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in the past / the future

past とfutureになぜtheがつくのかについて質問します。私の説明を述べていきます。おかしいところがあればご指摘下さい。 まず、時間の枠組みを2種類提示します。一つは{past, present, future}という概念の枠組みです(枠組Aと呼んでおきます)。言語主体によって客対物として設定されたもので、それぞれが独自の時間領域を持ちます。 past, present, futureのそれぞれは、枠組みを構成するデフォルト要素(もともと存在するはずの要素)として組み込まれたわけですから、文中で使用される際は定冠詞がつきます。この時間領域においては、具体的な行為や出来事が表現されることはありません。3つの時間領域について抽象的な言明が行われるだけです。--Don't think of the past. Mind the present and the future. もう1つの枠組みは、現実に何かが存在したり起こったりすることが表現される場です。これを枠組B {past, present, future}と呼んでおきます。---She's busy at present, but will be free in the future. 枠組Bは生活者(言語使用者)によって日常常識的に把握されるべきものです。ところが、そこに、物理学的な時間の考えが混入してくると混乱を招くので、物理学的な時間の考えを排除しようと思います。  例えば、物理学では、無限にのびる時間直線tを引き、線上の任意の点を現在と定めます。ここでは現在が瞬間の時間とされます。(我々の日常常識的な考えでは、現実の現在の時間は瞬間ではありません。それは比較的短めの時間であって、その時間幅は言語主体の思惑に応じてよって伸び縮み可能なものです)。それだと、現在は人が生きる時間ではなくなってしまうので、物理学的な時間は今回の考察から一切排除するものとします。 なお、過去が現在より以前のことであり、未来が以後のことであるとすることは、第一義的に日常常識的な時間の考えだと思われるので、この考えは残します。 これから日常のありのままの時間について考察を進めたいと思います。  さて、人間は時間というものを考える時、まず「今」を基準に考えようとします。「今」が唯一、現実に生きられる時間だからです。「今」より以後の時間を未来とし、「今」より以前の時間を過去としました。 では、未来は永久に存在し続けるかということですが、厳密に言うと、未来という概念を作ってその定義に沿って理解を行うしかない人間にとって、未来は言語共同体が存続する(人類が生存し続ける)かぎりでの永久的な存在物です。でも、実際は、人々は何となく無限の彼方の未来(および過去)というふうにとらえられているのではないかと思います。 Aの枠組みにおける{past, present, future}という概念要素はそれぞれがつながりを持たない抽象的なものととらえられていますが、言語主体とのあいだにも隔たりができていて、主体によって客体的にとらえられています。  一方、Bの枠組みにおいてはそれぞれの概念はつながりを持ちます。生きられる時間(人が生きたり、何かが起きたりする時間)なので人間(言語主体)との間にもつながりがあります。ここでは言語主体は時間を客体的にとらえることはできません。 言語主体は今の瞬間にも言語を使っているわけだから、現在という時間と直接のつながりを持っています。言語主体が概念と直接のつながりと持つ時、概念は客体化されないので冠詞はつきません。よって、現在は冠詞のつかないpresntで表します。  pastもfutureも同様です。なぜなら、我々の実感として現在の体験はやがて過去の体験と見なされるようになり、未来の体験はやがて現在の体験と見なされるようになります。3者を区切る境界線はありません。先ほども言ったようにそれぞれの時間概念はつながりを持ちます。  だから、pastとfutureにも冠詞はつきません。これが枠組B{past, present, future] です。ところで、これらの表現は、誰かが何かをした、何かが起きる、といったようなことを表す背景として使われるものなので副詞句として使います。(過去・現在・未来自体が主題として扱われるのは枠組Aにおいてです)。すなわち、定冠詞登場以前では、{in past, at present, in future}という実践的な枠組として使われたはずです。  過去と現在はその境目付近において非常に流動的です。だとすれば、過去に起きたことが 現在とつながっていてもおかしくはないと言えます。それゆえ、過去に始まって現在も続く表現(現在完了)が可能だということになります。