こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
まずは、あなたの質問の回答から:
>>その場合その領域を支配する藩主の歓待を受けたりしていたのですか?
参勤交代では、必ず、「道中奉行」が任命されます。そして、通る藩では道中奉行が「およそ何日ころ通過します」と、先回りをして通過する藩に「口上」をし、通行される藩も道や橋の整備などをして、まあ、お互いが気をつかいました。
しかし、他藩(他家)との交流は一切禁じられていました。もし、仲良くなって、幕府転覆などを話し合われては困りますので、固く禁じられていると同時に、周辺の藩が監視しており、あくまでも使いの者だけが行き来しました。
>>宿場町に逗留していたりしてたのでしょうか?
主要な宿場町には「本陣」「脇本陣」という大名専用の宿泊施設があり、これも道中奉行が先回りをして、宿の手配をしました。
「本陣」は、殿様とその側近たち。
「脇本陣」は、その他の家来たちが泊まりました。
しかし、宿に入っても食事は宿の者ではなく、家来の中の「御膳掛り」(ごぜんがかり)が宿の調理場を借りて作りました。また、食材なども全て家来たちが持参していました。
また、風呂も風呂桶を持参しており、宿には「風呂場」という場所はありましたが、持参した風呂桶をそこに置いて風呂に入りました。
これは、参勤交代はあくまでも「軍事行軍」とみなされていましたので、陣幕や鍋、釜、食材、風呂桶、はては、殿様用便器などなど全てを持ち歩いていました。
さらに、到着は夜五つ(午後8時)までに宿へ入らなければ、宿側も断ることができ、そうした場合には、近くの野原で「野宿」をしました。
もっとも、先にも述べた通り、軍事行軍とみなされており、食材や風呂桶、殿様用便器などなどの全てを持ち歩いていましたので、まあ、多少は不便だったとは思いますが、仕方ありませんでした。
また、本陣、脇本陣に宿泊したとしても、翌日の出発は七つ(午前4時)頃と定めてられてありました。しかし、遠い藩になると八つ(午前2時)~八つ半(午前3時)頃に出発しました。これには幕府の許可を必要としましたが、陽のあるうちに行程を縮める必要がありました。
「♪お江戸日本橋七つ立ち・・・」と言う歌がありますが、これは、元々は大名たちの出立時刻を唄ったものでした。しかし、やがては、庶民の旅ブームでも七つ立ちが定着したのです。
(よもやま話)
1.参勤交代は、慶長7年(1602)に加賀の前田利長が人質として江戸に暮らしていた母・芳春院を訪ねて江戸へ出て来て、ついでに(?)徳川家康に挨拶をしました。この時、家康がたいそう喜び「忠義者」と褒めたたえたため、これを知った他の大名たちも将軍家に気に入られようと、また、反意がないことを示すために江戸へ出府するようになりました。当初は全く統制がとれていませんでしたので、何時でも自由に往来していました。もちろん、出府しない大名もいました。
そこで、3代将軍家光が寛永12年(1635)に「武家諸法度」全19ヶ条を定め、その第2条に「参勤交代」を制度化しました。
2.参勤交代の期日は「夏四月中」と書かれており、現代の太陽暦で言うと、およそ5月で、入梅前に参勤するように定められていました。しかし、大名たちが一気に行動したため、通行中の混雑によるトラブルも発生したため、寛永19年(1642)(家光)に、西国の譜代大名は2月、関東と東海の譜代大名は9月、外様大名は依然として4月、というように時期をずらせました。これには、譜代大名をして外様大名を監視させる役目も持っていたからです。
3.隣接する諸藩は、お互いの話し合いにより、交互に参勤しました。
従って、全国の大名全てが江戸に集結するわけではありませんでした。
例えば、「豊前」「豊後」を見てみると、
中津、杵築、府内・・・譜代大名。
日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森・・・外様大名。
そして、
子、寅、辰、牛、申、戌年には、中津奥平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏。
丑、卯、巳、未、酉、亥年には、府内松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏。
これを「御在所交替」と呼びました。
3.「下に~。下に~」と先触れが声を張り上げますが、これは自分の領内と他藩の領内に入る時、出る時。そして、江戸へ入る時だけでした。
その他の場所では、供揃えも乱れ、雑談をしたり、景色の良いところでは立ち止まって眺めたりして道中をしました。
4.参勤交代の供揃え人数については、当初は決まりがなく、加賀の前田家では、実に4,000人もの行列だったと言われています。
参勤交代は、もちろん、大名たちの財力を少なくして謀反を起こさないようにする意味を持っていましたが、大藩ならともかく、小藩では商人たちから借金をしてまでも参勤交代をせざるを得なく、不満も出始めたため、幕府は藩を大、中、小に分けて、人数を制限した記録も残されています。
史料に残るものとしては、享保19年(1642)の秋田藩をみてみると、
家臣131人、医師3人、陪臣(家臣の家来)856人、御徒衆49人、御小人衆70人、足軽189人、夫丸18人、御茶屋衆10人、総計1,350人、馬42騎。
となっています。
5.幕府の役職者、例えば、老中とか若年寄などは常に千代田城(江戸城)に常駐していなければなりませんでしたので、参勤交代は免除されていました。他にも、大阪城代や京都所司代なども、その地に詰めていなければなりませんでしたので免除されました。
なお、太田道灌が城を建てた頃は「江戸城」と呼ばれていましたが、家康が江戸に入府して手を加えてから以降は(江戸時代に入ってからは)、「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」、または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)、庶民はただ単に「御城」と呼んでいました。「江戸城」という呼称が復活したのは明治に入ってからでした。
6.通行中のトラブル。
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通行中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまいました。怒った家臣がその子を捕らえて本陣にまで連れて行きました。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き許しを請いましたが、斉宣は聞き入れず、幼児を切り捨ててしまいました。
尾張藩にも耳に届き、これをおおいに怒り、遣いを出して「このような非道をするならば、今より当家の領内は通らないでもらいたい。直ちに退去願いたい」と伝えました。
斉宣は将軍の子とはいえ、将軍の家来と同じ。さらには、御三家筆頭の尾張家の方が各上。斉宣はやむなく、ただちに本陣、脇本陣を引き払い、まるで庶民のように闇に隠れてコソコソとした格好で尾張藩領内を抜け出して野宿をしました。
その後、猟師の源内は斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で斉宣を射殺してしまいました。もちろん、源内は死罪となりましたが、子どもの恨みを晴らしたというわけです。
7.良くTVなどでは、宿に入った殿様が芸者を呼んでドンチャン騒ぎ。果ては、遊女と一夜を・・・。
とんでもないデタラメ。
何度も述べているように、参勤交代はあくまでも「軍事行軍」でしたので、絶対にあってはいけない。ましてや、「遊女」と呼ばれるソープランド嬢は江戸、京都、大阪でしか公認されておらず、いるとすれば「飯盛り女」。国持大名の「御殿様」がそんな安い女郎を買うはずもなく、単なるTV視聴率を上げるための「大ウソ八百」。
まあ、あなたの質問とはかけ離れてしまいましたが、まだまだ面白い話はあります。またの機会としましょう。
お礼
あけましておめでとうございます。 ご丁寧なご説明感謝いたします。 まだざっとしか読んでませんが、ゆっくりと拝読させていただきます。