• ベストアンサー

明治新政府で活躍した元・大名

宇和島藩主・伊達宗城は、民部卿兼大蔵卿に就きましたが、他にも明治新政府で活躍した大名はいますか。 ただし、知藩事は除きます。 よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.1

明治新政府はいわゆる「お殿様」を意図的に遠ざけたので、活躍した人はほとんどいなかったですね。いわれてみて、宇和島藩のお殿様がそうだったかという感じです。おそらく小藩だからそうなれたのでしょうね。 中規模以上の藩のお殿様にとっては、版籍奉還で家臣も権力もとられるわ、見返りは「華族」という貴族の称号だけだわで「裏切られた」のはハンパなかったと思います。一番裏切られたのは、長州藩と薩摩藩のお殿様ですね。 土佐藩の山内容堂は自分がすごく偉い立場になれると思ってたらしく、話しが違う(別に誰も話してないのですが)とだいぶお怒りだったようです。腹が立つあまりに放蕩を尽くしてかつての家臣に諫められると「お前はずいぶん偉くなったもんだな。俺ァやることがねえから破産した殿様第一号になってやるんだ」と言ったんだとか。 ただまあ山内容堂に関しては新政府やかつての家臣たちにも言い分はあって、なにぶん容堂さんときた日にゃ「酔えば討幕、(酔いが)醒めれば佐幕」といわれたくらいに言うことがコロコロ変わる&酒乱ですからね(今でも高知県は沖縄県とアル中トップを争ってる県です)。 調べてみて面白かったのが、田安家出身の徳川家達。最後の将軍徳川慶喜の江戸開城に伴う隠居によって徳川家を継ぐ立場となります。慶喜に息子はおらんかったかいなと思ったら、実の息子さんは明治17年の生まれだそうですからかなり後ですね。 でも家達もこのときまだわずか5歳です。7歳で静岡県知事となりますが、廃藩置県で失職。 明治10年。14歳のときにイギリスに留学します。帰国後は貴族院議員となり、31年間貴族院議長を勤めたそうです。その後ワシントン軍縮会議の全権大使を勤めたというから驚きですね。そして幻に終わった1940年の東京オリンピックの大会組織委員長でもありました。 新政府側のお殿様よりずっと出世していますね・笑。世間は「十六代様」と呼んでいたというのが面白いですね。でもご本人は「新しい時代の徳川家の初代だ」とおっしゃっていたそうです。 徳川慶喜はのんびりとした余生を送り、実の息子の慶久は写真を見るとすっごいイケメンで柔道二段、ビリヤード、鉄砲、乗馬も得意で油絵も嗜んでいたそうで、頭脳明晰、性格円満とWikipediaにもありまして、イケメンで頭が良くて性格も円満で文武両道で芸術まで嗜むと少女マンガのヒーローみたいな人ですね。 そして戊辰戦争のときに「殿様自らが脱藩して徳川家に忠誠を誓い新政府と戦う」という超アツいことをした千葉請西藩の林忠崇はなんと「最後の殿様」として昭和16年(94歳)まで長生きしました。死の間際に辞世の句を聞かれると「明治元年にやった」と答えたのが超絶にカッコいいですね。 家臣に騙されたと死ぬまでグチグチいって、時代が変わったことを受け入れられなかった山内容堂や島津久光に比べると、旧幕府側の人たちのほうが新しい時代に順応していたというのが面白いですね。思えば、ゴリゴリの旧体制側のイメージがある新撰組の土方歳三も、晩年に残したあの有名な写真はざんばら髪に洋装、ブーツ姿です。武士がどこにも残っていない・笑。 みんな首都圏生まれの都会っ子だから、考え方が進歩的だったのかもしれませんね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 山内容堂ほかとっても面白いエピソード満載で、読んで楽しかったです。 「明治新政府はお殿様を意図的に遠ざけた」のですね。 なるほど、そういうことですか!分かりました。 たいていのお殿様は、偉そぶる習慣が抜けきらず、口うるさいだけでしょうから、華族という名誉を与えて黙らせたという作戦勝ちですね。

関連するQ&A