過去の表現は「現在より以前のある時(時期)、および過去から始まって今に続く時間」を表すことが可能です。よって(定冠詞登場以前の時点では)現在完了の文中でin pastという語句の使用が可能です。 ところが、ある時期に定冠詞が登場しました。結果から言うと、現在ではこの2番目の枠組みは文中で使われるときは、{in the past, at present, in the future}となりますが、では、なぜ{in past, at present, in future}ではないのか、これが2つ目の論点です。 よく言われることですが、過去のことは確定しているから定冠詞がつくと。本当にそうなのでしょうか。未来はというと不確定のことばかりなのにどういうわけか定冠詞がついています。このことからして<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>という言い方は怪しそうだという気がします。  過去の出来事について語る話し手にしてみれば<その過去の出来事が確かに過去に起きたことだと聞き手に確認可能なのでなければ>定冠詞の使用は許されないはずです。確認および検証が不可能な場合、その出来事がたしかに過去の出来事だと聞き手が同意するはずだという確信が話し手の側になければなりません。ただし、そうした確信が得られないことはいくらでもあります。  現実には、多くの場合において、過去の出来事が聞き手によって確認されようがされまいが、また、聞き手の同意の有無に関わりなく、過去をあらわすpastにはtheがつきます。というわけで、<過去のことは確定しているから定冠詞がつく>と言う言い方に根拠がないことは明白です。 pastにtheがつくことには別の根拠があるはずです。 そもそも、過去の出来事を確定していると聞き手が確認することはいかなる体験なのでしょうか。当然のことですが、過去は厳然たる過去なのであって、それは人間の思惑と無関係に存在するので確認など不要だとする考え(素朴実在論)は成り立ちません。確定したはずの過去を確認しようとする人間は確認のための作業を行わなければなりません。聞き手がある過去の出来事について聞くか読むかするとき、聞き手は過去を間接的に体験するにすぎません。ところが、その出来事を心の中で想起するとき、後悔や嘆きや懐かしさなどを感じます。少なくとも何らかの関心を抱くはずです。その瞬間に、聞き手は過去を直接的に体験していると言えます。  未来についても同じことが言えます。予想行為においてわくわくしたり、ゆううつになったり、ここでも直接的な体験がなされます。 すなわち、聞き手は想起や予想において、過去に対しても未来に対しても直接のつながりを持ちます。言語使用者と概念とのつながりは言うまでもなく心の働きとしてのつながりです。よって、presentだけでなくpastとfutureにも冠詞はつきません。たとえ、過去の確定した出来事(歴史的に評価が定まっているとか)であっても同じことです。theがつくことはありません。 ここで話が振り出しに戻りました。なぜpastとfutureにtheがつくのでしょうか?  pastとpresentおよびpresentとfutureは明確な切れ目を持ちませんが、pastとfutureは離れていますから対立関係をなしていると見なせます。なぜそう言えるのかを考察します。  我々が未来を予想する時、我々の意識は未来の方に向きます。逆に、我々が過去を想起する時、我々の意識は過去の方に向きます。意識の方向性は<今>を境にしてちょうど互いに逆向きのベクトルをなしています。つまり、我々にとって(生きられる時間として)存在する時間は<今>と、想起の対象となる<過去>と、予想や意志の働きの対象となる<未来>で構成されているわけです。時間が過去から未来へと流れてゆくという発想は(おそらく何かのメタファーから生まれた)思いこみにすぎません。  この時、<人間の意識→過去>と<人間の意識→未来>はちょうど正反対のベクトルを持っていて対称形をなしています。明白な二項対立です。この場合のpastとfutureが文中で使われる時定冠詞が使われるのは当然のことと思われます。ちょうど、{right, left}や{front, back}のような概念集合枠組みの各要素が文中での使用時において定冠詞が使われるのと同じことだと思います。 定冠詞の登場以降、枠組Bの実践バージョンは{in the past, at present, in the future}というふうになったと考えられます。いかがでしょうか。

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  • Nakay702
