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実際の江戸時代は如何に?
- 江戸時代のイメージとは異なり、実際の江戸時代では物騒な生活や刀の振り回しは頻繁には起きていませんでした。
- 幕府や藩主、大名の統治が比較的しっかりしており、生活水準や人権の保護も一定程度行われていました。
- 江戸時代の日本は世界的に社会的秩序や治安、経済、生産性などの面で優れていました。
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個々のご質問とは別に、社会の仕組みを多少説明させて下さい。 武家というのは、全国レベルで言うと全人口の2%~3%でした。 推定総人口約3000万人とすると、60万人~90万人ということになります。 男女比1:1とすると男は30万人~45万人です。 さらに、老人、子供を考慮すると、成人男子は15万人~23万人ということになります。 つまり、実際の大名領の運営にあたっていた成人男子の武家というのは極めて少人数でした。 現在の地方公務員の数よりもはるかに少なかったということを御理解願います。 大名領の武家は城下町を日常的に私的に離れることは非情に難しかったです。 なかには、法令で禁止している藩もありました。 すなわち、江戸時代の大名領では武家は城下町の中だけをウロウロしていたことになります。 江戸だけは、武家と町民の人口比率がほぼ同数という極めて特殊な都市でした。 江戸の武家も、多くは参勤交代に従ってきた武家で、1年間の単身赴任でした。 結果として、町民の男女比はほぼ1:1であったのに対して武家は男過剰でした。 時代劇や時代小説はこの特殊な都市であった江戸を舞台としたもが大半ですので、よくイメージが誤解されます。 大阪や京都を舞台にした捕物帳の類が皆無に近いのにお気づきでしょうか。 まして、大名領のものはお目にかかったことがありません。 最近の時代小説には、大名領を舞台にしたものがちらほら出回っています。 細かな資料が無い為か作家も四苦八苦しています。(町の描写がほとんどありません) このことが、江戸時代を議論する難しさです。 江戸の町を議論するのか、日本全体を議論するのかで大きく違ってきます。 幕府を初め大名の組織は軍事組織です。 現在のような民政に関しての組織は基本的には持っていませんでした。 幕府や大名家を運営するのに必要な事務部門は持っていました。 軍費調達の部門である勘定方が租税の徴収に必要な機能を有していました。 租税徴収に必要な警察権も所有していました。 この部門が最も領民との接触が多い部門でした。 民政は全て農民か町民の自治組織に委ねられていました。 年貢の徴収も勘定方の下級役人である代官がその年に必要な数量を指示するだけでした。 実際の徴収は農民の代表である、名主(庄屋)がその任に当たっていました。 名主(庄屋)の基に自治運営の為の役員である肝入りとか百姓代と呼ばれる人達がいました。 村役人と呼ばれていました。 基本的には農民による選挙で選ばれていました。 面倒なので親子代々という人が沢山いました。 すなわち、大名領の大半を占める農村はこの農民の自治組織によって運営されていました。 江戸の町をはじめ都市部は、農村同様に町役人と呼ばれる自治組織があり、運営されていました。 時代劇や時代小説に出て来る、捕物の親分は、この自治組織内の人です。 あくまでも町民です。 町を管理している奉行所の役人ではありません。 武家を取り締まる為には、全く別の組織がありました。 幕府をはじめ大名は財政難から、常に一人でも減らそうとしていました。 ほんの些細なことでも、たちまち無役にするか、家を取り潰してしまいました。 武家の基本給は親子代々変わらずに一定でした。 武家には職業選択の自由はなく、武家を廃業して、町民になるか農民になる以外に方法はありませんでした。 うっかり市中で刀など抜けばたちまち難癖をつけられて、役職手当は取り上げられ、その上基本給を削られてしまいます。 本人が腹を切るだけでは済みません。子子孫孫貧乏のどん底へ突き落されます。 この為に親は息子どもがアホなことをしないように徹底的に躾ました。 喧しい法律だの倫理観だのなんだのというものは必要がありませんでした。 現在のサラリーマンの方が余程身分が保証されていました。 こんな連中では、小説にも芝居にもなりません。 