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播州赤穂城。築城を許可したのは。
一国一城令が発令されたのは慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)です。 ところが播州赤穂城は、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手したそうです。 しかも、5万石の割には規模が大きいそうで、完成までに13年もかかっています。 Wiki「赤穂城」には、「元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である」と説明されています。 幕府が築城を許可したのは特例のようですが、どのような理由によるものでしょうか。 よろしくお願いします。
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詳しいことはまったく知らないのですが、浅野長直が笠間藩からの移封。 笠間藩は5万石ですがもともと城があり城主大名。 本人の経歴を見ると以下wiki 寛永9年(1632年)10月29日、父の跡を継いで笠間藩主となる。同11年(1634年)には幕府より駿府城城代に任じられ、同13年(1636年)には江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番を命じられた。この在番中、赤穂藩主の池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件が起こり、池田家は改易となった。 この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、・・・・ 外様なのに譜代もびっくりなくらい馬車馬のように働いてますね。 これで赤穂は海があり土地柄がよいとはいえ幕府の都合で江戸から見れば遠国に移封。 これで城主大名から格下げは割りに合わないですしどうせ金出すの本人ですし、珍しい事例ではありますが願いがあれば当然に認められそうです。 むしろちょっとくらい加増してやれよってくらいでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど! そのような推理は成り立ちますね。 納得しました。