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回答No.2

「補足」ありがとうございました。 @定冠詞の登場以前の古期英語において存在していたと想定される{in past, at present, in future}という実際的な枠組Bは定冠詞の登場以降、{in the past, at present, in the future}という枠組みになったと考えられる。この場合のthe pastとthe futureを明確に区切られ、話者によって客体的に捉えられた時間領域(生きられる時間ではない)と考える時、presentは双方に囲まれて区切られた領域と考えるしかない。その場合、presentは他の2つの領域との対立関係から文中でthe presentと表される。枠組Aはこのようにして作られたのではないか。 ⇒すみませんが、私は以下のように想像します。定冠詞の登場によって、枠組Aは{the past, the present, the future}となっていくが、その際、まず最も身近なpresent にtheがついてthe presentとなり、短い時間差をもってthe past→the futureの順にtheがついたと考えられます。枠組Bでは、定冠詞の登場があってもpresentはそのままで、最初限定の感覚に最も似つかわしいpastにtheがついたと見るのが穏当で、futureの場合は揺れていただろうと想像されます。詳細を考えると、体系性を重視する者はいち早くfutureにもtheをつけたかも知れませんが、伝統や慣習を重んじる者は、futureはそのまま保持したのではないかと推測します。その習いが現代英語(I'll try to do better in future.のような表現)に残っている、ということではないでしょうか。 @yesterday, today, tomorrowについて、これらは出来事や事態を言い表す時に背景として使われるものなので、通常は(名詞から転用して)時を表す副詞として使われる。時間領域を構成するものとしてその集合を標示すると{yesterday, today, tomorrow}となるが、仮にこれら3つが名詞の意味しか持っていなかったならば、{in yesterday, at today, in tomorrow}という枠組みが作られ、それらを文中で使う時は、yesterdayとtomorrowの対立関係からin the yesterday, at today, in the tomorrowという風に使われた可能性が高いのではないか。 ⇒面白い発想ですね。内容的に反論はできませんが、それぞれが同じ大きさの単位で区切られた意味を表す語であることを考え合わせれば、前置詞は(選択を間違えているかも知れませんとの仰せでしたが、確かに)すべて同じ(at?)でよいのかも知れませんね。それ以外は何ら反証を挙げることもできませんので、お説の骨子に異論はありません。 @二項対立問題で少し触れたが、左右方向を表す言葉にはthe right, the leftという風にtheがつく。周囲の環境はrightとleftという2つの方向によって言い表されるが、この用法が始まった時、話者の身体を基準に左右が認知されたのではないかと思われる。つまり、生活環境においては認知主体にとってright, myself, leftという3つの<場>があるわけで、myselfはright・leftと切り離されることはないだろう。rightもleftも独自の領域を持つことはできない(同じことがfrontとback、northとsouth、eastとwest、及びpastとfutureの関係についても言えるだろう)。結局、theがつくのは単に両者の対立関係に依るものでしかないと思われる。因みに、認知の際の意識の方向性は<私の意識>を境にして互いに逆向きのベクトルをなしている。 ⇒そうですね。おっしゃるように、原理的には、いずれの場合も「私」または「ここ」を基点として、相対的な意味上の対立関係を表すことになったことでしょうね。それが自然な、あるいはそれしかない認識と言表の流れだったに違いない、と推測する次第です。 @時間が過去から未来へと流れゆくという発想についてですが、この考えは、人が生まれ、生き、死ぬという不可逆的進行や上流から下流への川の流れの不可逆性からメタファー的に連想されたものであるか、又はキリスト教の終末論的発想(天地創造から終末に至るまで時間が進んでゆく)から来ているように思われる。このように、時間が流れるという考えには、時間それ自体に根拠があるわけではないと思う。ここで<前後>(front, back)について考えてみる。人がある地点から別の地点へと移動する時、それまで<前>だった空間領域は<後ろ>の空間領域によってどんどん浸食されていく。