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江戸時代の領地支配
小学生の子供の社会科のテスト問題を何気に見て、疑問に思いました 問題の元となる資料は、武士・士・農・工・商・僧・公家等の人口比率 それと、領地支配者の割合 その領地支配者割合は、大名が77% 幕府が23% というもの つまりは、大名と幕府 すなわち武士が領地の100%を支配していたということが、読み取れました 江戸時代といっても、二百年以上ありますが、どの時点なのかは言及されていません 私の質問は、 ・江戸時代は、武士が領地のほとんど全てを支配していたのでしょうか? ・天皇家、公家、貴族、僧は、領地を持っていなかったのでしょうか? ・領地=田=米の生産量=経済の根本 が江戸時代だと思いますが、天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか?
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- fumkum
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NO7で回答した続きです。 このように朝廷の役職に就くことによる収入があります。さらに、公卿には家業(家職)と呼ばれるものがあります。西園寺家の枇杷、四条家の包丁などですが、これを教えたり、師範などの資格を与えることにより、教授料・免許料を得られました。家元制度のようなものです。これに関連して、盲人の座である当道座の本所である久我家のように、検校などの当道座内部の官職を与えることにより、莫大な収入を得ることが制度的に認められていました。同じようなものとしては土御門家の陰陽師に対する支配権を持っていましたし、同じく神社の神職については吉田家が支配権を握っていました。しかし、全ての公家が家業を持っていたわけではなく、半数程度ですし、その収入についても大きな差がありました。そのため、公家は文化的権威を利用して、和歌などを短冊に書き、それを売るという一種の内職による収入もありました。 さらに、収入というべきかどうかは微妙ですが、娘を大名に嫁がせ、実家に合力金という名の金を送ってもらう習慣もありました。大名側も、公家は家格が高いために、公家からの嫁取りは身分的に問題がない反面、合力金・お手伝い金は年間100両~1000石ほどで、他の武家からの嫁取り比べ、経常費が少なくて済む利点があったとされています。 収入というわけではないのですが、御所の建築費用、即位式などの臨時。通常を問わず全ての朝廷の儀式・行事費用なども幕府の負担であって、所領を含め、朝廷関係の費用はほぼ幕府丸抱え状態であったことになります。 *役料=関白は500石。ただし、藤原氏の氏の長者を兼ねるのでさらに500石。議奏は40石など。 脱線しますが、びっくりしたことがあって、その一つが朝廷関係の収入関連について確認をしている中で、武家官位などの叙任の謝礼が、天皇に1000両以上になるという試算にびっくりしたことです。二つ目が庶民が節分に御所内の内侍所(賢所)に参詣できたことです。その上銭十二文の賽銭で、追儺の大豆を戴けることです。三つ目が即位式をはじめとする通常・臨時の儀式・行事に、御所内での庶民の拝見が可能だったことです。中には「切手札」とよばれる入場券が発行されたこともあったようで、このような場合には人数は制限されたでしょうが、逆に切手札を仲介した公家か朝廷には幾ばくかの礼金が入ったのではとないかと想像されます。ともかく、2,3からは御所は意外に開かれていたように思います。 さらに、『江戸時代の天皇』の著者も、「公家というと貧乏、とイメージしがちだが、中・下級武士と比較して果してどうであったか疑問である。」としていますが、思った以上に収入がある印象です。 寺社についてですが、上は万石単位の興福寺・寛永寺から、下は無高の寺社まであり、さらに寺院には堂・庵・寮・軒といわれる一般に無高・無住の施設もありました。寺社では朱印地・除地などの免税地以外に年貢地とよばれる土地を所有している場合が多くありました。江戸であれば寺社の土地の33%が年貢地との統計があるほどです。年貢地といっても農民などでも同じですが、境内地(農民などの場合には屋敷地)も石高に換算して検地帳に記載されますので、かならずしも全てが耕地とは限らないおですが、耕地を持ち、小作のだすことがあったとしても、年貢を納めた後の収穫や小作料が収入になることがありました。ただ、寺院は江戸時代には寺請制度により檀家を持つようになると、葬儀・追善法要などにより布施が入ることが多くなりますし、寄進なども大きな収入源になります。さらに微々たる収入のようですが村方では手習が寺院などで行われ、その謝礼がもあったようです。村内の寺社については、村が捨扶持を給付している例などもあります。ともかくも、寺社の収入としては喜捨・布施・寄進などが大事な要素を占めるようです。 長くなりましたが、参考まで。