身分外の身分である穢多、非人も誤解が多いのでついでに説明させていただきます。 皮革は鎧を始め武具には不可欠な軍需物資です。 この皮革の生産が穢多と呼ばれる人達の独占事業でした。 仏教が殺生を禁じていたことから、穢多などという訳の分からない名称を勝手につけてしまいました。 江戸時代には、農家が飼育している牛馬が死んだ場合には、自分は無論のこと村民は手を触れることができませんでした。 専門業者である穢多の人にお願いしなくてはなりませんでした。 皮革の闇流通の防止策です。 さらに日常的な現金の収入源として生活必需品である灯心の製造販売権を独占していました。 この穢多の頭領は苗字帯刀を許され、将軍に直接拝謁する権利を持っていました。 江戸城へ登城する際には大名と同格の駕籠供揃で登城しました。 さらに、穢多身分の人達を捕縛裁判処刑する権利=司法権を持っていました。 この特権と権限は大名領とは無関係に全国に及んでいました。 このような仕組みを理解できなかった薩長の田舎侍が明治政府を立ち上げたときに、身分の取り扱いを間違えた上に、この人達を完全に無視して皮革製造を自由化してしまいました。 非人と呼ばれる人達は、生産流通販売に関わらずに生計をたてていた人達のグループです。 穢多と同じように独自の自治組織を持っていました。但し穢多のように司法権は認められていませんでした。 当然、歌舞伎役者は身分上は非人です。現在の俳優もタレントも歌手も全て非人となります、 乞食も組織化されてこの自治組織に組み込まれていました。 自治組織の了解なしには、乞食はできませんでした。 町民に対する刑罰の一つとして、身分を剥奪して非人とする刑罰がありました。 つまり、武家は主家が取り潰されて放り出されると、乞食もできないということになります。 飢え死にするか、盗人、強盗になるか、町民から手内職でも分けてもらう以外に生きて行く術がありませんでした。 浪人が始末がわるかったのはこの為です。 江戸時代はあらゆることが連隊責任でした。 江戸の町の長屋で不始末が起きると、長屋の住人全員のみならず管理人である大家、資産を保有する家主までが責任を問われました。 農漁村では一ヶ村全体が責任を取らされました。 結果として相互監視が厳しい社会でした。 それとともに相互扶助という習慣も徹底していました。 このような社会システムであったことから、ごくわずかな武家で安定した統治ができていたとも言えます。 この相互扶助、相互監視を人情と呼ぶか、お節介と呼ぶかは、現代人の感覚です。 現在のマンションの住人の感覚では一日も生活できなかったでしょう。 人権とか個人情報とかプライバシーとかいう尺度とは価値観が全く違う時代であったと御理解下さい。
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- TANUHACHI
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穢多・非人の身分が卑賤の民である一方で世俗の法規範に縛られることがなかったのは、中世的な構造をそのままに温存した形です。彼等に通用するのはアジール空間の規範のそれであり、その保護は権威に依存もします。 大山崎の油座神人がなぜ多大な利益を求めることができたのかとの背景を辿るなら、離宮八幡宮と他者との権利関係も視野に入れねばならないことにもなります。 そして卑賤の身分には自由民としての側面もあります。自由民というのは移動の自由が保障されてもいるとの公認をお墨付きとして手に入れていることも意味します。 一方の卑賤の民以外にそれがあるかといえば、居所を離れることの困難さもあり、それは檀家制度などにもよる人身の管理統制政策にも覧られるといえます。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- TANUHACHI
