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江戸時代の切腹:本当に切るの切らないのか誰が決める。

 江戸時代の切腹は、江戸初期では実際にお腹を切っていましたが、江戸中期になると刀や扇子を腹に当てるだけで介錯人が首を落としてお腹は切らないのが一般的だったと聞きました。江戸末期になると、またちゃんとお腹を切る切腹が一般化した様で、堺事件や神戸事件の時など、外国人の前で立派にお腹を切っています。  そこで質問ですが、切腹が行なわれる際に(ただし、自分で勝手に切腹する場合ではなく、藩など、上から申し付けられての切腹の儀式での場合で)、実際にどれ位お腹を切るか、切らせるかは、誰が決めるのでしょうか。切腹を申し付けた方が、または切腹人を預かった方が、切腹の儀式の段取りの中で、決めてしまったのでしょうか。あるいは、切腹する人が、「見苦しくないよう、早めに首切って。」とか、「せめて最後は武士らしく死にたいので、介錯はぎりぎりまで待って。」などの指定が出来たのでしょうか。

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  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.2

こんにちは。 切腹の作法は、切腹する人本人の意思、というか、家によっては作法が伝わってたりしますので、それが尊重されたようです。 例えば介錯を立てない自刀式の切腹もありますけど、本人が望めばそういうのもOKだったみたいです。 実際は、江戸時代になると平和な時代が続き、自分でお腹を切るのが怖くて・・・って人が殆どだったと思われます。 また、切腹する人を受け入れる家で気を利かして扇子腹(本当に切らないやつ)で準備してあげたりする事も多かったようですが、本人が望めば実際に切る事は出来たようです。 ただ、しきたりとして、切腹に承服できない場合、そこにいる介錯人と検分役に勝負を挑み切り倒してしまえば放免?というのがあったらしいので、本当に切るのを望まれた場合は、検分役も断るわけにもいかず、相当緊張したでしょうね。 切腹はなんでもかんでもお腹を刺して切ればいい、というのではなく、最後を形式美で美しく飾る、という非常に重要なポイントがあるのですが、これを全く知らず、憤怒に刈られて滅茶苦茶な切腹をして失敗した人が三島由紀夫です。 つまり、お腹に深く刀を刺してしまうと、腰や膝の関節が伸びて、状態が上がってしまい、前のめりに立ち上がって倒れる、という現象が起こるのは古くから知られていました。 その為、お腹はせいぜい腹筋程度までしか刺さず、座ったままで介錯を受けるのが介錯をつける場合の作法なのですが、三島さんはこれを知らずに内臓に達するまで深く刺してしまい、立ち上がりかけた為、苦しむ時間を減らしてあげようと介錯の人がほぼ同時に振り下ろした刀が肩口に当たってしまいました。 動揺した介錯人は3回太刀を振るっても首を落とせなかったらしいです。 ご質問最後の点は、そういうお願いは出来たし、受け入れられたようです。 ただ、最終的には介錯の人の腕と経験と意識によったでしょう。

tomokitomoki
質問者

お礼

早速の丁寧なご回答ありがとうございました。 >つまり、お腹に深く刀を刺してしまうと、腰や膝の関節が伸びて、状態が上がってしまい、前のめりに立ち上がって倒れる、という現象が起こるのは古くから知られていました。 なるほど、こういう知見が昔はあったのですね。三島由紀夫は知らなかったのでしょうか。わざわざ切腹という死に方を選んだにしては、見苦しい最後だったとのことで、疑問に思っていました。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • Pinhole-09
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回答No.8