- fumkum
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こんにちは 申し訳ないのですが、長いので2回に分けて回答します。 >江戸時代は、武士が領地のほとんど全てを支配していたのでしょうか? 「領地支配者割合」がどのような意味なのかはっきりしません。領地の広さを言っているようでもありますが、一般的な考え方であれば、土地の生産性を表す石高の総計に対する支配者の割合だと考えられます。(「石」を学習するかどうかで説明の言葉も違うとは思います) 幕府領とは、天領とよばれる直轄地と、旗本領を合わせたものです。後述しますが、享保以降は、おおよそ直轄領が400万石前後、旗本領が300万石以上の総計700万石から800万石弱の石高を持っていました。 さて、江戸時代に幕府が全国の石高を調べた調査は4回あって、慶長・正保・元禄・天保に諸国の郷帳・国絵図の作成をしています。さらに、明治時代に入って、幕末の状況を知る統計として『旧高旧領取調帳』をはじめとする数種の史料が存在します。ただ、幕府領(天領+旗本領)が700万石、特に幕府直轄領(大名預入領を含む)が400万石を超えたのは元禄期以降で、関ヶ原以前の徳川氏の直轄地はおおよそ100万石程度(全国1850万石の5%強)で、元禄郷帳の400万石(全国2600万石の15%強)、天保郷帳の420万石(全国3056万石の14%弱)までには、関ヶ原の戦役の没収地をはじめ、改易された大名などの没収地を加え、増加していったものです。没収地を全て直轄地にしたのではなく、新規に大名・旗本を創出したり、既存の大名・旗本に加増したりもしています。また、元禄期までの新田開発・用水などの整備等による耕地の増加、収穫の増加なども寄与しています(幕府だけでなく大名も)。直轄地だけではなく、当然旗本領も増加しており、これは4代将軍の家綱時代にピークがあったとされ、これ以降おおよそ300万石強で推移しています。このように幕府領の直轄領が400万石前後、旗本領が300万石以上の総計700万石以上で安定するのが、大名の改易がほぼなくなる享保以降でです。 皇室領については、禁裏御霊として最初1万石であったものが、元和9年の家光将軍襲位にともなって1万石を増加し、綱吉時代の宝永2年に1万石をさらに1万石を追加し、総計3万石となります。ただ、これに上皇(院)に、仙洞御料として1万石があり(院が両立の場合は更に5000石、女院3000石)、都合、皇室領としては4万石となります。さらに、宮領を含む公家領としては4万石強(説によっては10万石)で、皇室・宮・公家領全体で10万石前後となります。講談社の『天皇の歴史』の第6巻『江戸時代の天皇』には、「17世紀後半には(*天皇と公家や地下官人たちに総額で)一一万六000石に達している。」としています。このように、皇室領が安定するのも元禄を過ぎた宝永年間ということになります。さらに、寺社領として30万石近くあり、武家領以外の皇室・公家・寺社領は合わせて、宝永年間以降には40万石前後あったことになります。 さて、日本全国の総石高ですが、慶長郷帳で2217万石、正保郷帳で2362万石、元禄郷帳で2591万石、天保郷帳で3059万石となっています。特に、天保郷帳については、幕府は*表高ではなく、*実高での報告を求めていますので、より実態に近いとされます。その一方で、外様大名を中心に、実際の実高よりは少なく報告した例もあるとされます。ともかくも、江戸時代の全国の総石数の到達点が3000万石程度とされる根拠はこの郷帳にあるのですが、総石数が3000万石に達したのは享保年間ではないかとされています。 ところで、この天保の郷帳にはまとめがあり、次のようになっています。 1、禁裏仙洞御料 40247石。 天皇・上皇領 2、御料所高 4191122石 幕府直轄地=天領 3、万石以上総高 22499497石 大名領 4、寺社御朱印地 294491石 寺社領 5、高家並交替寄合 179482石 上級旗本領 6、公家衆家領寺社除之分 万石以下拝領高並込高之分 3354077石 公家・宮家領・寺社の除地(一種の免税地)・一般旗本領 皇室・公家関係の所領は1の全てと、6の一部。4万石の皇室領に、公家領が8万石弱で合わせておおよそ12万石弱。0,39% 寺社領は3の全てと6の一部。 