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駕籠
時代劇の大名行列ですと、殿様が駕籠に乗り参勤交代の旅に出ます。 ところであの駕籠ですが、最低地上高がけっこう低いように思います、つまり山道や林道ではどうしたんでしょうか? 下記はいわゆる山駕籠の写真で http://ohoshisama.info/syowakarano/05syouwaC/syouwaC44hieizan.htm 山道で用いられたようですが、大名駕籠ではでこぼこ道で底が引っかかる、急坂で乗っている殿様が仰け反るなど、ひどく不自由な気がしますが、箱根などでは馬にでも乗り換えたんでしょうか、それとも殿様といえど自家用駕籠を降りて専門の山駕籠に乗り換えたんでしょうか? 女性ですと輿で中山道を往来する人(和宮とか)もいたようですが、江戸時代に輿で旅に出る男性はいなかったんでしょうか?
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 大名行列では、空馬を必ず1頭か2頭連れて行き、宿場に泊まって、次の宿場までが急な坂道や石ころだらけの場合には、殿様は馬に乗りました。 また、空馬も殿様専用のものと、家臣の馬が倒れたような時に、乗り換えました。 歳をとっている殿様や怪我をしている殿様の場合などでどうしても馬に乗れない場合は、籠を担ぐ人数を増やして持ち上げて慎重に前進しました。 それから、「したに~」「したに~」の掛け声を「先払い」といいましたが、これはもちろん先を歩く者が大声を発して「路を空けよ」ということを表しました。街道筋では通行人が道の端によけて頭(こうべ)を垂れて見送りました。しかし、江戸の街でこの「先払い」をしたのは将軍家か御三家、御三卿くらいで、他の大名は遠慮をして江戸に入ると静かに進みました。 また、「下に~、下に~」と声を上げての先払いは、自分の領内と国境、そして、江戸に入る手前だけでした。 (よもやま話) 大名行列はいいかげんだった? 道具、打物、挟箱、先頭警護の武士、お籠、後尻警護の武士の順で行列は進みましたが、この隊列を組み「先払い」をたのは国許の城下と領地境、宿場の発着時、そして江戸へ入る時だけで、道中では隊列をくずし、雑談をしたり、景色の良いところでは立ち止まって見物したりしました。 大名行列も道の端へ 大名行列よりも格が上だったのが「御茶壷道中」。これは、毎年将軍家が飲用する新茶を京都の宇治から運ぶ行列のことで、この御茶壷道中の往復に出くわしたら、さあ大変。大名行列とすれ違ったりした時は、どんなに偉ぶっていた大名も籠から出て腰を深々と折って、敬意を表しました。 大名行列も回り道 江戸市中で大名行列同士が行き違うことはしばしばであった。この時は、お互いが籠を開けて双方が目礼をした。しかし、籠を止めることは絶対にしなかった。また、相手が御三家や格式が上位の場合は籠を降りなければならなかったので、ややっこしい、めんどうくさい。そこで、御三家などとわかると下級の大名行列は、あわてて、横道へ逃げ回った。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 bungetsuです。 >>私の故郷ですが、明石藩の松平斉宣が行列の駕籠先を横切った幼児を無礼打ちし、あまりに大人げない振る舞いに領内通過を断られてしまい、以降は変装してこっそり通過するようになったとか・・・『甲子夜話』 この話は、実際に起きた事件です。 11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通過中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまい、家臣はその子を捕らえ本陣へ連れて行った。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き許しを乞うたが、斉宣は聞き入れず、幼児切捨ててしまいました。 尾張藩はこれをおおいに怒り、使者遣わして「このような非道をするようならば、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えた。 どうなったと思いますか? 行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで町人か農民のようにコソコソしたかっこうで尾張領内を抜けました。 さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で射殺してしまいました。もちろん源内は死罪になりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。
お礼
この話は現代にも通じる気がします。 私も以前は「旅の恥はかき捨て」とばかり、無茶をやりましたが、その場は無理を押し通して気持ちよくても、次回からいけなくなってしまいます。 そういった経験もして、旅館や旅先で立ち寄った居酒屋でも「金を払えばお客だ!!」的な態度はとらずに、丁寧に静かに接することを心がけるようになりました。 この殿様も因果応報ですね。
資料が無いので推測の域を出ませんが、宿場町等、人が大勢いる所に入る時は殿様は豪華絢爛な駕籠に乗り、箱根などの山道では馬に乗り換えたと思います。根拠はありません。でも何となくそう考えれば辻褄が合うのでは無いでしょうか。山駕籠はちょっと考えにくいです。雲助が運ぶ様な物には乗らないと思うんです。なんせ乗るのは殿様ですからね。 そう言えば昔見た時代劇で、大名行列なのかな?あれ。大勢の家臣と殿様が行列を組んで山道を歩くシーンがあった様な憶えがあります。確か殿様は馬に乗っていたと思います。「した~にぃ、したにぃ」と言っていて、お百姓さんや旅の人が土下座してたので、やっぱり大名行列ですよね。 豪華な駕籠で思い出すのは、映画「赤穂浪士」で、中村錦之介演ずる「脇坂淡路守」が「浅野邸」を訪れる際、すっごい豪華絢爛な駕籠に乗っていましたね。あれ、確かに駕籠の底は地面にスレスレだった様に思います。あれで山越えはさすがにきついでしょうね。殿様も運ぶ人も。
お礼
時代劇ですと殿様は豪華絢爛な駕籠で移動していますが、江戸近在の殿様ならこのままさっさといけますが、遠方だと山越えもあれば石がごろごろした河原を移動する必要もあり、どうするんだろうと思っていました。 いずれの殿様も手元不如意で、宿場を通過するときはしずしずと歩き、他人の目が無くなれば恥も外聞もなく先を急いで旅費を浮かせたようですが、馬に乗り換えてということの方が自然そうですね。 しかし、私が東北や九州の大名なら、駕籠に何日も乗せられていたらぎっくり腰になりそうな気がします。
お礼
やはり馬も連れていたんですね。 もう1つ疑問があり、長い道中ですから家来も体調不良はあり、枕も上がらないような重病なら旅籠に頼んで置いていくしかないですけど、捻挫とかぎっくり腰なら何とかなるのでどうするかなと思っていました。 これも予備の馬に乗せれば何とかなりそうですね。 私の故郷ですが、明石藩の松平斉宣が行列の駕籠先を横切った幼児を無礼打ちし、あまりに大人げない振る舞いに領内通過を断られてしまい、以降は変装してこっそり通過するようになったとか・・・『甲子夜話』