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江戸時代の標準語
江戸時代に標準語というのは、あったんでしょうか?(Q1) 一般庶民は縁がないとしても 参勤交代などで、中央の役人と話さないといけない 地方の大名かその家来は、『標準語』として江戸で話されている言葉を勉強したのでしょうか?(Q2) 京都から江戸に遷都したわけですが、言葉も一緒に『遷都』されなかった(?) のはどうしてなんでしょうか?(天皇を連れて来ただけ?)(Q3)
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江戸時代に話し言葉としての標準語はなかった筈です。従って異なる地域の藩士同士の話し合いは文語体か江戸詰めの藩士を通じて行われたと思います。庶民の場合は今で言う観光ガイドブックや芝居言葉で何とか通じたのでしょう。各藩とも江戸屋敷と江戸勤務の藩士がいたので幕府(役所)との交渉には不自由しなかったと思われます。天皇の周りには京都弁を話す(理解する)人がいて江戸に転勤しても、3代と続かなかったと思います。言葉とはそのようなものです。アメリカ生まれの3世、4世が日本語が出来ないようなものです。
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御質問のQ1~Q3については 下記URLに詳しい解説があります http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasi6.htm 蛇足:明治政府による「標準語」政策の経緯は次のとおりです。 ○江戸時代には一般の人々は藩の外へ出ることは許されておらず、また異なる階級間の交流も少なかったため、言語の分化が激しく起こったといわれている。 ところが、明治維新によって人々の往来が自由にできるようになった。また「四民平等」によって今まで違う階級だった者同士が話す機会も増えた。このように、明治維新以後は、従来とは違った人々とのコミュニケーションが必要となった。 また、国家の統一のためにも言語の統一が必要とされた。いろいろな制度づくりにとって、統一された言語は必要不可欠なものであった。言語の統一は人間の意識の統一と考えられたからである。このような中から「標準語」は生まれた。 ○言語の統一に深く関係あるものの一つに通信がある。書き言葉による通信としては、明治二(一八六九)年には新聞・電報が、明治四(一八七一)年には郵便制度が始まった。話し言葉による通信としては、明治二十三(一八九〇)年に電話が、大正十四(一九二五)年にはラジオ放送が登場した。ラジオ放送は、一方的なメディアであるから標準語を「話す」力にはならなかったが、標準語を「聞く」ことは広めた。 ○子どもに対する標準語政策に利用されたのは、学校教育であった。一九〇〇(明治三三)年には小学校令によって、小学校にはじめて「国語」が登場した。「国語」では、言語統一にとって地方地方の方言が無用なもの、じゃまなものと認められた。このじゃまなものを「方言矯正」あるいは「方言撲滅」というスローガンによってつみとるのが標準語政策であり、国語教育であった。一九〇三(明治三六)年には、標準語教育を目指した国定教科書が発行された。標準語政策は日露戦争の勝利によって国家意識が高まりを見せるとさらに激しくなった。
お礼
現代の国語教育でも、教科書は同じでも 朗読すると、地方地方の訛りがしっかりあって これで『標準語』みたいになっているのが 面白いですよね。詳しい情報ありがとうございました。
お礼
なるほど、面白いですね。 ありがとうございます。