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大政奉還から廃藩置県が完了するまで
の間、新政府の要職には薩長土肥らの有力諸藩の藩士たちが付きました が、この間諸侯と藩士の関係(上下関係)が次第に逆転して行きまますよね。国に帰った藩士たちはかつての殿様と、どの様な態度、言葉使いで接していたのでしょうか? 両者の間に違和感や戸惑いから確執が生じたりはしなかったのでしょうか? 教えてください
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明治政府の要職についたというのは、実務面においてに過ぎません。 地位の上下関係は逆転していません。機能分化したということで、立場としては実は余り変わっていません。 実際、諸藩の藩主達は、明治に入ると爵位を政府からもらいます。 これは、公家たちも同じ。 爵位は、侯爵、公爵、伯爵、子爵、男爵の順です。 最高の爵位の公爵には、皇族、五摂家(藤原氏の子孫)、岩倉家、三条家、徳川家、毛利家、島津家でした。 最初は明治の志士の誰一人として公爵にはなれませんでした。 明治の終わり頃に、伊藤家や桂家などがやっと入れました。 2番手の侯爵には、多くの藩主が叙されました。 当初より侯爵となったのは、浅野家、池田家、黒田家、佐竹家、徳川御三家、鍋島家、蜂須賀家、細川家、前田家、山内家。 明治の志士では、大久保、木戸のみでした。 これを見ても分かるとおり、実際殿様は、殿様のままなんです。 明治維新は、結局上からの改革(サムライは、人口の4%程度)なので、藩士達は、頭が上がらないままだったはずです。
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- tanuki4u
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回答No.1
西郷と島津久光の確執は有名ですね。
お礼
ご回答いただきありがとうございました そうですか・・・ 官位や爵位から見るとそうなるんですね。 朝廷(天皇)が与えた官位・爵位は誰しもが認める絶対的なステイタス ですからね。 ところで >>2番手の侯爵には、多くの藩主が叙されました 島津家が入っていませんがどうしてでしょうか?
補足
失礼・・・ 「最初」に入ってましたね(;・∀・)