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函谷関と武関
戦国時代、何度も函谷関で戦いが起きてますが、なぜかいつも函谷関です、武関ではありません。 劉邦は武関所ですが、これも主攻軍の項羽軍に対して搦め手軍の印象です。 なぜ函谷関が戦場となるのでしょうか?武関のほうが堅牢なのでしょうか?
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関中は東西南北の4つの関と東は黄河。西や南は険阻な山に囲まれて防衛面が優れているだけでなく、渭水のお陰で食糧自給にも優れる王城の地です。 東にある関の函谷関は関中と中原諸国を繋ぐ場所にあり、南の武関は楚に対しての前線って形。関中を支配する秦としては強国の楚と戦って土地を得るより発展している中原諸国の都市を取りたいので基本的には函谷関が秦の侵攻拠点になります。 防衛する中原諸国としては黄河を渡って函谷関にいる秦軍をスルーして武関を目指すのは戦略・輸送面で無理がある。動画で魏・韓・趙と黄河や函谷関の位置なんかをみるとイメージしやすいかもしれません
お礼
ご回答ありがとうございます。ただ楚が加わった連衡軍もやはり函谷関で戦っています。