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質問内容の要約
- 「以貴小傳」という資料の185/465コマ目の頁に関する疑問があります。
- 第四の御子が「小五郎殿」ではなく「小四郎」であるべき理由を教えてください。
- 第三の御子が「源三君」と呼ばれるのに対し、第二と第四の御子には「殿」がつく理由を教えてください。
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(1)生まれ順と幼名の数字の不一致について 「享保四年の三月十五日第三の御子源三君をまうけしか五月うせたまふ」とあるように、吉宗の三男の源三は生後2ヶ月足らずで亡くなっています。 その後に生まれた四男の小五郎に、生まれ順と異なる数字が名づけられました。 また、Wikipediaで吉宗の兄弟の幼名をみると、長男の綱教が長福丸、次男が次郎吉、三男の頼職が長七、四男の吉宗が源六となっており、やはり、幼くして亡くなったらしい次郎吉の後に生まれた三男以降が生まれ順と異なる数字の名をつけられています。 これらの事実から推測できるのは、生まれ順どおりに名づけた子が幼くして亡くなると、生まれ順どおりに名づけるのは不吉とみなされ、その後に生まれた子には敢えて生まれ順と食い違う名がつけられるのではないかということです。生まれ順と違う名をつけることで、その家の子を狙う魔物的なものを欺くというような意味もあるのかもしれません。あくまで個人的な推測で、そういう名づけの習慣があるのかどうかは知りません。 (2)「幼名+殿」と「幼名+君」の使い分けについて 「若君」ということばがあるように、本来、幼名に敬称をつけるなら「君」が普通ですが、この『以貴小伝』では後に大名=殿様になった人は幼名に「殿」をつけ、それ以外の幼くして亡くなった人や将軍になった人の幼名には普通に「君」をつけるという使い分けをしているようです。 「殿」がつけられている小次郎・小五郎は田安家・一橋家当主で、ともに10万石の大名になっています。長男で9代将軍となった家重は三十一頁右から16行目「第一の御子長福君」とあるように第三子で夭折した源三と同じく「君」がついています。 また、徳川家康の七男の松千代は、わずか6歳で亡くなりましたが、生後すぐに深谷藩主となったため、この資料では「松千代殿」と「殿」がついています(173/465コマ七頁6行目)。
お礼
ご回答ありがとうございました。 (1) 四(し)⇒ 死(し) と繋がり、不吉と言うのもあるでしょうね。 四(し)を“じ”と読んで、コジロウと読む事にしたとしたら、田安宗武の幼名“小次郎(こじろう)”と区別がつかなくなりますしね。 六を使うと、吉宗の幼名“源六”みたいになってしまいますし。 七だと、吉宗の次兄(三兄)の長七みたいになってしまいますもんね。 ありがとうございました。 よくわかりました。 (2) ありがとうございました よくわかりました。