江戸時代の切腹には自死(自殺)と賜死(死刑)があります。   賜死の切腹では幕臣は大名家や他の幕臣に預けられ、そこで行う決まり(藩の場合もこれに準じたでしょう)がありました。    切腹作法書が何種もありそれに則って行ったようです。 戦国の気風の残っていた江戸初期を除き、切腹を納得した場合は短刀を押し戴いた時に介錯するのが普通だったようです。(扇腹も) 赤穂浪士の切腹で腹を突いた人はいなかっったと思います。 処分に納得しない時は短刀を腹に突きたて、時にははらわたを掴みだしたそうです。   美学の江戸時代は見苦しいと考えたようです。 江戸末期はまた武張った気性が盛んで戻ったようです。 大体腹切り人の意向が通ったことは先賢の書かれた通りです。   介錯人の身分(禄高など)を聞き気に入らぬ時は、替えてもらう事もあったそうです。   介錯人が身分を偽った話がありますが、これは真偽不明でも他にはあったそうです。

tomokitomoki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

  • henmiguei
  • ベストアンサー率45% (1764/3876)
回答No.7

大体暗黙の了解で切腹刀を左手から右手に持ち替えて少しお腹に突き立てた時に首をはねていたようです、赤穂浪士の切腹は白装束に居住まいを正して一文字に腹を切ってから首を落としたそうです、ただ生麦事件の時は検分のイギリス人に切腹した内臓を自らの手で引き出して見聞のイギリス人の方に放り出すしぐさをした剛の者もいたそうです、其の時まで首刎ね役は待ってその後で首に刀を振り下ろしたそうです、気持ち悪がったイギリス人はその場から早々に退散したそうです、この様に大抵は場の雰囲気現代語で言うなら、KYで行っていたようです、回答になりましたでしょうか。

tomokitomoki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

回答No.6

  >三島由紀夫は知らなかったのでしょうか<    切腹の儀式を研究し、その流儀について異論があるとしても、自作の 映画でも十分にリハーサルを重ねたので、軍隊経験者や剣道有段者より 以上に、よく知っていたと考えられます。   ── 短編《憂国 196101‥ 新潮社:スタア》 ── 映画《憂国 19660412 東宝:ATG》監督・主演・脚色・美術   <PRE>  三島 由紀夫 楯の会会長 19250114 東京  19701125 45 /割腹自殺/作家  森田 必勝  楯の会会員 19450725 三重  19701125 25 /割腹(介錯未遂)  古賀 浩靖  楯の会幹部 1947‥‥ 北海道       /介錯(逮捕服役) </PRE>  

tomokitomoki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 参考になりました。

  • yakyutuku
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回答No.5

そういう話は具体的な制度があったわけではないです。扇子腹や、死出の水(水だったり酒だったり)等、は世話人に意向を伝えるもので、基本的には世話人がその意向に従うものです。死装束だけは身内が用意するものらしいです。どの時点で介錯かも、切る前に介錯人に伝えるものです。切腹は最高刑ではなく、誇りある死でしたので、そのへんはまさに武士の情けで運用していたわけです。切腹を賜る・斬首に処す、表現を見れば一目瞭然なように位置づけが違うので、切腹の場合は本人の意向しだいで、それを周りの人間に伝えれば事が足ります。

tomokitomoki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.4

江戸時代については下記のことから切腹方法は切腹する本人が決められると思います。 1.東大史料編纂所教授の山本博文が著書で切腹が怖くてできない場合は服毒自殺という方法もあったと述べています。江戸時代の武家制度研究が専門なので間違いないでしょう。 2.切腹に抗議する場合は介錯を拒んだ。これを恨み腹というそうです。既述の堺妙国寺事件も外国の圧力に屈した不当な切腹命令に抗議したものです。 3.私が記憶しているNHK大河ドラマのシーンを2つ。ひとつは合戦に敗れ自決する場合は頸動脈を切ってました。(番組名不明)既述回答のとおり、確実死ぬためでしょう。  ふたつめは峠の群像で赤穂浪士が切腹する際、最年少の矢頭右衛門七(役者:野村義男)が切腹の作法を知らないので先輩に相談すると、先輩は「目の前の刀を取ればいい」ようなことを教えていました。既述回答のとおりです。  *しかし実際はどうかというと以下は私の意見ですが、幕末維新の動乱期はまだしも、太平の江戸時代に実際には切腹方法を決めるのは難しいでしょう。切腹を命令する者と切腹場所を提供している者は別です。恨み腹をしたら場所提供者に迷惑がかかります。赤穂浪士は幕府命令で他の複数藩の屋敷に預けられ、そこで切腹しましたが、各藩は幕府の命令のもとに切腹を執行しているだけで、赤穂藩とはなんの縁戚、利害関係もないです。切腹にかかる費用は各藩負担です。しかも熊本藩、長府藩はお預け期間中にかなり厚遇してくれたようです。その藩に「腹を十文字に切って内臓を投げたところで介錯してくれ」とは要求できないでしょう。  また、遺族、親類、縁者にも迷惑がかかります。そもそも切腹とは「死刑だったら家も断絶、親類、縁者も処罰されるぞ」(当時は縁坐制)だが、自分から切腹すればなんとかお家も残してやる、縁坐も最小限にしてやるぞ」というものです。武士はお家大事です。だから切腹のときにあれこれ(切るのを深くする)注文をつけるのは現実としてやらないと思います。