これは、人が<前>へ移動していることによって相対的に引き起こされる現象である。同様に<過去>から<未来>へと時が流れてゆくかに見えるのは、人が(誕生から死へと)生き続けることによって相対的に時間が流れるように見えるだけのことです。時間が流れているわけではないと思う。 ⇒はい、全く仰せのとおりだと思います。これも、人間原理に基づく思考・認識の様式、view point of egocentric particularのなせる業で、その典型が、例えば「地球の自転の結果太陽が現われた」と言わず、「太陽が昇った」と言う、などでしょう。 @定冠詞が登場するに及んで、in past(前身はラテン語in praeteritum)にはtheがついたわけだが、in future(前身はラテン語in futuro「未来のある時点又は時期において、及び、これから先は」)には基本的にtheがつくはずなのに、theをつけない表現も残った。つまり、in futureという用法を捨てなかった人たちが大勢いたことになる。もしかしたら、in future (前身はラテン語in futuro)があまりにも生活に密着していた、あるいは聖職者階級がこれまで通りの使い方を存続させることにこだわったとも考えられる。 ⇒「もしかしたら、in future(ラテン語in futuro)が余りにも生活に密着していた、あるいは聖職者階級がこれまで通りの使い方を存続させることに拘ったとも考えられる」と仰せですね。確かに、その両方が関わったでしょう。そもそも、ラテン語には冠詞は存在しませんでした。指示詞のille, illaが冠詞化するのは、早くても俗ラテン語の時期、つまりロマンス諸語に分派する直前の頃でした。 @一方でin the futureに移行した人たちもいるわけだから、この時点でin the futureとin futureが共存することになる。棲み分けを図るために意味的な差異を作らなければならない。そこで、in the futureは「未来のある時点又は時期」を表し、in futureは「今から先ずっと」を表すことになったのではないかと思われる。説教において「汝、すべからく---せよ」という命令を伝える時、「これから先ずっと~せよ」という言い方が多かったのではないかと推測する。一方、アメリカに移住した人たちはほとんどが新教徒だったためラテン語が敬遠された、あるいは新大陸ではラテン語が好まれなかったのではないかと思う(in futureには冠詞が使われないので前身のin futuroを思い起こさせたのではないか)。おそらく、アメリカ版の聖書の英語訳にはin the futureが使われていたはずである。 ⇒「in the futureとin futureが共存することになり、棲み分けを図るために意味的な差異を作らなければならない」とのことですが、後半については、差異を作ってまで棲み分けを図ることが必要だったかどうか私には疑問です。すでに述べたように、並存を許す状況があったものと考えるのが実態に即した見方ではないかと思います。前に書いたことを再述します。定冠詞の登場によって、まずは最も身近なpresent にthe がついてthe presentとなり、短い時間差をもってthe past→the futureの順にtheがついたと考えるわけです。 枠組Bでは、定冠詞の登場があってもpresentはそのままで、まず限定の感覚に最も似つかわしいpastにtheがついただろうと推測するのもゆえなしとはしませんが、現在の状況を鑑みるにfutureの場合はかなり根深い動揺が続いていたのではないかと想像されます。詳細を考えると、体系性を重視する者は素早くfutureにもtheをつけたかも知れませんが、伝統や慣習を重んじる者は、futureはそのまま保持したのではないかと推測されます。その習いが現代イギリス英語に残っている、と見るのが理の当然ということではないでしょうか。主観的用法において、同じ意味用法のin futureとin the futureが今も並存しているのはそのためでしょう。アメリカに移住した人たちがin the futureを好むことについてはこう考えます。すなわち、米語成立の過程を振り返るに、メイフラワー号以来、ヨーロッパ各地からその地に集まっていったわけですよね。不特定の地域から人が集まると、一部の人の慣習より、「普遍性・体系性」が優先されるという集団的習性が関係しているかも知れない、と考えます。

feeders
