- ベストアンサー
英語の概念における関係性と定冠詞の使用についての考察
- 英語の概念において、概念同士の関係性は重要であり、定冠詞の使用によってその関係性が示される。
- 関係性がはっきりしない場合、不定冠詞が使われずに一まとまりのものとみなされにくい。
- 一方で、関係性がはっきりする場合は定冠詞が使われ、特に同類の概念や上位カテゴリーとの関係が見られる。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「補足」をありがとうございました。一部にお答えいたします。 >>英語では、名詞の質のみを表す場合は無冠詞になりますね。 >なるほど、質つまり内包ということですね。そして外延を持たないということですね。 ⇒それに限りなく近いと言えますね。「限りなく近い」と言うわけは次のとおりです。例えば、三角形ABCのA点がたまたま座標の原点{O}にある場合、{A}は{O}と重なっていますが{O}そのものでなく、あくまでも三角形ABCの一要素であることに変りありませんよね。それと同じで、この場合の「質」は、「内包に限りなく近いと言えますが内包そのものではない」はずですよね。あくまでも、Which way is east?という言表を構成する一要素としてのeastとパラダイム上のeastとは、いかにその意味合いが似ていても、「完全に同一ではあり得ない」、ということです。 >一応確認しておきたいのですが、方位ではなく方角を表す時、例えばin the east of Tokyoとかto the east of Yokohamaとかにおいてthe eastは外延を表していると言っていいのでしょうか。 ⇒はい、そう言えると思います。 >go to schoolにおけるschoolも、「概念は確かにあるが、具体的な実体がない」ケースの例ですね。go to a / the school の場合、a / the school は外延つまり実体で、内包も持つと言えるわけでしょうか。 ⇒「外延つまり実体」であることは確かですが、「内包も持つ」わけではないと思います。内包はいわば雛形のようなもので、注文して届けられた品物がいかに雛形そっくりであっても、それは雛形そのものではないわけですから…。(続きの文面は飛ばさせていただきますが、優秀な生徒さんたちとのやりとりの場面が彷彿しました。) 以上、舌足らず気味で申し訳ありませんが、やぼ用が出てきましたので、これにて失礼いたします。このたびも、楽しい実りある対話をありがとうございました。(不一)
その他の回答 (5)
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
「補足」を拝見しました。 >Which way is east? のおけるeastになぜthe がつかないのかと以前、生徒に質問されたことがあります。それに対して、{north, south, east, west}という枠組みは方角を表すために作られたものであって、上の文におけるeastのような方位を示すためではない、と答えました。さらに、方角は自分以外の何かを基準にして<~の東>というふうな言い方をするので必ず特定の方角を指すことになる、だからtheがつく。一方、方位の場合は、<~の東>というふうな言い方にはならないのでtheがつかない、-と説明してきたのですが、これはこれで一応の答えにはなっていると思います。 ⇒英語ではありませんが、偶然私も似たような質問を受けたことがあって、ややfeedersさんと似たような説明をした記憶があります。Which way is east? のeastは、当たり前のことですが、発話者にとってのeastであって、別の人から見たらwestかも知れませんね。つまり、これは「定域」を指しているわけではないので、いわば「相対性」の問題であり、もっと言えば、「質」に言及していることになります。英語では、名詞の質のみを表す場合は無冠詞になりますね。例えば、My father is at home.「(在)宅」、Go to school.「勉強(しに行け)」、He is a man of importance.「重要(人物)」といった具合です。 その答えにこうも付け加えました。「これ(eastに当たる語)は、言って見れば、「概念は確かにあるが、具体的な実体がない」ようなものです。これを理解するのに格好の例があって、それは「磁気モノポ-ル(単極子)」と言われるものです。磁石には、必ずS極とN極がある。1つの極だけの磁石などは存在しない。ということは、例えばS極はN極と相対的にのみ存在するのであって、「S極単一(単極子)というのは、「具体的な形で現実に存在するのでなく、質のみをもつ、いわば、《概念語の一種》に相当するのです」、と。 >しかし、なぜ方位の場合にtheがつかないのかについて正攻法から説明したという気がしません。たぶん次のような説明ですっきりすると思うのですが、どうでしょうか。 north, south, east, westなどの概念が、言語使用者との結びつきではなく、これら相互の結びつき、すなわち{north, south, east, west}という枠組みとしてとらえられる時、どの一つに言及する際も定冠詞が必要です。ところが、これらの概念を言語使用者(ここでは発話者)との結びつきにおいて把握する時、冠詞がつくことはありません。Which way is east? において、eastは発話者とだけ結びつきを持つのではないかと思います。よって無冠詞ということになります。この解釈でいかがでしょうか。 ⇒お説は、確かに、一つの説得力ある解釈と言えるだろうと思います。 少し違った観点から、私も考えてみました。すなわち、{north, south, east, west}という決まった枠の中から1つを取り出すことは、取らなかった3つを排除しているわけで、特定選択という、ある種の「限定」を施していることになります。別角度から、もっと掘り下げて言えば、暗に、この枠組み中の「他の3つを意識背景に置いていて」、それら{north, south, west}でなくてこれ{east}と限定していることになります。つまり、文字面に現われない、発話者の「心中にある限定」によってそれには定冠詞をつける、という説明ができるかも知れませんね。(ちょっと苦しいでしょうか?)