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>・一般人の人権は江戸時代なりに保障されていたのでは? この「一般人」が何を意味するのか。それが明確な形で定義されていなければ、「江戸時代の日本は世界的にあらゆる分野で優れていた」との評価には必ずしもつながらないはずです。 俗に「士農工商」との識別コードとは別に卑賤の民と呼ばれ、員数にすらカウントされなかった無数の民が一方にいたこと。その事実を知らねば、江戸時代やそれを踏襲した?日本が優れているなどとは夢物語に等しいですね。 もっと「社会構造と法体系の関係」を学ばれた方がよろしかろうと存じます。なぜ江戸時代では質屋や高利貸しを生業とする商人の活動が活発だったのか、上記のご質問及びその前提からは応えることも難しいはずで、江戸の街中には「貸し褌」などといって下帯をレンタルする商売もあったほどですから、それほど豊かな生活レベルとは考えにくいことにもなります。 彼方此方にその名残がみえる「首振り坂」も男女の営みを禁ぜられていたはずの仏門にあるものなどが身分を偽って密かに通い、道の両側にある水茶屋の店先を覗いていたことから名付けられた隠語としても知られています。表向きの秩序と現実の狭間を覗くことも歴史を知るためには必要です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 カネと物に不自由をしている人が意外と多かったんですね。 だから貸し商売が江戸時代では盛んだった。と言うよりも今で言う政治利権みたいなのがあったのかもしれませんね。 物やカネを流通しにくくして貸し商売をする人が儲かる社会の仕組みにするとか。
- 0fool0
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皆さんが既に、書き込んでいるので、幾つかポイントだけ・・・ 江戸時代の庶民の識字率の高さ(高等数学のレベルはヨーロッパと同等) 支配階級である武士の経済基盤が米である事(つまり経済成長と共に清貧に成らざるを得なかった・・) ほぼ100%のリサイクル率(道に落ちている紙や髪も売れた、都市でゴミが無い・仕事がある) 街の辻辻に番所がある(実際は町々が費用を出す為に自治システムに近かった) これらは特に江戸で顕著な特徴でもありましたが、概ね江戸期を通じての特徴でしょう。 確かに陰惨な事件も記録にありますし、人権等と言う考えは存在しませんが、当時の世界でそうではない国は一つも無かったのも事実です。 文化レベルの高さはそのまま国力の高さに、支配階級の清貧はそのまま政治の安定に、リサイクル率はそのまま加工技術や衛生面に、番所は交番になり治安の安定に。 見た目は中世でも、内容は近世のトップレベルの国でした。 ですので短期間で産業革命の技術を習得する事が出来、政治形態を受け入れられ、社会を回せて、安定をさせる事が出来たのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やっぱし昔の日本は凄かったんですね。 武士はかなり苦労していたようだけど… 徳川家が250年にも渡って幕府を維持していた事、地主と農民が現代に子孫と土地を残していた事、現代の武士や侍に対するイメージが良い意味でカッコ良かった事等、昔の日本はそれなりの文化を築いていなきゃ成し得なかった賜物ですよね。 時代劇や昔話のような理不尽な社会構成や中国共産党や北朝鮮みたいな幕府じゃ日本はとっくに滅びていたでしょうね。
- TANUHACHI
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統治システムと呼ぶよりもむしろ階層分化がより進むと同時に定着化した時代ともいえるでしょうね。 そして一つ特筆すべきはイデオロギー統制の部分でしょう。何よりも徳川体制が意図したものは朱子学に基づく儒教道徳であり、儒学といっても陽明学派や石門心学などは蚊帳の外状態です。カチカチの固定観念に基づく道徳が民間にもたらしたものは逆にパロディや皮肉そして批判精神といった部分を生み出すにも至っています。 芭蕉や近松、あるいは西鶴や南北といったプロの書き手がなぜ大向こうをうならせる様な作品を生み出すことができたのか。その背景にあるものを辿っていけば、儒教が依存する「修身斉家治国平天下」の文字に対する反発以外の要素を見つけることも困難でしょう。 寺子屋にいけば、百人一首やカルタを使った庶民の生活の知恵や素養の高さが其処彼処に鏤められていたこともわかります。 ただ前提すら異なりますので、一概に西洋の近代以前と比較することはナンセンスでしょうね。西洋のそれがキリスト教による支配に対する批判精神から芽生えたことに対し、日本ではキリスト教に比定するものがありません。仏教といえどもそれを統治原理に緩用した形は古代社会のごく一部の時期にしか見られず、神道に至っては「八百萬」ですから、これも一元的な統治原理とは対極に位置することとなりうる。