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 ●<定冠詞の登場によって、枠組Aは{the past, the present, the future}となっていくが、その際、まず最も身近なpresent にtheがついてthe presentとなり、短い時間差をもってthe past→the futureの順にtheがついたと考えられます。枠組Bでは、定冠詞の登場があってもpresentはそのままで、最初限定の感覚に最も似つかわしいpastにtheがついたと見るのが穏当で、futureの場合は揺れていただろうと想像されます。詳細を考えると、体系性を重視する者はいち早くfutureにもtheをつけたかも知れませんが、伝統や慣習を重んじる者は、futureはそのまま保持したのではないかと推測します。その習いが現代英語(I'll try to do better in future.のような表現)に残っている、ということではないでしょうか。> -たしかにこの考え方の方が自然だし合理的でもありますね。納得です。 ●---- in the yesterday, at today, in the tomorrowという風に使われた可能性が高いのではないか。 ⇒面白い発想ですね。内容的に反論はできませんが、それぞれが同じ大きさの単位で区切られた意味を表す語であることを考え合わせれば、前置詞は(選択を間違えているかも知れませんとの仰せでしたが、確かに)すべて同じ(at?)でよいのかも知れませんね。> -前置詞はinじゃないかと言う気がしますが、ともあれ、基本的な考えは正しいわけですね。 ● ⇒「in the futureとin futureが共存することになり、棲み分けを図るために意味的な差異を作らなければならない」とのことですが、後半については、差異を作ってまで棲み分けを図ることが必要だったかどうか私には疑問です。すでに述べたように、並存を許す状況があったものと考えるのが実態に即した見方ではないかと思います。 -その通りだと思います。英語の歴史を見ても、体系の構築やルールの変更においては必ずしも直線的に進行するわけではなく、揺れ戻しもあることですから。 ●米語成立の過程を振り返るに、メイフラワー号以来、ヨーロッパ各地からその地に集まっていったわけですよね。不特定の地域から人が集まると、一部の人の慣習より、「普遍性・体系性」が優先されるという集団的習性が関係しているかも知れない、と考えます。 -お説に大賛成です。 今回もありがとうございました。おかげで、the pastとthe futureにtheがつくことを自信を持って指導できます。ただし、今回の議論は少し難しいので、詳しいことを教室で話すことはないと思います。彼らは、二項対立だぞと言われただけでたぶん納得してくれると思います。 次回の質問のテーマは<不可視の冠詞について>です。 以前、<無冠詞とゼロ冠詞について>という質問投稿した時に、ゼロ冠詞とナル冠詞の議論をしたことがありました。その時の議論やその後の議論-<固有名詞にはなぜ冠詞がつかないのか>-における2つの無冠詞の考察を検討し直したところ、一つ疑問点が出てきたので、次回の投稿であらためてスレッドを立ち上げて質問してみたいと思います。  なお、<無冠詞とゼロ冠詞について>においては、性質の異なる2種類の無冠詞(ゼロ冠詞とナル冠詞)が登場しましたが、一応の定義が(Nakayさんによる)確定しました。でも、定義を入れ替えれば一方はもう一方と同じものになるし、また、学者の世界でもゼロ冠詞とナル冠詞について意見が分かれていたり、そもそもナル冠詞を認めていなかったりします。そこで、次回の質問ではゼロ冠詞とナル冠詞という名称の使用をいったんキャンセルし、あらためて最初から考察し直すことにします。よろしければおつきあい下さい。

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  • Nakay702
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回答No.1

「in the past / the future」について、以下のとおりお答えします。 @{past, present, future} という概念の枠組み(枠組A)では、それぞれが枠組みを構成するデフォルト要素として組み込まれているわけだから、文中で使用される際は定冠詞がつく。この時間領域においては、具体的な行為や出来事が表現されることはない。--Don't think of the past. Mind the present and the future. もう1つの、枠組B{past, present, future})---She's busy at present, but will be free in the future. は、言語使用者によって日常常識的に把握される。我々の日常常識的な考えでは、現実の現在の時間は瞬間ではなく、比較的短めの時間であって、その時間幅は言語主体の思惑に応じて伸び縮みする。 @Aの枠組みにおける{past, present, future}という概念要素はそれぞれがつながりを持たない抽象的なものと捉えられるが、言語主体との間に隔たりがあって、主体によっては客体的に捉えられている。一方、Bの枠組みにおいては、それぞれの概念はつながりを持つ。「生きられる時間」なので、言語主体との間にもつながりがある。言語主体は、この時間を客体的に捉えることをせず、現在という時間と直接のつながりを持つ。この時、概念は客体化されないので冠詞をつけない。よって、現在は冠詞のつかないpresentで表す。pastもfutureも同様である。 ⇒ご説明の文を、要点把握のためとはいえ、勝手にこま切れにしてすみません(以下の段落でも同様の対応で進めさせていただきますね)。しかし、お説は理路整然とした内容で、ほとんど全体的に納得できます。 @これら(枠組B)の表現は副詞句として使われる。過去と現在はその境目付近が流動的で、過去の表現が「現在より以前のある時(時期)、および過去から始まって今に続く時間」を表すこともある。よって(定冠詞登場以前の時点では)現在完了の文中でin pastという語句の使用が可能だっただろう。ところが、ある時期に定冠詞が登場した結果、現在ではこの2番目の枠組みが文中で使われる時は、{in the past, at present, in the future}となる。なぜか。よく、「過去のことは確定しているから定冠詞がつく」と言われる。しかし多くの場合、過去の出来事が聞き手によって確認されようがされまいが、また、聞き手の同意の有無に関わりなく、過去を表すpastにはtheがつく。というわけで、上記の言い方に根拠がないことは明白で、これには別の根拠があるはずである。 @聞き手が過去の出来事を確定していると確認することはいかなる体験か。当然ながら、「過去は厳然たる過去なのであって人間の思惑と無関係に存在するので確認など不要だ」とする考え方(素朴実在論)はここでは成り立たない。聞き手がある過去の出来事について聞くとき、聞き手は過去を間接的に体験するにすぎない。ところが、その出来事を心の中で想起するとき、後悔や嘆きや懐かしさなどを感じる。少なくとも何らかの関心を抱くはずで、その瞬間に聞き手は過去を直接的に体験していると言える。未来についても同じことが言える。予想行為においてわくわくしたり、憂鬱になったり、ここでも直接的な体験がなされる。すなわち、聞き手は想起や予想において、過去に対しても未来に対しても直接のつながりを持つのである。言語使用者と概念とのつながりは言うまでもなく心の働きとしてのつながりなので、よってpresentだけでなくpastやfutureにも冠詞はつかないはずなのである。 ⇒「過去は厳然たる過去なのであって、それは人間の思惑と無関係に存在するので確認など不要だとする考え(素朴実在論)」は枠組Aのことでもなさそうですね。自然科学における見方とでも言いましょうか。また、「過去を直接的に体験する」のは、いわば主観的追体験ですね。論旨明快な筆運びと内容で、ご趣旨は概ね了解・納得しました。 @ここで本題に戻って、なぜpastとfutureにtheがつくのか? pastとpresentおよびpresentとfutureは明確な切れ目を持たないが、pastとfutureは離れているから対立関係をなしていると見なせる。なぜそう言えるのか。我々が未来を予想する時、我々の意識は未来の方に向き、過去を想起する時、過去の方に向く。意識の方向性は「今」を境にしてちょうど互いに逆向きのベクトルをなしている。つまり、我々にとって(生きられる時間として)存在する時間は「今」と、想起の対象となる「過去」と、予想や意志の働きの対象となる「未来」で構成されている、という格好である。時間が過去から未来へと流れてゆくという発想は、おそらく何かのメタファーから生まれた思いこみにすぎない。 @「人間の意識 → 過去」と「人間の意識 → 未来」は、ちょうど正反対のベクトルを持っていて対称形をなしている。明白な二項対立である。この場合のpastとfutureが文中で使われる時、定冠詞が使われるのは当然のことと思われる。ちょうど、{right, left}や{front, back}のような概念集合枠組みの各要素が文中での使用時において定冠詞が使われるのと同じことだと言えるだろう。定冠詞の登場以降、枠組Bの実践バージョンは{in the past, at present, in the future}というふうになったと考えられるのである。 ⇒なるほど、確かに明白な二項対立ですね。例の鼎立でなく二項対立の連続ですね。枠組B{present:non-present〔past:future〕}という対立図式で、これが現実の表現では{at present:〔in the past:in the future〕}として実現される、ということでしょう。