お礼
ありがとうございました
補足
再度の回答ありがとうございます。 <Which way is east? のeastは、当たり前のことですが、発話者にとってのeastであって、別の人から見たらwestかも知れませんね。つまり、これは「定域」を指しているわけではないので、いわば「相対性」の問題であり、もっと言えば、「質」に言及していることになります。英語では、名詞の質のみを表す場合は無冠詞になりますね。> --なるほど、質つまり内包ということですね。そして外延を持たないということですね。 一応確認しておきたいのですが、方位ではなく方角を表す時、例えばin the east of Tokyoとかto the east of Yokohamaとかにおいてthe eastは外延を表していると言っていいのでしょうか。 <「これ(eastに当たる語)は、言って見れば、「概念は確かにあるが、具体的な実体がない」ようなものです。> -実は私もそういう説明を次のような定義文の場合にやります。 East is one of the cardinal points よく考えたらWhich way is east? のeastと全く同じものですね。 go to schoolにおけるschoolも、「概念は確かにあるが、具体的な実体がない」ケースの例ですね。go to a / the school の場合、a / the school は外延つまり実体で、内包も持つと言えるわけでしょうか。 <少し違った観点から、私も考えてみました。すなわち、{north, south, east, west}という決まった枠の中から1つを取り出すことは、取らなかった3つを排除しているわけで、特定選択という、ある種の「限定」を施していることになります。別角度から、もっと掘り下げて言えば、暗に、この枠組み中の「他の3つを意識背景に置いていて」、それら{north, south, west}でなくてこれ{east}と限定していることになります。つまり、文字面に現われない、発話者の「心中にある限定」によってそれには定冠詞をつける、という説明ができるかも知れませんね。(ちょっと苦しいでしょうか?)> -{north, south, east, west}という決まった枠の中から1つを取り出すことは、方位ではなく方角の場合だと思います。この場合は、<{north, south, west}でなくてこれ{east}と限定していることになる>ことは明らかです。枠組みが設定されているケースでは、いつもそのような説明をしています。この説明は生徒に受けがいいみたいです。 <自分以外の何かを基準にして<~の東>というふうな言い方をするので必ず特定の方角を指すことになる>という説明と両方行っていますが、枠組みとして説明する方が生徒にとって受け入れやすいようです。たぶん数学で順列・組み合わせを習うからではないかと推測しています。特に、The sun rises in the east. のようにof以下が明示されていない場合は枠の中から1つを取り出す考え方の方が説明しやすいですね。 今回は確認のための質問が二つだけです。よろしくお願いいたします。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
「補足」を拝見しました。前回にも増して、feedersさんの深いご洞察に感服しきりです。 遅くなりましたが、以下のとおり「共感の旨」お答えします。 >先ほど{north, south, east, west}を一つの集合としてとらえ、生活の便宜のために利用したのではないかと述べましたが、もしそうだとすれば、そうした枠組みは必然的に一定の広がりを持つ(言語使用者がその中で生活することができる)空間または時間を表すものになるのではないかと思います。 ⇒そうですね、言語の起源を考えるとなお実感が伴います。言語起源説はいいろありますが、いずれにせよ、まずは身の回りのものを「命名」することに始まったに違いありません。最初は身近にある特別の一つから始まったかも知れませんが、それはすぐに隣接するものへと波及し、あるまとまりになると、それが「小さな体系」となる…。ただしそれはすべて、生活に密着する事柄であったと言って差し支えないでしょう。 すべての印欧語(つまり、印欧基語の末裔)では、今でこそ動詞表現の中核に時制がありますが、それは分析的思考が相当に発達した後に現れたのであって、それより前はアスペクト(相=完了・不完了の別)しかなかったと言われます。例えば、クロマニヨンなどの古代人のことを考えてみればうべなるかなで、「かがり火が昨日消えた」とか「明日消えるだろう」などの表現よりは、「かがり火が消えてしまった」とか「いや、ちゃんと燃え続けている」などの表現の方がどれほど身近でかつ必要な言葉であったことか! >概念を一つのものとしてとらえることができないということから、概念同士の相互の結びつきを考察することになりましたが、考察の方向性として別のものもあったのではないかと思います。