- ベストアンサー
征夷大将軍徳川家康が最初に天下に号令したのは。
家康は、慶長8年(1603年)2月12日、征夷大将軍に補任されました。 以後、幕府の名において全国の大名にあれやこれやと命令したと思います。 最初に命じた公儀普請(俗に天下普請)は何ですか。 また命令したのはいつ(何年何月)ですか。 日比谷入江を埋め立てるための準備工事だと思いますが、ネットで調べると、慶長8年、9年、11年とまちまちです。 さらに質問ばかりで恐縮ですが、その命令“書”は家康の名で出されたのですか。 その当時、老中奉書はまだ無かったと思いますので。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
江戸城の築城工事は慶長9年から着手。外様大名28家に命じた。まずは石材運搬船の建造である。島津家300艘、浅野家385艘、黒田家104艘などと合計3000艘であった。石材運搬も外様大名持ちで伊豆から運んだ。 江戸城街建設は日比谷の入り江と江戸外島と平川の土木工事です。慶長8年2月にはすでに開始し、工事は福島家、浅野家、加藤家をはじめ外様大名70家にやらせている。これほどの大名家を動かすには家康の命が必要だったと思う。
その他の回答 (3)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E 慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。 征夷大将軍になろうがなるまいが、やらせている。 他の史料では慶長見聞書など 東大史料編纂所 【管理番号】 020100224517 【編/冊/頁】 11編913冊326頁 【綱文和暦】 慶長7年5月1日(16020050010) 2条 【綱文】 徳川家康、諸大名をして、二條城を經營せしむ、 【区分】 史料綜覧 【管理番号】 020100224540 【編/冊/頁】 11編913冊328頁 【綱文和暦】 慶長7年6月1日(16020060010) 2条 【綱文】 徳川家康、諸大名をして、山城伏見城を修築せしむ、 【区分】 史料綜覧
お礼
ご回答ありがとうございます。 東京大学史料編纂所のデータベースを教えて下さったのでよく分かりました。 征夷大将軍なんて称号があろうとなかろうとまさに「1強多弱」、天下分け目の合戦で圧勝した家康には、誰も逆らえなかったということですね。 江戸城拡張工事に関してですが、 「慶長11年になって家康はやっと第一次天下普請を発令する。さすがの家康も全国の大名に天下普請という名の強権を発動することは、3年間の猶予期間というか躊躇期間が必要だったのである」 という記述を見て質問したのですが、二条城や伏見城の例は大変参考になりました。
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
私の回答は中央公論社「日本の歴史・全26巻」の13巻目の江戸開府に記載している内容です。
お礼
再度のご回答真にありがとうございます。 「お礼」を書いてから急遽「岩波講座 日本歴史 第10巻 近世1」を精読しました。 征夷大将軍に補任されることは大名間では周知のことだったので、将軍になる前に公儀普請を命じていたことを知りました。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
ちなみに 徳川家康の名前では命令はだしてません 当時は豊臣家が健在です 大阪の陣で豊臣が滅ぶまでは名目上は徳川は豊臣の家臣です なので家康個人の名前で天下に命令はだせません あくまで幕府としての命令です
お礼
ご回答ありがとうございます。 「幕府」と呼べる実体がまだ出来上がっていない時期なので誰の名で出したのか、疑問に思いました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 征夷大将軍の名において全国の大名に「公儀普請」を命令できたのは“いつ”なのか、知りたくて質問しました。 >江戸城街建設は日比谷の入り江と江戸外島と平川の土木工事です。慶長8年2月にはすでに開始し、工事は福島家、浅野家、加藤家をはじめ外様大名70家にやらせている。 慶長8年2月と言えば、家康が征夷大将軍に補任された時期です。 補任されるや即座に外様大名に公儀普請を命じることができた、ということですね。 調べてみます。
補足
「お礼」を書いた後に調べました。 確かに、家康は慶長8年正月、伏見で諸大名の礼をうけ、その数日後に江戸市街地造成普請を諸大名に命じていました。 征夷大将軍の権威の凄さがよく分かりました。 ご教示に感謝申し上げます。