寺社の除地については検地帳に記載せずに除地として認定されるものと、検地帳に記載した上で除地として記載されるものがあり、その違いはその除地の由来によるとされます。ただ、除地は数石程度のものが多く、中には一石にも足らない除地も多くあり、石高としてはそれほど多いものではありません。この除地高を10万石程度と考えると、寺社領の総石高は40万石程度と考えられます。1,3% 幕府領は2と5の全てと6の大部分。419万石に18万石を足して437万石。それに6の335万石から公家領8万石、寺社除地10万石を引いた317万石を足すと754万石余りになります。24,6% 大名領は3の全て。2250万石。73,6% 以上をまとめると、全国には幕府領・大名領の武家地だけでなく、全体の1,7%程度ではありますが、皇室・公家・寺社地が存在したことになります。 「領地支配者割合は、大名が77% 幕府が23% というもの」についてですが、天保郷帳の数値に近いようにも思いますが、この数値は多分、全国の総石数を3000万石、幕府領を700万石として計算された数値ではないかと思います。この計算で行くと幕府領は23,3%という数値になるので、皇室・公家・寺社地は無視して、残りを大名領とした数値と思います。皇室・公家・寺社地は無視した点は除いて、総石数や幕府・大名領の総石数も年単位、数十年単位による変動があるわけで、おおよその数値としては妥当なのではないかと思います。ただ、皇室・公家・寺社地として2%弱でも注記の形でも記載するべきなのではと思います。全国の総石数が3000万石ほどで、全体の1,7%弱の皇室・公家・寺社地を除き、幕府が700万石強の領地で全国の4分の1程度を占め、残り4分の3が大名領という構成は、だいたい江戸中期の享保頃からといわれています。 *表高=江戸時代に将軍より与えられた所領の額面上の石高 *実高=内高ともいって年貢を賦課する時の基準となる石高。表高より実際の生産力に近い数字といわれている。 >天皇家、公家、貴族、僧は、領地を持っていなかったのでしょうか? 領地を持っていたことは上記の通りですが、公家で最高が2000石程度、最低が*30石三人扶持で、最低クラスの公家は、下級武士程度の石高しかなかったことになります。僧というべきか、寺社にも当然石高の高下はありました。中には無高の寺社も存在しました。 *30石三人扶持=これは知行(領地をもらいそこから領主が年貢を取立てる形式)ではないようで、禁裏財政からの支出(蔵米取り)のようです。知行形式の最低は100石。ちなみに寛文5(1665)年時点で、知行形式が92家、蔵米形式が22家と『江戸時代の天皇』には記載されています。 >領地=田=米の生産量=経済の根本 が江戸時代だと思いますが、天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか? 基本的には領地を持っていましたが、それだけではない収入もありました。公家については、朝廷の武家伝奏などの職に就くことにより、*役料がある場合がありました(武家伝奏で200石-500俵-)。さらに、行事や朝儀などに役割を勤めれば下行(げぎょう)という手当が支給され、下級公家にとっては大きな収入でした。 また、武家官位叙任、僧綱補任、*神職・職人・芸能者などの受領叙任の場合、相応の金品が朝廷に献上されます。お金の場合は官金といい、品物の場合は官物(かんもつ)といいます。官位の叙任は、天皇から議奏、武家伝奏に伝わり、武家伝奏が叙任執行の主任である上卿(しょうけい)を決定します。上卿は職事や、壬生(小槻)氏や押小路(中原)氏などの地下官人を使って位記・口宣案(くぜんあん-内示書)を作製します。武家伝奏は上卿を選ぶときに多くの公家が担当できるように差配します。官金、官物は朝廷内で配分されますが、それについて『江戸時代の天皇』に次のような記述があります。 天皇は、従五位下諸大夫(*叙任)ならば、大名でも旗本でも金一〇両を進上される。大納言(*叙任)ならば銀一○○枚、金に換算して約七〇両になる。上皇、皇太子、女院、中宮ら皇族も配分にあずかる。武家伝奏は、諸大夫なら金一両、大納言なら金七両以上、上卿と職事は金一両が配分される。額は少ないものの、これに関わる地下官人たちにもなにがしかの配分があった。武家官位の授与数は、一年に三けた以上にのぼる。たとえば、単純に一〇〇件で、一件一〇両としても、年間で一〇〇〇両が天皇に進上され、武家伝奏なら年間一〇〇両になる。将軍の代替りや上級の官位叙任があれば、天皇、皇族、公家たちのかなりの収入になった。地下官人を含む朝廷構成員にとって、武家官位は経済的な「潤い」になる意味があった。 武家官位以外にも、僧綱補任、神職・職人・芸能者などの受領叙任にも献上の金品がありましたので、この官位叙任に関することで、意外に多くの金品が収入になっていることが分かります。 *神職・職人・芸能者などの受領叙任=今でも京都に行くと老舗の和菓子屋が、「近江掾」などの受領名を名乗っていることが名残です。