消去法でいけば残されたものが儒教だけだったとの話に行き着きもします。 飢饉に関して言えば、有名なところでは浅間山の大噴火や富士山の噴火などといった自然災害の前には何らかの有効な対策も打つことができたかといえば疑問符も付きます。社会的セーフティネットなどは存在もしません。 江戸城に本丸が再建されなかったのは、それほど幕府の懐具合も芳しくなかったとの現実的な問題が背景にあり、その一方で新井白石やら松平定信などといった儒教原理主義者は現実を知らず闇雲に統制や締め付けを行っただけの話です。やだねぇ~、彼等のような官僚的な学校秀才は。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
他の方が回答していないことについて書けば、当時は法人税(所得税)というのはなかったんですよ。いわゆる「座」のようなものに所属しなければならない場合、つまり許認可が必要な業種なら組合費みたいな名目でお金は取られましたし、関係者への賄賂は必要でした(この場合、担当の役人は賄賂が前提になって給料が安い場合も多かったのです。だから、賄賂がないことはその武士にとっても死活問題になっていたりします)。 ましてや累進課税なんてものはないわけですから、商人は、儲ければ儲けるほど、儲かるものだったのです。吉原の太夫なんてのはいってみれば高級娼婦で、なじみの客になるには諸々費用含めて200両くらいかかったそうですが、それだけの大金がかかったということは、それだけの大金が払える客がそれなりの人数いたということです。もちろん中心は高給取りの武士(場合によっては大名)と大店の商人なわけですが。 ただしその反面、あまり目立ちすぎると「その贅沢目に余り不届き千万」と一方的に言いがかりをつけられて取り潰されたりしますから、目立ち過ぎはよろしくない。まあ現代でもホリエモンのライブドアは国策で潰されたようなものです。また、幕府や大名から「金を貸してくれ」と頼まれることもあるわけで、この場合当然のことながら無担保で融資せねばならず、おまけに断ると取り潰されちゃうかもしれないし、返してもらえるかどうかは不安なわけですから、ま、商人は商人でストレスはあります。薩摩藩が金を借りた商人を一堂に集めて、刀を持った武士で取り囲んで「借金は、これから300年くらいかけて返すからいいな」といって無理やり同意させた話は有名ですね。 江戸時代というか、日本の徳川幕府が独特なのは、窮民救済について幕府(政府)が責任を持っていたということです。江戸時代初期の振袖火事のときにこれは危急存亡の合戦と同じであるといって江戸城の備蓄米が被災者に無料で振る舞われたことを前例に、江戸では大災害(大火事、地震、台風など)が発生すると江戸城の備蓄米が被災者に振る舞われました。これはなんと、最速だと翌日には振る舞われていたのです。 アメリカでさえあのカトリーナ台風の後、「治安が安定しない」という名目で被災者への援助物資に時間がかかったことを考えると、今のアメリカ政府より徳川幕府の方が災害時の対応は迅速だといえます。 ほぼ同じ時代が「レ・ミゼラブル」の時代だったと思うと驚きでしょ?もちろん日本にもミゼラブルな人々はいたことはいたわけですがね。 また江戸時代の刑罰については八百屋お七の話が有名です。 八百屋勤務の小娘お七ちゃんが一説には惚れた男会いたさに放火をしたっていう事件で、放火っていうのは古今東西いつでもどこでも重罪なんです。ちなみに現代日本でも人が住んでいる家に放火すると最高刑は無期懲役(死者が出なくても)になります。 だからとんでもない重罪なんですが、お七ちゃんは15歳だったんです。で、当時の少年法的なもので、14歳までは処罰の対象にはならず、15歳から処罰の対象だったんですね。 だけど、もしお七ちゃんが「私は14歳です」といったらこれは奉行を騙したことになる。だから奉行は「お前は何歳だ」とは聞けない。彼は「お前は、14だな」といったんです。それにお七ちゃんは「はい」と答えれば「よし、じゃ14歳だから刑罰はしない」となったんです。もし後から15歳と判明してもそれは奉行所のミスだから奉行でも彼女の責任でもないし、元から周囲もそのつもりだから「ま、そういうミスもあるよね」で終わらせる気満々なわけです。 だけどお七ちゃんは「いいえ。私は15でございます」と答えたので、そういわれると奉行も処罰しなければならないので、憐れ彼女は刑場の露と消えたのです。