言語使用者がある概念を別の概念と結びつけるのではなく、その概念を言語使用者自身と結びつけることだってあるのではないかと思います。 ⇒いかなラング(≒言語体系・活動の非個人的現実存在)であるとはいえ、「それは一重にパロール(≒idiolect、個人語)に発する」わけですからね。言語は、言うまでもなく伝達の具ですが、それを使う側の人間にとってそれは、「社会的存在であるより先に、自己の個人的所有である」と言えるかも知れませんね。 >Summer has come. と言う時、summerは{spring, summer, autumn, winter}という概念の枠組みの一つとして使われているわけではありません。言語使用者はsummerと{spring, autumn, winter}以外の概念との間に弱い結びつきを思い描いているかも知れませんが、少なくとも定冠詞をつけるほどの緊密な結びつきではないということだと思います。 この時、summer という概念(暑い気候の時期)と言語使用者との間に結びつきがあったとします。その場合、言語使用者にとって無冠詞のsummerは暑さが実感として伝わってくるものなのではないかという気がします。(…)同じことはnightにも言えます。Night came on. において、暗さがひしひしと伝わってくる言い方なのではないかと思います。a nightは一夜をあらわします。the nightは枠組みの中の一つですから、日めくりカレンダーの一日のうちの夜の部分を表すのではないかと思います。 ⇒それは肌で感じること、内包そのものではないが、より感覚的な「直観・実感(≒むしろ、内包の随)という名の本質」とでも形容しましょうか。文法上では非文とされるようなSummer has come.やNight came on.も、発話者の肌で感じた「実感を率直に吐露した吐息」が、たまたま言語表現になっただけという風に言えると思います。これも一つの発話の形態として、伝統文法に拘泥せず、「特別な文法ジャンルとして」立ててもよいのかも知れませんね。 以上のfeedersさんのご明察の見出したことは、言語との関わりにおける「人間的実存の発見」とも言えるかと思います。さすがの卓見に、心底より敬服申しあげます。
お礼
ありがとうございました。
補足
ご意見ありがとうございました。 <これも一つの発話の形態として、伝統文法に拘泥せず、「特別な文法ジャンルとして」立ててもよいのかも知れませんね。> -私自身はそのように感じております。以前から言語における前客体化という問題を考えてきたのですが、ラネカーをはじめとする認知文法には飽き足らなくて、もっと生活実感という観点から文法をとらえてもよいのではないかという気がしています。Nakayさんの賛同が得られてうれしく思います。 ついでながらもう一点お願いします。 Which way is east? のおけるeastになぜthe がつかないのかと以前、生徒に質問されたことがあります。 それに対して、{north, south, east, west}という枠組みは方角を表すために作られたものであって、上の文におけるeastのような方位を示すためではない、と答えました。 さらに、方角は自分以外の何かを基準にして<~の東>というふうな言い方をするので必ず特定の方角を指すことになる、だからtheがつく。一方、方位の場合は、<~の東>というふうな言い方にはならないのでtheがつかない、-と説明してきたのですが、これはこれで一応の答えにはなっていると思います。 しかし、なぜ方位の場合にtheがつかないのかについて正攻法から説明したという気がしません。たぶん次のような説明ですっきりすると思うのですが、どうでしょうか。 north, south, east, westなどの概念が、言語使用者との結びつきではなく、これら相互の結びつき、すなわち{north, south, east, west}という枠組みとしてとらえられる時、どの一つに言及する際も定冠詞が必要です。ところが、これらの概念を言語使用者(ここでは発話者)との結びつきにおいて把握する時、冠詞がつくことはありません。Which way is east? において、eastは発話者とだけ結びつきを持つのではないかと思います。よって無冠詞ということになります。 この解釈でいかがでしょうか。(もちろん生徒向けには難しいと思います)
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