- eroero4649
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>天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか? 既に良回答が出ていますので、ここについてちょっと補足を。 現代でもそうですが、宗教団体というものは信者からなにかとお布施やら寄進やらがありますし、そんなもんにいちいち領収書も出ません。関係者の間でひっそりとやりとりされるので、実態を把握することも極めて困難です。それは古今東西どこでもそうですし、だからこそどこの国でも宗教勢力というのは精神的にも現実的にも力を持っているのです。 江戸時代には、檀家制度というのがあります。これは今も残っていますよね。その檀家からの「あがり」がありますから、儲かるも儲からないも檀家次第となります。落語「黄金餅」に出てくる木蓮寺なんてのは貧乏な檀家しかいないので、ボロ寺になるわけです。 また、当時の公家の家の敷地内や寺社の敷地内というのは現代でいうところの大使館みたいなもので、警吏が勝手に踏み込むことはできないんですね。これは面白いことに東西問わずなんです。キリスト教の教会も、イスラム教のモスクも、仏教のお寺も、昔は基本的に治外法権だったのです。だから、犯罪者が教会やお寺に逃げ込むということがしばしばありました。警察側は、その引き渡しを要求することしかできなかったのです。江戸時代でも縁切り寺なんてのがあって、ここに夫と離婚したい女性が逃げ込んでくると追いかけてきた夫も許可なく入ってくることはできなかったわけです。シェルターとしての役割もあったんですね。 さてそれを踏まえて、「御開帳」という言葉がありますね。本来は、ご本尊などを特別に公開するときに使う言葉です。しかしこれは「賭場を開く」のスラングでもありますよね。そう、お察しのとおり、治外法権であるお寺や公家の敷地の中で賭場が開かれることがよくありました。時代劇で祠の中で賭場が開かれてるのはそういうことなんです。 当然これはお寺や公家にとっても危ない橋を渡ることでもあるので、相応の「ショバ代」は頂くことになります。 あの岩倉具視邸もそういった場所に使われていたそうで、若かりし頃の岩倉は「絵を売って小遣いを稼いだ」といいますが、その絵っつうのは「猪鹿蝶」だったわけですよ・笑。 そして彼の屋敷には、そういう人々が出入りして彼は幼少期から「ぼん」「ぼん」と可愛がられて育ってきたわけです。あの懐かしの500円札を思い出していただけるとわかると思いますが、岩倉具視ってどえらく目つきが悪いでしょ・笑?そう、筋金入りなんです、彼は・笑。 しかし天皇となるとさすがに御開帳するわけにもいきませんので江戸時代の生活は苦しかったようです(念のため、岩倉家もはっきりいってビンボーでした)。格式として天皇はそれなりにいいものを食べないといけませんが、お金がない。仕方がないので紙に「鮑」と書いてお皿の上に置いて、「鮑を出したことにした」というエピソードに全米が泣きました。
>天皇家、公家、貴族、僧は、領地を持っていなかったのでしょうか? 持っていました。 江戸時代スタート時には、朝廷が一万石に公家で三万石くらいでした、 天皇家に対しては1620年に一万石1705年に一万石追加して以降は朝廷が三万石となりました。 なんやかんやで増えて中期には公家領の総額はが四万六千石程度になりました。 幕末には朝廷と公家領(宮家を含む)は、総額で十万石程度となりました。 皇族(宮家)の多くは知行(領地)ではなく御蔵米(現物)で払われていました。 寺院も領地を持っていました。 ただし、本末制度という厳格な制度が設けられ、領地は雀の涙程度しか認めませんでした。 一寺当たりが大名などに比べて少ないので一見目立たない上に史料が揃っていません。 一部下記のようなサイトがありますのでご覧下さい 寺社領 www.geocities.jp/amakusa_tanken/39_zisyaryou.html ということで比率で表しますと全体の数%程度ですので、大雑把な数値としてはテストの資料のような書き方になります。 >天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか? 天皇家や公家は上記の領地から上がる年貢米で細々生活していました。 