この手の「温情判決」は結構あるんです。よくいえば情が通り、悪くいえば馴れ合いになっていたわけですよね。 江戸時代を乱暴に一言でいうなら、「ゆるい」ですね。あの身分制度でさえ、そりゃ確かに農民が大名になることはできませんでしたが、養子縁組という形で取り立てることができましたからね。最上徳内やジョン万次郎のように身分が低くても頭がいいと認められた人は取り立てる手段があったんです。 ちなみに女性の場合はだれか武士の身元引受人が養子とするとあら不思議、「武家の娘」になるので、この手段の使いどころはどこかのお武家さんが置き屋の娘を妾にしたくなったときに武士だと武士の娘じゃないと妾にするのもNGですから、そういうときに誰かに「お前の娘にしてくれ」と頼んだわけです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 江戸時代のお役人は豊かな暮らしを安定させるには色々工夫しないといけない時代だったんですね。 しかしまぁいざ天災が起きれば幕府は現代以上に早く食料を被災者に届けていたんですか。
- oignies
- ベストアンサー率20% (673/3354)
詳しい回答がすでにでていますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり時代劇のようなイメージでは徳川幕府は200年以上も繁栄せず何処かで徳川家は失脚していたでしょうね。 徳川幕府は大したもんですね。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
・物騒 ・生活圏でも殺しが頻繁にあった ・侍が刀を振り回してる ・つじ斬り ↑ 江戸時代の治安は、非常に安定していました。 庶民の多くは鍵など掛けませんでしたし、 窃盗以外の犯罪はほとんどありませんでした。 江戸市中で刀など抜こうものなら、切腹もの ですよ。 そのため、武士は細身の刀を更に細身にして 腰に差していたぐらいです。 使うことなぞ、一生無かったのですから。 無礼打ちは認められていましたが、それには 正当な理由が必要とされており、正当かどうかは 旗本なら老中が決めました。 実際の無礼打ちなど数えるほどしか有りません。 町民達もそれを知っていますので、度胸試しで 武士に因縁を付けることが流行ったぐらいです。 その為、武士は無用の外出を避けるように なりました。 ”江戸時代じゃ討ち首獄門、はりつけ獄門、切腹” ↑ 刑罰は今よりも厳しかったです。 その代わり治安は非常に良かったと言われています。 ただ、10両盗めば死罪、ということになって いましたが、実際は可哀想ということで 9両9分盗まれたことにして、死罪にしない例が ほとんどでした。 姦通も死罪が建前でしたが、これも可哀想ということで 買春として処理しました。 島流し以上の刑罰は、将軍の許可が必要でした。 ただ、監獄はひどかったらしいです。 ・人権もクソも無い社会 ↑ 人権という概念は当然ありませんでしたが、 人間はそれなりに大切に扱われていたのは 刑罰でも解るでしょう。 特に犬将軍で有名な綱吉時代には、捨て子、捨て老人、 捨て病人を厳しく取り締まりました。 ・格差が半端ない ↑ 下級武士よりも、民百姓の方が豊かな生活を していました。 格差はありましたが、それは武士なら武士間で 商人なら商人間での格差が大きかったです。 ・一般人に自由が無い ↑ 当時の庶民は政治批判をある程度自由に やっていました。 「白川の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」 「この虫、常は丸の内に這い回る皆人、銭出せ金出せ、まいないつぶれという」 いずれも、当時の政治を批判した川柳です。 ・農民は年貢の取り立てに追われる日々 ↑ これは調べもしなかった昔の思い込みです。 実証的研究が進むにつれ、農民は結構 豊かな生活をしていたことが解ってきました。 「年貢さえ納めていればよいのだから、百姓ほど 楽な仕事はない」 と言われたほどです。 年貢ですが、5公5民が基本でしたが、生産性の向上と 隠し田などの開発により、年貢の実質的割合が、4公6民、 3公7民、場所によっては2公8民というところまで 出現しました。 現在の租税負担率が40%もありますから、 江戸時代の方が軽かった、と言えないではありません。 隠し田など摘発すれば、と思いますが、当時の 武士はそれが出来なかったのです。 