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御三家の序列
江戸時代の親藩大名、御三家(水戸家・尾張家・紀伊家)の序列を教えてください。そして水戸家のみは参勤交代をせずに江戸詰めだったということですが、それはどうしてだったのでしょうか。
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- hena-hena
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質問の御三家であれば尾張、紀伊、水戸の順番になります。 親藩大名に関しては下記のURLに出ていますので参考にしてください。 他の回答にありましたが御三家について言えば、家康時代にはその構想自体無かったと思います。 秀忠は義直と頼宣を同格に置き、その下に忠長を置き御三家を形成する動きがありました。 今日知られる御三家は家光時代に形成されました。忠長が亡くなり残ったのが三家だったと言うのが実際のところでしょう。 水戸徳川家に関しては成立は遅く忠長死後の寛永13年です。この年頼房は徳川姓を与えられています。 それまでの頼房は紀伊徳川家の分家扱いで松平頼房と名乗っていましたので、松平姓では家格で御三家と言える立場ではなかったはずです。 なので水戸家は官位も領地も他のニ家とは違いが出ていると考えられます。 水戸家は将軍になれないと言う話が出ていましたが、将軍継嗣に関する法度はありません、御三家が継ぐと言う成文法もありません。ですが一般的に将軍継嗣の条件的は血統、家格、年齢、能力の順番と言われます。 水戸家は家格の点で引っかかるところがあったとは思いますが、八代将軍の候補として綱條の名が挙がっているので権利はあったと思います。 常府に関しては正確な資料が無いですが、他の二家とのバランスを考えてではないかと僕は思います。
- sumiyoshigawa
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1.序列 現在からみた序列なのか、当時の序列なのかで意見が分かれると思います。現在は尾張、紀伊、水戸の順ですが、当時の序列は時期によって異なります。 序列は家柄ではなく官位、同官位の場合は先官(昇進順)に方になります。 尾張、紀伊が権大納言、水戸が権中納言というのは極官といってその官職まで昇進できうるという官位です。必ずしも全藩主が昇進できたわけではありません。例えば嘉永年間では尾張慶勝が権中納言、水戸慶篤が宰相で先官、紀伊慶福が宰相です。 尾張、紀伊は昇進条件(初官従三位中将、極官権大納言)であり、その点では同格ですが、尾張家では尾張が上位、紀伊家では同格という意識がありました。当時の尾張びいきの書には「尾張家は大納言、紀伊家は権大納言」と書かれているものがあります。権は「定員外」という意味で今でいうと正横綱と張出横綱のようなものです。元来武家官位はすべて定員外なので尾張も権ですが尾張家が格上だといわんがための「うそ」です。水戸(初官正四位下少将、極官権中納言)はその下になります。 #3で徳川忠長の記述があります。他にも甲府家、館林家、御三卿があり、現在は御三家より下と言われています。しかし、小生の考えでは、甲府家、館林家、御三卿は初官従三位中将、極官権中納言なので尾張、紀伊より下、水戸より上の序列です。 実際に寛文年間では紀伊頼宣が従二位権大納言、尾張光友が正三位権中納言、甲府綱重、館林綱吉が正三位宰相、水戸光圀が従三位宰相、越後高田の松平光長が従三位中将という序列です。宰相は正四位下から従三位相当なのに、あえて「正三位宰相」にして 尾張光友より下で水戸光圀より上という格を無理して作っているといえます。また、甲府2代綱豊が水戸光圀より先に中納言に昇進していること からも、甲府、館林が水戸より格上と幕府がみなしていることがわかります。 2.水戸家の江戸詰については#1の参考URLのとおりです。江戸時代は藩祖が行ったことを「先例」を子孫が踏襲することによって一種の「格」に仕立てあげ、水戸家は官位は落ちるが「江戸詰の家格」として尾張、紀伊に対抗したのです。 *余談 三つ葉葵が将軍家が3枚表、尾張家が2枚表、紀伊家が1枚表、水戸家が3枚裏というのは 今でいうと「すかいらーくのひばりにはオスとメスがいる」と同レベルの「もっともらしいうそ」です。
- hinebot
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さらに補足しますと、 家康は御三家を「将軍家、尾張家、紀伊家」と定めていましたが、幕藩体制の強化の中で、将軍家が臣下とも言える尾張・紀伊両家と同列なのは問題がある、ということで、(将軍家の権威を高めるために)3代将軍家光が、「尾張家・紀伊家・水戸家」を御三家とすると改めた、というのが定説です。
- koruku0127
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#1さん、#2さんに補足致しますと、 序列で言えば尾張・紀伊と水戸の間に駿河が入っていた時期もありますし、いわゆる尾張・紀伊・水戸の御三家が定着したのは少なくとも駿河大納言・徳川忠長が改易となった後だと思います。
- oriro1208
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こんにちは。 横槍をいれることをおわびします。 ご質問の中に誤りがあります。 御三家とは徳川家康が武家諸法度において定めたものです。その中に御三家として、将軍家(家康・秀忠・家光と続く徳川宗家)、尾張家(家康の九男である義直を始祖とする名古屋城主)、紀伊家(家康の十男である頼宣を始祖とする和歌山城主)となっています。もし御三家のうちに適当な人材が無ければ、誰が天下を預かっても良いという家康の自身を表す言葉も残っています。ただ、その奏聞は水戸家(家康の十一男である頼房を始祖とする水戸城主)に限るべしと記載されています。つまり御三家とは征夷大将軍(正式な官位ではないので令外の官といいます)に就任できる徳川一門の人々をいいます。しかし、それを朝廷に報告し(奏聞し)許可を貰える(勅許を賜る)立場の者は水戸家の当主に限るということなのです。讒言や贈収賄などで朝廷をひいては日本国を混乱させないために家康が取った措置です。序列についてはNo.1さんの言われる通りでよいと思います。いろいろと勝手なことを申し上げました。よろしくお願いします。
- myeyesonly
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こんにちは。 一般的に言われる序列は、尾張、紀伊、水戸だと思います。 水戸家が参勤交替免除の訳は、参考URLに出てます。
お礼
ありがとうございます!水戸家の参勤交代免除の理由、大変参考になりました。
お礼
ありがとうございます。「徳川宗家を入れて」と考えるのですね。大変参考になりました。