僧侶に関しましては、実際には上記のサイトにある領地からの収入だけでは、生活は元より堂宇の維持管理は無理でした。 領地を保有しているということは実質よりも一種のステイタスでした。 村落における寺社の社会的な位置づけというのが現在とは大きく異なっていましたので注意して下さい。 寺社は現在の公民館のような役割を果たしていて、多くは村落の共有施設のような性格を持っていました。 僧侶や神官はこの村落の共有施設である寺社の施設の保守管理人という位置づけになっていました。 小学校の前身である寺子屋という呼称も僧侶が子弟の教育に携わっていたことから来た名称です。 維持費は農民が共同で負担していました。 氏子とか檀家というのが村落共同体として厳格に運営されていました。 現在のように住人同士の村落としての共同体意識がルーズで個人ベースで判断できるような社会習慣ではありませんでした。 現在も季節ごとの祭礼や伝統行事の中核が寺社であることに注意をして下さい。 江戸時代までは神仏混淆ですから神社と寺院は同一敷地内にあり一体で運営されていました。 現在のように分かれたのは明治以降です。 僧侶は世襲と言うよりは本山からの派遣社員のような性格を持っていました。 早い話が村に雇われた派遣社員のような位置づけでした。 以上のような背景から僧侶が生活に困るという事態は起きませんでした。 そもそも僧侶に世襲というのは、浄土真宗のように僧侶の妻帯を認めない限り成り立ちません。 現在のように宗派に関係なく僧侶が妻帯して寺院施設も僧侶の個人財産となったのは明治以降です。 現在大規模寺院は宗教法人として届け出て施設は法人の財産として扱われています。 結果として、宗旨の違う法人が同居していて、堂宇ごとに所有法人が違うというお寺もあります。 蛇足 テスト資料で使われています武士・士・農・工・商・僧・公家という区分は慣用的な言葉です。 制度上使われていた言葉ではありません。 従いまして、上記の区分けに基づいた史料があるのか否か寡聞にして知りません。 身分制度上使われていたのは公家、武家(武士)百姓 町人です。 僧侶、神官、医師、学者などはとくに規定はされていませんでした。 将軍に学問を講義する学者や病気の治療に当たる医師が町人扱いでは、格式身分を重んじていた当時としては矛盾が生じてしまいます。 城中に町人がノコノコ出入りすることになってしまいます。 将軍や大名が町人に教えを乞うことになります。 工・商という区分は制度上されていませんでした。 江戸、京、大阪、を始めとして大名領の城下町などの都市部に住む庶民を町人として管理していました。 統計上も町人としてカウントされていました。 都市部以外に住む人を一括して百姓として管理していました。 結果として、村落に住んでいて、商業に従事している人や、農機具や生活用具などを制作していた職人も全て戸籍上の扱いは百姓でした。 漁業関係者も戸籍上は百姓として扱われていました。 幕末の新撰組の隊士のような郷士と呼ばれる、社会的には武士と同格に扱われても戸籍上は百姓という人もいました。 これらの戸籍は全て寺院が管理していました。 当時は人口の大半が村落に居住していましたから、人口の大半は百姓ということになります。 江戸時代は武家(武士)であるか否かという点については極めて厳格に区分されていましたが、その他はルーズといいますか臨機応変に運営されていました。 むしろ百姓や町人として区分されたグループの内での上下関係が厳格に運営されていました。 このグループを運営していたのは自治組織であって武家は直接関与しませんでした。 公文書などで取り扱われたり訴訟など公的な場で百姓、町人と認められるには年貢を負担していた言わば納税者だけでした。 年貢制度というのは現在のような個人課税ではありませんでした。 あくまでも村落単位でした。 一ヶ村に課せられた年貢を村落内で負担を配分していました。 この年貢を負担する人を本百姓と呼びました。 年貢を負担しない零細農家の人を水呑と呼びました。 水呑百姓と言うのは蔑称ではありません。公式な名称でした。 この他に小作と呼ばれる更に零細な農家がありました。 公的な場にでることができるのは本百姓だけでした。 村落内ではこの経済的な格差に基づいた運営が厳格に行われていました。 一揆と呼ばれるものの多くはこの農民間の格差による内部抗争が大半でした。 再三申し上げますが、このような取り扱いに武家(武士)は一切関与していませんでした。 同様のことは町人の間にもありました。 地主、家主、大家、店子と厳格に区分されていました。 長屋の熊さん八っあんは税金もお祭りの寄付も負担する必要がありませんでした。 そのかわり奉行所に用事があれば、大家さんにお願いして、納税している地主さんや家主さんに同行して貰う必要がありました。 武家に対して口を利く公民としては認められていませんでした。 TVの時代劇などで、お奉行様が「大家、家主あい揃いたるか!」というのはこのためです。 武家の中も士と卒とに厳格に分けられていました。 士族などとゴチャゴチャにしたのは明治政府です。 いじょうグタグタ書きましたが、学校教育の現場では相変わらず士農工商なる言葉が使われていますので、受験を控えたお子さんへの説明には、気を配って下さい。 歴史学会の見解と違う!とか史実と違う!と言ってみても合格通知はきません。 なにかあれば補足質問をお願いします