以下のとおりお答えします。いや、「お答え」と言うのもおこがましく、ところどころつまみ食いしながら、それを敷衍し、関連する事柄を主観的に述べさせていただきます。 >lionとかtrainとか名づけられた概念は、語彙化されて文中で使われるようになりますが、ある時期から数えられるものには(a lionとかa trainというふうに)不定冠詞がつくようになりました。このことは、a lionとかa trainが一つのまとまりのあるもの(あるいは他の同種のものとの間に境界を持つもの)であることを示します。 ⇒お説のとおりと思います。 英語では、定冠詞は指示詞から、不定冠詞は数詞から派生しました。ということは、「このライオン、1頭のライオン」というように、個々のライオンを識別する機能は十分にあったわけですが、冠詞の導入によって、それ(個々のライオン)の近似性・類縁性といった意味的なつながりを意識しつつも、特定集団をある種の範疇に類別する言語機能も発達した、ということでしょう。つまり、そういう観念的操作ができるようになった人間にとっては、「分節方法の多様化に関する領域」が増加した、と言えますね。 >いかなる概念であっても必ず他の概念との間に大なり小なりの無数のつながりがあって、関係の網の目のようなものが存在するのではないかと思います。 >その概念は他の概念との間に無数の関係のネットワークを持っているはずですが、その中で、言語使用者達が共同で、eastと同類の概念、つまりwest, south, northなどを同類項とみなし、{north, south, east, west}を一つの集合としてとらえ、生活の便宜のために利用したと考えられます。 ⇒見事な解析をなさいましたね。 仰せの事柄を別言すれば、「意義素の明確化・体系化」が進んだ、とも言えるでしょう。そして、例えば、ご提示の{north, south, east, west}の概念的枠組みはさらに拡充されて、上下左右に広がることになる。すなわち、上位概念の「方位」、下位概念の「東南・東北…、東南東・東北東…」などが意識枠に加わる。さらに、並列概念として、「片や地理学・地政学など、片や座標数学・天文学など」の枠組みへと敷衍されていくようになったであろうことは想像に難くありません。 >an oil paintingの上位カテゴリーはa paintingです。a paintingを上位カテゴリーとする下位カテゴリーはoil paintingとwatercolor paintingです。 >言語使用者がan oil paintingから連想によって関係性をたぐっていった時、例えば[oil paints, palette, canvas, painter, picture dealer, art gallery, an exhibition ---}などが思い浮かびます。 ⇒お説のような「上位カテゴリー・下位カテゴリー」は、いわば垂直方向の関係だと思いますが、これに上で見たような水平方向の関係が繋がって、いわば「網の目結合構造」へと展開していくことになるのでしょうね。そして、さらにその水平方向へ伸びて繋がった要素同士の間でも、あたかも脳細胞の神経組織間のような強弱・直間こもごもの関係で繋がった「立体結合構造」を成すにいたることでしょう。想像を逞しくすれば、いわゆる「意義素体系の鳥瞰図」はこんな形になっている、と考えることができますね。 もしかしたら、コーパスを使った研究によってdefaultは否かの判定が厳密になってきているかも知れません。 以上が私の説明ですがいかがでしょうか。 ⇒面白いご説明でした。 「コーパスを使った研究」では、さらに「ラングとパロールの関係とその変動、語や語義の使用頻度に関する統計、意味的逸脱や変化、新しいメタファー」などを知ることができるでしょう。さらに、コーパス研究を大がかりにやれば、「言語の揺れや構造的変化」を読み取ったり、「言語体系の崩壊とその修正」の姿や方向を推測したりすることもできるかも知れませんね。言語地理学者(ジリエロン、ドーザら)によれば、「言語は自らを治療する」そうですから。 以上、極めて主観的な感想を述べさせていただきました。
お礼
ありがとうございました。
補足
<⇒お説のような「上位カテゴリー・下位カテゴリー」は、いわば垂直方向の関係だと思いますが、これに上で見たような水平方向の関係が繋がって、いわば「網の目結合構造」へと展開していくことになるのでしょうね。そして、さらにその水平方向へ伸びて繋がった要素同士の間でも、あたかも脳細胞の神経組織間のような強弱・直間こもごもの関係で繋がった「立体結合構造」を成すにいたることでしょう。想像を逞しくすれば、いわゆる「意義素体系の鳥瞰図」はこんな形になっている、と考えることができますね。> --なるほどそのように考えればいいわけですね。よくわかりました。 ところで、もう少しご教授頂けるとありがたいです。 先ほど{north, south, east, west}を一つの集合としてとらえ、生活の便宜のために利用したのではないかと述べましたが、もしそうだとすれば、そうした枠組みは必然的に一定の広がりを持つ(言語使用者がその中で生活することができる)空間または時間を表すものになるのではないかと思います。実際、枠組みとして周知されているものはそのような性質のものであることが多いように見受けられます。いかがでしょうか。 もう一つあります。 概念を一つのものとしてとらえることができないということから、概念同士の相互の結びつきを考察することになりましたが、考察の方向性として別のものもあったのではないかと思います。言語使用者がある概念を別の概念と結びつけるのではなく、その概念を言語使用者自身と結びつけることだってあるのではないかと思います。