この第二項では、内部対立における部位指定のための定冠詞がつく、と説明できるわけですね。すなわち、心の働きのつながりで感じる過去は「-present」(現在より前)=in the past(二項のうちの一方の部位)であり、未来は「+present」(現在より後)=in the future(二項のうちの他方の部位)である、という解釈でしょうか。了解です。  1つ追加ですが、辞書によれば、in the future は「将来、未来に」の意で、「(今までとは違って)今後は」という意味ではin futureも用いられるそうですね。I'll try to do better in (the) future.「今後はがんばります」(ライトハウス英和辞典)。確かに、過去の既成事実に対してはともかく、現在・未来の未完の事柄については、話者の主観が働きやすい部分ではありますね。それで、未来については、現在と同じように、あるいはそれに準じて無冠詞で用いることがあり得る、ということでしょうか。ただ、仮にそうだとしても、これでお説の骨格がどうなるというわけでもなく、すべてが一貫した論述であることには変わりないと言えるだろうと思います。少なくともこれで、「晴れて、明快に」実践バージョンの{in the past, at present, in the future}という枠組みの意味を現場の生徒に説明することができそうですね。さすが、feedersさんのご慧眼、祝福申しあげます。

feeders
質問者

お礼

ありがとうございます。

feeders
質問者

補足

回答ありがとうございました。私の考えに賛同を頂けたようですね。 他にも確認したいことがあります。 ●定冠詞の登場以前の古期英語において存在していたと想定される{in past, at present, in future}という実際的な枠組Bは定冠詞の登場以降、{in the past, at present, in the future}という枠組みになったと考えられます。 この場合のthe pastとthe futureを明確に区切られた(話者によって客体的にとらえられた)時間領域(生きられる時間ではありません)と考える時、presentは双方に囲まれて区切られた領域と考えるしかなくなります。その場合は、presentは他の2つの領域との対立関係から文中でthe presentと表されます。枠組Aはこのようにして作られたのではないかと思います。いかがでしょうか。 ●もう一つあります。yesterday, today, tomorrowについても考察しておきます。 これらは出来事や事態を言い表す時に背景として使われるものなので、通常は(名詞から転用して)時を表す副詞として使われます。時間領域を構成するものとしてその集合を標示すると{yesterday, today, tomorrow}ですが、仮にこれら3つが名詞の意味しか持っていなかったならば、{in yesterday, at today, in tomorrow}と言う枠組みが作られ、それらを文中で使う時は、yesterdayと tomorrow の対立関係からin the yesterday, at today, in the tomorrowというふうに使われた可能性が高いのではないかと思います。半ば興味本位に考えてみましたがいかがでしょうか。もしかすると、前置詞の選択を間違えているかも知れません。 ●さらにもう一つあります。二項対立の説明の時に少し触れましたが、左右の方向を表す言葉にはthe right, the leftというふうにtheがつきます。周囲の環境はrightとleftという2つの方向によって言い表されますが、この用法が始まった時、話者の身体を基準に左右が認知されたのではないかと思います。つまり、生活環境においては、認知主体にとってright, myself, leftという3つの<場>があるわけですが、myselfはrightおよびleftと切り離されることはあり得ません。myselfの中にだって左右が存在するわけですから。rightもleftも独自の領域を持つことはできません(同じことがfrontとbackの関係、northとsouth, eastとwestの関係、及びpastとfutureの関係についても言えると思います)。  結局、theがつくのは単に両者の対立関係に依るものでしかないと思います。ちなみに、認知の際の意識の方向性は<私の意識>を境にして互いに逆向きのベクトルをなしています。この考えでいかがでしょうか。 ●もう一つ、時間が過去から未来へと流れてゆくという(英語の世界における)発想についてですが、この考えは、人が生まれ、生き、死ぬという不可逆的な進行や上流から下流への川の流れの不可逆性からネタファー的に連想されたものであるか、又は、キリスト教の終末論的発想(天地創造から終末に至るまで時間が進んでゆく)から来ているように思われます。この場合もネタファー的な連想です。というふうに、時間が流れるという考えには、時間それ自体に根拠があるわけではないと思います。 ここで<前後>(front, back)について考えてみます。人がある地点から別の地点へと移動する時、それまで<前>だった空間領域は<後ろ>の空間領域によってどんどん浸食されていきます。これは、人が<前>へ移動していることによって相対的に引き起こされる現象です。 同様に、<過去>から<未来>へと時が流れてゆくかに見えるのは、人が(誕生から死へと)生き続けることによって相対的に時間が流れるように見えているだけのことです。時間が流れているわけではないと思います。この考えでどうでしょうか。 ●<1つ追加ですが、辞書によれば、in the future は「将来、未来に」の意で、「(今までとは違って)今後は」という意味ではin futureも用いられるそうですね。I'll try to do better in (the) future.「今後はがんばります」(ライトハウス英和辞典)。確かに、過去の既成事実に対してはともかく、現在・未来の未完の事柄については、話者の主観が働きやすい部分ではありますね。それで、未来については、現在と同じように、あるいはそれに準じて無冠詞で用いることがあり得る、ということでしょうか。> -この問題も取り上げたかったのですが、スレッド立ち上げ時の投稿では4000語しか入れられないのではしょってしまったのです。 <現在・未来の未完の事柄については、話者の主観が働きやすい部分ではありますね> -とのことですが、全く同感です。でも、なぜアメリカ用法ではin futureがないのかという疑問が残ります。  アメリカ用法ではin the futureが標準です(in futureは少ないようです)。 イギリス用法ではin future 「これから先は= from now on」, in the future 「将来、未来に」というふうに使い分けがなされています。イギリス英語でin the future以外にin futureが使われるのがなぜかということを考えてみました。もちろん、私の推測の産物でしかありません。 定冠詞が登場するに及んで、in past (前身はラテン語のin praeteritum)にはtheがついたわけですが、in future (前身はラテン語のin futuro ---「未来のある時点又は時期において、及び、これから先は」)には基本的にはtheがつくはずなのに、theをつけない表現も残りました。つまり、in futureという用法を捨てなかった人たちが大勢いたことになります。もしかしたら、in future (前身はラテン語のin futuro)があまりにも生活に密着していた、あるいは聖職者階級がこれまで通りの使い方を存続させることにこだわったとも考えられます。正確なことはラテン語の専門家に聞いてみればわかるかもしれません。 googleの検索結果では、in praeteritum 189,000件 in praeteritum nos (nos = we)147件、in futuro 43,100,000件、in futuro nos 3820件です。予想通りの検索結果でした。nosと主語をつけたのは、 in praeteritum / futuro 名詞の形を避けるためです。 一方でin the futureに移行した人たちもいるわけですから、この時点でin the futureとin futureが共存することになります。棲み分けを図るために意味的な差異を作らなければなりません。そこで、in the futureは「未来のある時点又は時期」を表し、in futureは「今から先ずっと」を表すことになったのではないかと思います。説教において、「汝、すべからく---せよ。」という要請・命令を伝える時、「これから先ずっと~せよ」という言い方が多かったのではないかと推測しています(もちろん、私のこじつけです)。 一方、アメリカに移住した人たちはほとんどが新教徒だったためラテン語が敬遠された、あるいは新大陸ではラテン語が好まれなかったのではないかと思います(in futureには冠詞が使われないので前身のin futuroを思い起こさせたのではないかと思います)。おそらく、アメリカ版の聖書の英語訳にはin the futureが使われていたはずです。 根も葉もない仮説ですがどう思われますか。ご意見を伺えればうれしいです。

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