- kamobedanjoh
- ベストアンサー率27% (1021/3686)
領地の所有や支配に関して、大切な点が良く見落とされます。 武士は、主君が配置換えになると、主君に従って住所を移動し、主君から見放されると浪人するしか無かったこと。一方農民は、農地に縛り付けられていて勝手に住所を移動することは出来ませんでした。 藩主のお国替えには家臣が随行しますが、領民は新しく赴任する藩主の所有物の立場でした。 封建制度を考える上で、人権の問題を無視していては、歴史学習の意味がありません。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
rx178zさん、こんにちは。 どの時代化詳細に記載されていないので判断がつかないのですが、吉宗の享保年間で全国で約3000万石であり、幕領の内訳、旗本領など300万石、天領は450万石です。年貢実収は大体40%として300万石です。 ・江戸時代は、武士が領地のほとんど全てを支配していたのでしょうか? はい、そうです。戦国時代の混乱期に多くの所領が所領近くの戦国大名や荘園の管理人によって横領、もしくは所領化されてしまって年貢が入ってこなくなったりした経緯があるので、豊臣政権、江戸幕府によって朱印状や領地判物が発給された場所に限って年貢収入を安堵されたのでしょう。 ・天皇家、公家、貴族、僧は、領地を持っていなかったのでしょうか? 持っていました。天皇家及公家は合わせて10万石の所領をもっていました。しかし、年貢取立ては幕府や大名の代官を通じて行われていたので、本当に彼らが直接支配していたわけではありません。 ・領地=田=米の生産量=経済の根本 が江戸時代だと思いますが、天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか? 一応幕府から朱印状や領地判物という所領を所持している証明書のようなものが発給されているため、そこからの年貢で生活や業務を行うことが建前になっていました。 詳細は下記のURLを参照ください。 禁裏御料 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E8%B2%A1%E7%94%A3 公家領 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AE%B6%E9%A0%98 寺社領 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E9%A0%98 蔵入地 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E5%85%A5%E5%9C%B0
- Pinhole-09
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小学生向けという事で、大雑把にいうと当たって います。 領地を厳密にいうと問題がありますが、この場合は 領地から上がる収益です。 1700年当時日本全国の石高は約3000万石です。 内将軍家が約400万石、旗本など将軍の家臣が 約300万石、合わせて幕府は約700万石で 約23%になります。 残りは大名領約2300万石、約77%です。 このほか天皇家御料、公卿領合わせて朝廷分は、十何万石で 1%にもなりません。 しかもこれらも、寺社領の大部分も代官支配で、年貢は 代わって徴収し送っているのです。 実質武家支配です。 勿論武家支配の及ばない地域はありますが、価値(石高) はわずかです。
- kuma56
- ベストアンサー率31% (1423/4527)
幕府や大名だけでなく、有力な幕府の旗本や御家人、また諸大名の有力家臣など石高1万石以下の武家の領地である知行所という地域や、禁裏御料という皇族や公家等が領有する地域や朱印地や黒印地と呼ばれる 有力な寺社が領有する地域があり寺社領などと呼ばれていました。