tomokitomoki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 江戸時代では、腹を切るにも、お家のことをまず第一に、なんですね。 ありがとうございました。

回答No.3

こんにちは. 質問から少し逸脱しますが, 出典が定かで歴史的に信憑性など, 責任ある真摯な書物から一部を転載します. 法学博士である井上和夫の著書に, 『残酷の日本史』があります. その中に「みせかけだけの切腹」という項目があります. それの一部を転載します. 切腹はがんらい,自殺の方法だった. 永延年(988年),強盗殺人犯の藤原保輔が捕らえられたとき切腹したのが, その最初だと言われている. 中略 その後,切腹は上から自殺を命じられる『賜死(しし)』と言う形で行われることが多くなり, 実質上は刑罰となんら異なるところはなくなってくる. 江戸時代の切腹も,自殺に偽装された死刑である. 上古の自尽も,賜死が多い. ただしこの切腹と言う方法は,自殺の方法としてはけっして適当なものではない. 腹に刀を突き立てたとところで,簡単に死ねないからである. 頚動脈や心臓を付いた方が明らかに楽に死ねる. 死ににくい腹を突いたのは, その苦痛にも臆しないという勇気を誇示したかったからである. 一文字・二文字・三文字・十文字・鍵十文字などの切り方があった. したがって,刑罰としての切腹は,次第に形式的なものになり, 江戸時代の幕府法では,切腹を仰せつかった罪人が 三方にのせられた短刀に手を伸ばそうとする瞬間, 後ろに立った介錯人が首をはねることになっていた その後には本物の短刀さえ使われなくなり,木刀を三方にのせて出した. だから実質は,斬首刑と同じである. 赤穂浪士も,ほとんどが実際に腹を切っていない. 中略 切腹処刑のうちでも,最も壮烈だったのは,明治元年(1868年)堺妙国寺事件の, 土佐藩兵たちのそれだった. この事件は,フランス軍隊に対する暴行殺傷事件で, 大阪土佐稲荷境内で抽選のうえ,死刑囚を決定し, 妙国寺で腹を切らせた. そのとき,若い一番隊 箕浦猪之吉(みのうら いのきち)は, フランス公使の面前で腹十文字に切って,自分の臓器をつかみ出して投げつけた. 驚き恐れた公使たち外人一同は立会いをやめ逃げ去り,ほかの囚人の処刑は免れた. 関連情報として参考になればと, 投稿しました. お役に立つようであれば幸いです. 切腹の作法などが記された書物も持っていたのですが, 年齢とともに忘却のかなたに行っており, 蔵書の中から探し出すことがかなわず, 今回少し逸脱した内容の投稿を試みました. ご不満の場合は,ご笑納ください. なお著者の井上和夫,日本法制史専攻・法学博士 明治36年広島県生まれ.文部省人文科学研究員.司法省司法研究員などを歴任. 現在ご存命であれば,御年104歳になられておられるはずです.

tomokitomoki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 長文の投稿をいただき、興味深く読ませていただきました。 箕浦猪之吉のような切腹は、今の人間には、あるいはおそらく江戸時代の侍でも、ほとんどの人には出来ない出来ないでしょうね。 ありがとうございました。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

藩にもよりますが、原則として自分で腹を切ることはまずなく、短刀を腹に当てるしぐさをしたところで介錯人が首を落とすのが普通だったようですが。

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