摘発すれば一揆を起こされたりしますので、怖れて やりませんでした。 百姓の了解がないと何もできない、と 嘆いた武士の記録が残されています。 こうして、百姓が豊かになれば町民も豊かになります。 しかし武士の給料は一定ですから、物価が上がると ともに、武士の生活は苦しくなっていきました。 こんなことは世界にも例をみません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり江戸時代の治安は時代劇と違って安定していたんですね。 何かと疑問に思っていました。 農民もそれなりに裕福だった反面、武士が苦しい生活をしていたのには意外でした。 今で言う中国共産党や北朝鮮みたいな統治をしていたのならば反幕府運動でたちまち徳川幕府は失脚していたでしょうね。 また、農民の生活が苦し過ぎたら農民が家庭すら維持出来なくなり、地方の集落とかに現代まで子孫を残す事は出来なかったでしょう。 特に地方では先祖代々同じ土地で暮らす人が今でも居ますから。
- trajaa
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>侍がむやみやたら刀を抜く事なんて無かったんじゃないのか?刀の手入れ、刀の練習、よほどの命の危険に晒された時にしか刀を抜かなかったのでは? はい。 (家の外で)刀を抜くということは、その結果にかかわらず己の命、家の存続を掛ける覚悟が必要だった どのような状況かで経過は色々あるけど 例えば街中で町人を切り捨てた場合には、これこれこういった理由で切り捨てたと然るべき筋へ届出を行う必要があった その届出を受けて審議を行い理由がもっともだという結論を得れば良いのだが、理由に筋が通らないと無闇な刃傷沙汰として処罰の対象になり、下手をすれば自らの命や家名を失うことに繋がった 相手が武士であれば、負ければ武士の面目に関わる不始末だし、勝ってら勝ったで面倒で斬り合う事になった経緯に違法性が無い事を証明しなければならない また当時はコネや人脈が幅を利かせているし、一事不再理という原則もないので 事件直後は問題無くとも、何十年も経ってから思わぬ仕返しがあるとも限らない だから、刀を抜くというのは余程の事が無ければ発生しなかった
お礼
ご回答ありがとうございます。 何処かの博物館や寺で現代まで大事に保存されている武士や侍の当時の刀が新品みたいにやけに綺麗で手入れされてるから人をバッサバサに斬ったようにはとても思えませんでした。 やはり侍はむやみやたらに刀を抜かなかったんですね。 刀は武士や侍の誇りが詰まった物なんですね。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
「江戸」の市中に限って言えば治安や秩序は割りと安定していました 将軍様のお膝元で辻斬りだの盗み等はゼロでは無いが少なかったようです 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたように 庶民同士の喧嘩やいわゆる983者の抗争など 現代でも起こっていることは江戸時代にもありました もちろん一般の農民の権利はそれなりに保障されていました 「士農工商」という身分制度は知ってますよね? 農民は武士の次に身分が高いのです で 一番下の商人は代官に取り入って権利を保障してもらうって言う時代劇のイメージですが じっさいそんな事はほぼ無かったようです 商人はやはり商人なんですね 江戸の町のライフラインは今にも匹敵するぐらいですよ 下水道は整備され 大衆浴場もあり さらには糞尿を処理する専門の職人(笑)まで居ました 江戸時代は明治以前に比べると閉鎖的で文化水準が低いというイメージですが これは完全にテレビによる間違った刷り込みなのです
お礼
ご回答ありがとうございます。 江戸時代に既に下水道が整備されていた!?ホントですか?凄いですね!ここまで進んでいたんですね。 何かしらのトラブルで農民一揆は起きていましたが農民にもそれなりの権利と保障は与えられていたんですね。 時代劇みたいな権利も保障もクソも無い社会じゃ徳川幕府が250年も続く訳がありませんよね。 やはり250年続いた徳川幕府はそれなりにしっかりしていたんでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 穢多は意外にも一部公的な権限があったのは驚きです。