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江戸時代の家来の出身地
赤穂浪士の堀部安兵衛は新潟県新発田市出身らしいのですが、江戸時代の初め、歩く事以外に交通手段が殆ど無かった時代、何故、兵庫の一地方都市の家来になったんでしょうか? ちなみに、この事件があったから初めて判明した事実ですが、もし、この事件が無ければ知られなかった事実である事を思うと、他の藩でも、遠い地方から家来になった人間は、恐らくかなり居たんであろうことは想像にかたくないだろうな、とは思っております。
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さほど詳しくありませんが、新発田藩士だった父が浪人しして、死後安兵衛が江戸にいたとき、高田馬場の闘いの仇討ち(〇〇人斬り)で有名になり、赤穂藩の堀部弥兵衛(江戸勤番)に見そめられ「ぜひ娘の婿に」と乞われて婿養子になったのだったと思います。 江戸時代は戦争もなく、つまり出世の方法がほとんどなく、他方家は長男が継ぎ、次男以下は嫁ももらえず飼い殺し状態になりましたので、他家だろうがなんだろうが養子の口があれば二つ返事で許諾、婿入りしたものと思います。 安兵衛は当初、婿入りを拒否していたようですが、どこまで本気でごねたのか疑問です。浪人は庶民扱いで、町奉行の管轄下ですから武士としての矜恃を持つ者にとっては一刻も早く武家に戻りたかったところだったでしょうから。 陪臣でも武士ですし、もともと越後新発田の溝口家の家臣も同じ陪臣ですからその点、悩みはしなかったでしょう。
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回答No.1
何故といわれましてもその堀部が浪人として江戸にいた頃に見込まれて仕えた家が赤穂藩だったというだけです。江戸は日本中の藩のお屋敷があり、大名の妻や子供がいましたし。各藩を幕府が支配出来る様に。
質問者
お礼
出会いは江戸ですか。なるほど。それなら、有り得るでしょうね。ありがとうございました。参考になりました。
お礼
そうですか。しかし、結果的に個人としては運が悪かったとしか言いようがないですね。なるほど。ありがとうございました。