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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:慶長の禁教令について)
慶長の禁教令について
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質問者が選んだベストアンサー
質問者さまの推測されている通り、1612年の時点では徳川幕府の体制は磐石ではなかった、ということだと思います。 幕府が諸大名を統制するため発布する武家諸法度にしても、初めて出されたのは、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした後の元和元年(1615)7月です。 武家諸法度は、慶長16年(1611)4月の誓紙3か条に金地院崇伝が起草した10か条を付け加えたものとされています。誓紙3か条は、その名の通り、幕府が法令として発したのではなく、諸大名が自主的に将軍秀忠に対して誓いを立てたという形式をとっています。 慶長の禁教令が出された1612年の時点では、少なくとも形式的には、幕府は諸大名に一方的に命令できる存在ではなく、あくまで自主的に従ってもらっている状態だったわけです。幕府の禁教令が直轄地のみを対象にするのも当然といえるでしょう。
お礼
ありがとうございました。 諸大名からの「誓紙3か条」の提出もあり、大坂の陣では、秀頼に味方する殿さまはいなかったわけだし、徳川の天下はほぼ決まっていたと思うのですが、幕府としても、大坂の陣までは、慎重の上にも、慎重を重ねて、幕政を進めていったのでしょうね。また、諸大名も心のうちは分かりませんが、「国々御法度として受け止め」なんていうのは、幕府への「忖度」みたいなものも働いたのではないかと。このあたりはいつの時代も変わらないのかも。笑