主一行が下向中の報が入っています。 そして、両者は興津ですれ違っています。 すれ違いの様子を想像しようとしても想像できません。 蒲原宿泊時(富士川の渡しの手前)、佐賀藩主一行が明日、二つ先の宿場・原で休泊との報が入っています。 柏原と原との間で佐賀藩主一行と行き合っています。 宗広は、原で宿泊もしくは休憩の予定を急遽変更し、沼津まで行程を伸ばしています。 ここ沼津では龍野藩主一行が先に止宿しているので、宗広は定宿の本陣ではなく、脇本陣に宿泊しています。 このあたりから東海道は大名行列での混雑が予想されるので、龍野藩主や先へ行く福井藩主と日程をすり合わせています。 箱根では鴨方藩主一行と相宿、川崎では明石藩主一行と相宿です。 川崎宿泊時、明日、一橋宗尹が川崎へ御出でになるとの報が入ったのでこの一行を避けるため、急遽夜中九つ時(午前零時)に出発し、その日の朝6時ごろ江戸に着いています。 手元に32万石鳥取藩主・池田吉泰の享保12年(1727)の参勤の記録があるのですが、宗広と同じコース、伏見から江戸までを同じく14泊で通行しています。 素晴らしい記録を教えてくださって誠にありがとうございました。