- 締切済み
歴史認識
戦国時代の事柄で一般の認識と史実では異なっていることを出来るだけたくさん教えて下さい。 現在、私が知っているのは >戦国時代には本格的な騎馬隊は存在しなかった。 >長篠の戦いで織田軍が三千丁の鉄砲での三段射撃を行ったのは嘘。 >桶狭間は狭間ではなく山である。 です。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
みんなの回答
秀吉の一夜城は一夜で建てられていない。 通常の建築期間の数分の一の早さで建てられたのであって一夜で建てた訳ではない
吉川元春に関しては、当人が言い出したかどうかははなはだ疑問で、父親の元就が熊谷信直を味方に付けたいため息子に内意を漏らし、それに元春が答えたのではないかと、私は考えております。 この逸話は「蓼食う虫も好き好き」として、小説などでもよく取り上げられますが、この逸話の当時、彼の年齢は数えの18歳、現在の高校生程度ですから、自分で言い出すとは、幾ら元春が大人びていたとしても無理がありますし、 http://hagi.jp/~y-kaji/cultural_assets/kumagai_monjo.html この熊谷家文書でも、 「就彼間之儀、おそなはり候へ共、以小二郎申入候之処、御懇之由候、所仰候、幾度申候而も、犬之様候へ共、少輔二郎御殿者に参上にて、如此申かけ候、・・」 と、言っているのもわざとらしく、裏読みすれば政略結婚かなと読取れます。 元春は側室を持たず、この新庄局との間に4男2女をもうけており、連名の手紙も残されていますから、至極夫婦仲はよかったと想像されます。 当時としては、身分のある武士が側室を持たないのは珍しい話で、常識では無いと言うことで紹介しました。 >父の熊谷信直が優れた武将であったので、その遺伝子を我が子に継承させたいという考えから というよりは、政略から発した結婚が、たまたま相思相愛になったということで、理屈はなかったのではないかな。 徳川家康の後家好みも有名な逸話で、女性には優しかったといわれている。 また、家臣ではなく武田家旧臣や北条家旧臣に縁の者が多く、征服者として征服地の家臣たちの信頼を得るという目的もあったのではないかと見ております。 旭とは面白おかしくいろいろな小説が書かれていますが、家康の性格から女性に恥をかかせるようなことはしなかったのではないかと想像をたくましくして、紹介しました。 あくまで想像ですから、実際は分かりません。 家康は人生50年の時代に60歳を越えて、側室お万との間に水戸頼房を得ていますから、これも凄いと思います。
- caesar-x2
- ベストアンサー率46% (251/542)
× 吉川元春(毛利元就の息子)はブス専 → 父の熊谷信直が優れた武将であったので、その遺伝子を我が子に継承させたいという考えから、その娘と結婚したのであって、容姿は関係ない。吉川元春はそういう”お堅い”武士。ブス専なんていう低次元の話じゃない。 × 徳川家康も下品な女性が好き ”言葉遣い”が間違っている。下品と下賎では意味が全く違う。結局、それで書いてあることは意味不明の内容になっている。再婚はただの政略結婚。毎日の食事を取るように女を抱いた家康は多数の側室をもったが、妻の家が権勢を持ったり、派閥ができるのを嫌い、安全上の理由もあって、信頼のおける下級家臣の娘などを積極的に”手をつけた”。彼女達は下級ゆえに自由にできるので、これはむしろ男としても領主としても賢いやり方。
1. 武田信玄の次の武田家当主は勝頼ではない。 信玄没後、息子の勝頼が武田家を継いだと言われていますが、本当は武田信勝が当主。 勝頼は諏訪家の当主なので、信勝の後見人という立場。 2. 織田信長はご隠居さん 信長は早い時期に織田家の家督を長男の信忠に譲った。 従って、織田家の当主は織田信忠で、信長はご隠居さん。 尾張・美濃の領主も信忠。 3. 吉川元春(毛利元就の息子)はブス専 嫁を迎えるときに父親から希望を聞かれ「熊谷信直の娘が望みである」と答えた。 近隣に聞こえた不美人なので、驚いた元就が思い直すように諭したが、どうしても嫁に欲しいと押し切った。 結婚後は嫁さん一筋、浮いた話もない。 4. 徳川家康も下品な女性が好き 最初の結婚で、今川家の縁に連なる築山(美人)と結婚したのがトラウマで、農家の後家さんとか、身分が卑しい女性が好み。 秀吉の妹の旭と再婚したが、彼女もけっこうな歳で、農家のおばさんといった人だったらしい。 一応、初夜は共にしたとか(見てきたわけではないので、肉体関係までは??) 5. 今川義元はお歯黒で有名だが、信長もお歯黒だった(らしい) お歯黒は虫歯の予防によく、身分のある方々はやっていた。 信長もやっていたのではないかと、以前TVで歯医者の先生が発表していた。 風習なので、お歯黒でもおかしくはない。
「馬乗なんとか(忘却)」という地名が「てきば」のとなりにありますので「馬を中心とした武力行使」は.多分地頭がいた頃(当時の墓が残っている)があったはずです。となりの地名が(地名)免で.免田の指定を受けていたようです。ただし.集落名です。 アイヌ語として解釈するとその地形がうまく説明できるのですが.日本語としてこじ付けとも取れる地名の由来が数多く残っています。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
>戦国時代には本格的な騎馬隊は存在しなかった 映画やドラマの見過ぎで「騎兵」というものの「イメージ」が食い違ってるだけです。 >長篠の戦いで織田軍が三千丁の鉄砲での三段射撃を行ったのは嘘 必殺技を付ける具合に「三段撃ち」と命名された感じです。 何でも命名付けのある日本ならではでしょう。 物語りも「後付」です。 戦国時代最大の戦死者数をだした凄惨な激戦です。 生々しく語っちゃ気持ち悪いでしょ?
- caesar-x2
- ベストアンサー率46% (251/542)
× 戦国時代には本格的な騎馬隊は存在しなかった → 騎馬隊の定義を誤って認識している 騎馬隊は騎乗兵だけで構成されているという考え自体が 間違いなので、誤った前提から誤った結論を導いているだけ × 長篠の戦いで織田軍が三千丁の鉄砲での三段射撃を行ったのは嘘 → 三段撃ちとは、具体的にどうやったのか どういうものを指すのかが 不明、あるいは諸説ある上に 三段撃ちの記述自体の信憑性にも疑問符があるが、 結局のところどうやったのか不明というだけで それがなかったと証明することもできないわけで 嘘と断定すらできない