(当初の質問の趣旨とずれますがご容赦下さい) 例えば、Summer has come. と言う時、summerは{spring, summer, autumn, winter}という概念の枠組みの一つとして使われているわけではありません。この時、言語使用者はsummerと{spring, autumn, winter}以外の概念との間に弱い結びつきを思い描いているかも知れませんが、少なくとも定冠詞をつけるほどの緊密な結びつきではないということだと思います。 この時、summer という概念(暑い気候の時期)と言語使用者との間に結びつきがあったとします。その場合、言語使用者にとって無冠詞のsummerは暑さが実感として伝わってくるものなのではないかという気がします。a summerはただの一回の夏で期間を表しているに過ぎません。the summerは枠組みの一つとして使われているので、これが生活の便宜のために使われたとすれば、暦の中の季節を表すに過ぎないのではないかと思います。 同じことはnightにも言えます。Night came on. において、暗さがひしひしと伝わってくる言い方なのではないかと思います。a nightは一夜をあらわします。the nightは枠組みの中の一つですから、日めくりカレンダーの一日のうちの夜の部分を表すのではないかと思います。 もちろん、このような言い方が可能なのはsummerとかnightとか概念内容が五感で関知できるものに限られますが。 いかがでしょうか。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#1です。補足ありがとうございます。 >>-第1文の内容は、哲学や宗教などで聞くことだと思いますが、この考えでよろしいでしょうか。 第2文の内容は、現象学(後期フッサールやハイデッガー)の考え方に近いと思いますが、この考えでよろしいでしょうか。 僕は、一番の哲学、宗教、二番の現象学にも、素人なので「この考えでよろしいのでしょうか」という共通の部分にだけ素人コメントいたします。 それは対象 signifie を分類する方法は数多くあって、こういう分野にただ一つの「よろしい」考えはない、だから面白いということです。
お礼
ありがとうございます。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
良いお考えだと思います。そういう考えは、古くからあって、単語概念とか単語家族、序数詞、などに見られます。 例えば藤堂明保の『漢字語源辞典』はお互い関連のある単語家族の考えが元になって居ます。 これは各々の文化で違う場合もあり漢字(=昔の中国)で「虫」の篇が蛸や虹に見られ、日本語の「勇魚イサナ」とクジラを魚の一種と見るのも例です。 別の形で言語に現れるのには日本語や朝鮮語、中国語などにある助数詞の諸範疇です。鳥をまとめて「羽」で数えますがウサギを入れる文化もあります。 これらは名詞を細分した場合ですが、名詞を加算名詞と不可算名詞に二分するのも、不定冠詞が「1」の数から出たことを思えばこれ以上分けられなかった例でしょう。
お礼
ありがとうございました。
補足
--回答ありがとうございます。 単語家族という言葉を初めて聞きました。英語と哲学しかやってこなかったものですから。 もしかして、単語家族というのは、全ての外延に対応する内包を求めることを放棄して、外延 に共通する特徴をもとに単語同士が緩いつながりを持つという考えによるのなのでしょうか。 家族という言葉からヴィトゲンシュタインの<家族的類似>説を思い出したものですから、つい尋ねてみたくなりました。 実は一番肝心な部分は次の箇所です。 <逆に言えば、不定冠詞が登場する以前はlionもtrainも一まとまりのものと認知されにくかったことになります。とは言うものの、現実にlionもtrainも一まとまりのものであることは明白ですから、一まとまりのものであるにもかかわらず、まとまり切らないように感じられる何かを持っていたと思われます。おそらく、それは、他のものとのつながり(目に見えないつながり)だろうと思われます。関係性と言えば正確でしょうか。何らかのつながりがあって、それが切り離せないとき、一まとまりのものとみなすことはしにくいはずです。> -この部分の議論は妥当なものでしょうか?私自身は、昔から客対物と非客対物の違いという問題に注目してきたので、ここが急所だと感じています。 もう1カ所肝心な部分があります。 <もっと言えば、いかなる概念であっても必ず他の概念との間に大なり小なりの無数のつながりがあって、関係の網の目のようなものが存在するのではないかと思います。そうした関係のネットワークの中で、言語使用者がその都度の関心・興味に応じて、特定の関係性を一意的・優先的に見てとろうとするのではないかと思います。> -第1文の内容は、哲学や宗教などで聞くことだと思いますが、この考えでよろしいでしょうか。 第2文の内容は、現象学(後期フッサールやハイデッガー)の考え方に近いと思いますが、この考えでよろしいでしょうか。
お礼
ありがとうございました。